一橋教員の本

アカデミアの内と外 : 英文学史、出版文化、セルフヘルプ

アカデミアの内と外 : 英文学史、出版文化、セルフヘルプ

井川ちとせ
小鳥遊書房 2025年2月刊行
ISBN : 9784867800669

刊行時著者所属:
井川ちとせ(社会学研究科)

著者コメント

 本書は、イギリスにおける出版文化、セルフヘルプ、そしてときにミドルブラウという蔑称でひと絡げにされる独学者や一般読者の営みについて考察する6つの章から成ります。いずれも、皆さんが英文学者の仕事としてイメージされるものとは、少し趣を異にするかもしれません。

 英文学史において盛期モダニズムと呼ばれる時代は、英文学が娯楽から学術研究の対象へと格上げされつつあった時代でもありました。その過程で、文学史に名を刻み、シラバスに掲載されるに値する作家・作品と、そうでないものとが腑分けされ、序列化されます。第一章は、リアリズムからモダニズムへという単線的発展史観(または、エドワード朝作家vs.ジョージ朝作家の世代論)、ジャーナリズム対アカデミズムないしはロウ/ミドルブラウ対ハイブラウの構図には収まりようもない、多様なアクターの交流と交渉を追い、別様であり得た英文学史を提示しました。

 第二章と第三章は、アーノルド・ベネット(1867-1931) という周縁に対する中心として、あるいはリアリズムを過去のものとして葬り去ったモダニズムの作家として、盛んに研究がおこなわれてきたD・H・ロレンス(1885-1930)とジェイムズ・ジョイス(1882-1941)を扱います。第二章では、ロレンスの思想(「多元呑気主義」)が、今世紀転換期の批評理論における情動論的転回あるいはポストクリティークの潮流と共鳴し合うことを指摘し、アカデミア内外を架橋する読みの可能性を探求しました。第三章は、20世紀転換期イングランドの出版文化やメディア言説などが、いかに植民地アイルランドにおける主体形成に関与したかを明らかにすると同時に、主体による誤読に希望を見出します。

 第四章は、緻密かつ難解な議論で知られる人類学者マリリン・ストラザーンが1973年から翌年にかけて執筆しながら40年以上、日の目を見ることのなかった一般読者向けの単著と、2000年代後半に英文学者シャロン・マーカスらが提唱した「ジャスト・リーディング」あるいは「表層的読み」との親和性に着目します。1970年代以降のアカデミアで主流を成してきた「徴候的読み」は往々にして、抑圧と抵抗という解釈枠組み(ストラザーンのいわゆる「ステレオタイプ」)に従ってテクストの余白や行間や裂け目に目を凝らすあまり、テクスト表層に顕在するもの(ストラザーンのいわゆる「明明白白の事実」)を見過ごしてきたと言えます。19世紀イングランドにおける女の抑圧状態ないしは規範的異性愛体制の攪乱の寓話とも読める小説の表層に、歴として描かれた友情と親族関係に光を当てます。

 第五章では、1880年代から1910年頃までの労働組合の機関誌と自助の手引きの分析を通じて、従来、看過されがちであった独身男性事務職員の経験の再構築を目指しました。彼ら新しいホワイトカラー労働者は、文学市場を支える読者でもありましたから、数々のハウツーものを世に問い、事務職員を主人公とする小説を物したベネットの仕事とその周辺のテクストも手がかりとしました。付録では、ベネットの仕事におけるノンフィクションの位置づけを示すとともに、ベネットによる事務職員小説5作を概観します。とくに後者に関しては、先行研究の乏しい女性事務職員を主人公とする2作に紙幅を割きました。

 第一章の考察対象が、おもに1880年代から1930年代までの文学テクスト生産の物質的文脈であり、ジャーナリズムと学術研究という二つの領域間の交渉の力学であるのに対し、最後の第六章では、1990年代以降のグローバルな出版業界の再編と新興メディアの登場に伴う文学生産と流通の変化、作者と読者との関係の変容について論じました。

 なお本書は、同時刊行の 『読書会の効用、あるいは本のいろいろな使いみちについて——イングランド中部Tグループの事例を中心に——』(小鳥遊書房)の姉妹編であり理論篇です。よろしければ『読書会の効用』を先にお読みになって、相互参照していただけると嬉しいです。



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