一橋教員の本
読書会の効用、あるいは本のいろいろな使いみちについて : イングランド中部Tグループの事例を中心に
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井川ちとせ著 |
著者コメント
ワイングラス片手に本そっちのけでおしゃべりに興じる中産階級の中年女性の集いというステレオタイプとともに、読書会が英米で急激に存在感を増したのは1990年代後半のことです。本書が焦点を合わせるT読書会は、ステレオタイプに合致するかに見えてそれを逸脱し、しかし具体的状況においては発話行為によって白人中産階級女性というカテゴリーを動員し、集合的アイデンティティを積極的に立ち上げもします。本書は、読書会の参与観察と聞き取り調査を通して、協力者がイギリス社会の現実をどのように生き、また想像しているか、さらには誰がイギリス人の典型として表象されるに相応しいと考えているかを、明らかにしようとします。
扱うのは、2014年9月から2024年10月にかけての、読書会を含む種々のイベントの参与観察記録と、個別聞き取りの音声データ、私信、読書会に取り上げられた活字と映像のテクスト、メーリングリストや活動記録、会員がさまざまな媒体に投稿した記事やコメントなどです。この間、イングランド中部および北西部の九つの読書会と三つの学外講座を参与/観察し、74名の一般読者に聞き取り調査をおこなったほか、図書館司書、大学の創作コース講師、書店主、雑誌編集者、慈善団体の職員やその外部評価を担った大学教授に聞き取りを重ねました。それらの記録はおもに、T読書会の事例を相対化すべく参照されます。協力者から提供された資料に加え、メディア言説、政府機関や非営利団体の文書、フィクション・ノンフィクションのテクスト、読書会向けの巻末付録を含む〈パラテクスト〉やアダプテーション(小説のテレビドラマへの翻案など)の解釈を交えて、本書は、アカデミア内外の「本のいろいろな使いみち」に光を当てます。
なお本書は、同時刊行の『アカデミアの内と外——英文学史、出版文化、セルフヘルプ——』(小鳥遊書房)の姉妹編であり実践編です。専門化の謂である近代化の過程で、小説は物語の外の世界との照応関係を否定することにより、他のジャンルと袂を分かっていきますが、現代の読者が19世紀のリアリズム小説を好んで読むのは、小説が「リアリスティック」で、読めば百年前の事柄について知ることができると信じるからではないでしょうか。しかしながら、そもそも今日「文学」と見なされているテクストの作者は、それが芸術的な有機的統一体としてのみ読まれることも、反対にもっぱら現実の世界についての情報を得るための啓発的な娯楽として消費されることも、想定していませんでした。小説を学術研究の対象として格上げする試みは、英文学者メアリー・プーヴィも述べるように、読むことを、他の高度に専門化された仕事と区別がつかないほど難しい営みにしてしまいました。『アカデミアの内と外』においては、別様であり得た英文学史を提示し、出版文化、セルフヘルプ、そしてときにミドルブラウという蔑称でひと絡げにされる独学者や一般読者の実践に着目します。20世紀初頭に英文学が大学の教育課程として制度化される過程で生じた、テクストを読むことの意味の、アカデミア内外における隔たりを架橋すべく、2冊は相補的であることを目指しています。よろしければ『読書会の効用』を先にお読みになって、相互参照していただけると嬉しいです。紙を含む装丁にも注目していただくと、本づくりの奥深さが感じられるかもしれません。