スタートアップ支援が明らかにする一橋大学のポテンシャル
2025年7月30日 掲載
2024年、一橋大学は「大学発スタートアップ支援」に向けたさまざまな施策を本格的にスタートさせた。今回HQでは、施策の立案と実施・運営に携わっている西野和美副学長(広報・社会連携、学長特命(研究IR))および施策の一つである「一橋大学発ベンチャー/一橋大学発学生ベンチャー称号授与制度」で認定を受けた2人の起業家(株式会社Jizoku・片岡慶一郎氏 (経済学部卒)、株式会社VoiceCast・細谷海氏 (商学部在籍))に取材。一橋大学がスタートアップ支援に着手した社会的な背景、各施策を活用する起業家たちの取組、スタートアップ支援の今後の展望などについて話を伺った。
「スタートアップ支援の開始はベストタイミング」(西野副学長)
まず、スタートアップ支援に着手した背景について、西野副学長に話を聞いた。
「社会科学研究は、社会課題を解決するための手段にはなり得ますが、会社を起業する際のシーズにはなりにくい、とこれまで考えられてきました。ここがスタートアップにおいて先行している自然科学研究を学内に保有する大学との大きな違いです。しかし近年、社会問題の解決を経営の主軸とするスタートアップ=『インパクトスタートアップ』が重要視されるようになりました。持続可能な社会の実現を目指すESG投資に象徴されるように、社会課題の解決に投資するベンチャーキャピタルが増加するなど、関心が高まっているのです。
このような外的環境が整ってきたことに加え、やはり本学としても、新しいことにチャレンジする学生や、研究成果の収益化にトライする教員を支援する枠組みをつくりたいという思いがありました。ソーシャル・データサイエンス学部・研究科の創設によって、スタートアップの運営や支援のノウハウを持った教員も本学に集まっています。さまざまな観点からベストタイミングだと判断し、大学発スタートアップ支援をスタートさせました」(西野副学長)
スタートアップ支援の環境整備に向けた取組
そして、さらなる環境整備に向け、一橋大学ではさまざまな施策がスタートしている。それぞれの取組について、西野副学長が時系列で紹介する。
2024年11月12日:東京都「大学発スタートアップ創出支援事業」に採択
「本学は、大学等のシーズを活用した起業、新事業創出を促進する学内の仕組みづくり・体制整備等に対する支援を受けるべく、支援事業の『環境構築型』に応募し、採択されました。2024年度に引き続き2025年度も、東京都からの経費支援およびコーディネーターからの伴走支援を受けることが決まっています。今後さまざまな施策を進めていくうえでも大変良いドライビングフォースになってくれるのではと期待しています」
2024年12月1日:産学官連携推進本部内に「スタートアップ支援室」を設置および「一橋大学発ベンチャー/一橋大学発学生ベンチャー称号授与制度」を開始
「スタートアップは学外での発信力、信用力の点で苦労するだろうという想定から、称号授与制度を制定しました。大学発ベンチャーは授与した日から5年間、大学発学生ベンチャーについては在籍期間中のみ有効というルールはありますが、一定の期間を過ぎたら自分たちの力でさらに事業を大きくしてほしいと考えています」
2025年3月1日:国立キャンパス近隣に一橋大学インキュベーション・ベース(HIB)を開設
「大学の敷地内でなく学外に開設しようと言ったのは私です(笑)。学内はあくまで教育研究のための空間ですし、スタートアップ支援自体が本学にとって革新的なことですから、国立キャンパスから徒歩5分ほどではありますが少し離れた場所に置くことにしました。実際に起業した学部生・大学院生・教職員はもちろん、起業に興味を持つ層や本学が開催したスタートアップ・起業関連のイベントに参加した他大学の学部生・大学院生などが活用できるスペースになっています」
2025年3月28日:特定基金「大学発スタートアップ創出支援基金」を設立
「スタートアップ支援の拡大や、次世代の経営人材を育成するための寄付を幅広く募るために設立した基金です。当面は東京都の支援がありますが、今後は基金を活用しつつ、ある程度自立性を持って維持管理できるようにしたいと考えています」
スタートアップ支援の3つのステージ
以上のような経緯を踏まえ、西野副学長は一橋大学のスタートアップ支援を3つのステージを経て発展させたいと考えている。
第1ステージ:支援室の設置、称号授与制度の制定、各種イベントの開催
「支援室を立ち上げたあと、ほぼ毎月のようにイベントを開催しています。これはイベントを通じてまずは本学のスタートアップ支援の認知度を上げることが目的です。同様のスタートアップ支援を行っている他大学の関係者から『毎月イベントができるってすごいですね』とおっしゃっていただきました。スタートアップの経営に携わっている卒業生がたくさんいて、本学の取組に積極的に協力してくださるというのは本学ならではの強みだと改めて感じています。おかげさまで第1ステージはクリアできたというのが私の感触です」
※各種イベントはこちら:https://www.hit-u.ac.jp/kenkyu/startups/index.html
第2ステージ:イベントをはじめ各施策に触発された学生・教員が動き始める
「さまざまな支援の環境整備と定常的なイベントの開催によって、スタートアップに触れた学生や教員が、自分も何かしてみようと動き始めるのが第2ステージと捉えています。特に教員は、自らの研究成果を事業化するというイメージを持ちにくいかもしれませんが、スタートアップという選択肢を頭の片隅に置いてもらえればありがたいです」
第3ステージ:事業ポテンシャルを顕在化させ、学外から資金調達を経てエグジット
「前段で、潜在化していた事業ポテンシャルを顕在化させる、つまり事業化し起業するわけですが、会社にしただけでは不十分です。卒業生、ベンチャーキャピタル、金融機関などとのネットワークをつくり、事業を軌道に乗せるのが第3ステージになります。その後、IPO(新規公開株式)などのエグジットをどう設計していくかも重要なテーマです」
一橋大学から誕生した2人の起業家
ここで、「一橋大学発ベンチャー/一橋大学発学生ベンチャー称号授与制度」によって称号を授与され、実際に事業を運営している2人の起業家に、どのような活動をしているのかを聞いていこう。
新しい領域にチャレンジしたことが強みに
〜 株式会社Jizoku・片岡 慶一郎氏(経済学部卒) 〜
「当社は農業分野におけるカーボンクレジット(排出権:CO2等を排出する権利を国内市場内で売買する、排出権取引制度で活用可能)創出事業を通じ、地方農村に新たな収益モデルを提供しています。私は経済学部・山下英俊准教授の環境経済ゼミでのカーボンクレジットについての研究をとおして、アメリカの農家がカーボンクレジットで年収を伸ばしていることを知り、事業化の着想を得ました。
農家へのアプローチは地方の学生メンバー、農機具メーカー、地方銀行に委託し、私を含む従業員はCO2排出量の多いエネルギー関連企業の経営企画室や環境関連の部門など本部の方々にアプローチしています。2028年の炭素税導入を視野にカーボンクレジットの購入を提案しています。企業の方々とお会いしてみて感じるのは、損得勘定よりも、『日本の農業に貢献できるならば』というスタンスで購入に至るケースが多いということです。
HIBという活動拠点を得られたこと、称号授与と授与式の開催で当社の活動にお墨付きを得られたことは大きなメリットだと感じています。何より大きいのは、『ここ一番!』という大事な時には、学内の教員の力を借りて、各企業の経営層にいらっしゃる卒業生の方々にお会いできることです。協力いただいた教員の方のためにもしっかり商談を進めようという気持ちにつながり、励みになっています。
カーボンクレジット創出事業は、社会全体にとっても新しい領域です。そのため、実業経験のない私でも取引先と対等に会話ができますし、万が一、事業が滞ったとしてもここで得た知見はまた別の領域で活かせるはず。起業を考えていらっしゃる方には、誰もビジネスとして開拓していないような新しい領域でのチャレンジをお勧めします」(片岡氏)
学生が起業するメリットは「スピード感」
〜 株式会社VoiceCast・細谷 海氏(商学部在籍) 〜
「当社は紙媒体が主流だった絵本の視聴体験を、デジタル絵本として再現できないか、ということに挑戦しています。また、物語の骨組みやセリフなどをAIの活用によって生成する、独自プロダクトの開発も進めています。これは、私たちの中にあったシーズが一橋大学で学んだデータ・デザイン・プログラムと結びついた取組だといえます。
当社の事業のもう一つの柱は受託開発です。教員の方に紹介いただいた企業などを顧客として、業務の中で人手を用いて行われてきたプロセスを生成AIやLLM(大規模言語モデル)の技術を用いて自動化し、従来より効率的なコンテンツ生成を可能にしています。
しかし、私が伸ばしたいのはやはり前者の自社製のコンテンツ制作です。経営管理研究科・鷲田祐一教授が行う『データ・デザイン・プログラム』に参加し、ITスキルを身につけた私は、アプリを試作し続ける中でボイスコミックにたどり着きました。そして、同じくこのプログラムに参加して、本学学生の9割が使っているという『バシコマ』(履修単位を管理する学生向けのアプリ)を生み出した同期と一緒に、当社を設立しました。このように、コンテンツ制作の出発点には新しいものをつくる楽しさがあると感じています。
また、当社の設立はスタートアップ支援の施策が始まる前でした。ですから、職員の方と『起業には何が必要か』といった観点で話し合うなど、本学のスタートアップ支援に関する制度設計そのものに協力できたのは嬉しかったですね。現在は主にYouTubeを中心に展開しているデジタル絵本をブラッシュアップするために、サムネイルの内容とクリック率、クリック率と登録者数などの関連を数字を用いて高い解像度でハックし、クリエイティブという言葉に甘えず、継続的に見てもらえる面白い作品を生み出す事業にしていきたいと考えています。
学生が起業するアドバンテージはアイデアを形にする際のスピード感にあると考えます。もし私が会社に就職し、稟議書を回すというルートをたどっていたら、このスピード感は得られなかったでしょう。考え過ぎてリスクばかりが目の前をチラつくようになる前に、起業という判断をして正解だったと感じています」(細谷氏)
スタートアップ支援の施策がダイレクトに事業を好転させているだけではなく、一橋大学が保有するさまざまなリソースが彼らの背中を押していることが伝わってきたのではないだろうか。
「一橋大学発ベンチャー/一橋大学発学生ベンチャー称号」授与式での片岡、細谷両氏。中野学長、西野副学長とともに。
理工系大学や多摩地域も含めたエコシステム確立を目指す
最後に、大学発スタートアップ支援の今後について、再び西野副学長に語っていただこう。
「まずは卒業生をはじめ、ベンチャーキャピタル、金融機関、あるいは自治体などとのネットワークを強め、スタートアップのエコシステムを確立することが最優先です。一方で、理工系の大学との連携も視野にあります。それというのも、理工系大学から本学の経営人材が注目されているからです。理工系の大学には技術的なシーズはあるものの、経営やファイナンス、マーケティング関連の経営人材が不足しているため、スタートアップの支援に苦心しているところが珍しくありません。今後はそういった課題を持つ大学との連携も慎重に進めていく必要があるでしょう。
また、すでに東京都『大学発スタートアップ創出支援事業』への応募の段階で掲げていたことですが、社会課題の解決を中心としたインパクトスタートアップのエコシステムを構築するために、多摩地域の大学、自治体、企業、金融機関、地域住民、本学卒業生との連携も深めていきます。
特に本学の学生には、このような多種多様なステークホルダーとのつながりを大切にしてほしいと思います。私個人としては、ビジネスのアイデアがあったとしても、必ずしも今すぐに起業する必要はないと考えています。学外のたくさんの方々との出会いを通じて、自分自身のキャリアをじっくり考え、まずは大企業に就職して経験を積むもよし、在学中に起業するもよし、さまざまな選択肢があることに気づいてもらえたら幸いです」(西野副学長)