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不確実性と医療制度

  • 経済学研究科教授井伊 雅子

2025年10月2日 掲載

はじめに

人間は確実性を求める。特に医療や健康の分野では、地域住民や患者は、自分にとってどのような治療や予防が効果があるのか明快な答えを期待するが、経験のある医療者でも正解を持たない場合は多い。そのうえ、我々の期待は人によって異なる。

どのように制度を整えても地域住民が100%安心することはないだろう。確実性を追求するのは日本人だけでなく人間の心に深く根差した欲求であり、現代の医療や健康に関する大きな問題でもある。医療に関する技術の進歩は絶え間なく、遺伝子検査や個別化医療など確実そうなものが次々と出てくる。しかし絶対に確実という検査や治療法は残念ながら存在しない。技術が進歩すれば不確実性は減ると思われているが、実際には分からないことも増える。そうした理解がないと、地域住民だけでなく医師をはじめとする医療従事者も、「費用をかければかけるほど良い医療なのだ」という幻想を抱いてしまう。不確実性のもとで賢い意思決定をするためには、費用も情報も多ければ多いほど良いというわけでもない。

考慮されない地域住民の不安

日本の医療・介護提供体制の議論では、自己負担を増やすことで、総費用を抑えたり、過剰な受診や不必要な医療費を削減する政策が提案されてきた。なぜなら古くは1970年代の老人医療費の無料化、最近では各自治体の小児医療費の無償化など、日本では自己負担が低いと不必要な受診が増える傾向があるからだ。しかしOECD諸国では、子どもから高齢者まですべての世代で自己負担がほぼ無料の国は少なくないが、過剰受診は日本ほど問題になっていない。なぜ日本では過剰受診が起きるのだろう。我々の研究結果が示唆するところによると地域住民は不安なのである。

過剰受診を減らすために自己負担を上げるといった議論では、地域住民が何を必要としているかはほとんど考慮されていない。自己負担を上げても地域住民の不安を解消することはできず、結局心配で多少無理をしてでも、いくつもの医療機関を渡り歩き、重複する検査を受け続けることも少なくない。結果として医療費の総額は増えてしまう。

医療のように情報の非対称性がある場合は、患者が正しい情報が与えられない状態で、価格だけで需要(医療機関を受診するべきか否か、受診するとしたらどのような頻度で受診し、検査を受けるのかなど)をコントロールするのは適切でないことが多い。多くの国や地域では、供給者側(医療者)をコントロールすることで、患者が適切な医療を受けられるようにしている。しかし日本では、供給者側をコントロールする仕組みが弱い。医療現場で何が提供されるかに関しては行政の政策的介入が少ない、世界でも類を見ない自由放任主義的な体制である。たとえば、医師は質の担保された専門医研修を受けなくても診療でき、自由に専門分野を標榜し(麻酔科を除いて)、自由に開業できる。医師国家試験に合格すれば、その後の継続的な研修などを受けることなく、診療を続けることも可能だ。そのため患者が受ける診断・治療の質にばらつきがあり、その是正を促す制度的な枠組みも乏しい。一方で良い医療を受けたいという悩みは切実で、名医を求めて全国どこへでも行くことをためらわないケースも少なくない。医療技術は日進月歩で急速に発展している。インターネット上の医療情報は玉石混交で、患者がその内容を理解して適切な受診先を自分で選ぶのは難しい。医学知識のない一般人が各種情報に振り回され、有益であるというエビデンス(科学的根拠)もないのに新薬、診断テスト、画像検査法などを過剰に利用する傾向が日本は特に強い。不安に駆られて必要以上に受診してしまい、にもかかわらずその受診が納得や満足につながっていないことが多いのである。

検査はリスクの高い人に絞って行わないと、偽陽性が多く出てしまう。偽陽性とは、病気に罹患していないのに、検査結果が陽性に出ることだ。これはベイズの定理から容易に分かることで、ベイズの定理は学部の統計学の講義でも習うのでご存じの方も多いであろう。

井伊(2024)の第5章では、さまざまな実例に基づいて、不確実性のもとでの賢い意思決定について考察した。

乳がん検診受診の意思決定

国立がん研究センターによると最新の統計(2021年)では、日本人女性の乳がん罹患率は10万対で153.2例である。そこで罹患率を0.15%とする。

マンモグラフィー検査の正確性は、例として感度(乳がんに罹患しているときに正しく乳がんと診断)は80%、特異度(乳がんに罹患していないときに正しく乳がんでないと診断)は90%を用いる。特に何も症状のない女性が乳がん検診を受けて、検査結果が陽性だったとする。この女性が実際に乳がんにかかっている確率はどのくらいだろうか。驚くことに、たった1.19%である。

このように無症状の女性が乳がんのスクリーニング(マンモグラフィー検査)を受けることにはデメリットが大きい。特に若い女性の場合は、症状やリスクファクターから乳がんが強く疑われる場合のみに検査を受けないと大量の偽陽性(98.81%=100%-1.19%)が出てしまう。マンモグラフィー検査で乳がん疑いと出ると、金銭的なコストだけでなく、心理的ストレスやさらなる検査による身体的負担、放射線による被ばくなどデメリットが多い。

一方で、しこりや痛みなど自覚症状がある女性が検査を受けるとする。身体所見、自覚症状などから医師が経験的に割り出した検査前の確率(事前確率)を10%とする。この場合は検査が陽性だと、実際に乳がんに罹患している確率は47.1%と50%近くになる。表1では、マンモグラフィー検査前の確率(事前確率)と実際に乳がんに罹患している確率(事後確率)を示している。

日本では、自分の判断で検診を受けることが多い。職場や自治体からの検診の知らせがきっかけとなることも多い。自己負担は無料だったり、有料でも安価な場合が多く、費用の負担がないことで気軽に受診できる場合が多い。検診の有益性だけでなく害(不利益)も含めた情報が検診を受ける前に提供されて、乳がんに罹患するリスクの評価も含めて共同意思決定がされる仕組みがほしい。

表1:マンモグラフィー検査前の確率(事前確率)と乳がんに罹患している確率(事後確率)

検査前の確率
(事前確率)
0.15% 2.5% 10% 20% 50%
実際に病気にかかっている確率
(事後確率)
1.19% 17.02% 47.1% 66.7% 88.9%

【注】
日本人女性の乳がん有病率を入手できなかったので、罹患率0.15%を用いた
感度(乳がんに罹患しているときに正しく乳がんと診断)は80%
特異度(乳がんに罹患していないときに正しく乳がんでないと診断)は90%

曖昧な状況での意思決定

井伊・原(2021)では、より一般的な状況で、首尾一貫した意思決定を行うための条件を考察した。ここでは、COVID-19(新型コロナウイルス感染症)におけるPCR検査を例として分析した。不確実性には二つの種類があり、一つは「リスク」、他方は「ナイト的不確実性」と呼ばれる。リスクは統計的に確率がある程度知られているときの不確実性であり、乳がんの罹患率はこれにあたる。それに対して、COVID-19に関しては、初期の段階では統計も整っておらず、臨床研究の蓄積も途上で、確率評価がそもそも不可能である。このとき、どのように結果を受け止めるべきか。

我々の研究では、ギルボア=シュマイドラーのMaxmin型効用関数を用いた。これは確率評価を一つに絞れないときには期待値を最小にする確率分布を用いて事象を評価するもので、2020年前半のコロナ禍によるパニック的状況を良く表している。すなわち、何が起こるか確率的にすら評価できない状況では、最悪の評価に基づいて行動することを想定するのである。その結果、首尾一貫しない意思決定を行うことすらある。たとえばコロナの例では、地域にいる感染者数を過度に多く見積もることで自分も感染することを恐れ、他の疾患のための治療または予防に必要な通院を控えてしまうようなことである。

諸外国での医療健康情報の提供のあり方

ベイズの定理を理解する合理的な個人とは、伝統的な経済学で仮定する合理的な個人であり、その場合は情報は多ければ多いほど良い。しかし、先のMaxmin型効用関数の例で見たように、特に不確実性の下で賢い意思決定をするためには、情報は多ければ多いほど良いとは必ずしもいえない。

それでは、我々が意思決定をするために必要な情報提供は誰がどのように行うのが良いのだろうか。海外では行政機関による医療機関の検索結果や質の評価、保健医療に関する情報をインターネットで簡単に見ることができる。保健医療の情報探索に関して世界的によく使われているのはイングランドのNHS(国民保健サービス)が提供している「Health A to Z」と「Medicines A to Z」である。患者の視点に立った分かりやすい情報発信をしている。気になる症状や疾患名を入れて調べてみると、日本人にも参考になるような信頼できる情報がたくさんあることに気づくだろう。自分だけでなく家族に気になる症状が現れたときに、どのタイミングで相談をすれば良いのかなどの情報も入手できる。ここで提供されている情報については、その時点での最新最良のエビデンス(臨床の研究結果)に基づいていることも特筆できる。

まずは政府の役割が重要

政府が、適切なエビデンスとガイドラインに基づき医療情報を無料で提供し、医療の質を担保する仕組みづくりをすることが必要だ。

日本では、「医療機関の多くは民間なので、政策の直接的な関与は難しく政府主導での改革が進まない」と指摘されることが多い。表2によると、確かに公的な医療機関(政府やその他の公的機関によって所有ないし管理されている病院)の病院数や病床数の割合はOECDでも少ないほうである。しかし、ドイツ、米国とはそれほど変わらなく、韓国と台湾は日本よりも民間医療機関の割合が高い。

コロナ禍で明らかになったように、日本でも有事において、誰が事態をマネジメントし、責任を持つかを整理して明確にしておくことが大切だ。日本の医療保険制度も税金や社会保険料などにより運営されており、公的なサービスとしての意識を医療者も国民も保つべきであろう。

地域住民のヘルスリテラシーを向上させることで、私たちはより健康になれるし、無駄な医療も削減できることが期待される。しかし日本の現行の公的医療保険制度では、地域住民のヘルスリテラシーが向上すると医療機関の経営が悪化してしまう。診療報酬制度の見直しが不可欠なのである。この点は、『地域医療の経済学』に詳しいので、関心のある読者はぜひ参照してほしい。

表2:開設者別病院数(病院数)

2023年または直近年

公的 民間非営利 民間営利 総病院数 公的割合
(%)
①÷④
日本 1,508 (6,614) 8,122 18.5
カナダ 701 - 7 708 99.0
フランス 1,330 657 978 2,965 44.8
ドイツ 739 883 1,331 2,953 25.0
イタリア 422 0 638 1,060 39.8
英国 (1,850) - - (1,850) (100.0)
米国 1,374 3,150 1,596 6,120 22.4
韓国 220 4,014 0 4,234 5.1
台湾 81 108 289 478 16.9

出所:OECD Health Statistics(2025)、台湾はNational Health Insurance Administration

【注】
OECDの統計では、英国は民間病院数を報告していない
英国では、イングランド、北アイルランド、スコットランド、ウェールズの4地域に分けて統計が報告される場合が多く、英国としての数字の入手は困難である

参考文献

井伊雅子(2024)『地域医療の経済学:医療の質・費用・ヘルスリテラシーの効果』(2024年、慶應義塾大学出版会、第67回 日経・経済図書文化賞受賞)

井伊雅子、原千秋(2021)「不確実性の下での良き意思決定 適切な医療とは?」『経済分析』第203号(特別編集号)内閣府経済社会総合研究所 2019-2020年度国際共同研究『超高齢社会における制度と市場の関係性の在り方に関する研究WG』p.86-122