free01_hero.jpg

やや遠回りに尖閣問題を考える

  • 一橋大学名誉教授松永正義

2012年夏号vol.35 掲載

尖閣列島の領有権確定に関する日本政府の公式見解は、「尖閣諸島は、1885年以降政府が沖縄県当局を通ずる等の方法により再三にわたり現地調査を行ない、単にこれが無人島であるのみならず、清国の支配が及んでいる痕跡がないことを慎重確認の上、1895年1月14日に現地に標杭を建設する旨の閣議決定を行なって正式にわが国の領土に編入することとした」(外務省ホームページ「尖閣諸島の領有権についての基本見解」)というものだ。この言いかたは正しいともいえるし、問題があるともいえる。ではどのような問題があるのか。ここでは日本による台湾の植民地化の経緯を考えることで、やや遠回りながらそのことを考えてみたい。

日清戦争の結果、台湾および遼東半島の割譲と賠償金の支払いを条件として、清国と日本は講和することとなった。その後の三国干渉によって日本は遼東半島の割譲をあきらめ、台湾のみを植民地化することとなったわけだが、ではなぜ台湾の割譲を要求したのかというと、それは一種の謎であるといわなければならない。そもそもこの戦争の目的は、朝鮮におけるヘゲモニーを確保することにあったので、台湾とは何の関係もなかったのだから。台湾の割譲要求は、講和条件をどうするかを検討する中で、突然浮上してきたものであって、本来の戦争目的や戦争の経緯からいえば、すじちがいもいいところだったのだが、しかしその時点で台湾のことが浮上してきたについては、理由がないわけではない。そのことを考えるには、一八七四(明治七)年の台湾出兵までさかのぼらなければならない。
台湾出兵とは、一八七一(明治四)年宮古島の島民ら六九名が、年貢を納めに那覇へ行った帰途に難破し、台湾南端に漂着(三名が上陸時に溺死)、そのうち五四名が台湾原住民に殺害されたことを機として行われた、近代日本最初の海外出兵である。殺害の理由はよくわかっていないが、身代金に当たるものを期待したのが、大挙して逃げ出したために、襲撃、殺害に及んだともいわれる。生存者十二名は清国によって保護され、翌年六月福州から那覇へ送還された。同じころこの知らせは鹿児島へも伝わり、鹿児島参事大山綱良は鹿児島から台湾への問罪のための出兵を政府へ上申し、また鹿児島にいた樺山資紀はただちに上京、出兵実現のためさかんに運動した。樺山はのちの日清戦争時には海軍軍令部長、戦後初代の台湾総督となる。
こうした雰囲気の中で政府も出兵の方向に動くが、そのためにはいくつかの前提が必要だった。ひとつはこの年十月琉球王尚泰を琉球藩王としたことで、これは出兵のために行われた措置ではないだろうが、宮古島島民が日本国民でなければ出兵の名分は立たないわけだから、琉球の帰属の明確化は出兵の大きな前提である。もうひとつはアメリカ公使デ・ロングの紹介でル・ジャンドルを政府顧問としたことだ。ル・ジャンドルはアメリカの厦門領事だったが、在任中にアメリカ船ローバー号が台湾へ漂着し原住民族の被害にあった事件で、清国政府が原住民族は「化外の民」であり、清国の管轄外のものであるとして責任を回避する態度に業を煮やし、直接原住民族地域に乗り込み、頭目のトーキトクとの間に漂着民保護の条約を結んだ経験を持つ。ル・ジャンドルは清国による漂着民の保護が期待できないのなら、日本に原住民族地域を領有、管轄させることを得策と考えた。ル・ジャンドルによれば台湾の東部地域(原住民族地域)は清朝の管轄の及ばない「無主地」であり、「無主地」であれば「先占」の原理が働く、すなわち先に領有を宣言した国家の領土となる、というものだった。日本はル・ジャンドルを顧問とすることによって、出兵へのアメリカの支持を取り付け、行動の指針を手に入れたことになる。
もうひとつの前提は、七三(明治六)年二月、副島種臣外務卿が日清修好条規批准のため渡清、台湾は化外の地、との清国の言質を得て七月に帰国したことで、ここに出兵の条件は整ったわけだが、その直後に征韓論争が勃発し、出兵は一時頓挫、実際の出兵は大久保利通政府によって行われることとなった。
大久保利通、大隈重信は七四(明治七)年二月「台湾蕃地処分要略」を提出、政府は出兵を閣議決定し、四月台湾蕃地事務局(長官大隈重信)を設置した。ここで英米が出兵に反対したため、政府は一時出兵中止に傾くが、西郷従道が反対を押し切って出兵した。遠征軍の顔ぶれは、台湾蕃地事務都督西郷従道、参軍谷干城、赤松則良、参謀佐久間左馬太、福島九成らといったものだった。このうち西郷は日清戦争時の海軍大臣、佐久間は第五代の台湾総督として原住民族地区の本格的支配(「理蕃」政策)を推進することになる。
この間樺山資紀は台湾視察を命じられ、副島種臣の対清交渉につきあった後、英語、中国語習得のために香港に留学していた水野遵らとともに渡台、台湾各地を視察したのち、現地で遠征軍と合流した。水野遵は樺山が台湾総督となったとき、その下で初代の民政局長となった。こうした顔ぶれを見ただけでも、この出兵がのちの台湾支配と密接に関連していたことがわかる。
遠征軍は五月台湾南端の車城付近に上陸、石門での戦闘を経て、牡丹社、高士仏(クスクス)社を占領した。戦闘はこのときだけで、以後は山奥にこもった各原住民部族の帰順工作につとめた。戦闘そのものは小規模なものだったが、マラリアが蔓延し、病死者が相次いだ。大久保利通はこの間渡清して講和交渉を行い、償金五十万両を得て撤兵することとなった。撤兵は十二月、出兵総数は三六五八名、うち戦死者十二名、病死者五六一名という結果だった。
この出兵の目的としては三つのことが考えられる。第一に不平士族の不満を外征にそらすこと、特に薩摩士族をなだめ、西郷隆盛の中央への復帰の一助とすることだった。出兵軍に約三〇〇名の薩摩の徴集隊をふくんだことは、その意味合いを持っている。第二に琉球処分との関係。出兵の直接の目的が琉球帰属問題の解決にあったとはいえないが、琉球の帰属問題が出兵と密接な関わりを持っていたため、出兵は琉球問題と大きく関わることになる。第三に出兵の背景として台湾の領有が企図されていたことは見逃せないと思う。
台湾東部の占領、確保ははやくル・ジャンドルの勧めていたことだが、英米が出兵反対に回ったことで、大久保らは台湾の占領ということについてはやや消極的になったものの、しかし状況によって台湾に拠点を確保することに反対であったとも思われない。まだ幕末の志士活動の気分を濃厚に残している時期であり、当事者たちの中にはさまざまの思惑があったものと思われる。たとえば先に触れた「台湾蕃地処分要略」には、児玉利国、成富成風らを台湾に派遣し、「土地形勢を探偵し、且土人を懐柔綏撫せしめ、他日生蕃を処分するときの諸事に便ならしむべし」とあるが、児玉、成富らは先に樺山と共に台湾の視察を行ったのち、出兵促進を働きかけるべく帰国していたもので、この方針のもと遠征軍に先立って再度渡台し、数人で台湾東部の花蓮港付近の原住民族地区を占領しに行ったという。原住民族を懐柔して拠点を確保する予定だったようだが、略奪にあい、またマラリアにかかるものも出て、あきらめて引き揚げた(藤崎済之助『台湾史と樺山大将』など)。全体として近代的国際環境の中での占領、植民地化といったことをどのように理解していたのかは疑問だが、北海道への屯田、開拓と同じようなものと考えていたのではないだろうか。
こうした台湾領有への欲望には淵源がある。ひとつは幕末の膨脹論である。十九世紀の初め頃から膨脹論的な議論が多く現れたが、それらの中に台湾の領有を主張したものがある。佐藤信淵『混同秘策』、野本白岩『海防論』、吉田松陰『幽囚録』などにはみな、日本の海外膨脹を論じる中で、台湾の領有を主張する箇所がある。第二に島津斉彬の企図がある。斉彬は西洋人はごくわずかの土地を手に入れてのち、それを押し広げていって、やがて広大な植民地を手に入れてしまうと考え、これと対抗するために、台湾に拠点を築く可能性を探るべく部下を琉球へ派遣した(『島津斉彬言行録』岩波文庫)。この企図は斉彬の病死によって沙汰止みとなったが、こうした斉彬の企図は薩摩ではよく知られていたはずだ。宮古島島民の遭難を聞いたとき、薩摩の人士が即座に反応し、出兵論が盛んになった背景にも、こうした斉彬の企図が影響していたのではないかと思われる。ル・ジャンドルの提言は、こうした幕末以来の気分に、近代国際法からの保証を与えたことになる。
台湾出兵のあらましは以上のようなものだが、出兵以後のこととして三つのことを見ておきたい。第一に出兵を機に、台湾領有論がひとつの具体的な努力目標として感じられるようになっていったのではないかということだ。日本の出兵ののち、清仏戦争(八四、五年)に際してフランスが一時澎湖島を占領して海上封鎖を行い、また台湾北部の占領を試みるなどのことがあって、清国も台湾確保の重要性を認識し、八五(明治十八)年には台湾を福建省から切り離して、台湾省に格上げし、巡撫劉銘伝による積極的な近代化政策が行われた。日本にこうした事情がどの程度伝わっていたのかはわからないが、その後の明治二十年代の南進論のなかでも、さまざまの形で台湾領有論は主張されており、それがそのまま日清戦争までつづいていったように思われる。
第二に出兵が原住民族地域に対して行われたこと、マラリアに手をやいたことなどから、台湾を野蛮で未開の地域と見なし、また台湾といえば原住民族をまず連想するような台湾認識を形成したのではないかということだ。実際には日本の台湾領有の時点で、漢民族人口は約二五五万人、原住民族は十一万人程度であったのに、その圧倒的多数である漢民族社会に対しては、認識は案外希薄であったように見える。日本は台湾の植民地化の後に初めてその漢民族社会と正面からつきあわざるをえなくなったわけで、準備不足からくる混乱の中で試行錯誤を余儀なくされることとなる。
第三に沖縄の問題について簡単に見ておきたい。日本は出兵によって沖縄の領有権は認められたものと見なしたが、ことはそう簡単には進まなかった。日本は出兵の翌年琉球処分に着手し、まず清国への使節派遣、冊封を禁止した。ついで武力を背景に七九年、琉球藩を廃止して沖縄県を設置した。清国はこの措置に対して強く抗議し、米前大統領グラントの仲介もあって、日清間の交渉の結果、八〇年「球案条約」案がまとまった。その内容は、沖縄本島以北を日本領とし、宮古、八重山二島以南を清国領とすること、清国は日本に最恵国待遇を与えること、の二点だった。この条約は清国が批准しなかったために発効しなかった。したがって沖縄の帰属問題の解決は、台湾の領有によって自動的に解決するまでは、懸案の形であったことになる。
さて日清戦争である。日清戦争の講和に至る経過については、時の外務大臣であった陸奥宗光の『蹇蹇録』(岩波文庫)が基本資料なので、これに沿って簡単に見ていきたい。
日本が清国に宣戦布告したのが八月一日。九月十六日の平壌占領と十七日の黄海海戦で、ほぼ日本の勝利が見えてきたといっていい。以後戦争の遂行も、勝てるかどうかではなく、どのように戦果を拡大するかがテーマとなってくる。そうしたなか十月八日英国公使が陸奥外相に講和条件について問い合わせてきた。これに対しては結局回答しなかったのだが、陸奥はこれを機に講和条件を考えておくべきだとして、甲乙丙の三案を作り伊藤博文総理に提出した。甲案とは朝鮮の独立、旅順口および大連湾の割譲、軍費の償還、欧米並みの条約を新たに締結すること、などを骨子とするもの。乙案は甲案に列強による朝鮮独立の担保、台湾の割譲を加えたもの。丙案は議論を延期し、清国の出方を見る、というものだった。伊藤は甲案に同意するとしたが、のちに甲乙両案が、講和条約案を作る基礎になったという。
陸奥と伊藤はこうした講和条約案を検討しながら、しかしその内容は極力秘密にしようとした。交渉以前に列強の干渉を招くことを恐れたからである。このころから年末にかけて、政府の外部ではさまざまの意見が出されたという。『蹇蹇録』には改進、革新両党の山東、江蘇、福建、広東を要求すべしとか、自由党の吉林、盛京、黒竜江、台湾を要求すべし、などといった意見が紹介されている。また政府内部では、海軍は台湾の割譲を要求し、陸軍は遼東半島の割譲を要求し、財務当局は領土の割譲よりも出来るだけ多くの賠償金を取るべしと主張したという。
先に見たようにこのとき海軍大臣であった西郷従道と軍令部長の樺山資紀はともに台湾出兵の当事者であり、推進者だった。海軍が台湾の割譲を強く主張したのも当然といえる。また翌年初めに大蔵大臣として入閣した松方正義も薩摩の人間で、台湾割譲を主張していたらしく、台湾領有の意見書を徳富蘇峰に代筆させ、時の参謀本部次長であった川上操六陸軍参謀本部次長に送ったという(『民友社思想文学叢書 別巻 徳富蘇峰記念館所蔵民友社関係資料集』三一書房)。山県有朋をはじめとして遼東半島の割譲を強く要求する陸軍部内に、台湾要求への理解を求めるためだろう。さらに松方とともに伊藤の次の内閣を組織した大隈重信も、台湾蕃地事務局長官だった。こうした政府内外の有力者の顔ぶれを見れば、台湾出兵とそのとき以来の台湾領有論とが、この時点での台湾割譲要求に大きな影を落としていたと見ていいように思う。
政府が最終的な講和条件を決定したのは、翌九五年一月二七日広島の大本営での御前会議においてだった。だが領土の割譲要求を行うには、その土地を占領していることが前提となる。そのための布石として、これに先立つ一月十三日に大本営は、威海衛攻略後に澎湖島占領作戦を行うことを決定している。実際に澎湖島を占領したのは三月二六日、すでに伊藤、陸奥と李鴻章との講和会談が始まっていた。駆け込みで台湾割譲要求の条件を整えていたことがわかる。
こうして台湾出兵の記憶に引きずられながら、日本はいわば騎虎の勢いで台湾を植民地化していくことになるわけだが、ではこの時点での日本の台湾認識はどのようなものだっただろうか。九五年初めに民友社から刊行された『台湾』という小冊子がある。これは台湾領有キャンペーンとして『国民新聞』に連載された記事をまとめたものだが、その材料の多くは前述の水野遵が提供したものだという。そのため原住民族に関する記事は多いが、漢民族社会に関する記述は通り一遍のもので、それがどのような社会なのか、それをいかに統治するのかといった問題意識は見られない。これは一例にすぎないが、全体として日本は台湾のことをよく知らぬままに植民地化したものと思われる。
では日本にとって台湾は必要だったのかといえば、これも否である。日本の資本主義は植民地を必要とするような段階には達していなかった。したがって台湾の割譲要求は必要からではなく、観念から来たものだということができよう。観念の半分は台湾出兵の記憶であり、もう半分は強国は植民地を持つものだという観念である。矢内原忠雄はこれを「我国は未だ帝国主義の実質を備えずしてその形態とそのイデオロギーとを取った」(『帝国主義下の台湾』岩波現代文庫)と表現している。日本はいわば必要もなく、準備もないままに、偶然の機会に乗じて台湾を植民地化することとなった。そのツケを日本は統治初期の苦労の中で支払わなければならなかったわけだが、しかし日本は台湾を得たことによってまぎれもなく帝国主義への道を歩みはじめることとなった。
もちろん沖縄や台湾をめぐる以上のような経緯は、日本が国境を確定していくための、すなわち近代国家となっていくための自然かつ必要なプロセスであったという側面を持っている。これを単純に侵略ということはできまい。問題はそうしたプロセスのなかの個々の選択が、日本とアジアの間のありえたさまざまの可能性をつぶしていくことでもあったことだ。ひとつのものを選択すれば、他の可能性は捨てざるをえない。これはいたしかたのないことだが、しかし選択とは常にそういうものだということに無自覚であってはなるまい。
たとえば『蹇蹇録』によれば谷干城は、伊藤宛の書簡で「割地の要求はあるいは将来日清両国の親交を阻障すべし」として、土地の割譲に反対したという。これはおそらく伝統的な価値観、世界観によるものだっただろうが、日本はそうした価値観を一顧だにせず、欧米に倣って帝国主義への道を選んだ。孫文の言いかたを借りれば、王道を捨てて覇道を取ったわけだ(孫文「大アジア主義」)。
ここでやっと冒頭の日本政府の見解に戻ることができる。日本が尖閣列島に「標杭を建設する旨の閣議決定」を行った一八九五年一月十四日は、大本営が威海衛攻略後に澎湖島占領作戦を行うことを決定した翌日であることに注意してほしい。
そこまでの経緯を見ておこう。一八八五年沖縄県知事は、尖閣列島に国標をたて、所属を確定したいと上申し、内務卿は賛成したが、清国との間に紛争の種を増やしたくない外務卿の反対で、上申は取上げられなかった。沖縄県知事は九〇年、九三年にも同様の上申をしたが、いずれも取上げられなかった。九四年十二月二七日内務大臣がこの問題につき外務大臣と協議し、翌一月十一日陸奥外相はこれに同意、十四日の閣議決定に至った。陸奥がこれに同意したのは、台湾の割譲要求に当たって要求すべき台湾の範囲を確定しておきたかったからではないだろうか。当時の情勢下では、台湾の割譲要求は列強の干渉によって実現しない可能性も多分にあった。事実遼東半島はそうだったし、日本の台湾接収に当たって、台湾の官民は台湾民主国の建国を宣言し、日本に抵抗したのだが、これは独立国としてやっていく展望を持っての行動というよりは、こうした形で日本に抵抗することによって、フランスあるいはロシアの干渉を呼び込もうとするものだった。したがってそうした事態に備えて尖閣列島を台湾から切り離しておくことは、当然必要な措置と感じられたものと思われる。内務大臣にしても台湾割譲要求が固まりつつあるこの時期に、それと無関係にこの問題を提起したはずはない。
冒頭に紹介した日本政府の見解は、事実としてそうした言いかたもできるという意味では正しい。しかし問題なのはそうした文言の背後にある歴史観、というよりはむしろ歴史認識の欠如である。くりかえすが、事実としていえることの背後にあるその都度その都度の選択が、どのように日本とアジアの関係を規定してきたのかに無自覚であってはならない。それは現在でもいえることなのだから。
わたしは尖閣列島は一義的に中国のものだとはいえないが、一義的に日本のものともいえないと思う。両者がまっとうにそのことについて話し合ったことはないのだから。竹島の問題も同断であり、まがりなりにも交渉で決定してきた北方領土とは、性格を異にするものだと思う。双方それぞれの事情によって、今まっとうに話し合うことができないのなら、しばらく寝かせておく他はない。まっとうに話し合う基盤ができれば、問題は自ずから解決するだろう。だからいまことさらに尖閣を問題にすることは、国益を図るに似て、実は日本の方向を大きく誤らせる一歩だと思う。

(2012年7月 掲載)