イノベーションの担い手としての科学的高度人材
- イノベーション研究センター 准教授大山 睦
2018年春号vol.58 掲載
イノベーションの担い手
経済成長理論では、イノベーションが経済成長の主な源泉であると論じられ、そのことは厳密な経済モデルで示されています。簡潔に述べると、科学的な発見などに基づき、新しい製品を開発することによって、あるいは、新しい生産プロセスを確立することによって、経済成長に貢献します。初代iPhoneがアメリカで発売されたのが2007年の6月29日であり、それ以前は世界中のどのような大金持ちでもiPhoneの利便性を享受することができませんでした。現在では、多くの人がiPhoneを利用し、その利便性を享受することによって、より豊かな生活を送っています。イノベーションは、このように我々の生活を豊かにしてくれます。
それでは、経済や社会の発展で重要な役割を果たすイノベーションの担い手は誰なのでしょうか。例外も存在しますが、現代の多くのイノベーションが科学的な知見に基づいて行われていることを考慮すると、高度な科学的知識を有している人材(以下、科学的高度人材)が大きな役割を果たしていると推察できます。
アメリカの半導体産業の成り立ちは、科学的高度人材がイノベーションの担い手であることを的確に表しています。ノーベル物理学賞の受賞者であるウィリアム・ショックレーは、後のフェアチャイルドセミコンダクター社とインテル社の創業者であるロバート・ノイスとゴードン・ムーアをショックレー半導体研究所に招いて、半導体を研究していました。ノイスはマサチューセッツ工科大学で物理学の博士号を、ムーアはカリフォルニア工科大学で化学の博士号を取得しました。ショックレーの研究所が事業的に失敗する一方で、ノイスとムーアはフェアチャイルドセミコンダクター社とインテル社で次々に集積回路やマイクロプロセッサを開発し、アメリカのシリコンバレーの発展だけでなく、現代のデジタル社会の発展にも大きく貢献しました。両社では、科学的知識や最新技術を有する多くの人材を雇い、科学的知見をもとに製品の開発が行われていました。科学的な発見を行う者とそれを社会に役に立つものへと変換する者が、重要なイノベーションの担い手であり、ノイスとムーアはその典型的な人と言えます。
SESTATについて
ノイスとムーアの話は興味深いかもしれませんが、あくまでも一つの例に過ぎません。高度な科学的知識を取得したからといって、すべての人が研究開発やイノベーション活動に従事しているわけではなく、ほかの生産活動に従事していることでしょう。一般的に、科学的高度人材はどのように経済活動に携わっているのでしょうか。
この問いに答えるためには、科学的高度人材に関する大規模なデータを用いて実証分析することが望ましいです。アメリカ国立科学財団(National Science Foundation)は、広義の意味での科学技術分野で学士号、修士号、または博士号を取得した人を対象にサーベイ調査を行い、在学中の学業状況と学位取得後の雇用状況や生活状況について詳細な情報を収集しています。そして、その情報をもとに、Scientists andEngineers Statistical Data System(SESTAT)というデータベースを構築しています。具体的には、どの分野で学位を取得したのか、在学中のGPAはいくつであったか、どのようにして学費を調達したか、どのような職業についているのか、どれくらい所得を得ているのか、結婚をしているのかなど、広範囲にわたり、科学的高度人材の情報が収集されています。1993年からデータベースの構築が開始され、2年から3年のサイクルでサーベイ調査が行われています。サンプル数は各年10万人程度であり、一部の科学的高度人材は追跡調査の対象となっています。
このような科学的高度人材に関する詳細なデータが利用できるようになって、彼らの行動の分析が可能になり、証拠に基づく科学政策の提案も可能になります。近年、文部科学省科学技術・学術政策研究所が「博士人材追跡調査」などを行い一定の成果を得ていますが、日本においてさらなるデータの蓄積が必要な状況となっています。
以下では筆者がSESTATデータを用いて行ったアントレプレナーシップと科学者の行動についての実証分析の結果を紹介します。
科学的高度人材によるアントレプレナーシップ
アントレプレナー(起業家)という言葉からは、ビル・ゲイツ、スティーブ・ジョブズ、ジェフ・ベゾスのようにビジネスで成功し、名声や巨富を築き上げるだけでなく、社会に大きなインパクトを与える人々を想像するかもしれません。しかしながら、ビジネスで成功したかどうかという結果でなく、新規ビジネスを立ち上げた人やビジネスオーナーをアントレプレナーととらえると、全く違ったアントレプレナー像が浮かび上がってきます。アメリカを対象にした実証分析では、新規にビジネスを始める人の平均的特徴として、低賃金労働者や失業や転職の経験者などが挙げられています。(Evans and Leighton, 1989)。また、同様に労働賃金から得られる生涯所得と比較して、新規ビジネスから得られる生涯所得は35パーセント程度低いという推定結果(Hamilton, 2000)や、新規ビジネスの約3分の1は数年で廃業になってしまうことも報告されています。このような傾向は、アメリカだけでなくさまざまな国で観察されています。
アントレプレナーシップの実証研究における難しさは、上述したようにアントレプレナーの異質性にあります。新規開業という幅広い定義を用いると経済発展に寄与しないアントレプレナーを多く含むようになってしまう一方で、ビジネス成功者ととらえてしまうと成功と失敗の要因が明確に理解できなくなってしまいます。SESTATを使った研究では、完璧ではありませんが、このジレンマを解消しようと試みています。つまり、新規ビジネスを立ち上げた時、科学的高度人材は経済発展に寄与するような経済活動を行う可能性が高いが、そのビジネスで成功する人もいれば、失敗する人もいるということに着目し、実証分析を行いました。
科学的高度人材のデータベースであるSESTATを使った実証分析からは、専門知識とビジネス分野の関係性が新規ビジネスの成功に影響を与えることが分かりました。専門知識とビジネス分野の関係性は、学業を通じて得た専門分野の知識をビジネスの分野でどの程度活用しているかということです。新規ビジネスを始める人は、専門分野の知識をビジネスで密接に活用しているタイプと、専門知識を全く活用していないタイプの両端に分かれるのに対して、賃金労働者は専門知識を程々に活用している傾向がデータから明らかになりました。また、ビジネスから得られる収入は専門性をより活用することによって増え、その増え方は賃金労働者の所得と比較して大きいこともデータで示されました。たとえば、博士号の保持者で専門性をビジネスで密接に活用している場合と全く活用していない場合を比較すると、ビジネスから得られる前者の年間収入は後者の年間収入を約40パーセント上回るという結果となっています。賃金労働者の場合、その違いは僅か9パーセントにとどまっています。
ビジネスからの生涯収入と賃金労働からの生涯収入を比較した場合も、専門知識とビジネス分野の関係性が大きな役割を果たします。専門性とビジネス分野の関係性を考慮せずに比較した場合、ビジネスからの生涯収入が賃金労働からの生涯収入を下回り、既存の実証研究と同様の結果を得ることになります。しかし、高度な専門知識を活用してビジネスを行う場合、平均で5パーセントから23パーセント程度(年齢に依存)、ビジネスからの生涯収入が賃金労働からの所得を上回るという推定結果を得ました。その一方で、高度な専門知識を活用しないでビジネスを行う場合、ビジネスからの生涯収入が賃金労働からの所得を大きく下回るという結果になりました。
SESTATを使った実証分析の結果は、教育水準が高いだけではビジネスで成功するとは限らず、ビジネスで成功する難しさを改めて示しています。そのような難しい状況において、教育を通じて得た高度な専門知識を創造的に活用することが成功の鍵となり、そのことを実行できる人材が社会に大きなインパクトを与えるイノベーションの担い手になる可能性を秘めていることをデータが示唆しています。
科学的高度人材の労働市場
アントレプレナーが科学的発見をイノベーションにつなげる存在ならば、科学者はその科学的発見、科学的発見の応用や開発を担う存在となります。科学的な方法を用いて研究や開発を行う人を科学者として定義すると、科学者は一体どのような人であり、どのような働き方をしているのでしょうか。この問いに関してはさまざまな意見があると思います。一個人の経験に基づく意見ではなく、SESTATを用いることによって、大規模なデータから見えてくる科学者の実像を明らかにすることができます。科学者として生きていこうと考えた時には、まずどこで働こうか、大学なのか産業界なのか、そして基礎科学を選ぶのか、応用科学を選ぶのかを考えると思います。現実はもう少し複雑かもしれませんが、このようなキャリア選択がどのように行われるか、その要因が何であるか、データを用いて調べました。その際には、報酬など金銭的な要因が重要なのか、それともやりがい、社会的な貢献、学問の自由など非金銭的な要因が重要なのか、また研究能力がどのように影響しているのかを中心に考察しました。
今回の分析では、博士号取得者に対象を絞り、約3万4千人の科学者、1995年から2006年までのデータを分析しました。以下で紹介する分析結果は、アメリカのデータからの結果であって、日本の状況には必ずしも当てはまらないことに注意してください。
大学の研究機関 | 産業界の研究機関 | |||
---|---|---|---|---|
基礎科学 | 応用科学 | 基礎科学 | 応用科学 | |
研究機関の特徴 | ||||
人数 | 204,542 | 167,865 | 104,393 | 310,569 |
研究開発費(100万ドル) | 27,956 | 9,721 | 6,525 | 30,883 |
科学者の特徴 | ||||
平均年齢 | 41.4 | 43.2 | 40.5 | 42.0 |
男性の割合(%) | 67 | 67 | 75 | 80 |
既婚者の割合(%) | 75 | 76 | 74 | 80 |
米国国籍の割合(%) | 85 | 86 | 80 | 85 |
平均給与(ドル) | 55,258 | 59,236 | 74,365 | 78,632 |
図表1:キャリア別の特徴(SESTATをもとに筆者が作成。)
図表1はキャリア選択別の科学者に関する記述統計です。大学は基礎科学者が多く、産業界は応用科学者が多くなっていますが、産業界にも基礎研究をしている科学者が多数存在します。研究開発費の配分も人的資源と同様であり、大学は基礎研究に、産業界は応用研究により多くの資金が注がれています。大学は基礎研究を、産業界は応用研究を中心に行っていることが見て取れます。
科学者の特徴は大学と産業界という働く場所で異なるのでしょうか。大学の特徴は、営利目的ではなく、産業界と比較して、研究トピックの選択など自由度が高いと考えられます。科学者の中にはそのような環境が非常に魅力的と考える人もいるでしょう。大学の立場からすると、金銭的な魅力で優れた科学者を獲得することは難しいので、研究の自由や社会貢献といった非金銭的な魅力を増すように環境を整備することでしょう。この場合、非金銭的なことを優先する科学者が大学で働く傾向が強くなるでしょう。ただ、科学者はそもそも金銭的にも非金銭的にもインセンティブに反応しない人たちと考えることもできます。この場合、大学と産業界で科学者の特徴の違いが観察されないと考えられます。どちらの仮説が正しいかは、科学政策でも重要な意味があります。たとえば、もし非金銭的なことを重要視する科学者が大学で働いているならば、大学に優秀な研究者を所属させたい場合、報酬などの金銭的なインセンティブを与えるより、大学の非金銭的な魅力、研究環境を整えることが有効になります。
大学の科学者 | 産業界の科学者 | |
---|---|---|
給料 | ✓ | |
職場の福利厚生 | ||
職の安定 | ✓ | |
職場の所在地 | ||
昇進の機会や可能性 | ✓ | |
職における知的チャレンジ | ✓ | |
職における責任 | ✓ | |
職における独立性 | ✓ | |
社会貢献 | ✓ |
図表2:大学の科学者と産業界の科学者の比較(注:✓は相対的に重要であることを示す。SESTATをもとに筆者が作成。)
SESTATのデータをもとに大学で働く科学者と産業界で働く科学者の比較結果を図表2にまとめてあります。産業界の科学者と比較して、大学で働く科学者は金銭的要因を重視しないという結果が出ています。これは大学の給与と産業界の給与に差があることと整合しています。簡単に言うと、科学者の労働市場でも、お金のあるところが多くの給与を出し、給与を重視している人がその職場で働くことが分かります。高い給料でも働きたくないと思うこともありますし、安い給料でも働きたいと思うこともあります。つまり、非金銭的な利益を得ることによって満足度を高める可能性があります。それでは、大学の科学者が得ている非金銭的な利益とは何でしょうか。データ分析によると、大学に所属している科学者は、知的チャレンジ、独立性、社会貢献などに価値を置いていることが窺えます。
SESTATのデータを用いて、基礎科学者と応用科学者を比較することもできます。大学に関しては、基礎研究を行う科学者のほうが応用科学を行う科学者よりも平均的にアカデミックな能力が高いという分析結果になっています。大学で基礎研究に従事している科学者は、学士号取得までの年数は短く、外部資金の獲得(博士課程在籍時)の確率が高く、大学院ランキングの高い博士過程のプログラムの出身者が多くなっています。一方、産業界に従事している科学者に関しては、そのような差異は見られず、産業界では研究能力において似たような基礎科学者と応用科学者が雇用されていると考えられます。
図表3は科学者のキャリア選択別賃金カーブを推定結果をもとに描いています。大学と産業界を比べると、産業界の賃金カーブが上方に位置しています。産業界の科学者は金銭を重視し、大学の科学者は非金銭的なことを重視する傾向が、賃金カーブからも確認できます。次に、大学の基礎科学者と応用科学者を比較すると、若い時の給料は、基礎科学者のほうが応用科学者よりも低いですが、勤務年数が増えるとその関係は逆転します。一つの解釈としては、大学の基礎科学者は、若い時に人的投資を盛んに行っていることです。研究能力が高い人ほど人的資本投資からのリターンは高くなるためより多くの人的投資を行うようになり、基礎研究を行う科学者のほうのアカデミックな能力が高いということにも整合的です。最後に産業界の基礎科学者と応用科学者を比較すると、賃金カーブにあまり差はありません。基礎科学と応用科学の両分野で共同して研究を行うこと、似たような人材が雇用されることなどがその原因と推察されます。
データ分析の結果は科学者固有の特徴もとらえましたが、通常の労働市場と同様に、科学者も金銭的・非金銭的なインセンティブに反応しながら、キャリア選択や行動を決定していることが明らかになりました。
科学的高度人材のデータ分析と科学技術政策
SESTATを使用した研究結果は、驚くようなことではないかもしれません。しかしながら、大規模なデータ分析をすることによって、科学的高度人材によるアントレプレナーシップや科学者のキャリア選択を客観的にデータで裏付けられ、それらの現象やイノベーションの担い手の特徴について理解を深めるのに役立っています。科学者に関するデータを整備して実証分析することは、適切な科学技術政策を設計するうえで重要な第一歩になります。科学技術政策は、科学者だけでなく、経済のつながりを考慮すると、社会も豊かにする政策であり、証拠をもとにした政策の立案と実施が重要となります。
参考文献
Agarwal, R. and Ohyama, A. (2013).
Academia or Industry, Basic or Applied?Career choices and earnings trajectoriesof scientists. Management Science, 59,950-70.
Evans, D. S. and Leighton, L. S.(1989).
Some empirical aspects ofentrepreneurship. American EconomicReview, 79, 519-35.
Hamilton, B. H. (2000).
Does entrepreneurship pay? An empiricalanalysis of the returns to self-employment.Journal of Political Economy, 108,604-31.
Ohyama, A. (2015).
Entrepreneurshipand Job-relatedness of Human Capital.Economica, 38, 740-68.
(2018年4月 掲載)