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『医療を問う──費用対効果に拠る政策への転換』

2017年春号vol.54 掲載

2016年12月15日、一橋大学社会科学高等研究院医療政策・経済研究センターのキックオフ・シンポジウムとして、大手町サンケイプラザにて「一橋大学政策フォーラム」が開催されました。テーマは、『医療を問う──費用対効果に拠る政策への転換』。その内容をレポートします。

佐藤主光

佐藤主光
社会科学高等研究院医療政策・経済研究センター長
経済学研究科教授

松山 幸弘

松山 幸弘
キヤノングローバル戦略研究所研究主幹

中村 良太

中村 良太
社会科学高等研究院准教授

蓼沼 宏一学長

蓼沼 宏一学長

猪飼 周平

猪飼 周平
社会学研究科教授

小塩 隆士

小塩 隆士
経済研究所教授

井伊 雅子

井伊 雅子
経済学研究科教授

2014年に、一橋大学は学長直属の研究組織として一橋大学社会科学高等研究院を創設し、社会、経済、法などの制度改革や企業経営革新などに結実する「真の実学」の研究を全学的に推進しています。そして2016年2月には、日本が抱える喫緊の社会的課題である医療・介護・社会保障に関わる諸問題の解決に資するべく、同院内に医療政策・経済研究センターを開設。本政策フォーラムは、そのキックオフ・シンポジウムという位置づけで開催され、満席の約170人の来場者を集めて行われました。
ファシリテーターを務めた、医療政策・経済研究センター長である佐藤主光教授の開会の辞に続いて、蓼沼宏一学長が挨拶に立ちました。

「日本の医療は社会保障費を増大させる財政問題であり、人の健康と格差に関わる社会問題であり、年間40兆円もの総支出がある産業という経済産業問題であり、病院などの経営に関わる経営・会計の問題である。社会科学は、社会経済現象を解明する『光をもたらす学問』であるとともに、より良い社会の実現に貢献する『実りをもたらす学問』であるべき。一橋大学は、社会科学に特化した研究大学だからこそ、この医療問題に取り組む使命があると考える。なぜなら、特定の利害に関わらない立場で、広く社会的な観点から問題点を明らかにし、解決策を提示できるからである。本日は、医療における限られた資源をいかに効率的かつ公平に配分し、長期的に持続可能な医療システムを構築するかという課題に対し、理論とエビデンスに基づいた科学的議論が展開されると期待している」とスピーチしました。

次に、一橋大学社会科学高等研究院の中村良太准教授が「医療技術の経済評価──『費用対効果』を使った政策意思決定のあり方」と題して基調講演を行いました。平成11年には30兆円弱であった医療費は、平成27年には40兆円を超えるまで膨張しています。「これを適正化するには、"費用対効果に基づく"政策意思決定が必要」と中村准教授は主張します。まず大前提として、医療予算は無限ではないため、「すべての人を完全に満足させられる医療は提供できない」という現実があります。そこで、同じお金を使うなら、より国民の健康改善に寄与するものに予算を投じるべきと考えることができます。
新しい医療技術が開発された時、政府はこれに保険適用するか、またいくらの公定価格をつけるか、という問題に直面します。「医療技術の経済評価」はその意思決定を助けるための道具で、その核となるのが「費用対効果分析」であると中村准教授は言います。費用対効果分析では、まず新技術と既存技術それぞれの費用と効果を計算し、比べます。通常、新技術は既存技術と比べて効果が大きく、費用は高くなります。分析によって、新技術に保険適用すると、従来と比べて国民全体でどの程度の健康改善が期待でき、またそれに伴ってどの程度の追加支出が必要となるのかが分かります。

ただし、これだけでは単なる費用と効果の計算に過ぎません。一方、政府は費用対効果分析の結果を使って、その新技術に「値打ち」があるかどうか判断しなくてはなりません。中村准教授は、「費用対効果に優れるとはどういうことか、日本では明確に定義づけられて説明されていない」と指摘します。

ここで経済学の基本概念の一つ、「機会費用」が登場します。費用対効果の判断について、英国では次のように考えられています。
「ある技術が費用対効果に優れていると言えるためには、それがもたらす健康への恩恵が、その技術にかかる費用を工面した結果諦めざるを得なかった医療行為がもたらしたであろう健康への恩恵(機会費用)よりも大きくなくてはならない」
新技術に保険適用するとして、どこまでの費用(公定価格)であれば許容されるべきか。それを知るには、機会費用の定量化が必要です。現在の医療システム全体で、所与の健康改善を達成するために期待値としていくらの追加支出が必要になるか─医療システムの限界生産性─を計算します。この値は、その健康改善を、新技術への支出ではなく別の医療への支出によって達成する場合にかかる費用の期待値です。つまり、新技術の機会費用と考えることができます。これが、新技術に対して政府が許容すべき最大の支出額(公定価格の上限)なのです。
この「機会費用」は、医療支出と国民健康のデータから推定することができます。つまり、「費用対効果の判断基準は、政治や利害調整の結果として設定されるものではなく、医療システムの客観的事実を測定して科学的に明らかにされるもの」と中村准教授は強調します。社会科学の方法論によって、この重要な意思決定を直接助けることができるのです。

ただし、「費用対効果だけが重要ではない」として、希少難病へのアクセス(費用対効果は優れていなくても治療薬は必要)や健康の平等性(風邪とがんを治す価値は同等か)、産業としての発展性(薬価低減で製薬会社の研究開発へのインセンティブを阻害)、そして倫理(目の前で病気に苦しんでいる人を見殺しにできるか)への考慮も問われると中村准教授は指摘します。「これらを考慮するためにどの程度まで費用対効果を犠牲にできるかは、社会の価値判断の問題」と総括して講演を終えました。

休憩を挟んで、パネルディスカッションが行われました。それに先立ち、中村准教授を除くパネリストがそれぞれ10分間、当該テーマにおける問題提起を行いました。

まず、医療のイノベーションを研究している、キヤノングローバル戦略研究所研究主幹の松山幸弘氏。医療イノベーションの柱は、新しい医薬品や医療機器など医療技術の進歩だけでなく、医療制度や医療事業体のマネジメントの変革も必要であるとして、「日本は、前者においてはほぼ世界トップの水準であるものの、後者は先進国の中で最低レベル」と断じました。その根拠として、政府はICTの活用を掲げていてもその財源を考えていないことや、近接した国公立病院や大学附属病院における重複過剰投資が見られることを挙げています。
「ある地方自治体では、『病院を建てることに意義がある』と言っていた。まだそういう発想が見られる。財源とケア提供体制の両輪を広域医療圏単位で全体最適にする仕組みを欠いたままでは、改革の方向が正しくても画餅に終わる」と松山氏は喝破します。
公的医療保障制度(皆保険)における日本と他の先進国(アメリカを除く)の比較においても、日本は費用対効果を精査することなく有効性が認められた医療はすべて保険給付の対象としているのに対し、他はそうとは限らないことや、財源(保険者)と医療機関が連結する仕組みが日本にはなく保険者と医療機関が対立する構図であるのに対し、他は実質的に連結している点などを挙げて日本の特殊性を説明。さらに、高い利益を上げている社会福祉法人の存在など、メスを入れるべき財源の存在を指摘しました。

次に、一橋大学大学院経済学研究科の井伊雅子教授が「リスクリテラシーを高めるには?」と題してスピーチ。近年、増え続ける医療や介護の費用を前に、予防の重要性が盛んに言われています。しかし、「健康診断やがん検診が必ずしも有効ではないばかりか、場合によっては害であるケースもある」と井伊教授は指摘します。たとえば、症状のない50歳の女性が乳がん検診のマンモグラフィーを受ける場合。有病率は1%であるものの、検診でがんがないのに陽性と出る"偽陽性"は9%あります。(注:年齢・人種などにより差がありますが、イメージしやすいおおよその数字で話しています)金銭的なコストだけでなく、心理的ストレスや検査による身体的負担、放射線による被曝などデメリットも多いです。がんが見つかっても、非進行性がんでは手術・治療が不要な場合もあります。それでも医師は保身的になるあまり不要な検査や手術を行う場合があります。医師と患者が同じ目標を共有していないことが問題です。
出生前診断でダウン症でなくても陽性と判定される場合もあり、判定された親の不安を子どもが察知し、正常に生まれた場合でも育っていく過程で不安行動を起こすという研究も報告されています。出生前診断や遺伝子検査の技術の進歩には企業などが率先して多くの資源を投入していますが、そうした技術は完全ではありません。検査を受ける前に、その検査の限界を含めて検査結果が意味するものを十分理解したうえで、患者の持つリスクや意向に沿って個別に検査を受けるか否かの意思決定を行う必要があるのに、日本ではこうした意思決定を支援する体制ができておらず、検診の受診率を上げることばかりが強調されます。確率的なものの考え方とリスクの伝え方について、医師と患者双方の教育が日本では十分でありません。

「不確実性のもとで賢い意思決定をするためには、情報は多ければいいとは必ずしも言えない。医師と患者のリスクリテラシーを高めれば、少ない費用でより良い医療が受けられる」と井伊教授は結びました。
次に、一橋大学経済研究所の小塩隆士教授が「費用対効果の発想に基づく医療政策」として、五つの論点を提示しました。
1点目は「費用対効果の発想はなぜ必要か」。通常の技術進歩はモノやサービスの価格低下につながるが、医療分野においては価格上昇をもたらします。これは、保険制度により誰がどれだけ負担しているのかよく分からない構造になっており、通常の市場メカニズムが働かないことによります。そのことで、保険制度の存立基盤が揺るぎかねないジレンマもあります。
2点目は、「費用対効果が必要なのは医薬品や医療機器だけでなく、医療全体」ということ。高額医薬品をめぐる問題が注目を集めているものの、世の中の人には「何千万円でも人の命が救えるなら」という価値判断もあり、"命の値段"の議論は避けられず先に進まなくなってしまいます。そこで、医療全体における費用対効果の議論に広げ、出来高払いに起因する非効率な外来診療による無駄の見直しなどとセットで議論すれば、進めやすくなるのではないかという論点です。3点目は、「見直すべき社会保険の適用範囲」。たとえば、風邪や擦り傷にまで保険を適用させず、その分は真に医療を必要として困っている人に集中投入すべきではないかという論点です。
4点目は、「医療の技術進歩の成果を活かす政策の工夫も必要」です。医療技術の進歩により、年々高齢者の健康が向上する一方、就業率が低下しています。高齢者を"扶養される者"と位置づけ続けると、経済全体の"生産と消費のバランス"が崩れます。したがって、健康となった高齢者を"扶養する"側につけて医療技術進歩の成果を還元する制度改革が必要ということです。
5点目は、「費用対効果研究が解決すべき課題」として、経済学と医学、行政と研究者の共同研究、研究基盤となるデータベースの整備の必要性などを挙げました。
次に、一橋大学大学院社会学研究科の猪飼周平教授から「費用対効果の前提の歴史的変容について」という発表がありました。健康を含めた生活問題がより個別化・複雑化する中では、たとえば「仕事がなくて困っている人には仕事を与えればいい」といった単純な解決方法が成立しなくなっているといった歴史的経緯を踏まえ、医療システムにおける費用対効果の問題を考える必要があるということです。そのために、個別の生活の特徴を正面から認めて支援する「生活モデル」という概念が必要で、現在、ヘルスケアにおいては「地域包括ケア」が該当するといった説明がありました。

そして、5人のパネリスト及びファシリテーターの佐藤教授によるパネルディスカッションが行われました。まず、佐藤教授が5人の発表を①説明責任など情報としての費用対効果の問題、②社会保険制度や地域医療システム、社会還元など費用対効果の制度全体への反映、③費用対効果で効率化された制度が時代変化に対応できるのか、という三つの視点に整理。そのうえで、まず中村准教授に提起された問題に対する意見を求めました。
中村准教授は、松山氏や小塩教授の問題提起に「新しい技術について費用対効果で評価すれば効率化には結びつくが、(その対象とはならない)生活習慣病を放置するリスクなども包括的に考えるポピュレーションヘルスは非常に重要な視点」と発言。また、"命の値段"の問題については、「倫理は重大な問題であるが、機会費用も考えなければならない。目の前で苦しんでいる患者を助けることで、目の前にいない患者を助けられなくなることも考えなければならない」と議論を深めました。
これを受け、佐藤教授は「国会で議論されている年金給付問題も、カットしなければどうなるのか、という点で全く同じ構図」としたうえで、井伊教授に意見を求めました。
井伊教授は「日本では、予算は無限と思われている感がある」と返し、費用投下に歯止めがかかりづらい中で費用対効果分析の導入は難しく、「医療関係者だけの議論では立ち行かない」と指摘しました。納税者の立場にたって、医療資源の効果的な使い方を考えるべきで、イギリスのような財政責任庁※1などの導入も検討すべきと提言しました。

続いて、松山氏は井伊教授の提言を受け、危険領域にある日本の財政が破たんした場合に社会保障問題がどうなるかについて考えておく必要性を指摘。「約30万人いる人工透析患者をどう救うかが、国民が真っ先に直面する社会保障問題」とコメントし、中村准教授に意見を求めました。
中村准教授は、「30万人の人工透析費用約1兆円は、総医療費40兆円における相対的な問題であり、1兆円の費用対効果がどれだけ優れていてもそれを支出できないバジェットエフェクトという問題があることを考えなければならない」と指摘。このことは、まず国家予算全体において医療費をどう位置づけるかが先で、それが確定した後に議論する2段階の問題でもあると言及しました。
次に、佐藤教授は小塩教授に研究基盤となるデータベース整備の内容について質問しました。小塩教授は、「どれだけのサービスにどれだけのコストがかかっているのかという相場が分かるデータと、同じ人を追い続けるパネル分析ができる環境」と回答。さらに、「費用対効果の議論は、価値判断や倫理と、お金の議論を分けて行うことが可能であり、そうすべき」と指摘。その際に「機会費用」が重要なキーワードとなり、これをできるだけ低くすることが医療制度全体の改革につながると提言しました。

佐藤教授は、次に猪飼教授にキーワードとなった「生活モデル」としての地域包括ケアの展望について尋ねました。
猪飼教授は、地域包括ケアが当初はコストを下げる手段として説明されていたものが、実はコスト的に説明がつかないものであることが分かり、「その人らしく」というキーワードに変容してきた経緯を説明。「現状ではコストの議論が置き去りになっているが、両輪で考える必要がある」と指摘しました。
最後に佐藤教授が「全体を通して、エビデンスで考える必要性が再確認できた。医療政策・経済研究センターの大きなテーマとして、今後も研究活動に取り組んでいきたい」と総括し、本フォーラムが閉幕しました。

※1「財政責任庁」
従来、政府の経済・財政見通しに政治的なバイアス(過度な楽観)があるとの批判を受けて、2010年に設立された。政府の財政・経済の見通しは全てこの財政責任庁の予測による。人事を含め政党・省庁から独立することで予測に対する信認を確保している。

一橋大学政策フォーラム 医療を問う──費用対効果に拠る政策への転換

日時:2016年12月15日(木)16:00〜(受付開始15:30)
会場:大手町サンケイプラザ301-302
主催:一橋大学社会科学高等研究院 医療政策・経済研究センター

プログラム

学長挨拶 蓼沼宏一 一橋大学長
基調講演 医療技術の経済評価──
『費用対効果』を使った政策意思決定のあり方
中村良太 一橋大学社会科学高等研究院准教授
パネル
ディスカッション
日本の医療システムのこれから──
持続可能な制度設計に向けて
パネリスト 松山幸弘 キヤノングローバル戦略研究所研究主幹
井伊雅子 一橋大学大学院経済学研究科教授
小塩隆士 一橋大学経済研究所教授
猪飼周平 一橋大学大学院社会学研究科教授
中村良太 一橋大学社会科学高等研究院准教授
ファシリテーター 佐藤主光 一橋大学社会科学高等研究院
医療政策・経済研究センター長
一橋大学大学院経済学研究科教授

(2017年4月 掲載)