595_main.jpg

佐野善作元学長(岳南先生)の書二幅〜没後72年を経て蘇った逸品〜

  • 一橋大学理事・副学長大月 康弘

2025年7月30日 掲載

書道部に眠っていた岳南先生の揮毫作品

2023年晩秋、本学卒業生である野村由美氏から連絡をいただきました。書道部(一橋大学淡成書道会)に岳南先生の書が二幅「眠っている」、学園史資料室で収蔵してはどうだろうか、というお話でした。

岳南先生とは、本学出身者として初めて東京高等商業学校長(後には東京商科大学長)となられた佐野善作先生(1873-1952)のことです。静岡県富士郡中島村(現在の静岡県富士市)のご出身。「岳南」とは、富士山(岳)の南麓(南)に広がる風光明媚な郷里のお土地柄を終生愛され、称された雅号でした。

先生は、揮毫をよくされました。その達筆は、歴代卒業生たちの記念アルバムの冒頭を飾っています。昭和2年の卒業アルバムから引用してみましょう。

「物心一如」

一説では、物(物質的なもの)と心(精神的なもの)は密接に結びついており、両方が調和して初めて真の繁栄と言える、という考え方とされるようですが、仏教思想の原義では「物にも心が籠もっていて、人と通じている」という意味になります。

実はこの昭和2年に先生は、関東大震災(大正12年)後に造営していた国立キャンパスを開設し、神田一ツ橋からの移転を実行されました。現在の東キャンパスに商学専門部と商業教員養成所を先行的に移転し、続く昭和5年に西キャンパスに本科を移しました。私たちが学ぶこの国立キャンパスは、先生の揮毫にあるように、当時の一橋人全員の心が籠められた作品でした。

静謐にして晴朗な墨痕淋漓の書二幅

さて、このたび本学に収蔵されることになった岳南先生の書二幅は、一橋大学淡成書道会が長年所有していたものでした。あいにく書道会に保存されるようになった経緯は不明ですが、実にみごとな書でした。

本学はこの二幅の書を、創立150周年記念事業の取組の一環として額装し、先生の邸宅跡地に建てられた佐野書院に掲げることにしました。

佐野善作先生の書01

設置場所:佐野書院 ホール東側中央

この書には、「去華就実きょかしゅうじつ」と揮毫されています。出典は、中国清代の詩人・沈徳潜(1673-1769)撰『唐宋八大家文読本』の序にあるとされます(典拠:渡邉将智「『去華就實』の由来に関する一考察」『就実大学史学論集』32号)。この『唐宋八大家文読本』は、わが国の明治時代の文化人に広く読まれていたものでしたので、先生もそこから引用して、見る者にその心を広く伝えようとされたのかもしれません。

「華やかなものを去り、実に就く」という意味になります。つまり、見た目の華やかさよりも、中身を大切にし、真面目に生きる生活態度を教えられたのでした。そうすることで、社会に貢献しうる人格の育成を目指すことを唱えられたというわけです。

なお、これを揮毫した年代は不明です。

佐野善作先生の書02

設置場所:佐野書院 第1室(サンルーム)西側

もう一点の書には「圓鑑無際えんかんむさい」と揮毫されていました。この語は佐野善作先生の戒名「浄光院殿圓鑑無際大居士」にも使われることになる語句でした。

圓鑑の「かがみ」には、金属の鏡という意味があります。「圓鑑」は『大蔵経』の各書にも頻出する用語で、文字通り「円鏡=丸い鏡」という意味の用語として用いられています。世の中を照らし出す円鏡、といった含意での用語法が多く見られるのです。他方、「無際」も仏教用語として頻繁に出てくる用語です。私たちの言葉遣いでは「無限むげん」の意味で使われていますが、「圓鑑無際」となると、今のところその出典は不明です。

先生のお孫さんである佐野秀太郎先生(元防衛大学校教授、現日本大学国際関係学部教授)に、戒名を授けられた総持寺へ出典について問い合わせていただきました。しかし、記録がないとのお返事だったとのこと。そして、あるいは佐野善作先生が独自に組み合わされた語句ではないか、とのご示唆をいただいたそうです。深く仏教にも通じておられた先生の面目躍如ということなのかもしれません。

なお、この書を揮毫した年代および左の為書きに見られる「岩田」の該当者も、現在までのところ不明です。

冒頭でご紹介したように、佐野善作先生は、東京商科大学長として昭和2年に、神田一ツ橋から商学専門部と商業教員養成所をまず移転させ、追って本科をも移されて、現在の国立キャンパスを全体として造営されました。

緑豊かな武蔵野の地に拓かれた「世の塵をとどめぬ」私たちのキャンパスは、佐野善作先生の二幅の書が伝える、静謐にして晴朗な心そのものです。そして、広大無辺(無際)な世界を映し出す鏡(圓鑑)を体現しているかのようです。

今も図書館と兼松講堂を見渡す場所に立つ先生。その背中を見ながら、私たちもまた、先生の顰みに倣いたいものと思います。

先生の銅像と一橋大学附属図書館 の写真

佐野先生の銅像と一橋大学附属図書館