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一橋大学と学芸員

出典:東京都美術館/「BENTO おべんとう展―食べる・集う・つながるデザイン」会場風景

2018年11月19日 掲載

一橋大学の独立大学院である言語社会研究科(以下、言社研)は、社会科学の総合大学である本学において、人文学の教育研究を任務とする研究科である。その言社研に、2002年から学芸員資格プログラムが設けられている。同科目は学部に設けられるのが一般的であるが、本学では大学院に設置した。これは、高度な専門性が求められる学芸員は、修士でなければ事実上採用されないという現状に即した措置である。さらに、学部の授業を院生も履修できる制度を活用した「ミュージアム・アドミニストレーション・プログラム(通称:MAP)」を設置し、マネジメントやマーケティングなどの知識も備えた学芸員を育成してきた。残念ながら、2012年の文部科学省令の改正にともなう履修科目数の増加により、MAPは廃止されて今に至っている。授業にその一部は継承されたが、一橋大学が提供する教育リソースを学芸員養成に活用する術については、再構築する余地は残されている。

学芸員資格課程では、資格認定に必要な9科目19単位を開講しているため、学部で当該科目を履修しなかった者にも資格取得の道が開かれている。一方、他大学で資格を取得してから本学の大学院に進学した者は、修士論文の指導に加えて、英語だけではない幅広い外国語の教育を受けることができる。学芸員という職業選択を真剣に考えている学生が集まるため、首尾一貫した指導も可能になる。2003年度から2017年度までに、本学から100人弱の学芸員有資格者を送り出しているが、うち約45%を言社研の院生が占めている。さらに、2004年から2018年6月までに32人の本学の院生が美術館や博物館、文化振興財団などのミュージアム及び関連分野に就職し、うち約80%が学芸員として採用されているという実績を挙げている。少し前のデータになるが、日本全体で見れば、1万人弱の有資格者が誕生している。しかし、学芸員としての博物館や美術館への就職は、ときに倍率が数十倍にもなる"狭き門"だ。こうした中で、15年間で32名、特に西洋美術史を専門とする小泉順也准教授が学芸員資格科目担当として着任した2012年からの6年間で、全研究科から22名が各地に就職している実績は特筆に値する。その要因として挙げられるのは、一橋大学大学院ならではの体制にある。

小泉先生

「一橋大学大学院を修了して学芸員になるというルートは知られていないかもしれません。それでも順調に実績を積み重ねています。言語社会研究科から美術館への就職者が毎年何人も出ているのは、美術史の専門教育と学芸員資格養成の両者を、一人で担当しているからだと思います。他学では通常、両者は別々に行われているので、この点が大きな特徴であり、強みになっているはずです。美術研究と美術館の最新の動向を同時に考察することで、見えてくることがあります。」と小泉准教授は言う。また、英語だけでなく、フランス語などの第二外国語の能力が付け加わると、学芸員として対応できる領域が大きく広がる。その点で、語学の授業がいくつも開講され、その専門家が集っている言社研の教育環境は最適である。さらに、言社研は学部を持たない独立大学院であるため、他大学の出身者や社会人経験者などの多彩な学生が集まり、研究分野も多岐にわたる。「芸術を研究するという行為さえも説明を要する場所に身を置くことで、他者に対して自らを伝えるコミュニケーションの能力が鍛えられます。そして、社会科学の視点から芸術の世界やミュージアムの現状を眺めるなかで、それらが成立している歴史的な経緯や制度的な仕組みにも意識が向けられます。こうした多面的な視野を獲得できる環境が備わっているように思います」と小泉准教授は現状を分析した。

開講から15年のときが経ち、各地で活躍するOB・OGのネットワークも有形無形の力を在学生に提供している。小泉准教授のゼミには、大学院に所属しながら、首都圏の美術館や研究所に学芸員などの立場で勤務する複数の大学院生が所属している。こうした環境が幅広い学びにつながっている。「ミュージアムの学芸員として働こうとするとき、学芸員資格は最低限の条件にしか過ぎません。それを形式的に学ぶのではなく、少人数の授業と実習を通して、密度の高い教育を提供することで未来への可能性が拓かれるのです。大学院生だけを対象にした学芸員養成を展開しているのは日本でもおそらく本学だけであり、極めてユニークな取り組みなのです」と小泉准教授は結んだ。

就職先などの情報は、言語社会研究科の関連サイトをご参照ください。

東京都美術館 アート・コミュニケーション係 学芸員 熊谷香寿美さん

熊谷さん

アート・コミュニケーション係は、一般的な美術館等では"教育普及係"といった名称のセクションで行われているような活動に加えて、市民や他の文化施設と協働したプロジェクトを行い、アートを媒介として人々のつながりを育み、新しい価値を社会に届けることを目指しています。たとえば、東京藝術大学とともに運営している、一般市民であるアート・コミュニケータ「とびラー」と一緒に美術館を拠点にアートを介してコミュニティを育むソーシャル・デザイン・プロジェクト「とびらプロジェクト」や、上野公園に集まる9つの文化施設が連携し、子供たちのミュージアムデビューを応援するラーニング・デザイン・プロジェクト「Museum Start あいうえの」などを手がけています。また、2018年は、7月21日-10月8日まで当美術館で開催した参加体験型の展覧会「BENTO おべんとう展-食べる・集う・つながるデザイン」の企画に携わることができました。

おべんとう展

「BENTO おべんとう展―食べる・集う・つながるデザイン」出品作品
北澤潤《FRAGMENTS PASSAGE- おすそわけ横丁》2018年

私は一橋大学法学部を卒業後、広告会社に就職し、11年ほど営業職に従事していました。広告は人々の消費を促すことが大きな目的の一つになっているわけですが、広告をつくる仕事を続ける中、「世の中は消費社会一辺倒ではなく別の選択肢もあるのでは」と感じ始めたのです。そんな頃に社会に問いを投げかけるような現代アートの作品を知り、興味を持ちました。そして9年目から、仕事と並行して、森美術館で来場者と対話しながら作品を紹介するギャラリートークのボランティア活動を始めたのです。これが非常に面白く、アートの世界の可能性を感じました。同じ創作物であっても、広告は1回きりの消費喚起メッセージであるのに対し、アートはずっと残りますし、見方は人によってさまざまだからです。美術館で働きたいと考えた時、学芸員資格が必要と知りました。当時34歳で、学部の3年に入り直し修士課程まで4年以上かけて学ぶのでは時間がかかりすぎる、と思ったところ、一橋には修士課程で当該資格が取れることが分かりました。そこで、母校に戻ることにしたのです。

企業社会では、準備をせずに打ち合わせに臨むことなど許されません。一度社会で働いてからの学び直しは、学部時代と違い、授業には準備をして臨むなど、我ながら学習態度は様変わりしました。授業そのものも少人数制が中心でとても面白く、ためになりました。

東京都美術館 事業係 学芸員 大橋菜都子さん

私が所属している事業係の担当業務は、メディアと共催する大規模な展覧会の企画・運営や収蔵品の管理などです。学芸員は研究者でもありますが、一部の専門家に向けて論文を書くといった仕事だけではなく、美術館や博物館などの開かれた場で多くの人を対象にして広く美術を紹介します。自分の性に合っていると思いますし、何よりも好きな作品のすぐ近くにいられるというところに魅力を感じています。
私は何かになりたいという考えを持たないまま、国際基督教大学に入学しました。以前から何となく美術が好きで、上京を機に美術館巡りを楽しむようになりました。そして、美術史の授業を受けてとても関心を持ち、19世紀のフランス印象派の絵画を研究対象に選びました。3年次に学芸員を目指すコースができたので履修しました。21世紀に生きる自分がなぜ19世紀のフランス美術を専門にしたのか、ひっかかるものがあったからです。せっかく現代に生きているのだから、今生きている社会と接点がある場所で研究成果を活かしたい。それには美術館がベスト、と。これが、私が学芸員を目指した動機です。

学芸員資格は学部時代に取得していましたが、狭き門である美術館に採用されるためには修士課程を出ておく必要があると聞きました。そこで、私の専門分野における日本の著名研究者の1人である喜多崎親先生が籍を置かれていた一橋大学言語社会研究科修士課程に進学しました。言社研はいろいろな大学からさまざまな背景を持った人が集まってきていて、刺激的な場所でした。さらに、2012年になくなってしまいましたが、MAPは他大学から進学した私にとってとても一橋らしい魅力的なコースでしたね。商学部の学生に交じって経営戦略論やマーケティング・コミュニケーションなどを受講しましたが、美術以外を専門とする学生とのディスカッションは、とてもためになりました。私にとって、日常的に"異文化交流"ができたことで、専門用語を使わずに作品を分かりやすく説明する学芸員のスキルを磨くことができたと思います。

大橋さん