大学と報道機関の連携で築く、新時代の知の基盤
- 一般社団法人共同通信社社長沢井 俊光
- 一橋大学学長中野 聡
2025年7月30日 掲載
※本対談は、沢井氏の社長就任(2025年6月)前に実施された。
報道機関として独立性と公益性に重きを置く共同通信社。2025年6月より社長を務める沢井俊光氏は、急速な情報環境の変化とSNSによる価値基準の転換に対し、「正確で責任ある情報こそが、今、最も求められている」と語る。2025年11月に創立80年を迎える共同通信社は、一橋大学との包括連携協定を締結。2023年に「ソーシャル・データサイエンス学部」が新設されたことを契機に、ジャーナリズムとアカデミズムの接点を探る新たな試みが始まっている。生成AIの活用や学生スタートアップとの協業、膨大なデータを活かした調査報道への挑戦など、報道の未来を見据える沢井氏と、社会科学の総合大学の長として人材育成と研究に取り組む中野学長。沢井氏の若かりし頃の仕事の話や、一橋大学とのつながりなども交えつつ、歴史や変わりゆく世界、情報の信頼性、そして若い世代への期待について語り合った。
沢井 俊光(さわい・としみつ)
1985年一橋大学経済学部卒業後、共同通信社に入社。入社後は外信部を中心にキャリアを重ね、ナイロビ支局長、イスラマバード支局長、バンコク支局長、外信部長等を歴任。その後、ニュースセンター長、編集局総務、編集局長などの要職を務め、2021年6月から常務理事。2025年6月共同通信社社長に就任。
中野 聡(なかの・さとし)
1983年一橋大学法学部卒業。1990年一橋大学大学院社会学研究科博士後期課程単位取得退学。1996年博士(社会学・一橋大学)。研究分野は地域研究、アメリカ史、フィリピン史、日本現代史。1990年神戸大学教養部講師、1992年神戸大学国際文化学部講師、1994年神戸大学国際文化学部助教授、1999年一橋大学社会学部助教授、2003年一橋大学大学院社会学研究科教授を経て、2016年一橋大学副学長。2020年一橋大学学長に就任。
好きだった数学で一橋大学進学に挑戦
中野:ご出身はどちらですか?
沢井:生まれたのは三重県なんですが、父が転勤族でしたので、その後すぐに福岡県へ移り、小学校1年からは東京です。
中野:高校は都立高校ですよね?
沢井:はい。ちょうど学校群制度(※)の時代で、私は都立富士高校に通いました。中野先生もたしか都立高校ご出身でしたよね。
中野:そうです。都立戸山高校出身です。沢井さんはどうして一橋大学に進学されたのでしょうか。
沢井:私は高校時代、バスケットボール部に所属していて、部活動中心の生活でしたので、大学受験を考え始めたのは高校3年になってからでした。どの大学を受験しようかと考えたとき、一橋大学は数学の配点が高い大学だったので、それなら好きな科目だった数学で頑張ってみようと挑戦したところ、運よく合格できたという感じです。
中野:多くの卒業生が「数学に興味があった」「数学の問題を見て一橋大学に決めた」と話してくださいます。一橋大学は文系の大学ではありますが、実際、数学ができないと合格は難しいと言われるほど、どの学部の入試でも数学の力が問われます。そうした背景が、ソーシャル・データサイエンス学部の創設にもつながっています。沢井さんは経済学部ご出身でいらっしゃいますが、どのような学生生活でしたか。
沢井:あの頃は小平キャンパスでの授業もあって、通うのが大変だったことを覚えています。当時は西武多摩湖線の本数も少なくて、乗り遅れると授業に間に合わないので、学校へ行くこと自体をあきらめるなんていう日もありました(笑)。
中野:小平は遠かったですね。小平での授業は、通学のハードルを上げていました(笑)。
沢井:ただ、ゼミには真面目に出ていました。
中野:一橋大生あるあるですね。どちらのゼミだったのですか?
沢井:谷口晋吉先生(現一橋大学名誉教授)のゼミに参加していました。私たちの学年は6、7人程度の少人数で、非常に濃密な時間でした。一橋大学に入ったからには、せめて卒論だけはきちんと仕上げたいと思って真面目に取り組んでいましたね。テーマは「戦後フィリピン経済」です。
中野:フィリピンとは、また珍しいですね。なぜフィリピンを?
沢井:谷口先生のご専門がインド経済だったので、アジア圏ならどこを選んでもよいということで、日本とのつながりが深くて英語文献が豊富なフィリピンを選びました。締め切り前の数か月間は本当に大変で、国立国会図書館に通い詰めて、文献をひたすら読み込んだことを覚えています。
中野:卒業後の一橋大学との縁ということで、沢井さん個人として何か印象に残っていることはありますか?
沢井:ワシントンに赴任していたときに、現地で開催された如水会(一橋大学の同窓会組織)の集まりに誘われて参加したことがあります。海外にいるときに、同じ一橋大学出身の方々と交流できることは本当にありがたいことでしたね。その後、日本に戻ってからも、やはり如水会でのつながりがいろいろな場面で役に立っています。
中野:それは嬉しいお話です。4年間の大学生活というのは、卒業して時間が経つにつれて、どうしても過去のものとして遠ざかっていくように感じられがちです。しかし、卒業生に話を聞いてみると、卒業してからもさまざまな場面で「一橋大学で良かった」と思えるような経験を多くの人がしているようなんです。
ある日ふとした再会や出会いの中で、一橋大学を強く思い出す瞬間がある。それが積み重なって、一橋大学のコミュニティができあがっているように思います。一橋という大学は、卒業してしばらくしてから「じわじわ効いてくる」大学なんですよ。
※学校群制度:同一学区内の2~4校の高等学校で「群」を編成し、受験生はその群を選択・志願して入学試験を受け、学力に応じて郡内の高等学校に振り分けられる、という制度。高等学校間の学力格差を解消する目的で導入された入試実施方法の一つで、東京都では1967年度から1981年度まで採用・実施された。
現場で得た「チャンスは二度はない」という記者信条
中野:大学時代、学業以外に打ち込まれたことはありますか。
沢井:打ち込んだというか、学生時代はさまざまなアルバイトをしていました。家庭教師や塾講師はもちろん、ウェイター、皿洗い、さらには六本木でDJをしていたこともあるんですよ。そのうちの一つが、通信社でのアルバイトでした。
中野:それが、記者を志すきっかけになったのですね。
沢井:そうなんです。大学3年の秋から始めた通信社でのアルバイトが面白くて。それまでマスコミの世界に興味はなかったのですが、この仕事をやってみたいと思うようになりました。当時のアルバイトは、社会部の記者が電話で読み上げる原稿を、原稿用紙に手書きで書き取るという仕事でした。1年近く働いたので、記者の方に可愛がってもらって、いろいろな話を聞かせてもらったんですね。海外で仕事がしたいという思いもありましたので、通信社で記者として働く道を選びました。
中野:沢井さんは、かなり早い時期から海外赴任をされていますよね。
沢井:最初に海外に出たのは32歳くらいの時で、ナイロビに赴任しました。1995年から98年までの約3年間。ちょうどその頃は、ルワンダで大虐殺が起きた直後で、南アフリカではアパルトヘイトが終わり、ネルソン・マンデラ大統領が誕生した激動の時期でした。アフリカから世界に向けて伝えるべきニュースが多く、本当にやりがいを感じました。
中野:厳しい環境だったとも言えるのではないですか?
沢井:ナイロビでの暮らし自体は比較的快適でしたが、取材に出掛ける場所はなかなか過酷な環境でした。当時はナイロビ支局が東アフリカ・中部アフリカを担当していまして、私一人で35か国中20か国近く回ったと思います。飛行機での移動が多く、まさに取材で飛び回る日々でしたね。
忘れられない失敗談もあります。スーダンの総選挙を取材するために首都ハルツームを訪れたときのことです。当時、イスラム過激派指導者のウサマ・ビンラディンがスーダンに潜伏していると言われていて、私は密かにインタビューの機会を狙っていました。なんとか接触できないかと情報を集め、地元の運転手を雇って手掛かりを探しました。その運転手が、政府要人ともつながりがある人物で、なんとビンラディンが滞在しているとされる邸宅に連れて行ってくれたんです。門を叩くと、秘書を名乗る人物が出てきて、ビンラディンにインタビューさせてほしいと伝えると、「今夜君が宿泊するホテルに行くから待っていてくれ」と言われました。
ところが、夜になって現れたのは先ほどの秘書と名乗る人物一人だけで、「ビンラディンはイスラム教徒以外の取材は受けない」と告げられました。それに対して私は「ちょっと待ってくれ」と言えず、彼を帰らせてしまったんです。その直後、ビンラディンはアフガニスタンに移り、以降は接触不可能になってしまいました。
あの時、私はビンラディンに最も近い場所まで行った日本人だったと思います。しかし、結局インタビューできなかったという事実は、今でも強い悔しさとして残っています。若い人たちに伝えたいのは、「チャンスは二度はない」ということです。チャンスは一度きり。それが目の前に現れたときに、迷わず手を伸ばしてつかまないと後悔することになります。記者としてさまざまな経験をしてきましたが、今でも悔しい思いをしています。
中野:その経験がその後のキャリアにも影響していますか。
沢井:そうですね。「チャンスは二度はない」ということは、肝に銘じて仕事をしてきました。本当に同じ失敗を二度していないかと問われると、少し自信がない部分もありますが、この経験は、記者としての姿勢に影響を与え続けていますし、若い人たちにもぜひ伝えていきたい教訓だと考えています。
変わる時代に、変わらないものを守り抜く
中野:沢井さんは、アフリカやアジアといった現場での取材経験を積まれた一方で、2004年にはアメリカのワシントン支局に移られています。ちょうどジョージ・W・ブッシュ政権の1期目が後半に差し掛かっていた頃ですね。私も当時ニューヨークにいました。超大国・アメリカの中枢でのお仕事は、どのようなものでしたか。
沢井:ワシントン支局にいた3年のうち、前半は記者として議会や大統領選挙などを取材し、後半はデスク業務を担当しました。当時はイラク戦争が始まり、ブッシュ政権への批判も強く、国内外の緊張が高まっていた時期です。グアンタナモ収容所に代表されるような、テロ容疑者への過酷な尋問手法や長期拘束が問題になり、国内でも激しい議論が巻き起こっていました。
中野:私はこの頃、毎年、アーリントン国立墓地で行われるベテランズデイ(退役軍人の日)の式典に行っており、イラク戦争で亡くなった兵士たちの墓標が年々増えていく様子を目の当たりにしてきました。ブッシュ政権への批判はある一方で、愛国主義や、軍人とその家族に対する敬意が社会の根底にあることを感じました。沢井さんは、記者からデスクを経験された時期でもあったのですね。現在はマネジメント側のお仕事をされているわけですが、いかがですか。
沢井:最初は「自分がその役割を担うのか」という戸惑いもありました。現場の記者時代が一番仕事に没頭できたし、幸せだったと思います。でも、年次が上がると、やはり誰かがマネジメント業務を担わなければならない。これも役割として受け止めてやってきました。
中野:大学教員も似ています。プレイヤーから管理職、そして経営側へ、だんだんと視点を変えていく必要があります。
沢井:私たちメディアは、何よりジャーナリズムを守る責任があります。そのためには、経営的な視点も欠かせません。通信社としての独立性と公益性を堅持しながら、持続可能な体制をどうやって築くか。今まさに試されているところだと思います。
中野:社長に就任されるということで、いかがですか。
沢井:正直なところ、まだ実感が湧いていないというのが本音です。ただ、現在のメディア業界全体を見渡すと、経営面だけでなく、取材・編集などの実務においても従来のやり方が通用しなくなっているのを痛感しています。ですから、自分が社長としてその変化に向き合い、新たな取り組みについて責任を負うというのは、やはり大きなプレッシャーでもあります。
中野:今の時代、「守ること」と「変えること」の両立が求められる局面が本当に多いと感じます。とても難しい舵取りですよね。
沢井:はい。ただ、誰かがその役割を担わなければいけないというのも事実です。伝統的な報道の価値を守りつつ、新しい技術や社会の流れに対応し、少しずつでも変化を積み重ねていくという、まさに「ひとつひとつ、社会を変える。」という一橋大学創立150周年のステートメントを、自ら実践していかなければならないと感じています。
アカデミアとメディアの連携で、社会を前に進めていく
中野:2025年1月28日、共同通信社と一橋大学は包括連携に関する協定を締結しました。大きなきっかけとなったのは、ソーシャル・データサイエンス学部の創設です。データというものが広く活用されるようになったことで、その量や質、アクセスや分析のスピードにおいて飛躍的な変化が起きています。量的変化があまりにも大きいために、社会全体の「質の変化」さえも引き起こしているのだと感じているところです。
こうした状況の中で、ソーシャル・データサイエンティストを育てるアカデミアと、マスメディアである御社との連携を通じて、具体的な可能性が見出されることを願っています。やがてそのシーズが、一橋大学の基盤である商学・経済学・法学・社会科学の諸分野へと広がり、御社との新たな連携の形も生まれてくるのではないかと期待しているところです。
沢井:ちょうど当社の創立80周年と重なったこともあり、大きな節目として位置づけられる提携事業でした。当社では、ソーシャル・データサイエンス学部の知見を活かし、「データ調査報道部」の創設も進めています。これは、データをもとに調査報道を行う新たな試みで、2025年秋の立ち上げを目指しています。生成AIや自然言語処理技術の応用、さらには一橋大学のスタートアップに関わる学生との連携など、大学の知見とメディアの実務を融合させる場を育てていきたいと考えています。一橋大学とは、単に人材育成という枠にとどまらず、社会をより良い方向へと一歩ずつ変えていくパートナーとして、今後さらに協働し、関係性を深めていきたいと考えています。
中野:ところで、昨今はSNSや生成AIの普及によって「正しさ」よりも「影響力」が情報の価値を決める時代になっているように感じます。その点についてはどうお考えですか?
沢井:非常に難しい問題です。SNSで拡散される情報の中には、事実に基づかないものや誤情報も多く含まれています。我々はプロのジャーナリストとして、取材と裏付けを経た情報のみを伝える立場です。その姿勢は揺るぎません。ただし、現実問題としてSNSでの発信力に押されてしまっているのも事実で、信頼される情報の価値をいかに再認識してもらえるかが、今後の大きな課題です。
中野:アカデミアも同様の悩みを抱えています。情報の「質」ではなく「バズるかどうか」が問われる時代になっていますよね。
沢井:フェイクや感情に流された情報であっても、発信力が強ければ社会に与える影響は極めて大きい。だからこそ、私たちメディアが守るべき一線、すなわち、真実を伝えるという姿勢だけは、決して譲ってはならないと考えています。私たちの役割は、単に記事を届けることにとどまりません。社会に分断が広がる今、正確で公平な情報を守り抜くことも、報道機関としての重要な使命です。これからも、通信社として独立性と公益性を堅持しながら、時代の変化に即した新しい情報発信のあり方を模索し続けていきたいと考えています。
中野:今回の包括連携協定では、一橋大学発のスタートアップ企業にも活躍してもらっています。最後に、若い世代にメッセージがあれば、お願いします。
沢井:包括連携協定の締結前から、一橋大学発のスタートアップ企業や、学生と接する機会が増えていました。本当に皆さん真面目ですし、よく考えて行動されているなと感心しています。私の学生時代とは比較にならないくらい、しっかりしている(笑)。
偉そうなことは言えませんが、やはり若いうちは "幅広く吸収する"ことが大事だと思います。少し難しそうなこと、ハードルの高そうなことにも挑戦して、教養を深め、視野を広げておいてほしいですね。AIが進化しても、人間にしかできない思考や創造性は残ると思っています。だからこそ、これからの時代の人間には、教養と経験の蓄積がますます必要になるのではないかと感じています。
私は、現場の記者としてスタートし、多くの失敗や後悔を経験しながら、少しずつここまで歩んできました。大きな声では言えませんが、「間違えてたどり着いた場所かもしれない」と思うこともあります。それでもなお、「自分だからできることがある」と思えるのは、多くの人との出会いや、現場での経験があったからです。
これから先、私たち共同通信社がどこへ向かうのかは、簡単には見通せません。けれども、確かなことが一つあります。それは、事実に向き合う姿勢と社会をより良くしようとする意志は、いつの時代も変わらず必要とされる、ということです。一橋大学との新たな連携も、まさにその意志の一つの形です。知を携え、事実をもって社会に応答する。この営みを、次の世代へと受け継いでいくことが、私たちにできる最大の貢献だと思っています。
中野:そうですね。本学としても、今後も御社との連携をさらに深め、さまざまな分野での協働を推進していきたいと思います。本日はありがとうございました。