司法制度改革を経て広がる 社会における弁護士の活動領域
- 日本弁護士連合会会長/弁護士渕上 玲子
- 弁護士/社会福祉士中山 ひとみ
- 一橋大学理事・副学長野口 貴公美
2024年12月26日 掲載
2024年4月、女性で初めて日本弁護士連合会(以下、日弁連)会長に就任した渕上玲子氏は、一橋大学法学部出身。弁護士、検事、裁判官の法曹三者で、トップに女性が就くのは初めてのことだ。同じく一橋大学法学部出身の弁護士であり、社会福祉士でもある中山ひとみ氏は、第二東京弁護士会副会長、日弁連常務理事等を経て、現在は一橋大学法科大学院で教鞭もとる。今年は、一橋大学に初めて女子学生が入学してから75年、また法科大学院設立20周年を迎える。さらに、来年、一橋大学は創立150周年を迎える節目の年でもある。専門的知見を活かしながら社会で先導的な役割を果たしてきた渕上氏と中山氏に、一橋大学での思い出や、弁護士の仕事、後輩へ伝えたいこと等について、野口貴公美副学長が話を伺った。
渕上 玲子(ふちがみ・れいこ)
1977年一橋大学法学部卒業。1983年弁護士登録(司法修習第35期)。2017年東京弁護士会会長、日本弁護士連合会副会長を経て、2020・2021年度日本弁護士連合会事務総長。2024・2025年度日本弁護士連合会会長に就任。
中山 ひとみ(なかやま・ひとみ)
1985年一橋大学法学部卒業。1991年弁護士登録(司法修習第43期)。2008年社会福祉士登録。2011年度第二東京弁護士会副会長、2013年日本弁護士連合会常務理事を経て、複数社の社外取締役や政府の専門家会議で委員を務めるなど、活動は多岐にわたる。
野口 貴公美(のぐち・きくみ)
1994年一橋大学法学部卒業。1996年一橋大学法学研究科修士課程修了、1999年一橋大学法学研究科博士課程修了。研究分野は公法学、行政法。法政大学助教授、中央大学教授を経て、一橋大学教授。2022年一橋大学副学長、2024年一橋大学理事・副学長に就任。
ゼミと卒論は、今も変わらぬ一橋の伝統
野口:学内外から、いつかは実現してほしいと言われ続け、私もいつか実現するといいなと思っていた企画が今回、HQで実現したことを大変幸せに思っております。私も法学部の出身ですが、当時、周囲に司法試験を受ける女子学生は多くはいなかったように思います。お二人はどのような経緯で司法試験を目指し、一橋大学でどのように学ばれたのでしょうか。
渕上:私は1977年に法学部を卒業しているので、もう47年も経っているのですね。当時、法学部生は1学年140人でしたが、女性は5人しかおりませんでした。私自身は竹下守夫先生(一橋大学名誉教授、故人)のゼミ(民事訴訟法)に入っており、ゼミテン(※)のほとんどは司法試験を受けるつもりで法学部に来ていたように記憶しています。
※ゼミテン:一橋大学で「ゼミナール受講生」を意味する言葉で、ゼミナリステン(Seminaristen)の略称。
野口:渕上さんは司法試験を受けるつもりで入学されたのですか。
渕上:もともと裁判官になりたいと思っていたのです。子どもの頃、家庭裁判所で戸籍の名を変更する手続をした経験があり、法曹界におぼろげな憧れを抱いていました。また、生涯仕事をしていきたいという動機もあったため、高校生の頃から一貫して法曹を目指していました。一橋大学という名前がすごくすてきだったことも、入学を決めた理由の一つです。
野口:司法試験を目指すなら竹下ゼミと言われていましたね。
渕上:十数人いたゼミテンの半分以上は弁護士になりました。
野口:どのようなゼミでしたか。
渕上: 3年生の時は判例研究といって、訴訟として検討点のある判例を一つずつ勉強して、4年生になると外国語の文献講読が中心だったように記憶しています。必ず卒論を書かなければいけないというのが一橋大学のルールでしたので、あまり司法試験の勉強はしていなかったと思います。
野口:今も変わりなく、卒論は卒業の必須要件です。
渕上:そうですか。卒論を書くために、あの古い図書館に通いつめました。
野口:図書館の建物も当時のままです。中山先生はどのような学生時代を過ごされましたか。
中山:私は司法試験のことは何も考えていませんでした。一橋大学に入学した理由も、英語と数学の配点が高かったことと、キャンパスを見てすてきだと思ったことがきっかけです。私の学生時代は法学部生が1学年170人の時代ですが、女性は3人でした。他学部と合わせても女性は33人。学部関係なく女子学生のつながりが強く、それはそれで楽しかったですね。
私の学生生活は、スキー部での活動が中心でした。とにかく明けても暮れてもスキー。毎月のように合宿があり、12月からは試合が始まります。試験のために東京に帰ってきて、試験が終わった2月末から4月初めまでまた合宿。普段は週に3回ぐらいグラウンドや学校の周りをずっと走っていました。
さすがに大学に来たのだから大学生らしいことをしようと、2年生で「法と精神分析の交錯する領域」というタイトルに惹かれて 秌場
準一先生(現:一橋大学名誉教授)のゼミに入りました。難しいテーマだったけれど、ゼミテンもいろいろな学部から来ていて、面白かったですね。
野口:そこが前期ゼミの良さですよね。
中山:後期は川井健先生(一橋大学名誉教授、故人)のゼミです。他のゼミに比べて人数が多かったですね。ゼミは大事にしなければいけないというのが一橋大学の伝統だと思いますが、私はスキーのほうが大事だったので合宿があると休んでいました。後にOB会で川井先生とお会いした時は、開口一番、「あなたはよく走っていましたね」と言われたくらいでした。
司法試験を目指したのは、当時、四大卒の女子学生は就職が非常に厳しかったからです。男子学生には就職案内が腰の高さになるほど来ていたのに、私のところに送られてきたのはたった2冊。しかも「四大可」と書かれていて、四大卒でもいいよという企業が何社かあるといった時代でした。女性の友人の中には大変な思いをしながら就職をした人もいましたが、私には難しく感じて、資格でもとろうと考えての司法試験の受験でした。そんな動機でしたから、合格するまで本当に苦労しました。
1000人を超える弁護士が集った東日本大震災支援
野口:弁護士になられてからの活動についてお聞かせください。
中山:弁護修習で配属されたことが縁になってその事務所に就職しました。最初の数年は訴訟を中心に経験を積み、事務所が公益活動にも熱心だったことから、弁護士会の法律相談センターなどの活動にも取り組みました。
その延長で第二東京弁護士会の副会長になることが決まり、会館に役員就任予定者が集まって打ち合わせをしていたときに、東日本大震災が起こりました。激しい揺れの中で、我々の仕事は例年とは全く違うことになる、大変な年度になると覚悟を決めました。
すぐに東京三弁護士会(東京弁護士会/第一東京弁護士会/第二東京弁護士会)で災害の復旧復興本部を立ち上げ、渕上さんが本部長代行、私が事務局長になり震災対応に当たりました。現地に視察へ行き、現地の弁護士会と協議をしたり、東京から多くの弁護士を相談員として派遣したり。通常業務も忙しいのだけれど、それに加えて未曽有の災害に対応するということで、渕上さんもご苦労されたと思います。本当に突っ走った1年でした。
これが転機になったのか、公職の就任依頼が多くなりました。総務省の行政不服審査会では野口さんともご一緒しましたね。厚生労働省の関係では、新型コロナウイルス感染症対策専門家会議の立ち上げから参加し、その後の分科会の委員も務め、今は新型インフルエンザ等対策推進会議の委員をしています。企業の社外取締役も務めています。弁護士は自分で仕事を選ぶというより、その時に来たものを受け入れていく仕事だなと思うんです。とにかく目の前にあるものを一生懸命やっていると、いろいろなところに連れて行ってもらえる仕事だと感じています。
野口:東日本大震災の時のご経験を振り返ってお話しいただけますか。
渕上:中山さんとはずっと一緒に動いていましたね。福島県のいわき市に行った時も、電車が通っていないからマイクロバスを手配して行って。現地で余震があり、大変でした。仙台へ向かう新幹線も通っておらず、飛行機の臨時便に乗って上空から被災地を見た時のすさまじさは忘れられません。
中山:仙台空港の滑走路の両脇がひどい状態でしたね。
渕上:これは何かしなければならないと強く思うきっかけの一つになりました。東京三弁護士会は人数も多く、意欲的な若手弁護士も多かったので、岩手県の沿岸部の被災地に派遣して現地の弁護士たちを支える活動をしましたね。
中山:これは弁護士が増えたからこそできたことだと思っています。1995年の阪神・淡路大震災の時も東京の弁護士有志がボランティアとして支援活動を行ったのですが、東日本大震災の時は東京三弁護士会が組織立てて支援活動を行いました。被災地に行く弁護士の保険、宿、交通手段等の手配もすべて弁護士会が行いました。被災地支援のために開いた説明会に、1000人を超える弁護士が集まったんですよね。
渕上:阪神・淡路大震災の時は、大阪弁護士会が電話相談をやったんです。これが非常に有効だった。東日本大震災の時は、仙台も大変な状況でしたから、東京がやるしかないと、電話相談の研修のための説明会を開いたのでしたね。
中山:1000人を超える弁護士が集まり、そこには、みんなの「何かしたい」という思いがあふれていましたね。
野口:思いを束ねて組織化し、実動させていくには組織的な手立てが必要です。素早く決断して動き出された、その原動力はどこから来ているのでしょうか。
渕上:私は阪神・淡路大震災の後、2004年に東京における災害復興まちづくり支援機構を立ち上げて、最初の代表になりました。阪神・淡路大震災のような地震が首都直下で起きるという想定の中、法律相談センターを中心としてある程度のグループ化はされていました。そういう意味で、弁護士会に素地はあったんです。とはいえ、東日本大震災が起こった後はずっと休みなしで動いていました。
社会のあらゆる場面で、弁護士の活躍の場が広がっている
野口:弁護士のお仕事は、訴訟や調停のイメージがとても強いのですが、私たちからはよく見えていない部分にも、弁護士のお仕事が広がっていることがわかりました。
渕上:弁護士という職業も変遷しています。訴訟中心の時代があり、一般市民には相談のハードルが高い存在だと言われていました。司法制度改革により弁護士の数が増えたことで、災害時に対応できる若手弁護士がたくさん生まれました。法テラス(日本司法支援センター)ができ、誰もが法律相談が受けられる仕組みができ、紛争の予防も弁護士の仕事の一つの柱となりました。
また、インハウス、つまり企業や自治体などの中でコンプライアンス等を伝えていく役割を担うなど、さまざまなフィールドで活躍する弁護士が生まれています。
中山:学校や教育委員会に対して法的側面から助言を行うスクールロイヤーという仕事もあります。渕上さんがおっしゃるとおり、社会のあらゆる場面で弁護士がお役に立てる時代になってきたと感じています。
野口:司法制度改革の中でロースクールができて、一橋大学にも法科大学院ができました。法学部にとっては大きな転機だったと言えますが、この動きをどのようにご覧になっていましたか。
中山:私はロースクールの医事法の授業の中の1コマで患者側弁護士としての経験をお話する機会をいただいています。医事法という、司法試験には関係のない科目なのですが、皆さんとても熱心に受講されていて、熱意を感じます。司法試験の合格率も非常に高いということなので、先輩としては誇らしく思っています。ぜひいい伝統を引き継いでいってほしいと思っています。
渕上:法学部は1学年170人とこぢんまりとした学部ですが、そのような大学がロースクールを持つということは、えらく大変なことではないかと当時は思っていました。しかし、当初から合格率が高く、これはこぢんまりとした大学だからこそ、学生を丁寧に扱えるのだと思って見ています。
野口:今後は法科大学院の卒業生も、如水会というキーワードでつながることを考えていきたいですね。おふたりは国立においでになることはありますか。
中山:私は、授業の時と花見の時期に国立へ出かけます。
渕上:私はいつ行ったのが最後かしら。遠いので随分行っていません。ただ、裁判で立川支部に行く際には、国立駅は通ります。
中山:国立の駅も街も変わりましたね。懐かしい名前も残っているけれど、新しいおしゃれな若い人向けのお店もあって、随分昔の雰囲気とは違うなと思います。
多様な人材を迎え、多様な人材を世に送り出す大学であれ
野口:一橋スピリットがお仕事に結びついていると思われることはありますか。
渕上:振り返って考えてみると、法学部にいながら経済学部や社会学部の授業を受けられたことは身になっていると感じます。どんな職業に就いたとしても、一橋大学で学んだことは役に立っているのではないかしら。私たちの時代は一橋大学を受験する高いハードルとして英語と数学がありました。そこを突破した私は、数字に強い弁護士だと勝手に言っているんですよ。
中山:一橋大学は小規模なので、ほかの大学と比べると人と人との結びつきが強いと感じます。社会に出ても「同窓です」と声をかけられると、それだけでぐっと距離が縮まります。ゼミの話ができると、もっと近くなる。そこは一橋大学の強みの一つではないでしょうか。私はこれまで、大学の友人や先生にとても支えられてきました。人と人の温かさがある大学だということは、ずっと思っています。
野口:私も、学部生の頃、竹下先生や川井先生に教えていただきました。年代を超えてゼミのお話が共通の話題にのぼることは嬉しいことで、大切に引き継いでいきたい一橋大学の良い伝統ですね。
渕上:東京弁護士会会長になった時は竹下先生が法務省の特別顧問をされていて、とても喜んでいただきました。今回、日弁連会長になったことは、ご家族が墓前にご報告くださったと伺いました。それだけ長くお世話になり、期待していただいた結果を出せたのかなとは思います。
中山:弁護士になった後、川井先生から職場にお電話をいただいたことがあります。何事かと緊張して出たら、自動車製造物責任相談センターの理事をやってもらいたいと言われたんです。当時、川井先生が理事長でいらしたので、数年間ご一緒させていただきました。学部時代は劣等生だった私に声をかけてくださったことは、非常に嬉しいことでした。
野口:それぞれの先生に学恩をお返しになれた、とてもすてきなエピソードですね。一橋大学は来年創立150周年を迎えます。中野学長が掲げているステートメントは、「ひとつひとつ、社会を変える。」。おふたりのお仕事は、ひとつひとつ社会を変え、良くしていくことの積み重ねだと思います。
渕上:2026年には、弁護士制度(※)発足から150年を迎えます。その1年前に一橋大学ができているのですね。どういう時代だったのでしょう。
※明治時代(1876年2月)に、現代の弁護士制度の基礎となる代言人制度が導入された。これにより、日本は法の支配に基づく社会を目指す第一歩を踏み出したと言える。
野口:弁護士制度150周年に向けて、何か準備をされているのですか。
渕上:ええ。当時の世相を振り返ってみたいと考えています。
野口:一橋大学も新しい学部ができたり、留学生が増えたりして、変わってきています。今、一橋大学で学ぶ学生に、先輩としてメッセージがあればぜひいただきたいと思います。
中山:私は自分の卒業式には出ていないのですが、如水会の理事だったときに来賓として列席させていただいたことがあります。驚いたのは、女子学生の多さです。こんなに増えたんだと嬉しかったことを覚えています。男性はもちろんですが、女性の皆さんには特に頑張ってほしいなと思っています。
学業に関して偉そうに言えることはありません。ただ、比較的時間のある学生のうちに、本をたくさん読んでおくことをおすすめします。そして、何でもいいので打ち込めるものを見つけて欲しいと思います。その経験が、将来困難にぶつかったときに、きっと助けてくれると思います。また、短期でもいいので、一橋大学の充実した留学制度を利用して学生時代に日本を離れる経験をされるのも良いと思います。私の頃にはそのような制度はなかったので、私にはその経験がありません。今の学生のみなさんが羨ましいです。
渕上:ダイバーシティの中核はジェンダー平等であることを忘れてはいけないと思っています。私たちの時代の一橋大学は男性社会でしたが、時代を経て、これからどんどん多様な人材を迎え、多様な人材を社会に送り出す役割を果たしていかれることを期待しています。また、男女問わず「ひとつひとつ、社会を変える。」が一橋大学の精神であるのなら、法曹界のみならず、経済界、あるいは行政など活躍の場はたくさんあります。さまざまな分野で一橋大学出身の多様な人材が活躍されることを期待しています。
野口:本日は貴重なお話をありがとうございました。