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コントロールできないことに遭遇することが人生。若い人には、生き急がずに、あえて寄り道を経験してほしい

  • 三井住友銀行 頭取CEO福留 朗裕
  • 一橋大学理事・副学長大月 康弘

2023年12月27日 掲載

2023年4月に三井住友銀行頭取に就任した福留朗裕氏。2024年4月からは全国銀行協会の会長にも就任することが内定し、まさにわが国のトップバンカーとして活躍中である。三井住友銀行における5か所・16年間の海外勤務を通じて、アジア通貨危機、リーマン・ショックを経験し、転出先のトヨタファイナンシャルサービスではサブスクリプションサービス「KINTO」の立ち上げに携わるなど、ユニークなキャリアの持ち主でもある。そんな福留氏と、大学同期の大月康弘理事・副学長が、体育会やゼミでの経験、これからの若い世代に期待することなどについて大いに語り合った。

福留 朗裕氏 プロフィール写真

福留 朗裕(ふくとめ・あきひろ)

1985年3月一橋大学経済学部卒。1985年4月株式会社三井銀行入行。株式会社三井住友銀行本店上席調査役 カナダ三井住友銀行 社長兼米州営業第一部部付部長(トロント)兼米州営業第三部部付部長(トロント)、市場資金部長、本店営業第六部長、執行役員本店営業第六部長、常務執行役員 名古屋営業部担当等を経て、2018年トヨタ自動車株式会社常務役員 販売金融事業本部本部長、トヨタファイナンシャルサービス株式会社代表取締役社長に就任。2021年株式会社三井住友銀行専務執行役員、株式会社三井住友フィナンシャルグループ執行役専務に就任。2023年株式会社三井住友銀行頭取CEOに就任。

大月 康弘氏 プロフィール写真

大月 康弘(おおつき・やすひろ)

1985年3月一橋大学経済学部卒。一橋大学経済学部助手、成城大学経済学部講師、同大学経済学部助教授を経て、1996年一橋大学経済学部助教授。パリ第一大学客員研究員、一橋大学大学院経済学研究科助教授を経て、2006年一橋大学大学院経済学研究科教授。2015年経済学研究科長、2018年一橋大学附属図書館長等を経て、2020年一橋大学理事・副学長。専攻分野は、経済史、西洋中世史、地域研究。

地元・岐阜を飛び出して、
国立という街で学生生活を送りたかった

対談の様子01

大月:今日はお忙しい中、取材に応じてくださりありがとうございます。まずは福留さんのご経歴から教えていただけますでしょうか。ご出身は岐阜県だそうですね。

福留:生まれも育ちも岐阜県岐阜市です。引越しなどもなく、ずっと同じところに住んでいました。高校は県立の岐阜高校です。大学進学にあたってはまず「岐阜を出たい」と考えていたのです。岐阜高校からは名古屋大学に進む人が多かったのですが。

大月:名古屋大学ですと、自宅から通えますね。

福留:しかしながら、私は東京の大学を受験しようと考えました。数学は得意なほうでしたが、文系・理系で分けるなら「自分は文系だろう」ということで、一橋大学を候補に選びました。そして高校2年生の夏休みに、国立に下見に行きました。実は都立国立高校が夏の甲子園に出場する(1980年)まで"くにたち"という読み方は知りませんでした。降り立った国立の街は素敵な場所で、「ここで学生生活を送りたい」と思いましたね。つまり岐阜を出るため、そして国立の街で学生生活を送るために一橋大学を選んだわけです。

大月:ご両親の反応はいかがでしたか。

福留:父も国立大学出身で、国立大学に対する強いこだわりを持っていました。これはあくまでも当時の風潮の中での話ですが、父としては「国立でなければいかん」と。厳しい制限を受けまして、私立の受験は1校1学部のみで、国立は一橋大学の一択でした。一生懸命勉強をして入りました。

アイスホッケー部の活動を支えるための
アルバイト経験が、現在に活きている

対談の様子02

大月:経済学部に入られて、アイスホッケー部に入部されたのも1年生の時でしょうか。

福留:そうですね。実は、初めに練習を見に行ったのはバスケットボール部でした。中学・高校とやっていたのです。ただ、ものすごく背の高い学生がたくさんいて、ハードな練習をしていたので圧倒されました。比較的身長が低い人が任されるポイントガードでも、私より大きい。これはもう通用しないと思って、すぐに諦めました。そこで、誰もが同じスタートラインに立てるスポーツをやろうと考え直し、アイスホッケー部を選びました。アイスホッケー部の部員はほとんど素人からスタートしていましたから、「4年生になるまでには試合に出られるようになるだろう」と。

大月:そうだったのですね。当時アイスホッケー部は何名ぐらいで活動していたのですか。

福留:私の同期は7名です。部全体で、20名ぐらいだったと記憶しています。これは入部してから分かったことですが、当時アイスホッケー部は創部9年目の若い部だったのです。歴史ある名門部に比べて卒業生が少なかったので、財政的に厳しかったですね。アイスホッケーはお金がかかるのですが、リンクを借りるにも防具などを揃えるにも、自分たちでアルバイトをして賄っていました。アルバイトのお金はすべて部活のために使い、合宿の費用にも充てましたね。

大月:かなりアルバイトを経験されたと伺っております。その辺りのお話も教えていただけますか。

福留:家庭教師のアルバイトをベースにしながら、製パン工場のライン作業に入ったり、プロ野球の球場でボール拾いをしたり、夜間はコンビニエンスストアでレジを担当したり...。本当にいろいろですね。アルバイトをしていた企業の経営者の方々と今になってお会いしたときに、当時の話をするととても喜んでくださいますよ。

大月:それは喜ばれるでしょうね。

福留:まだあります(笑)。宅配便の配送所のアルバイトもしていたので、いずれ経営者の方にお会いしたときにはその話をするつもりです。そうやって部員間で分担しながら活動費を工面していたアイスホッケー部でしたが、今年(2023年)創部50周年を迎えました。先日は記念会に参加してきました。私を含め支援する卒業生が50年分いるわけですから、今の部員の皆さんは恵まれていると思いますよ。

大月:50周年は素晴らしい。私のゼミにもアイスホッケー部の諸君が入ってきますが、みな素晴らしい学生たちで感心しています。今後もアイスホッケー部が発展していくことを願うばかりです。

国際経済を学ぶために入った
池間 誠先生のゼミ

対談の様子03

大月:ところで福留さんは、3年次に池間 誠先生(一橋大学名誉教授、故人)のゼミに所属しておられましたね。

福留:選んだ理由は三つあります。まず、漠然と「インターナショナル」というものに憧れを持っていたので、国際経済学がご専門である池間先生のゼミに入りたいと思いました。また、池間先生は当時若手でしたので、その点にも魅力を感じました。三つ目は...私のように成績がパッとしない学生でも、池間ゼミは受け入れてくれたからです(笑)。

大月:それはそれは。

福留:アイスホッケー部の2年上の先輩が池間ゼミに入っていて、面接のコツを教えてくれました。池間先生は体育会の学生がお好きだったので、先輩のアドバイスをもとに面接でうまくアピールしたら、ゼミに入れてくださいました。

大月:私はその頃、池間先生には授業でお世話になっていました。ちなみに池間先生は、後に柔道部の部長をお務めになりました。われわれの頃は荒 憲治郎先生(一橋大学名誉教授、故人)でしたが、荒先生が1989年に退官されたあと引き継がれて、2005年まで部長をお務めでした。その後を私が引き継いでいるのです。

福留:そうでしたか。

大月:先ほどアイスホッケー部の50周年記念会に出席されたと伺いましたが、池間ゼミの卒業生の会は頻繁にやっていらっしゃったのですか。

福留:やっていたのでしょうけれど、私は海外駐在が長かったのでほとんど出席できませんでした。参加できたのは2、3回でしょうか。池間先生が亡くなられてから、しばらく途絶えていたようです。ただ、最近徐々に再開しているようで、先日も、面識のない卒業生の方からゴルフコンペのご連絡をいただきました。私が何かの取材で池間ゼミ出身であることを話していたからでしょう。機会があればぜひ参加したいと考えています。

ゼミで学んだ知見を活かすために
金融の世界へ

対談の様子04

大月:福留さんの就職活動は1984年ですね。もともと金融を志望されていたのですか。

福留:いえ、業種や職種を絞る決断はできませんでした。当時の日本は、半導体、自動車、家電などさまざまな分野で世界を制していましたが、「このプロダクトに一生を賭ける」という決意が固まらなかった、というのが正直なところです。たとえば自動車業界に進むとして、「クルマに一生を...!」と思えるほどクルマ好きかと言えば、そういうわけでもない。幅広くビジネスを見渡すという意味では、商社も考えましたが、やはり金融がいいだろうと。それから、池間ゼミの一つ上の先輩に(当時の三井銀行 [現・三井住友銀行]に)引き込まれたということもあります。また、国立駅の南口に、三井銀行の国立支店があり、とても良い印象で、すぐに口座を開きました。実はほかの都銀からも内定をいただいていたのですが、そういった理由から三井銀行に迷わず入行しましたね。

大月:これまでのキャリアを拝見すると、国際畑と言いますか、海外勤務が多かったようですが。

福留:英語漬けの池間ゼミで国際金融を学んだことが大きかったですね。インターナショナルマネタリーリレーションズという分厚い原書を2年かけて輪読していましたから。貨幣、貿易、為替、関税...。

大月:まさに国際金融の世界ですね。

福留:そうですね。ゼミで学んだことは銀行の海外業務にとても近かったので、自然に「せっかく勉強したのだから、海外業務をやってみたい」と考えるようになりました。ただし、入行してはじめの6年はドメスティックでした。赤坂支店、京都支店で業務を経験するうちに、国内の中小企業金融に惹かれていきまして。海外志望で入行したことを忘れるほどのめり込みました。とにかく仕事が楽しいと思っていたら、急に市場部門に異動です。為替や金利など、まさに池間ゼミで学んだことを活かせる部門で、そこから海外を転々とするキャリアがスタートしました。

行内でも珍しかった
5か所・16年間の海外勤務

対談の様子05

大月:海外勤務は、主に北米ですか。それ以外の国・地域にも駐在されたのですか。

福留:いろいろでしたね。ロンドンに1年、いったん帰国してから香港が6年、上海が2年、ニューヨークが5年、そしてトロントが2年。香港からの15年間はまったく日本に帰任することなく、一気通貫で海外勤務です。当時はまだインターネットは普及していませんでしたから、自ずと池間ゼミの皆さんと疎遠になってしまい、先ほどお話ししたように卒業生の会にも参加できませんでした。高校や大学の友人とも連絡が途絶えてしまいまして、向こうからすれば完全に行方不明だったでしょう。

大月:15年間ずっと海外というのはすごいですね。それは当時の御行では普通だったのでしょうか。

福留:15年かけて(香港・上海・ニューヨーク・トロントという)4か所を渡り歩く、というのは珍しいほうでした。10年間ニューヨーク勤務という人や、ニューヨークとロンドンで5年ずつ勤務という人はいましたが、4か所・15年続けて、というのは、少なくとも当時は私しかいなかったのではないかと思います。

大月:そうでしたか。というのは、国際要員をインスパイアすることに御行のモチベーションがあることを、先年担当させていただいた寄附講義で感じたのです。実は10年ほど前、北山禎介会長(当時)にご寄附をいただきまして、2013年度から2018年度まで6年間、『国際経済分析と金融の作法』という寄附講義を経済学部に開設していただきました。私はご縁をいただいて受け皿役を務めさせていただいたのです。当時、御行企業調査部のポール・グラハム氏やプロジェクト・ファイナンスのエキスパートの方をはじめ、部長・副部長クラスの方が週替わりで来てくださいまして。

福留:そうでしたか。当行の者が出講させていただいていたのですね。

大月:最後は人事部長職の方にも来ていただきました。皆さんのお話から、国際要員をインスパイアする御行のモチベーションが伝わってきました。無論私だけではなく、参加した学生も相当インスパイアされたようで、御行への就職を希望した学生が多かったと記憶しています。

若い人たちへ伝えたいのは、
「生き急がずに、寄り道してほしい」ということ

対談の様子06

大月:本学の学生、あるいは本学への進学を希望する高校生など、若い皆さんに「今、何をやっておくべきか」というご助言をいただけるとありがたいのですが。

福留:そうですね...今までにも◯◯世代というカテゴリ化はありましたが、Z世代の方々に対しては、「ついに私には理解できない人たちが現れた」というのが率直な感想です。仕事に対する考え方、キャリアに対する考え方は、私の世代とは明らかに違いますよね。もっとも、違うからいけないとはまったく思っていません。その中であえてアドバイスさせていただくとすれば、「生き急がずに、寄り道してほしい」ということです。Z世代の方々を見ていると、憶測ながら、自身のキャリアのピークをものすごく手前に置いているような気がします。

大月:なるほど。

福留:人生は長くて、紆余曲折があって、いろいろなことが起こります。自分でコントロールできることもあれば、できないこともあるわけです。その中で、若いときに決め打ちして突っ走るのもいいでしょう。実際、突っ走って成功する人も一定数いるはずです。しかし大多数は、コントロールできないことに足を取られるのではないでしょうか。そのことをマイナスにとらえるのではなく、大切な寄り道だと思ってほしいのです。今の若い人たちは、私よりもはるかに優秀で、「これ!」という明確なビジョンを持っている。その裏付けとなる勉強もしっかりやっている。それでも「これ!」とは関係ない領域についても、学生時代にぜひ経験してほしいと考えています。そうした体験が30年後か、50年後かは分かりませんが、将来に必ず活きてきますので。

大月:ありがたいお話で、私もまったく同感です。大学時代は、必ずしも知的な活動と直接つながらないことも含めて、さまざまな経験ができる貴重な機会ですから。

福留:大学時代はもちろんですし、大学を卒業してからも、ぜひ「これ!」以外の領域も経験してほしいですね。

大月:「これ!」しか知らない・できないとなると、世の中が大きく変わった時、その変化に対応できるか、とても心配ですね。外在的な環境の変化に対応できない人になってしまってはいけませんね。

福留:海外の大学では、リベラルアーツをとても大事にしていますね。それなりの地位にいらっしゃる方も、専門外の歴史について語るなど、リベラルアーツを学んだことがキャリアに活かされていると感じる瞬間が多々あります。

大月:歴史から国際情勢、理論が教えるところの経済学的な現象まで、リベラルアーツを学ぶことによってさまざまなことを語れるようになりますね。

福留:以前、市場部門で相場をやっていたので、いかに歴史観や大局観が大切か、よく分かります。当行の若い人たちに伝えていることの1つに、マーク・トウェインのものとされる「歴史は繰り返さないが、韻を踏む(History doesn't repeat itself, but it rhymes.)」という言葉です。私は香港勤務時代にアジア通貨危機を経験しました。その10年後にニューヨークでリーマン・ショックを目の当たりにしまして。まさにこの言葉通りだと実感しました。

大月:何度も金融危機の渦中におられたというのは、大変でしたでしょう。

福留:アジア通貨危機の時は若手だったので、右往左往しているだけでしたが、10年後のリーマン・ショックには現場のドル資金責任者として対応しました。むしろあの時は、はたから見てすごく喜々として働いていたと思いますよ。

大月:喜々とされていたのですか?

福留:当時、アラン・グリーンスパン(元・アメリカ連邦準備制度理事会議長)が100年に一度のことだと言っていました。だから我々も100年に一度のことをしよう、と。もちろん業務は大変なわけです。しかし、不謹慎かもしれませんが時代の変化を楽しみたいと思っていました。

大月:それは至言です。我々が2年生のときに商学部で統計学を教えていらっしゃった宮川公男先生(一橋大学名誉教授)が、2年前に『不確かさの時代の資本主義―ニクソン・ショックからコロナまでの50年』という本を上梓されました。

福留:宮川先生、覚えていますよ。

大月:アメリカ中心の金融と実体経済のうねりについて、過去50年を総括した大著です。今の福留さんのお話のように、実業家を含め渦中にいた方がどう見ていたかをサーベイしていらっしゃいまして。

福留:それはとても勉強になりそうですね。これからも似たような経済現象が起こるでしょうから。

集中力を発揮するために大切なのは、体力と気力

対談の様子07

大月:それでは最後に二つ、お聞かせください。まず、本学に期待することについてはいかがでしょうか。

福留:ソーシャル・データサイエンス学部・研究科(SDS)の開設には、本当に感動しました。「ソーシャル」と冠しているところに一橋大学らしさを感じます。当行もデータサイエンスの領域の人材採用を進めたいと考えていますので、日本のため、日本の企業のために、ぜひこの分野のパイオニアになっていただきたいです。

大月:ありがとうございます。もちろん、これまで長い間4学部で取り組んできたことがベースですが、そこにSDSの教員・学生が参加することによって化学反応が起こりつつあります。その先に生み出されるものに対して、私自身も期待しているところです。二つ目は、福留さんご自身の経験から、今、若い人たちには何が求められているか、どういう能力が求められているとお考えか、改めてお伺いしたいのですが、いかがでしょうか。

福留:今に限ったことではありませんが「集中力」です。金融の分野はかつてないほど専門性が高まっていますので、猛勉強が欠かせません。それには集中力が必要...なのですが、集中力を保つためには体力と気力がいるでしょう。実を言うと、若い頃は「知力が一番」と考えていましたが、さまざまな経験を経て、体力と気力が大事だと思い始めました。先ほど学生時代に経験したアルバイトについてお伝えしましたが、いずれも心身の鍛錬となるものばかりです。そのときに培った体力と気力があるから、100年に一度の金融危機も喜々として乗り越えられたのではないかと。

大月:その都度集中し「学び」として吸収されたことが、100%以上、ご自身の血や肉になっておられる。それによって1+1を3にも4にもできる。そういう方がたくさん本学から巣立って、各方面で活躍しておられることが改めてよく分かりました。今日はありがとうございました。

福留:こちらこそ、ありがとうございました。