トップ対談 21世紀の大学
- 京都大学総長山極 壽一
- 一橋大学長蓼沼 宏一
2016年冬号vol.49 掲載
京都大学初の戦後生まれの総長である、山極壽一氏。世界的人類学者、霊長類学者であるが、中でもゴリラの研究の第一人者としてあまりにも有名である。霊長類の研究とは、すなわちサルの目で人間社会を見ることにつながり、人間では考えつかない課題の解決策を導き出せる──。そんな斬新な視点を持つ山極氏と、人間社会における「引き出し」を持つことの重要性から、教育や学問のあり方まで、存分に語り合った。
山極 壽一
1975年京都大学理学部卒。1977年同理学研究科修士課程修了、1980年同理学研究科博士後期課程研究指導認定、博士後期課程退学。1987年理学博士取得。1980年日本学術振興会奨励研究員、1982年京都大学研修員、1983年財団法人日本モンキーセンターリサーチフェロー、1988年京都大学霊長類研究所助手、1998年同理学研究科助教授、2002年同教授を経て、2011年同理学研究科長・理学部長に就任。2012年京都大学経営協議会委員、2014年京都大学総長に就任、現在に至る。近著に『京大式おもろい勉強法』/朝日新書(2015年)、『「サル化」する人間社会』/集英社(2014年)、『家族進化論』/東京大学出版会(2012年)、『人類進化論│霊長類学からの展開』/裳華房(2008年)がある。
蓼沼 宏一
1982年一橋大学経済学部卒業。1989年ロチェスター大学大学院経済学研究科修了、Ph.D.(博士)を取得。1990年一橋大学経済学部講師に就任。1992年同経済学部助教授、2000年同経済学研究科教授、2011年経済学研究科長(2013年まで)を経て、2014年12月一橋大学長に就任。専門分野は社会的選択理論、厚生経済学、ゲーム理論。近著に『幸せのための経済学──効率と衡平の考え方』(2011年岩波書店刊)がある。
自分を変えるために東京から京都の大学へ進学
蓼沼:実は、山極先生は国立市立第三小学校・第一中学校同窓の先輩です。高校も同じになる可能性もありました。私が受験した1975年当時の都立高校は学校群制度を敷いていて、多摩地区の72群は国立高校、立川高校で構成されていました。この制度は学校群単位で受験し、合格者は機械的に振り分けられる仕組みになっていたのです。そこでたまたま山極先生は国立高校、私は立川高校に振り分けられたというわけです。国立出身の山極先生はそこで高校まで過ごされて、大学から京都に行かれたのですね。私は大学でまた国立に舞い戻ったのです(笑)。
山極:蓼沼先生も国立で生まれ育ったわけですから、何かとご縁がありますね。
蓼沼:まずは国立で過ごされた頃の思い出からお聞かせくださいますか。
山極:当時の国立はまだ田園が豊かに残っていましたね。駅前から大学通りを南下すると畑が広がっていました。その先は多摩川で、よく自転車に乗って魚釣りに行きましたし、田んぼでドジョウやカエルも獲りました。防空壕の残る広場もあって、子どもの頃はそこへよく探検に行きましたね。一橋大学の構内もいい遊び場でした。兼松講堂なんか、地下室まで知っていますよ(笑)。散髪も、高校時代までずっと学内にあった理髪店に通っていたのです。小、中、高と一橋で育ったようなものです。
蓼沼:その理髪店は私も利用していました。もしかしたら、待っている時にお会いしていたかもしれませんね(笑)。
山極:本当ですね(笑)。
蓼沼:国立でそんな少年時代を過ごされて京都に行かれるわけですが、その頃はどんな夢を描いておられたのですか?
山極:大学進学にはあまり高い望みを持っていたわけではありませんでした。高校時代はバスケットボールをやっていたんですが、足を骨折して続けられなくなっていましたし、学園紛争がありましたから。高校3年の前半頃までは東京の大学に行こうと思っていたのですが、ふと「それでは自分を変えられない」と考え直したのです。その頃、京都大学を志望していた同級生がいて、その理由を聞いたところ、彼は、京大の魅力は二つあると。一つは、入試では絶対に高校の教科書からしか出題しないから、難しいことを勉強する必要はないと。そしてもう一つは、京大には留年制度がないから、入れば好きなことを勉強していても4回生になれるというわけです。その話を聞いて、これは面白いと、突然京大に行こうと決めたのです。
蓼沼:そうだったのですね。
山極:湯川秀樹先生がおられた当時の京大は、物理学の全盛時代でした。そこで、数学や物理が得意だったので、自分も湯川先生に教わって物理をやろうと考えたわけです。しかしまあ、好きなことができるという大学なら、すぐ決めずにやりたいことを探してみようと。そして、自分の考え方をまとめるためにはこれまでとは違ったことを経験する必要があるだろうと考え、そこで出合ったのが人類学というかサル学だったわけです。サルを相手にするわけですから。つまり、一度人間の世界を飛び越えて、人間界の枠の外から人間を見てみようと。そんな思考方法が面白いと思ったのが、運の尽きでしたね(笑)。
文化は頭で理解できるものではなく体を使って身につけるもの
蓼沼:当時の都立高校にはとても自由な空気がありましたね。生徒はそれぞれ好きなことをやっていて、誰もがそれをお互いに認め合っている。72群はそもそも東京23区以外という広い多摩地区が学区でしたから、多様性のある生徒が集まっていたように思います。これは大学にも言えることですが、特定の地域の人だけの集団は発展性が乏しく、異分子同士が混ざり合ったほうが新しいものができるように思います。最近の大学は、東京の大学は関東圏の学生が中心というふうに地域性が強まっているように感じます。もっと全国から学生が集まるようになると、大学もより面白くなるように思うのですが。
山極:全く同感ですね。今の若者は、もっと早く親離れしたほうがいいと思います。親の影響が強すぎるからです。先頃、高校の校長先生たちとお話しする機会があったのですが、女子校の校長先生は「親が娘を遠くに出したがらない」と言っていました。セキュリティ上の懸念もあるからでしょうが、しかし個人として自立するためには、親から離れる必要がありますね。自分の将来は、親から言われたからでなく、同世代の友だちと切磋琢磨する中で自ら決めていく。そういう環境に身を置く必要があると思います。さらに言えば、国際的にまで広げる必要があるということです。さまざまな国の人たちと共通言語で渡り合って、若いうちにいろいろな考え方や価値観を知ることが大切だと思いますね。
蓼沼:そのとおりですね。そういった環境は、大学などがセットしたものだけでなく、普段の生活の中でこそつくられるといいですね。
山極:そうですね。文化というのは頭だけで理解できるものではなく、体を使って身につけるものです。生活を共にすることが大事なのです。私の研究はフィールドワークが主体ですから、学生を日本の各地域や海外に送り出すことが多いのですが、その際に当地の冠婚葬祭をしっかり体験して来いとアドバイスしているのです。
蓼沼:そうですか。
山極:冠婚葬祭は文化のエッセンスですから、そこに地元の人たちと一緒に参加することで文化を吸収できるのです。
蓼沼:私も博士課程でアメリカのニューヨーク州にあるロチェスター大学に留学し、当地で5年間、1人暮らしをしました。その時の異文化体験が人生のターニングポイントになりましたね。
山極:どんなことが印象に残っていますか?
蓼沼:オンタリオ湖の南岸に位置するんですが、冬はとにかく寒い(笑)。閉じ込められた環境の中でできることは限られますね。自ずと研究に打ち込めたわけですが、いろいろな要因で自分がいかにコミュニケーションをうまく取れない存在であるかを痛感しました。大学の授業を理解したり、自分の意見を述べたりするということがこれほど大変なものか、と。しかし、そうした中でも人間には共通するものがずいぶんあるんだなということも分かりました。相手もこちらを理解しようと一生懸命になってくれたり、共感してくれたりすることも少なくないのです。根本的に持っている、相手を思いやる気持ちなども同じなんですね。けれども一方で競争心もある。そんな共通性を感じ取れたことは、自分としては大きな収穫だったと思っています。
感情は表情で表現できても言葉がなければ納得はできない
山極:面白いですね。私は若い頃にアフリカに長期間、フィールドワークに行きました。そこでは二つの言葉を覚えなければならなかったんです。一つは現地の森に住むピグミー族が使うスワヒリ語で、もう一つはゴリラの言葉です(笑)。そのスワヒリ語はピグミーとのコミュニケーションには大変役立ったのですが、ゴリラはそうはいきません。人間の言葉など理解しませんので、ゴリラの真似をして体を動かして演じて見せるわけです。すると、面白い現象が起きるのです。1人でゴリラを追いかけて歩いていると、人間と出くわすことが怖くなるんですよ。お互いに相手はどこの誰なのか分かりませんから、確認し合うのに緊張を強いられるのです。野生動物の場合は相互不可侵の構えができていますから、出くわしても安心なのです。たとえ相手が象であっても(笑)。ところが、人間の場合は相手を把握するためにコミュニケーションをとらなければならない。それが怖いんですね。
蓼沼:その相互不可侵は体得されたわけですね?
山極:たとえば、象が耳を立てていれば怒っていると分かりますから、その時は自ずと距離を置きます。しかし、人間の場合はしゃべるまで相手の心が分かりませんよね。つまり、人間は言語を所有したがゆえに、体の構えというものを忘れてしまったのです。人間はいろいろなことを言葉で理解しようとするから大変なのですが、動物は体の構えを見ただけで分かるので楽なんですね。
蓼沼:確かに話さなければ分からないですね。ただ、人間の場合もちょっとした表情や仕草で感じ取れるものもあると思います。こうしてお話ししている時も、非言語のコミュニケーションをしています。
山極:そうですね。しかし、そうしたものが副次的なモノになっていますね。ケニアに2年間いて、英語とスワヒリ語を使いましたが、たとえばどこかの商店などで理不尽なことに直面した時、怒りを表現するのは表情や態度でもできます。しかし、相手を納得させなければなりませんから、どうしても言葉が必要なのです。「相手と対等にケンカできることが、その言葉をマスターしたことである」とどこかで聞いた覚えがあったのですが、そのとおりだと思いましたね。こうして対面して、言葉以外の要素で感じ取れることは多いけれども、頭の中で納得するには言葉がなければならない、ロジカルに合意できないということです。このことを外国生活で学びました。
蓼沼:なるほど。
山極:ルワンダの研究所で、長い間研究生活を送りました。山の上の森の真ん中で、村と隔絶された場所にあるんです。当時3人の欧米の研究者と現地のアシスタントだけが暮らしているキャンプに私は1人で入りました。研究者たちはフィールドに出っぱなしです。毎朝、アシスタントがドアの前にお湯を入れた洗面器を置いておいてくれるのですが、それで顔を洗い、体を拭いて、自分で弁当をつくってリュックに入れて出掛けるわけです。そして一日、森の中でゴリラと会話して帰ってくる。そんな毎日で、本当に人と会わないのです。研究者同士で連絡を取り合うのは英語です。したがって、日本語は完璧に忘れるんです。
蓼沼:そうなんですね。
山極:蓼沼先生もご経験がおありでしょうが、そんな環境では討論も英語でしなければなりません。10日に一度ほど、研究者同士が顔を合わせて食事しながら討論をするのですが、その際に自分の意見をあらかじめ頭の中で組み立ててからでないとしゃべれないんです。当時あまり英語は話せませんでしたから、非常に苦労しました。その時ほど言葉の大切さを痛感したことはありません。気持ちを通じ合わせるのに言葉は要らないという側面もあるでしょうが、我々研究者は論理の世界に生きているので、言葉は大事なものであると思います。
サルの常識からすれば人間のおかしいところが見えてくる
蓼沼:経済の仕組みや制度、法律など、我々の社会は論理の世界です。ですから、人間は必ず言葉を身につけなければなりません。大学で論理的思考力や課題発見力を身につけるようにと言っているのもそのためです。しかし、それが人間のすべてということではなく、一方で感性や肌感覚で感じ取る面もあり、それらがあって初めて人間社会は成り立っているように思います。
山極:そう思います。外国で人と話す時に意識することが大きく二つあると思います。一つは論理で、辻褄を合わせて相手と合意できるような話し方ですね。もう一つは、自分の魅力を相手にどう感じさせるかということです。愛嬌のようなものかもしれません。そのためには、いろいろな引き出しがあったほうがいいですね。打ち解けやすいように食事を共にしながら、歴史でも芸術でも文学でも、相手が知らないことを話す、あるいは共通の話題を見つけて話すでもいい。なぜなら、相手との信頼関係をつくるのは、論理ではなく時間だと思うからです。楽しい時間をいかに長く過ごせたか。これが信頼の一つのベースになる。そんな時間を醸成するには、言葉が巧みでなくてもいいんです。一生懸命に言葉を紡ぎながら、自分の思いを伝えようとする態度があればいい。相手にしても、貴重な時間を割いて付き合っているわけですから、楽しいとか面白いとか思えなければさほど意味はありませんね。だからこそ、相手に応じて話題を選べる引き出しは多いほうがいいということだと思います。そんな、いわば一見何も生み出さないような時間によって成立した関係性のうえで、初めて論理の部分も成立すると思うんですね。論理は一部に過ぎないわけです。
蓼沼:新聞に掲載された山極先生のインタビュー記事を拝読しましたが、集まって食事を楽しむ動物は人間だけだと言われていましたね。先生は霊長類を研究されてきて、ヒトとは何かということもずっと考えてこられたのだと思いますが、そこがサルとヒトの違いなのでしょうか。
山極:先ほど、文化とは頭だけで理解できるものではなく体を使って身につけるものだと申し上げましたが、蓼沼先生のように5年間アメリカで生活してみると、アメリカ人の常識からすれば日本人がおかしく映るところが分かってくると思うのです。それと同じで、サルの群れの中に入り身をもってサルたちの行動文法を理解しようとしている私は、サルの常識からすれば人間のおかしいところも見えてくる。サルからすれば、向かい合って長時間楽しそうに食事をするシーンなど考えられないことです。サルにとって食事とは栄養補給に過ぎませんから、ほかのサルに取られる前にさっさと好きなものに手を出して自分だけで食べればいいわけです。実は、現代の"個食"とはまさにそれと同じで、人間はサルに戻るようなことをしているわけです。
蓼沼:なるほど。
社会の奥底に流れている根の深い動かし難いものを見る
山極:人間が、本来はほかの個体と競合するはずの食物を間に置いて談笑するというのは、「我々は食物を巡って争わない関係である」という宣言が前提にあるのです。そしてそのことは第三者に示すことでもある。他人から見れば、「あの2人は親密な関係だ」と思うわけです。つまり、食事を共にするということには、特別な関係であるというアピールが含意されているということです。だからこそ、食事は人間に固有の非常に重要なコミュニケーション手段なんですね。このことは、ゴリラやチンパンジーの常識を知らなければ分からなかったことです。人間社会では疑いもしない、当たり前のことだからです。
蓼沼:今のお話をとても新鮮に感じました。一橋大学は社会科学の大学ですが、山極先生はまさしく社会科学をやっておられると。社会科学というと、どうしても人間社会だけを対象として、そこに概念をつくり論理を当てはめて説明していこうとするわけです。たとえば、ものの値段がどのように決まるかといえば、まず人間とは欲望を持つ存在であるということから始まり、限られたお金をどう最適に使えばいいかという選択で需要と供給が決まるといったことを、数学の論理を用いながら説明するわけですね。つまり、人間社会に閉じたところでの話で、そういう意味では見落としている部分がたくさんあるのだろうと思います。先ほど先生は、論理は一部に過ぎないとおっしゃいましたが、論理で説明できることは限られている。だからこそ、なぜバブルが発生するのかといったことをうまく説明できなかったわけです。そこには人間の感情や群集心理といった動物的な感覚が入っているからだと思いますが。山極先生の場合は、そんな枠を飛び越えて、逆にサルやゴリラの視点から人間社会を見ようとされている。スケールが一回り大きいように感じます。
山極:我々霊長類研究者は社会というものに強い関心を持っているけれども、その奥底に流れている、根が深く動かし難いもの、それは生物学的なものと言い換えてもいいかもしれませんが、そこにスポットを当てているのです。先ほど、人間には欲望があるとおっしゃいましたが、人間の欲求は五感で左右されるんですね。その五感は類人猿と大差ないのです。人間はサルと同じような五感で違うことをしている。つまり人間は五感にフィルターをかけて世界を見ているんですね。たとえば食欲とは、食べ物の直接的なシグナルに左右されるだけでなく、そこに情報が重なっているわけです。ミシュランの星がついたレストランならおいしいものが食べられる、といったようにです。つまり、そういった情報でおいしいと思わされているのですが、そこに人間の幸福感も発生している。ただし、その幸福感は他人の目に左右されるんです。人間の面白いところは、自分で自分を定義できず、他者によって定義されるところです。人間は、自分の欲望は他者にどう評価されるかということに左右される。そこが、人間とサルの欲望の違いなのです。服を着るにしても、車を持つにしても、欲望には他者の目が絡んでいるところが人間のややこしいところなんですね。
蓼沼:それは「見せびらかしの消費」といって、経済学者のソースティン・ヴェブレンも注目した人間の一側面ですね。
熱帯雨林のジャングルと大学は同じ
蓼沼:ところで、現在は大学総長という立場で人間の組織管理に携わっておられますが、これまでのご経験からどのようなことを感じていらっしゃいますか。
山極:2014年10月に総長に任命されたわけですが、当初はとんでもない世界に飛び込んでしまったと思いました。ですが途中で、自分のこれまでの経験を活かせばいいと思い直したんです。そこで、「大学は猛獣の住むジャングルです」と言っているわけです(笑)。
蓼沼:そうなんですか(笑)。
山極:両者は実によく似ています。熱帯雨林のジャングルは生物多様性が高いところですが、大学も人間の多様性が一番高いところだと。ジャングルでも大学でも、それぞれの構成員がそれぞれの生き方をしながら共存している。しかも、それぞれは自分が最高だと思っていますから、生き方を変えません。しかし、そういった多様な生物も森の中で出会えば交流もし、そこから新しいものが生み出されていくんですね。その熱帯雨林には管理者はいません。大学には総長という管理者がいるのですが、柵をつくったりエサを与えたりしても、ジャングルの多様性は制御できないと思います。ですから、猛獣たちにエサを与えず、ムチも振るわず、生きたいように生きてもらうのが総長の役割だと(笑)。
蓼沼:なるほど(笑)。
山極:ただし、熱帯雨林が存続するためには太陽光や水分が必要です。大学の場合は、これらはお金と世間の支えと言い換えられます。それを得るための環境改善も総長の役割ですね。
蓼沼:その光と水を得るためには、いろいろなことをやらないといけないのが今の時代です。たとえば、学長がリーダーシップを発揮して社会の役に立つ学問を進め、産業の発展に貢献するといったことがつねに経済界などから求められます。
山極:地球規模の気候変動が起きていますから、ジャングルもこれまでのような安楽な環境とはいかないかもしれません。大学も同様ですね。ただ、総長になってから私も国内外の大学の学長にお会いして思いを新たにしました。大学とは何をするところか。その一番大事な精神は、未来の世代をつくっていくことにあります。一地方や一国の利益だけを考えて学生を育てるのではなく、京都や日本を離れて世界で活躍する人材としての教養や自覚を養成する場所でなければならない。そのためには、彼らが学ぶための知の遺産をたくさん持つとともに、学内だけでなく世界中に送り出して知を習得する機会を与える必要があるということです。逆に、若者の活躍する道を閉ざしたり、トップダウンで「お前にはこれが向いている」と言ってしまってはならないと。自分の道を決めるのは自分であるべきです。そんな環境は、一大学だけでできるものではありません。複数の大学が協力し合い、産業界や行政、地域の方々の協力を得て初めてできることですね。また、そういう余裕を持たないと、日本の若者は狭い視野に押し込まれて夢を見失ってしまうのではないか。そんな危機感があります。そこで、京大をもっと開いた大学にしましょうと宣言して「WINDOW構想」というものを策定したのです。
蓼沼:若者が広い視野から自由に自分の道を決められる環境を整えるのはとても大切なことですね。
社会人が学び直すこともこれからの大学の役割
山極:学生は学外に飛び出し、外部の産業界や地域の方々にはどんどん大学に入ってきて学生と対話していただく。そうした中で、学生は多様な選択肢を持てるのです。これを学長は責任を持ってやる。大学生ともなれば自立した個人とみなされます。ですから、学生諸君はどういう自分を確立させるのかを自ら問うてほしいと。大学はそんな環境であるべきだということです。
蓼沼:WINDOWは外に向かって開きますが、雨風から守ってくれる役割もありますね。学生が嵐のような社会に出る前に、静かに学問に取り組み、考える時間や環境を与えることもとても大事だと思います。大学とは、社会に出る前に学問を通じて知的好奇心を満たしてあげる場所でもあると思います。山極先生はよく「おもろいことを考えよう」とおっしゃっていますが、まさにおもろいことをやれることが、大学の第一の役割ではないかと思います。その次に、何かの役に立つという考え方が出てくる。そして、そういったおもろいことや役立つことをたくさん学んで窓から出ていっていろいろな経験を積む時に、先生がおっしゃる引き出しの価値を感じるのではないかと思います。
山極:なるほど。
蓼沼:私は、役に立たない学問というのは一つもないと思うのです。役に立つとは、経済的な利益を上げることだけに限りません。人とは何か、宇宙とは何かを追究することが、ひいては人の心を豊かにする、社会をより良いものにすると思うからです。そのように広い意味でとらえないと、若者の人生を豊かなものにすることができないのではないかと思います。
山極:おっしゃるように、社会の役に立つための学びも重要ですね。では10年後の社会はどうなっているのか。現在の職業の半分ぐらいは機械に置き換わるなどしてなくなるという仮説もあります。我々はもはや10年後、20年後の未来は予測できなくなっています。その予測できない未来で活躍できるための能力を、我々は予測できるのか。もちろん、過去の歴史的なものが今日でも変わらない部分もあります。しかし、今後のことは分からない。そうした中で我々が学生に言えることは、やり直しのきく人生を歩んでほしいということです。だからこそ、これからの大学の役割は、実社会からもう一度戻って学び直してもらうところにもあると思っています。日本の場合、大学などで学んでいる社会人は2%以下。アメリカでは、学生の20〜30%は社会人です。政府などには、18歳人口が減るから大学の規模も縮小すべきと言っている人も多いのですが、そうではなく学びの性質をそのように拡大していけば、むしろ大学のキャパシティを増やしていかなければならないですね。
蓼沼:一橋大学にはビジネスや法務などの高度専門職を養成するという使命が強くあります。社会に出た人が、世界の速い動きの中で専門知識が足りないと感じた時に学び直したいと思う、そういった人がこれからは増えると思います。一旦仕事を中断して大学に来る人を教育する以上は、息の長い教育をする責任があります。単なるノウハウでなく、それぞれの仕事の土台となるような考え方や姿勢を養える場になるということですね。
いろいろな引き出しを持つために
いろいろな世界を経験する必要性
山極:京都大学の大学院に思修館というプログラムがあるのですが、そこに「エグゼクティブレクチャー」という講座を設けて、おもろいレクチャーをリレー形式でやっています。聴講に来る経営者などは我々と同世代ですが、学生時代は勉強しなかったと反省している人が多いんですね(笑)。そして、大学を出てから世の中は大きく変わりましたから、どういう学問が発展していったかを目にしていないわけです。ですから、ご自分もそういう学問に触れてみたいと。そんな学びが、人と会った時のいい話題になったり、自分を太らせるいい道具になると感じていただけているのです。すると今度は、そういった人同士がシナジーを発揮し、「今度はこういうことを学んでやろう」という動きが出てくる。そういった動きが、日本全体の知識の底上げをすることになると思うんです。
蓼沼:そのとおりですね。
山極:昔から日本の大学は社会で役に立つ実用的な知識を教えないと言われてきました。そう感じている人たちは、若者に実用的な知識を持って世界で活躍してほしいと願っているはずです。世界の荒波に翻弄された経験があるからこそ、そう言っているわけですね。ならば、それを大学だけに求めるのではなく、実用の場である産業界や行政も協力していただきたい。
蓼沼:最近、実用的な知識とか、すぐに役立つ実学ということが教養と対置される形で言われるようになりました。そのように学問を分類することは、方向性を間違わせると思います。どんな学問であっても、深く学べばものの見方や考え方が身について人を豊かにしていくと思うのです。つまり、どの学問も専門になるし、どの学問も教養になる。そうとらえていかないと、学問というものを狭く狭くとらえていってしまうと思います。
山極:京大のような総合大学は、大きく理系と文系に分かれます。しかし、京大の面白いところは、理系文系の枠を飛び越える人が多いことです。歴史や文学などを研究する人文科学研究所という組織があるのですが、理学部出身の先生が結構多いのです。途中で歴史や文学に興味を持ち始めて、そっちのほうが自分に合うと転向したわけです。そんな人がたくさんいる。理系や文系という枠を厳然と定めていても、そうやって飛び越えていく。それが大学という場所なのだと思います。ちょっと混沌としていますが(笑)。
蓼沼:いろいろ学べるのはうらやましくもあり、大変でもあると(笑)。一橋大学では昔から他学部の科目も自由に取れるので、たとえば経済学に加えて法学を学ぶなどして、神社の鳥居のように2本の太い専門分野の柱ができるといいと思っています。すると、それぞれの学問の考え方が相対化ができます。そうして積み上げていけば複眼的な見方ができるようになる。先生がおっしゃる「引き出し」とは、そういう環境で養えるのだと思います。
山極:いろいろな引き出しを持つということは、いろいろな答えを用意するということだと思います。高校生が正解のある勉強ばかりやってきて、大学に入って立ち往生してしまうのは、答えがなかったり、あっても複数あったりするという学術になじめないからだと思います。世の中にも、まだ答えがないたくさんの課題が山のようにある。そういう課題は、今自分が置かれている狭い世界では答えられないことばかりなんですね。だからこそ、私がゴリラの世界に入ったように、いろいろな世界を経験する必要があるということです。すると、ゴリラの世界にはそれまでとても考えつかなかったような人間の課題に対する答えが隠されていたりする。同様に、日本にいては分からないような答えが、ほかの文化圏に行って得られるかもしれない。ですから、そういう異文化こそ体験してほしいわけです。そうすると、自分の幅が広げられるだけでなく、課題そのものまで発見する力が身につくのです。未来のある若者には、そうやって自分で課題を見つけてきてほしい。自分の体、五感を使って感じ取ってほしいと。そして、それに対する答えは、いろいろな人との対話の中で探り出してほしい。引き出しを持つとは、つまり自分で質問を見つけられる能力のことだと思うのです。
自然科学の方向性を決める社会科学の役割の重要性
蓼沼:我々にできることは、その仕掛けをつくることですね。たとえば、できるだけ長期の海外留学が可能になるような制度を整えるといったことです。では最後に、一橋大学に期待することをお話しいただけますでしょうか。
山極:京都大学では今、組織改革を行っている真っ最中なのです。それで驚いたことがあるのですが、人文社会科学系に所属する教員の数が全体の12%しかいないのです。私がそこで問題だと思うのは、社会科学系の学問には、社会の舵を切る役割があるということです。それに対して、技術というものにはそもそも方向性がなく、こういうふうに使われるという方向性を持って初めて応用が利く。新技術ができた時にどう使うかという方向性を決めるのは社会科学系の学問だと思うのです。そういうことが一体化しないと、社会は豊かにはなりません。そう考えれば、社会科学系の先生は半数を占めていてもいいはずです
蓼沼:そうですね。
山極:ですから、社会科学系は、その社会の舵を切るという役割を持ち続けなければならないのです。一橋大学は、自然科学系を持っていないだけに、逆にそれがやりやすいのではないかと思うのです。東京工業大学のように自然科学だけに特化した大学と組みながら、社会科学系の役割を磨いていくべきではないか。自然科学に頼っている日本の方向性を冷静な目で決めていくという社会の頭の役割は、まさに社会科学系が担うべきで、そこを担う人材を育成することが一橋大学の役割だと思います。
蓼沼:社会科学が社会の方向性を決める重要な役割を担っているとのお考えには全く同感で、大変力づけられました。どうもありがとうございました。
(2016年1月 掲載)