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偶然が重なって、エンジニアから日本通の経営学者へ

  • 経営学者Ben M. Bensaou
  • 一橋大学 理事・副学長大月康弘

2023年3月28日 掲載

世界的な経営大学院であるINSEADで、2020年までエグゼクティブ教育学部長を務めていた、ベン・M・ベンサウ氏。フランスのグランゼコールで土木工学や機械工学を専攻し、エンジニアへの道を考えていたところ、偶然が重なって一橋大学で経営学を学んだことでアカデミアの面白さに目覚め、マサチューセッツ工科大学スローン経営大学院で経営学博士号を取得。今では日本企業の経営を専門とする知日家の研究者として知られる。著書"Built to Innovate: Essential Practices to Wire Innovation into Your Company's DNA" (2021, McGraw-Hill)は、2022年の"Thinkers50 Top 10 Best New Management Books"に選出され受賞。そのベンサウ氏が来日した機会に、一橋大学の大月康弘理事・副学長と、ベンサウ氏の経歴や日本とのつながりなどを語り合った。(インタビュー日:2022年8月末)

Ben M. Bensaou氏 プロフィール写真

Ben M. Bensaou(ベン・M・ベンサウ)

フランスINSEADの技術管理とアジアビジネスおよび比較経営管理学教授。1981年フランスリヨン国立工科大学TPE土木工学修士号、グルノーブル国立工科大学機械工学のDEAを取得。1985年一橋大学商学研究科に留学、修士号を取得。1992年米国マサチューセッツ工科大学スローン経営大学院で経営学の博士号を取得。1998年-1999年米国ハーバード ビジネススクール客員准教授、2007年-2008年米国ペンシルベニア大学経営大学院(ウォートンスクール)シニアフェロー、2013年-2015年米国カリフォルニア大学バークレー校経営大学院の客員研究員を務める。
2018年-2020年フランスINSEAD大学院にてエグゼクティブ教育学部長を務め、現在に至る。

大月 康弘氏 プロフィール写真

大月 康弘(おおつき・やすひろ)

1985年一橋大学経済学部卒。一橋大学経済学部助手、成城大学経済学部講師、同大学経済学部助教授を経て、1996年一橋大学経済学部助教授。パリ第一大学客員研究員、一橋大学経済学研究科助教授を経て、2006年一橋大学経済学研究科教授。2015年経済学研究科長、2018年一橋大学附属図書館館長等を経て、2020年一橋大学理事・副学長。専攻分野は、経済史、西洋中世史、地域研究。

宮川公男ゼミの仲間が集まる

大月:このたびは、ご著書の受賞、おめでとうございます。日本語版の出版のご予定は?

ベンサウ:ありがとうございます。日本での出版はまだ決まっていません。

大月:そうですか。来年あたりに日本語版を手にすることができければ喜ばしいと思いまして、タイミングを見計らってこの記事を出させていただくことにしました。(中央経済社から刊行予定:2023年1月時点)ところで、今回はどういったご用事で来日されたのでしょうか?

ベンサウ:拙書の中で株式会社リクルートを取り上げているのですが、同社とは2001年からの付き合いがあり、研究のケーススタディとして掲載しています。今回同社へ本の受賞の挨拶と、もう一つは本を読まれたある会社から、その内容を応用したいといった依頼をいただきました。他にも、情報系の学会で学問的な発表を行いました。その場には、一橋大学時代の宮川公男ゼミの仲間が6名ほど来てくれました。昨年12月に来日した際も、ゼミの先輩たちがゼミ生を集めてくれました。そこで宮川先生にもお会いし、懐かしい昔の話をしました。

日本に来るつもりはなかった

対談の様子の写真1

大月:初めて来日されたのはいつでしたか?

ベンサウ:1981年の6月です。その後1986年8月にマサチューセッツ工科大学(MIT)に入りました。

大月:日本滞在は5年間ですね。まず、来日のきっかけを教えてください。

ベンサウ:実は最初は日本に行くつもりはなく、アメリカに行こうと思っていました。当時私はフランスのグランゼコールで土木工学の修士号を取得し、機械工学の博士号も取得中でした。1981年の当時はまだ22歳と若かったので、すぐ就職するよりも海外に行って、エンジニアの訓練として経営も学んでおくことが重要だと思いました。しかし、アメリカは学費が高いので奨学金を獲得しないといけない。いろいろなところに奨学金を申請したところ、ある国際的な財団から返事が来たのです。それは、国際ロータリー財団による全く新しいプログラムのオファーでした。後で分かったことですが、当時、日本に来る留学生のほとんどが歌舞伎や能といった文化を勉強することが目的で、技術や経営学を勉強する人が申し込んでこない。もちろん理由があって、日本の文化を勉強している人は日本語も勉強しているわけですから、大学に入ってすぐ勉強できるわけです。けれども、エンジニアリングとかマネジメントを学ぶ人たちの中には日本語を学んだ人はほとんどいなかったため、必然的に申込みがないのです。そこで、日本のロータリークラブが1年間の日本語の勉強を加えたプログラムを初めて用意したわけです。私のプランの中に日本留学はありませんでしたから、決断には迷いましたが、受けることにしました。

大月:そうだったのですね。最初はアメリカに行きたいと。

ベンサウ:ずっと工学の勉強をしていたので、その時点では日本のことはあまり知りませんでした。一方、アメリカには憧れがありました。けれども、当時の先生や友人、家族は「アメリカはいつでも行ける。なら2年間冒険したほうがいい」と言うわけです。自分の64年間の半生を振り返ってみると、そこが最初の人生の分岐点でしたね。

人の勧めで経営学に転進

対談の様子の写真2

大月:人生を決める決断だったわけですね。日本での進路はどのように決められたのですか?

ベンサウ:最初の1年は、国際基督教大学(ICU)で日本語の勉強をしました。それとともに、ロータリークラブの紹介で日本人家庭に下宿させてもらい、日本語漬けの生活を送りました。2年目は、もう語学の勉強が済んだから自分の勉強をしに行きなさいと言われました。その時は、東大か東工大の工学部に行こうと考えていました。エンジニアへの道の続きです。ところが、そこでまた分かれ道がありました。

大月:日本に来るという決断と、その後どの大学に行くかはまた別のステップだったわけですね。

ベンサウ:日本に行くことを決断したときは、フランスで研究してきたことを続けようと思っていました。建物の補強や地震に関する権威が東大と東工大におられたからです。そこに、聴講生か研究生として行こうと思いました。しかしながら、ここでまた新たな出会いがあるわけです。人生は自分が計画しなかったことが起こるものです。

大月:どういうことがありましたか?

ベンサウ:結果的になぜ経営学に進んだかと言うと、日本語を勉強していたときに、一橋大学法学部を卒業した、あるフランス人と出会いました。彼はコンサルティング会社を経営していて、私は日本語の勉強を兼ねて彼と仕事をしていました。彼に進路について相談したら、工学よりも経営学を学ぶべきだと。1981年の当時、日本企業の経営がすごく注目されていたので、経営を勉強しなさいと強く言われました。それで、在日フランス大使館の人や、他の在日フランス人にも相談したら、皆が皆、「エンジニアリングじゃなくて経営学だ」と。これまた悩みましたが、経営学ならどこに行けばいいか尋ねると、みんな一橋大学に行きなさいと言うわけです。

大月:そんな経緯があったわけですね。

ベンサウ:毎回自分が行こうとしていたところから、全然違うところに行き着いてしまうのです。日本の経営学を勉強するというのは、自分が計画したことの中にはありませんでした。もう一つ計画になかったのは、学者になるということです。

大月:大きな偶然が重なりましたね。

宮川先生の説得で修士課程に

対談の様子の写真3

ベンサウ:一橋大学に進学することになって、何を研究するかを決める時に考えたのは、工学部の出身なのだから、一番接しやすいのは管理工学だと。そこで入学案内パンフレットなどを見てリサーチし、宮川先生の統計学と出会いました。奨学金はあと1年分ありましたから、一橋大学では1年間、聴講生として勉強することになりました。それが終わった段階で帰国する予定でしたが、突然宮川先生に呼ばれ、「君はこの先どうするの?もう帰ることになったと言うけれども、もう少し日本にいてみたらどうですか?」と。私は「ここが気に入っていて、もう少しいたいのですが、奨学金が切れてしまいます」と答えると、先生が「大丈夫、マスターに入ればきっと奨学金は出るから」とおっしゃったのです。先日、宮川先生にお会いしたときにその話をしたのですが、先生は覚えておられませんでした。

大月:これも偶然でしたね。

ベンサウ:宮川先生に紹介していただいた院生の方に、修士課程への入学試験に向けて準備を手伝ってもらいました。

大月:そうでしたか。そうすると、一橋大学には1982年に来られて、1年聴講されたのでマスターに入られたのは1983年の秋頃ですか?

ベンサウ:そうです。次の分れ道は、修士号取得後に来ました。当時はバブルの前で、外国人のコミュニティでは、都市銀行や、コンサルティング会社への就職が主でした。フランス人のコンサルタントがヨーロッパの大企業と付き合っていたりしました。そこで、私がそろそろ卒業すると言うと、いろいろな就職のオファーが来ました。そこでまた悩みました。企業に就職するか、アカデミアに進むかと。

大月:そこは大きいですね。

ベンサウ:はい。大月先生もご存じだと思いますが、両者の生活は全然違いますし、扱っている問題も全く違う。金銭的なことは別として、毎日のライフスタイルが全然違うわけです。

大月:そう思いますね。

アカデミアの世界は非常に面白い

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ベンサウ:けれども、宮川公男ゼミに入って、学術論文を読んだり議論したりするうちに研究にすごく関心が出てきたのです。アカデミアの世界は非常に面白い、と。それまでの自分はエンジニアとして働くと決めていましたが、宮川先生のおかげですっかり学問が気に入ってしまいました。

大月:いいですね、アカデミアの世界は非常に面白いと気づかれた。

ベンサウ:当時、付き合っていた彼女(現在の妻)と話し合った結果、大切なのは自分の心が、喜んでやれる仕事のほうがいい。興奮するとか、好きなことをしなさいって言われました。そして、一橋大学の博士後期課程に入ることにしました。

大月:彼女の一言も大きかった。

ベンサウ:その言葉のお陰で、この謎を解きたい、こういう論文をもっと読みたいといった自分の気持ちに気づけました。その間、コンサルタントとして仕事もしていましたが、あまり興味が湧きませんでした。やはり学者は、すごく自由だと。

大月:自由な発想で時間をマネージしていけますから。そういう生活スタイルはいいですよね。

ベンサウ:研究の世界しか見えていませんでした。会社に入ったら、やることはある程度決まっているわけです。一方、学者の世界を見ると、やることを自分でつくると言ったら少し語弊があるかもしれませんが、自分の信念をもって真理を追究しているわけです。自分の研究テーマを、どういう方法論や理論に基づいて研究するかを自分で決める。学者はとても贅沢だと思いますね。

大月:社会の現実はそこにあるわけですが、そこにどうやって切り込むかという角度とか、どういうストラクチャーやシステムを使って解明していくのかという作業はクリエイティブで発見もあり、すごくエキサイティングなことです。

ベンサウ:コンサルタントの仕事では、クライアントはみんな答えが欲しいわけです。なぜ日本の工場がそんなにうまくいっているのか、なぜ皆うまく仕事ができるのか、いろんな謎が出てくるわけです。相手はその答えが欲しいわけですが、誰も答えられない。そこに、自分の関心もありました。学者としての研究対象が出てきたわけです。それも大きかったですね。

夫人との出会いも偶然に

対談の様子の写真5

大月:当時の僕の友人がフランスから来て、同じようなことを言っていました。日本の産業構造論に関心を持つ人が少なくなかったのでしょうね。日本企業のマクロ的、ミクロ的な発展の秘密を知りたがった。

ベンサウ:全くその通りです。自分としてもそこが重要で、組織論に加え、今で言えばデジタル化ですが、そういった管理工学の導入が必然的な流れでしたので、その研究をしたかったのです。一橋大学で博士号を取得しようと考えたのですが、いろいろ調べて分かったのは、当時の日本は博士課程修了論文を書いても、博士号がもらえるとは限らないということでした。そこでまた悩みました。学者への道に進むと決めたのに、博士号が取れないとすればここにいる意義はあるのか、と。そこでまたどこがいいか調べ、やはりアメリカに行こうと決めてMIT経営学院に行くことにしました。

大月:今は変わりましたが、当時はそういった博士号取得に対するハードルの高さが特に文系にはありましたね。話は変わりますが、奥様は日本の方でいらっしゃいますが、どこで出会われたんですか?

ベンサウ:一橋大学に通い始めた当初は武蔵小金井に住んでいました。1年目は必修科目がたくさんあって、生活の中心が大学になりました。けれども論文を書く時期に入ると、授業はゼミぐらいで週1回か2回通えばよくなったわけです。別の仕事もあったので都心部に移ろうと思いました。友人のアメリカ人が目黒に住んでいたので、ルームメイトとして一緒に住むことにしました。彼は日本の会社に勤めていて、「同僚がフランス語を勉強したいから、家庭教師をしてほしい」と。その同僚が今の妻です。

大月:偶然そういう出会いがあって、今日に至るということですね。そもそも日本との出合いも偶然でした。

ベンサウ:みんなびっくりしますが、本当にすべてが偶然です。

大月:人生って面白いですね。その時代のなせる業で、1980年代の前半は日本がかなり経済的なパワーを持った時期が続いたので、そういうことが関係しているかなとも思いました。けれども最初のお話にあったように、日本文化を研究する人と違って、経済発展とかエンジニアリングの勉強をする人たちのほとんどは日本語を学んでいない、日本に行きたくても日本の大学が英語に対応していないので、なかなか来られなかった。そうした中に飛び込まれたわけです。最初の段階で日本語にいろいろご苦労なさることもあったかと思うのですが、いかがでしたか?

日本社会に積極的に溶け込む

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ベンサウ:当時のフランスの社会でも日本同様に、国内で良いキャリアを得ようとすれば、有名大学を出ることが重要だといわれていました。少なくとも若かった自分はそう信じて猛勉強をしていました。大学を卒業して日本に来たら、すごく精神的に自由に感じました。なぜなら、日本ではフランスの大学についてはほとんど知られていないため、私の学歴を誰も気にしないのです。みんないろいろな国から来ているので、そんな中でフランスのすごい学校に行ったって言っても迫力がないでしょう(笑)。だから日本に来て、精神的に楽になったうえに奨学金が2年分もらえるわけです。それまでの人生ではいつでも自分に目標を課して、その達成に向けて必死に勉強をしていました。初めて人生の中で2年間の自由を謳歌できたのです。自由に緊張せずに言葉を勉強することができました。人間同士のコミュニケーションで日本語を覚えるという理由で、よく旅もしていました。どこに行っても外国人だからと注目され、歓迎されて、みんな家に招いてくれるわけです。すごく夢みたいだと(笑)。とても日本人が好きになって、日本語が難しいと思うことはありませんでした。

大月:そういうコミュニケーションがあったわけですね。

ベンサウ:今はちょっと変わってきたかもしれませんが、40年前はそういう時代でした。だから言葉に不便を感じたことはありませんし、人ともっと話したいという思いが強くありました。夜道を歩いていると、突然赤提灯があって、1人か2人カウンターで飲んでいる。興味が湧いてお店に入り、隣に座って日本人の心に触れる。真面目に勉強する一方で、人を通して文化や生活にも触れていく。最初はお互いに緊張していても、日本語で一言発した途端、喋れるなら友だちだという感覚がみんなにも生まれました。若いですからね。そんな環境が気に入って、むしろ勉強には集中できました。今振り返ってみると、すべてを計画通りに進め、学習や研究だけを目的にしていたら、日本をそこまで好きにはならなかったでしょう。結婚してからも何回も来ていますしね。ですから、質問にお答えすると、言葉の問題はあまり感じませんでした。

大月:なるほど。大学の中で熱のこもったディスカッションを通じて良い人間関係できたということと、大学の外でも日本社会との自由な交流があったわけですね。

ベンサウ:一橋大学を選んだもう一つの理由は、当時の一橋大学にはヨーロッパからの留学生が2人しかいなかったからです。イタリア人とベルギー人。ほとんど英語を使う機会がなかったし、日本の家族と一緒に住むことも魅力的でした。それで、ほとんど毎日日本語漬けでした。

子どものもう一つの母国

対談の様子の写真7

大月:40年前はそういう状態だったわけですね。ベンサウさんのような素晴らしい卒業生を送り出せて、我々は大変喜ばしく思います。それで、日本の後はMIT経営大学院に行かれて、その後フランスに戻られて拠点を構え、日本の企業研究も続けられましたね。どのぐらいの頻度で日本には来られたのですか?

ベンサウ:自分の研究や日本の家族のこともあるのでよく来ています。家族のことで言うと、プロポーズした時点で妻と約束したことがあります。彼女は、「結婚するには一つだけ条件がある。どこでも一緒に行く。ただし、子どもができたら必ず子どもは日本語を話し、日本の文化を知り、日本の家族と会話できるようになってほしい」と言いました。その時は「はいはい」という感じでした(笑)。実際に子どもができると、フランスの学校には長い休みがあり、うちの3人の子どもたちは順番で妻と一緒に日本に来て、日本の学校に入りました。ですから私がいてもいなくても家族は定期的に日本に来ていました。子どもたちは「私のフランスの友だちは学校を休んでいる時期なのに」と言っていましたが、結果的にはすごく良いことでした。子ども時代は嫌がっていましたが、3人とも大人になってから「良かった」と言うわけです。なぜなら、子どもの頃からの友だちが日本にもいて、私よりも日本の文化をよく知っているからです。

大月:もう一つの母国ですね。

ベンサウ:仕事としては、日米の自動車会社の比較研究が評価されインシアードで働くことになったのですが、日本の専門家としてぜひ研究を続けてほしいということになりました。最初はインシアードの中にある研究所のメンバーとして選ばれました。プロモーションのために研究論文を出さないといけませんでしたが、論文を出すために研究をしていると、学長に呼ばれて「なぜ日本に行かないのか?」と怒られたのです。論文作成で多忙な毎日を送っていましたが、時間を見つけて日本には平均年3回ほど来ていました。

大月:今回は神戸におられると伺いました。

ベンサウ:今回はサバティカルという長期研修システムを使っての来日です。サバティカルは4回目で、前3回は完全に自分のキャリアのためでした。ハーバード大学、ウォートン(米国ペンシルバニア大学ウォートン校)、イノベーションの研究でシリコンバレーのバークレー(カリフォルニア大学バークレー校)にそれぞれ1~2年間行きました。今回は夫婦間の約束で、もう64歳だからキャリアはいいだろうと(笑)、それで日本に来ることにしました。MIT経営大学院で知り合っていた神戸大学名誉教授の金井壽宏先生に連絡してお会いしたりしています。

大月:ベンサウさんが今、日本にいらっしゃると知って、一橋大学の同僚たちもぜひお会いしたいと言っています。今度チャンスがあれば、ぜひ来てください。

ベンサウ:ぜひそうさせていただきたいと思います。

大月:本日はありがとうございました。