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企業も、スポーツ団体も、同じ人間組織

  • 日清紡ホールディングス取締役会長
    公益財団法人日本卓球協会会長/一般社団法人日本学生卓球連盟会長
    河田 正也
  • 一橋大学理事・副学長青木 人志

2022年12月27日 掲載

日清紡ホールディングス取締役会長、また一般社団法人日本学生卓球連盟会長という要職に加えて、2022年6月、公益財団法人日本卓球協会会長に就任した河田正也氏。先の東京五輪で初の金メダルを獲得するなど実力、人気とも上昇中の日本卓球界をまとめていく立場にある。そんな河田氏と旧知の間柄である青木人志理事・副学長が、一橋大学時代の思い出から組織マネジメントについてまで、幅広く語り合った。

<プロフィール>

河田正也氏プロフィール写真

河田正也(かわた・まさや)

1975年一橋大学経済学部卒。同年4月日清紡績株式会社(現・日清紡ホールディングス株式会社)入社。2006年執行役員人事本部長、2007年経理本部副本部長(兼務)取締役、2008年事業支援センター副センター長、2009年日清紡ブレーキ株式会社代表取締役社長、2010年日清紡ホールディングス株式会社取締役常務執行役員、2011年経営戦略センター副センター長、新規事業開発本部長(兼務)、日清紡ケミカル株式会社代表取締役社長、2012年日清紡ホールディングス株式会社取締役専務執行役員、日清紡メカトロニクス株式会社代表取締役社長、2013年日清紡ホールディングス株式会社代表取締役社長を経て2019年同社代表取締役会長、2022年日清紡ホールディングス株式会社取締役会長に就任、現在に至る。明治ホールディングス株式会社社外取締役、セントラル硝子株式会社社外取締役。一般社団法人日本学生卓球連盟会長。公益財団法人日本卓球協会会長。

青木人志氏プロフィール写真

青木人志(あおき・ひとし)

1984年一橋大学法学部卒。1989年一橋大学法学研究科単位修得。博士(法学)(一橋大学)。1989年日本学術振興会特別研究員、1990年一橋大学法学部助手、1991年関東学院大学法学部講師、1995年一橋大学法学部助教授、2002年大学院法学研究科・法学部教授、2014年大学院法学研究科長・法学部長、2016年中国交流センター代表を経て、2020年理事・副学長(教育担当)に就任、現在に至る。

一橋大学卓球部から卓球と本格的に関わり始める

対談の様子の写真1

青木 河田さん、このたびは日本卓球協会の会長にご就任おめでとうございます。卒業生がオリンピック競技団体の会長に就任するのは、本学にとってもたいへん誇らしいことです。本日は、ぜひその経緯や学生時代の話をお伺いしたいと思っております。まず、河田さんが卓球とどのように関わってこられたのか、日本卓球協会会長になられるまでの道のりをお聞かせください。

河田 有難うございます。卓球は、子供の頃から遊びとして楽しんだ程度で、大学で初めて卓球部に入りました。中学高校と吹奏楽部だったので、大学ではスポーツをやりたいと思い、一番身近に感じられた卓球部を選びました。幸いコーチや先輩、仲間達にも恵まれて、卒業までやり続けられました。

青木 学生時代の、選手としてのご活躍ぶりを伺わせてください。

河田 初心者で入部しましたが、練習は真面目に出ていて、リーグ戦で1試合だけ出してもらいましたが、もう完敗でした。ですから、選手としての活躍の話は広がりません(苦笑)。 2年の終わりからマネージャー(主務)を言い渡され、部内のことやOB回りなどもやって、新鮮な経験もできました。

青木 卒業後はどのように卓球と関わられたのですか?

河田 入社した日清紡は、スポーツを奨励していまして、卓球も各工場に女子チームがあり、実業団で長年やっていました。本社や営業所でも休み時間に仲間と卓球を楽しむという身近な環境がありました。

青木 そうでしたか。

河田 女子は卓球とバレーボール、男子はテニスと野球を社内スポーツとして、かなり熱心に活動していたのですが、2000年頃に事業改革の中で、それまでの本格的な活動は中断することになりました。その後、ジュニアテニス支援はやってきていますが、卓球も応援できればと、2018年に日本卓球協会のナショナルチーム・オフィシャルスポンサーになりました。しばらくして、日本卓球協会の管轄下でU-7の強化支援プロジェクトがあるので、一緒に参加してもらえませんかと、たまたま誘ってきたのが一橋大学卓球部の1年後輩の川嶋文信さんでした。

青木 川嶋さんは三井物産の副社長をなさったあと、本学キャリア支援室のアドバイザーもおつとめ下さいました。他界されたのは本当に残念でした。

日本学生卓球連盟会長に就任

河田 本当に悔やまれます。ほかならぬ彼からの誘いでしたので、それじゃあ一緒に、と受けることにしました。

青木 U-7とは「アンダー・セブン」つまり7歳以下の部のことですか?

河田 そうです。小学6年生以下の「ホープス」、小学4年生以下の「カブ」、小学2年生以下の「バンビ」というグループの下に、U-⁠7も新たに立ち上げようということでした。

青木 英才教育をしようということですね。

河田 幼少期からの育成を計画的に連続性をもってすすめていこうという狙いです。そのプロジェクトを牽引指導されていたのが児玉圭司さんという方でした。

青木 日本学生卓球連盟の前会長ですね。

河田 はい、児玉さんはスヴェンソンという会社を立派に育て上げられ、教育・社会活動でも貢献されている経営者で、卓球では、日本代表選手として世界選手権に出場し、指導者としても明治大学卓球部を強豪に育て、日本代表監督も務められたという、いろんな意味で大変な実績を持たれた方です。U-7でお会いしたのがきっかけですが、しばらくして児玉さんから「日本学生卓球連盟の次の会長を考えてくれないか」というお話が突然ありました。大変驚きましたが、何とか対応できるかなということでお引き受けし、顧問を1年間やって2021年3月に会長に就任しました。その後また思いもかけず、今度は日本卓球協会藤重会長から次の会長就任の依頼が内々でありました。諸々の状況も考え、児玉さんにも相談して、これも何かのご縁で、お役に立てるならと、結局お引き受けすることになりました。この6月からスタートしたばかりですが、いろんなことを学びながら走っている感じです。

コロナ禍から学生の大会を復活

青木 日本学生卓球連盟会長とオリンピック競技団体でもある日本卓球協会会長を兼ねてらっしゃる。まさしく日本卓球界のトップというお立場ですが、それぞれ会長としてどんな仕事をされているのかを簡単に教えていただけますか?

河田 それぞれ、主要大会や会議が年間あるいは中長期で計画され、会長はそうしたイベントの総括責任者として参画します。開会挨拶やプレゼンター役もあります。
日本卓球協会は、登録者30数万人で加盟団体も多く、都道府県単位の団体や全国横串組織との連携や情報共有を進めるよう、大会や会議も頻繁にありますが可能な範囲で顔を出し始めています。また、昨年協会創立90周年を迎え、100周年に向けてPROJECT100が策定され、ミッション、ビジョン、アクションプランが打ち出されました。関係者の力を合わせて着実にそうした協会活動を前進させることが新会長の役目と思っています。
日本学生卓球連盟は、全国9地域の支部学連からなり、大学生登録者数6000人強で、全日本大学総合選手権団体戦(インカレ)、個人戦、全日本学生選抜の三大大会はじめ、全国高等学校体育連盟との合同強化合宿、東北復興支援プロジェクト、国際大会、本大会に先立つ予選会などについて、関係役員が様々な準備をしてイベントに臨みます。特にこの2~3年はコロナ禍で困難な判断も多く大会中止なども余儀なくされましたが、昨年から主要大会は何とか再開しています。
また、今年から一般社団法人化し、スポーツガバナンスのレベルもさらに高めていきます。

青木 それまでは法人化していなかったのですね。

河田 はい。日本学生卓球連盟もですが、日本卓球協会加盟の各団体もスポーツ団体のガバナンスコードに則り、透明性や公正性を一層高めていく上でも、一般社団法人化を進めています。

卓球界上げてのイメージアップ

対談の様子の写真2

青木 日本卓球協会は、地域のスポーツクラブ、卓球クラブとも緊密な関係を持っていますね。

河田 そうですね。地域組織の方々も、多く指導者、役員として貢献されています。私もできる範囲で現地に行って各組織の幹部、役員の方々との交流の機会を増やしたいと思っています。8月に防府市での3年ぶり開催の全国レディース卓球大会に、9月に北九州市のTOP32に行ってきました。

青木 私も長く趣味で卓球を続けており、一橋大学体育会卓球部の部長もつとめていますが、たとえば私たちの学生時代とはルールが変わったり、ボールの素材や大きさが変わったり、大会を華やかに見せる工夫が凝らされたりと、卓球競技の普及に非常に前向きに組織的に取り組まれてきたという印象があります。我々の頃は卓球をやる人以外に知られていなかった全日本のトップクラスの選手の名前が、男女ともに一般の人にも知られるようになったと思います。

河田 19世紀末に卓球がイギリス発祥で始まったので、当初はヨーロッパ勢が圧倒的に強かったのですが、日本も1950年代から60年代にかけて世界チャンピオンも多数出すという黄金時代がありました。因みに、卓球がオリンピック種目になったのは、1988年ソウル大会からですが、50~60年代からだったら日本は金メダルの続出でしたね。それから中国が強くなって、ヨーロッパ勢、アジア勢も活躍していますが、やはり中国勢が一番です。日本は低迷した時期もありましたが、長期計画を立てて、着実に成果を上げてきています。

青木 そのとおりですね。東京オリンピックの金メダルは、まさしく金字塔でした。

河田 はい。とてもうれしいニュースでした。水谷・伊藤両選手の歴史に残るプレーでしたね。一時期、「卓球はネクラだ」などと揶揄されて、卓球をやることが肩身が狭いと思われるような時期もありました。私はあまり感じたことはなかったですが。そういう中で、卓球関係者の間でイメージアップに向け、グリーンの卓球台をブルーに変えたり、ラバーの色もカラフルにしたりと、さまざまな工夫がされてきました。イメージアップと計画的な育成方針のもとに、国際的にも活躍する選手の成長とともに、人気も回復してきたという背景もあります。

"ピンポン外交"ができる魅力

青木 今後の会長としての抱負をお聞かせください。

河田 先ほども触れましたが、100周年に向けて「Project 100」のミッションとビジョン、アクションプランを関係者一体となってしっかりと展開していくというのが最大の眼目です。
スポーツを「する、見る、支える」において、卓球は有益で楽しめる要素が多いと思いますので、さらにアピールして、国民的スポーツに高めていきたいですね。また、スポーツ団体ガバナンスコードに則って、女性の理事比率向上や外部理事増員なども着実に進められていますので、多様性や透明性を重視し、広く世界に目を向けてサステナブルなスポーツ団体として時代に適った進化を遂げていきたいですね。

青木 すでに準備が進んでいるわけですね。

河田 はい。あと、強化と普及の両輪が大切ですが、強化においては、オリンピックや世界選手権などで選手が活躍できる環境づくりを加速していきます。結果が出れば、知名度や注目度もさらに高まるでしょう。他方で普及については、身近なところで幅広くプレーし楽しんでもらう活動ですね。併せて、公益財団法人としてのガバナンスも要求されます。明るく楽しく将来志向のスポーツとして、卓球は健全に進んでいるという姿を示していきたいと思っています。

青木 卓球の魅力とは、どういうところにあるとお考えですか?

河田 誰もがレベルに応じて楽しめますし、馴染みやすいことですね。特に広いスペースがなくてもできます。老若男女問わず一緒に楽しめますしね。生涯スポーツとしてもふさわしいのではないでしょうか。

青木 私は中国の大学に行くと、日本語が通じない中国人の先生たちとよく卓球をやります。一緒に卓球をやると、言葉は通じなくてもゲラゲラ笑ったり拍手し合ったりみたいなコミュニケーションが生まれますよね。

河田 そうですね。日本卓球協会のミッションとして、「卓球を通して人々の健康と幸福に貢献し、人々の心をつなげ、社会の調和を目指す」と謳っています。今おっしゃったような、ピンポン玉を打ち合うだけでも心と心のコミュニケーションになる、人々の調和を生み出すということは、昨今よく言われるパーパスにもつながることだと思います。年齢を問わず生涯スポーツとして行える点でも、卓球は適していると思います。最近では、認知症の予防にも卓球は有用といった科学的な研究も進んでいるようです。いろんな観点からもっともっと広めていきたいですね。

頻繁な部署異動で人間関係を構築

対談の様子の写真3

青木 では次に、別の会長職である日清紡会長としてのお仕事とご経歴についてお伺いしたいと思います。一橋大学卒業後のキャリアについてお聞かせください。

河田 1975年(昭和50年)に一橋大学を卒業して日清紡に入社しました。営業希望がかなって、最初の5年間は営業部門に配属されました。その後、人事労務への異動辞令が出て、数年おきに転勤がありました。2009年に持株会社制に移行後、三つの中核会社の社長を順次経験し、2013年にホールディングスの社長、2019年に会長になり現在に至ります。頻繁に異動したので、特に若い頃はその都度全く新しい人間関係をつくる状況だったおかげで、いろんな経験や学びがありました。国内外含めて、新しい人々と新しい場面での新しい体験が後に役立ってきたと思います。

青木 『一橋大学卓球部五十年史』の最後のページに日清紡の広告があって、「素材が織りなす暮らしの文化」とのキャッチコピーが書かれ、"ワイシャツ生地の40%は日清紡製品です"といったことが書かれています。この本が出たのが、私が大学4年次の1983年ですが、この時代から現在に至るまで日清紡という企業は大きく変化をされていると思います。

河田 私が入ったときは社名のとおり、売上の8割は繊維事業でした。『一橋大学卓球部五十年史』が出された1983年も、繊維比率は6~7割で、1990年に初めて5割を切りました。積極的に新分野も進めて、現在は無線・エレクトロニクス、半導体関連が主体で、繊維の売上比率は1割以下です。繊維が主業だった時代から、将来の成長性を考え、新分野に種をまき新事業を育てるべきとの考えがあり、「事業は人なり」、人が本物で仕事は借り物だから、祖業だから死守すべきという発想はありませんでした。人が活き活きと活躍出来て、社会に役立つ価値を生み出すのなら、ある意味、何をやってもいいという風土です。もちろん大きな方向性や戦略を持っての上ですが。内部からの育成とともに、M&Aも積極的に行いながら、今日に至っています。

経営者として"integrity"を最重視

青木 貴社はCMソングで、何をやっている会社か分かりにくいという旨のメッセージを発信しておられますね。

河田 はい。CMの短い時間では説明しきれず、まず社名になじんで頂き、詳しくはHPをご覧下さいということで。私が入社した頃は、経営層がこれからのキーワードはDiversification、多角経営だと。その後、80~90年代、「選択と集中」が言われるようになってから、多角経営で経営資源を分散するのでなく、コングロマリット・ディスカウントですね、儲かる事業に絞って選択と集中をしっかりやれという流れになりました。私自身は、旧来のカテゴリーでの線引きで選択と集中あるいは多角化といった見方にこだわるより、サステナブルな成長や企業価値向上への経営資源の有効活用を考えることが大事だと思っています。リスクも取らなければなりませんし、もちろん、数字で結果を出さなければ市場は認めてくれませんが。

青木 日清紡で社長や会長という要職を歴任される中で、経営者として大事にしてこられたこと、軸となる指針をお教えください。

河田 一言で言うとインテグリティですね。会社の企業理念としても「至誠一貫」を掲げてきています。意味は深いでしょうが、誠意を持った取組みが大事だと思っています。安岡正篤先生の「知識、見識、胆識」も意識してきた言葉です。

ゲゼルシャフトとゲマインシャフト

青木 大企業のトップでいらしたご経験と、卓球協会のトップでいらっしゃるご経験の関係について、お考えをお聞かせください。

河田 日本学生卓球連盟の会長、日本卓球協会の会長とも、就任にあたってどう関わるべきか考えました。古いですが、テンニエス流にいうと、企業はゲゼルシャフト(利益社会)、対して、卓球団体はゲマインシャフト(共同社会)なので、指揮命令系統とか周りの方々との関係や接し方も会社とは違うだろうから、ここはわきまえて進めようと。まして、卓球界において現役時代の実績も連盟や協会への貢献も土地勘もない新参者の私が、会長となるわけですから。実際に就任して接する皆さんは、卓球愛に満ちて、献身的に取り組まれています。ただ、企業も協会も、基本的には人間の集まりですから、目指す方向を共有して、良好な人間関係で力を発揮し合って進んでいくという、基本的なところは変わりません。また、ミッション、ビジョン、アクションプランの策定や、ガバナンスコードに即して組織風土の向上を目指す点などは、まさしく企業活動と同様です。現場と多様性を尊重しコミュニケーションを重視して、卓球愛をもって進んでいくつもりです。

青木 大学でも今同じような運営を一生懸命やっていますので、そういう意味では共通していると思います。

親を喜ばせたいと一橋へ

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青木 河田さんの人生を遡らせていただきたいと思います。この『HQ』は一橋大学の卒業生や現役学生さらには一橋志望の受験生が主に読みますので、ここからは学生時代の話を伺いたいと思います。そもそも河田さんが一橋大学を選ばれた理由をお教えください。

河田 私は山口県下関市の出身で、身近でもある九州大学に行くかなと、何となく考えていましたが、ある時父親が、「やっぱり一橋大学じゃないか」と。家が商売をやっていたので、一橋大学のイメージが近いと思ったのかもしれません。調べると、近代経済学の聖地などと書かれており、よくわかっていないのに、ならば一橋大学経済学部に行こうと。東京への憧れと親を喜ばせたい思いもありました(笑)。

青木 東京に行こう、一橋大学に行こう、というのは私も全く同じでした。河田さんが在学されていた時代背景といいましょうか、その頃の一橋大学について思い出をお聞かせいただけないでしょうか?

河田 1971年に入学しましたが、その2年前には激しい学生運動で東大の入試が中止になった時代で、入学当時も学生運動の名残がキャンパス内にありました。

青木 私は1980年入学ですが、当時も学生運動の名残はありました。

河田 私は学生運動には関心はなかったのですが、そんな環境で、授業は1年生の前半はほとんどなかったと思います。

青木 教育担当副学長の立場からはありえない事態です。

河田 その少し前の先輩達はもっと大変だったでしょうね。今は新型コロナの影響で、せっかく大学に入学したのに、失われた2年間と感じた学生たちも多いでしょうが。

青木 授業がなかった時、河田さんはどう過ごされたんですか?

河田 私は1年のときは小平キャンパスの近くに下宿していましたが、卓球部に入ったので、毎日のように部活で国立に行って、初心者として真面目に練習していましたね。

金融論の長澤惟恭ゼミへ

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青木 そうでしたか。では所属ゼミでの活動とか、印象深い授業などの思い出はいかがでしょうか。

河田 1年時の英語か何かの授業で読んだ本で、C.P.スノーの『二つの文化と科学革命』の自然科学と人文科学の溝の大きさ、よく言われる文理融合の正反対の状況ですね、K.E.ボールディング『宇宙船地球号』で、有限な地球の環境問題の切実さ、を取り上げていたことを思い出します。21世紀の今、より切実になった問題を先取りして考えるきっかけになったと思います。2年の時に、金融論の長澤惟恭先生の前期ゼミに入って、マクロ・ミクロ経済学の分厚い英語の入門書を、先生の指導を受けながらみんなで輪読しました。一生懸命読破して、経済学用語に英語で触れたので何か経済学部生になったという勝手な満足感があったのは覚えています。

青木 長澤先生は商学部でしょうか?

河田 そうだったと思います。

青木 もともと一橋には全学部合同みたいなところが、特に前期の小平にはありましたが、ほかの大学の先生が知るとすごくびっくりなさいます。そんな大学はほかにないみたいですね。

河田 そうですか。当時のゼミ仲間とは、コロナ渦で中断していますが、毎年集まっています。長澤先生には、厳しく怖い印象を持っていましたが、合宿に行った時に「ちょっと君、お茶出してくれないか」と言われた仲間が、茶葉を探したのですが見つからず、「すいません、お茶はありません」と言ったら、「お茶が無いのは無茶だろ」と駄洒落を言われて一同爆笑でした。そんなどうでもいいことはよく覚えています(笑)。

青木 お茶目な先生ですね(笑)。後期ゼミはどちらでしたか?

河田 石弘光先生です。石ゼミの第5回生でしたが、石先生はちょうどミシガン大の客員研究員として赴任されていたので私の前の2期はありませんでした。どの先生のゼミに行こうかと情報を集めていたら、先輩から「石先生は若くて溌溂としていい先生らしいよ」と。うわさが語り継がれていたようです。それで石先生の門を叩こうと。

青木 私は助教授のときに学長(1998-2004)でいらした石先生のご対応に感激したことあります。キャンパス内ですれ違う時、経済学部出身の石学長は法学部の若い助教授の顔なんかご存じないだろうと思って会釈だけして通り過ぎようとしたら、「おー、青木くん、元気かあっ?」って朗らかにおっしゃいましてね。学長が自分のことを知っていてくれたのには大変感激をしました。

石弘光教授の人間教育

対談の様子の写真6

河田 そういうお人柄ですね。毎年ゼミ5回生でも集まりがあって、生前は奥様と一緒に必ず出て頂きました。今も奥様を囲んで続いています。卒業生とのつながりをとても大切にされていましたし、ゼミ生として尊敬し誇れる先生です。入ゼミの面接の時に、「君は卓球部か。ゼミの勉強を理由にクラブ活動をおろそかにしちゃいかんぞ」と(笑)。これが強烈でした。普通は逆なのだと思いますが。

青木 古き良き時代の話ですね。私は言いたくても立場上絶対言えません(笑)。

河田 一方、石先生は大変パンクチュアルで、時間厳守のメリハリは効いていました。時間ギリギリで、遅れたらまずいなと冷や汗で駆け込んだこともありました。一事が万事で、マナーの基本的なところができてこそ信頼されるといったことも教わったような気がします。

青木 石先生はきれい好きでもいらして、学長として「キャンパスクリーンデー」を始められました。

河田 今の卓球界でも、選手としてしっかり成長できる人は、普段の生活がきちんとできること、小手先の技術や目先の勝ち負けにこだわるより基本練習やマナーが大切なことを、小さい頃からの指導で重視しています。いろんなスポーツ界でも、人間性、人間力の大切さが言われているように思います。

青木 石ゼミではどういうテキストで勉強されたのですか?

河田 当初は、経済や財政にかかわる論文などのコピーを輪読していました。覚えているのは、ルールか裁量か、のテーマ。両方の視点から、それぞれ長短や課題を述べた内容だったと思います。アメリカから帰国されたばかりの石先生が、近代経済学イコールケインズ主義と思っているかもしれないが、M.フリードマンのようなマネタリスト、新自由主義の流れも強いぞ、と話されていたことも印象的でした。割と早いうちにそれぞれの卒論に向けての準備を始めました。各人卒論用の題材を決めるように言われ、たまたま私はベント・ハンセン(Bent Hansen)の"The Economic Theory of Fiscal Policy"を選びましたが、お粗末な卒論をとにかく書き終えたという感じです(苦笑)。

ソーシャル・データサイエンス学部への期待

対談の様子の写真7

青木 卒業後に日清紡に就職をされた経緯はどうでしたか?

河田 一橋の就職先は金融系か商社系が多く、私も金融中心に就職活動をしていましたが、日清紡の卓球部出身の先輩から連絡があって、マネージャーだったので同級生を集めて会社訪問するように言われました。気持ちとしては金融のつもりでいたのですが、そこで巡り合った先輩方もいい方達でいろいろ話を聞くうちに、結局入社することになりました。

青木 そうでしたか。では最後に、本学も72年ぶりに新しい学部、ソーシャル・データサイエンス学部がこの8月31日に設置認可されまして、急ピッチでPR活動を行っているところです。単なるデータサイエンスではなく、一橋大学らしいのは"ソーシャル・データサイエンス"というところで、社会科学の知識を押さえたうえでデータサイエンスをやるという形で認可を受けています。それから、PBL(Project-Based Learning)演習を学部の発展科目として置いていて、企業や公的機関から提供していただいたデータをもとに、企業などと本学部の教員、学生が一緒に考えるという形の新しい取り組みを始めます。そういった大学の新局面も踏まえて、先輩として一橋大学やその学生に望むことについてお話しいただければと思います。

河田 ソーシャル・データサイエンスは、これから非常に重要なテーマになると思いますし、また、一橋大学のブランド力向上の点でも期待したいですね。一橋大学から、多くの先輩達が、多方面で活躍されていることは誇らしいことですが、一橋大学の知名度は、世間一般の方には決して高くありません。ましてや海外での知名度は言うに及ばずでしょう。現在はランキング社会で、世界の大学のランキングで日本自体が残念ながら低迷していますし、社会科学だけの一橋大学はなかなか出てきません。理系の大学との連携は、石学長の頃も尽力され、いろいろ進められていると思いますが、今般、ソーシャル・データサイエンス学部が新設されたことは、価値ある前進だと思いますし、関係者各位のご努力に敬意を表します。まだまだ個々の課題もあろうかと思いますが、この取り組みをしっかりと進め、アピールしていかれることを、一OBとしても強く願っています。文理融合・リベラルアーツ力・STEAM人財、またゼロエミッションに象徴される地球環境問題など、益々重要になってきた問題に対して、一橋大ならではの、社会科学をベースにして自然科学、人文科学も融合させ得るユニークな立場を、是非活かしてほしいですね。学生の皆さんには、できればグローバルな舞台で、多様な人達と交流する中で、自分らしさを発揮して、発信力を(受信力もですが)高めてください。人生は長く、予測しがたい時代ですので、一生のシナリオは柔軟に変えていくこともあるでしょう。様々な状況でも自分らしく生きるために、大学時代はものの考え方や人間力を高めていく時期と思います。一橋大はその点でも望ましい大学ではないでしょうか。

青木 どうもありがとうございました。

試合の様子の写真2

取材後は、体育館で現役卓球部員の学生とダブルスの試合を楽しんだ