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データの時代こそ、情緒を大切に

  • 株式会社コメダホールディングス代表取締役会長臼井興胤
  • 一橋大学 理事・副学長大月康弘

2022年10月3日 掲載

都市銀行、ゲーム会社、外資系スポーツ用品メーカー勤務を経て、大手外食チェーンやゲーム会社の社長を歴任し、現在はコメダ珈琲店を運営する株式会社コメダホールディングスで代表取締役会長を務める臼井興胤氏。そのキャリアや経営論、一橋大学や学生への期待などについて、大月康弘理事・副学長と語り合った。

臼井 興胤氏 プロフィール写真

臼井 興胤(うすい・おきたね)

1983年一橋大学商学部卒。同年三和銀行(現:三菱UFJ銀行)入行。同行にて営業職を経験後、1988年米国カリフォルニア大学ロサンゼルス校にて経営大学院修了。米国現地法人、本社企画部勤務を経て、1993年株式会社セガ・エンタープライゼス入社。1997年同社取締役コンシューマー事業本部副部長を務める。1999年ベンチャーキャピタル、2003年株式会社ナイキジャパン営業リテール統括本部長、2006年日本マクドナルドCOOを経て、2007年セガ・エンタープライゼスに再入社。専務取締役AM統括本部長、代表取締役社長を経て、2012年米グルーポン社東アジア統括副社長に就任。2013年株式会社コメダ代表取締役社長を経て、2014年株式会社コメダホールディングス代表取締役社長、2022年同社代表取締役会長に就任、現在に至る。

大月 康弘氏 プロフィール写真

大月 康弘(おおつき・やすひろ)

1985年一橋大学経済学部卒。一橋大学経済学部助手、成城大学経済学部講師、同大学経済学部助教授を経て、1996年一橋大学経済学部助教授。パリ第一大学客員研究員、一橋大学経済学研究科助教授を経て、2006年一橋大学経済学研究科教授。2015年経済学研究科長、2018年一橋大学附属図書館 館長等を経て、2020年一橋大学理事・副学長。専攻分野は、経済史、西洋中世史、地域研究。

高校卒業後は、防衛大学へ進学

画像:対談の様子1

大月:今日はお忙しいなか有難うございます。まずは、臼井さんが一橋大学を目指された動機からお聞かせください。

臼井:高校は都立富士高校に行きました。当時は、毎年東大に何十人と入るような進学校でした。しかし、自分は枠にはめられるのが嫌なところがあって、みんなが目指す東大は嫌だと。すると父親が「一橋はどうだ?」と言いました。調べると、商学の歴史が深い大学と書かれている。ビジネスを学べるのはいいと思ったんです。そこで、実際に国立にキャンパスを見に行ったら、大学通りの並木道に魅了されてしまいました。愛読していた戯曲『アルト・ハイデルベルク』に登場するドイツの大学の雰囲気に重なったからです。

大月:確かに、国立の街並みは素晴らしいですよね。

臼井:しかしながら、すんなりとは入れてもらえませんでした。ならば、自分を鍛え直すしかないと防衛大学校に入ることにしました。当時乗り物が大好きで、ジェット戦闘機に乗ってみたいという思いがあったので。

大月:意外な展開ですね。防衛大学はいかがでしたか?

臼井:多くを学びましたが、一橋への憧れが消えることはありませんでした。それならばと奮起して再チャレンジし、2年遅れで1979年に念願の一橋大学商学部への入学を果たしました。

ゼミとサークル、バイクの学生生活

画像:対談の様子2

大月:どんな学生時代を過ごされたのでしょうか?

臼井:1、2年次は小平キャンパスの時代で、印象に残っているのは高橋先生のフランス語です。テキスト1冊を丸ごと暗記させられましたから。当時は1年に2回試験があって、必死に覚えたことを思い出します。フランス語を専攻している、友人のガールフレンドにテープに吹き込んでもらってくり返し聴いていました。

大月:それは大変でしたね。

臼井:3、4年のゼミは宮川公男先生です。敵の潜水艦に向けて水雷を落としていく際に、どこのどの深度に水雷を沈めていけば最も効果的かを割り出す確率計算からゲーム理論がスタートしたという話を聞いてグッと来たことが専攻した理由です。得意だった数学を使うところもいいと。先生から教わった統計学やオペレーションズ・リサーチは、社会に出てからも役に立ちましたね。

大月:宮川先生には私も大変懇意にしていただいています。先日も、今日の臼井さんへのインタビューについてお話したところ、よろしく伝えてくれ、とのことでした。それはともかく、先生のもとで学問的にして実践的なことを学ばれたということで、何よりでしたね。部活やサークルはいかがでしたか?

臼井:当時流行っていた、テニスやスキーをやるサークルを立ち上げました。聞くところによると、そのサークルはついこの間まで存続していたようです。よく続きましたね。

大月:学生生活では?

臼井:もっぱらバイクです。よく奥多摩を走り回りました。

大月:お友だちと、ですか?

臼井:いや、一人です。自分より遅い人がいるとイライラするし、速い人がいると無理してしまうから。自分一人で好きなように走るのがいいですね。

大月:学業も、大学生活も充実されていたようですね。

臼井:でも、勉強はあまりしませんでしたね。実は娘が今一橋大学の商学部に在籍しているんですが、私とは比較にならないくらい真面目に勉強しています。父親の分の授業料も取り返してもらっているようで(笑)。渋沢スカラープログラムで、ロンドンにも留学するようです。

企業派遣で海外ビジネススクールへ

画像:対談の様子3

大月:そうでしたか。それは楽しみですね。さて、大学卒業後のご経歴を教えていただけますか?

臼井:海外のビジネススクールでMBAを取りたいと思って、英語の勉強もしていました。そんなときに、ある都市銀行からリクルーターの先輩が大学に来ていて「うちに入るとタダでビジネススクールに行ける」と教えてもらったのです。当時、銀行にはあまり興味はなかったのですが、半信半疑で入社試験を受け、内定をもらいました。そして、3年目にビジネススクールに留学できることになったのですが、GMATやTOEFLで一定の成績が必要だというわけです。そこで、当時配属されていた日比谷支店から朝営業に出た後、日比谷図書館に直行して午前中はずっと英語の勉強をしました。そして、午後だけで一日分の仕事をして、無事ビジネススクールへ行ける資格を獲得できました。

大月:頑張りましたね。

臼井:人事部としては、東海岸のアイビーリーグに行かせることが慣例になっていたのですが、防大のアメフト部に所属していたので、UCLA(カリフォルニア大学ロサンゼルス校)のアメフトチームに非常に関心があったんですね。それで、留学先はUCLAにしたいと。人事部とは一悶着ありましたが(笑)、行かせてもらいました。

大月:UCLAの経営大学院でMBAを取得されたわけですね。

臼井:はい。修了後にそのまま現地法人に入って2年ほど仕事をしました。アメリカに5年滞在して1990年に本社の企画部に戻されました。頭取直下の部署で、関西系の都銀のせいか全7名のうち京都大学の出身者が大勢を占めていましたね。私は最年少でしたが、海外事業の企画業務を担当しました。企画部は経営会議にかける事業戦略の諮問機関的な位置づけでした。

大月:大銀行の中枢ですね。

臼井:米国では1984年に、ジョン・リードという人がシティバンクの頭取に45歳の若さで就任して話題を集めていた時代です。しかしながら、当行では、旧態依然とした慣行が残っており、事情が全く違っていました。これではグローバルで到底勝てないと感じました。それで、辞めることにしたのです。
今思えば、アメリカで過ごした5年間が自分の世界観を変えました。枠にはまって考えるということを一切しなくなりましたから。

ゲーム会社から、シリコンバレーへ転進

大月:決定的でよい経験をされたということですね。それで、次はどうしようと。

臼井:1993年の当時、伸び盛りだったゲーム会社に入ることにしました。6年勤めて、最後は取締役コンシューマー事業本部副部長として海外コンシューマー事業のトップを経験させてもらいました。その後、ビジネススクール時代に仲が良かったハーバード出身のアメリカ生まれの中国人ビジネスマンが「500億円集めてファンドをつくったから、一緒にやろう」と誘ってきたのです。その話に乗って、シリコンバレーのベンチャーキャピタルが集中するサンド・ヒル・ロードに構えた彼のオフィスに加わりました。

大月:華麗なる転身ですね。

臼井:朝、カフェではファンドの仲間が「ジェフ・ベゾスの会社は5年連続で赤字だったらしい。もうもたないだろう」なんて話をしているわけです。その会社は、今はとんでもない巨大企業になりましたが。

大月:当時はネットバブルのさなかでしたね。

臼井:いい経験ができましたが、2000年頃にバブルが弾けてしまいました。それで、日本の部下たちの職探しを手伝って日本事務所を解散しました。

大月:そんなご苦労もあったのですね。

臼井:付き合いのあったヘッドハンターから「次はどうするんですか?」と聞かれ、当時、日本橋の自宅から渋谷のオフィスまで自転車通勤していたので、冗談半分に「シャワールームがある会社を探して」と言ったら、外資系スポーツ用品メーカーの日本法人の話を持ってきてくれました。広告宣伝のセンスがよく、気に入って入社することにしました。2003年から4年ほど営業リテール統括本部長を務め、そろそろ社長かと思っていたところ、本国から次のトップが赴任してきたわけです。これでもう芽は出ないと踏んで、次に移ることにしました。そこでオファーがあったのが、大手外食ファストフードチェーンのCOOです。

COOが決まった外食チェーンでアルバイト

画像:対談の様子4

大月:初のCOO、事業の最高執行責任者ですね。

臼井:それで、入る前にどんな現場か見ておこうと思って、家の近くの店にアルバイトしたいと電話しました。「どれくらいの期間できますか?」と聞かれたので、「2~3か月」と答えると断られて。そんなやり取りを何店舗かとして、ある店に入りました。そこの店長がいい人で、クルーの歓送迎会にも招いてくれて、現場をそのまま教えてくれました。

大月:アルバイトの現場を知るのは、経営者にとっても大事なことでしょうね。

臼井:その店長から後日電話がかかってきて、「もしかしたら次期COOの臼井さんですか?」と。社内で発表があったらしく、僕の名前が珍しいからすぐにピンと来たらしいんです。「そうですよ」と言うと、急に言葉遣いが変わって「何かご無礼なことはありませんでしたか?」と(笑)。いやいやとんでもない、当時国内に3,800店ほどありましたが、そんなお店の現場が知れたからこそ、やる気になりましたとお礼を言いました。

大月:店長はずいぶんと驚かれたでしょうね。

臼井:そう思います。でもその会社ではいろいろあって1年経たずに退任したところ、ゲーム会社時代の社長から「戻ってこないか」と電話をもらったのです。その会社はその後他社と経営統合してホールディングス会社の子会社になっていましたが、2007年に専務取締役として戻らせてもらい、翌年に社長に就任しました。2012年まで務めて、アメリカの共同購入サイト運営会社の東アジア統括副社長を経て、2013年に当時事業会社であったコメダの社長として迎えられた、という経歴です。こうしてお話しすると、脈絡のない人生ですね(笑)。

大月:いやいや、いろいろなビジネス分野で多様な経験を積まれたとお察しします。まさしく一橋大生のロールモデルでおられます。それで、コメダさんに入られたのはどういった経緯でしたか?

コンシューマービジネスは"飽き"との闘い

画像:対談の様子5

臼井:コメダのオーナーであったファンドから声をかけてもらったときに、同じ外食チェーンだった以前いた会社の3人ぐらいの幹部に聞いてみたんです。そうしたら、「お客様第一のサービスを一番やれるのは、コメダだと思います」と異口同音に言うわけです。

大月:ほう。それは大きいですね。

臼井:もう一つ、理由がありまして。私は辞めるときに次を決めてからという人間ではないので、辞めた後はしばらく家でブラブラするわけです。昼間、近所をウロウロしたりすることもあるわけで、そんな期間がちょっと長くなっていました。流石に妻の視線も気になるようになりまして。

大月:ファンドが臼井さんを選んだのには、どういった理由があったのでしょうか?

臼井:よくは分かりませんが、恐らくファンドの言いなりにはならない人間と感じたからでしょう。私も彼らと話して、大変優秀な人たちで、この人たちなら自分に任せてくれると確信できました。当初の3か月ほどは細かい指導もありましたが、それ以降は一切。いい感じで二人三脚ができていて、私にしては珍しく10年近く続けられています。

大月:お店のほうも人気があって、入店するのに待つお客さんも多いですよね。好調の要因はどういったところにあるとお考えですか?

臼井:コンシューマービジネスは、"飽き"との闘いだと思っています。いかにお客様を飽きさせず、長く愛用していただくか。盛者必衰で、同じことばかりやっていては必ず飽きられるという強迫観念のようなものがあり、付加価値を出し続けようと考えてやっています。
それと、自分には臆病なところがあって、目標達成までの道のりにおいて一つの方法がだめだった場合の代案を、プランB、プランC、プランDといくつもつくるのです。それらどれ一つも絶対にうまくいくとは信じずに、それでも大丈夫かなと思えないと動きません。ただ、このプランを全部自分で用意するやり方だと下のメンバーが育ちにくいですね。ゲーム会社の社長時代に「羽生名人が100人を相手に将棋を指しているようなもの」と言われたことがあります。

裁量と求心力のバランスが原動力

画像:対談の様子6

大月:なるほど。あらゆる局面を自ら一人で考える。

臼井:しかし、実際は私一人のことではなく、経営チームとしてそのように取り組んでいるわけですが。とにかく、「もういいじゃない」とは言わず、人の何倍も突き詰めることを厭わないですね。これも、本を正せば、18歳のときに現役での一橋大学の受験に失敗し、防衛大学校に進んで、自分の思ったようにはいかない世界を経験したことが大きかったと思いますね。

大月:業界を超えて経験を積んできた臼井さんの中に、そういった経験に基づく軸がしっかりおありになるわけですね。

臼井:当社の場合、95%のお店はフランチャイズです。そこで、金太郎飴的な運営ではなく、フランチャイズオーナーがやりたいことをできるだけやってもらえるような裁量と、チェーン本部としての求心力を発揮するバランスを取ることがチェーン運営の原動力ですね。

大月:なるほど。それは一橋大学の弱点に通じるところがあるかもしれませんね。教員の一人ひとりは一騎当千の素晴らしい研究者で、世界で闘っている強者揃いですが、大学組織としての打ち出しが弱いと思っています。本部としての求心力、学ばせてもらいたいところです。あと、コメダ珈琲店はお店の雰囲気がいいですね。

臼井:ありがとうございます。一般的なチェーン店のような回転率の商売ではなく、空間や時間を提供しているという側面があります。もちろん、コーヒーやフードを「おいしい」と言っていただくことも多いですが、店の空気感に付加価値があると自負しています。

大月:国立駅前にもお店がありますが、入店を待っている人たちも幸せそうですものね。

臼井:そうだと嬉しいですね。

もっと情緒を磨け

大月:ところで、本学は2023年度に「ソーシャル・データサイエンス学部」を新設します。社会科学の大学に理系的な学部をつくるわけですが、他学との違いは「ソーシャル」にあって、データを使って社会問題を解決する人材づくりを目指す点にあります。このことについてどうお感じになりますか?

臼井:昔、数学を勉強して、一切のあいまいさを許さないところに絶対的な説得力があると感じました。今この会社でよく言っているのは、「このままAIが発達してシンギュラリティが来たら、人間にしかできないことを考えないと生き延びられないぞ、もっと情緒を磨け」ということです。いくらAIがデータを分析したところで、血の通った情報の整理はできないだろうということです。

大月:そのとおりですね。

臼井:それで私も、今になって苦手だった小林秀雄を読み直しています。読むというか、YouTubeにある朗読を聞きながらジョギングしているんですが。

大月:ジョギングの友ですか!

臼井:聞いていくうちにだんだん分かってきて、面白くなるんです。岡潔にも興味が湧いてきて「数学は情緒だ」と思ったり。とにかく、世の中の「フォーミュラを覚え、当てはめるのが正しい」という風潮が違うんじゃないかと思っています。

大月:そんな風潮は壊さないと。

臼井:一橋大学みたいな日本一の社会科学の歴史を持つ大学は、データをきちんと揃えて統制的に分析するのとは対極的な、情緒を磨いてアプローチするような方法論も併せて行うことが重要な気がしますね。

大月:貴重なご意見をありがとうございます。では最後に、一橋大学の学生に期待することやメッセージをお願いします。

臼井:今「VUCA(Volatility、Uncertainty、Complexity、Ambiguity)の時代」と言われていますね。そんなあやふやな時代に重要なのは、自分の頭で考え、判断する力です。メディアにそう書いてあった。有名な人がそう言った。そんなものは全く当てになりません。この世の中をサバイブしていくには、真実と嘘を見極める力が必要です。そんな力を養うには、自分の価値観を信じ、いろいろ勉強するしかないですね。その点、人類はいまだかつて退化したことは一度もないと思います。特に若い人は学べば学ぶほど進化する一方。時間が許す限り、何でも貪欲に吸収してほしいと思います。

大月:我が意を得たりです。本日はエキサイティングなお話をどうもありがとうございました。