hq64_main_img.jpg

経済学が社会の目標を定義するのではなく社会の合意形成に奉仕することが経済学の役割

  • トゥールーズ第1大学/トゥールーズ・スクール・オブ・エコノミクス(TSE)代表・教授
    ジャン・ティロール
  • 一橋大学長蓼沼宏一

2019年1月31日 掲載

Jean Tirole(ジャン・ティロール)氏

Jean Tirole(ジャン・ティロール)

2014年度ノーベル経済学賞受賞。
フランスのトゥールーズ・スクール・オブ・エコノミクス(TSE)運営評議会議長、トゥールーズ高等研究所(IAST)チェアマン。トゥールーズ第1大学産業経済研究所(IDEI)学術担当所長、およびマサチューセッツ工科大学(MIT)客員教授。パリ第9大学で数学博士号、MITでPh.D.(経済学)を取得。一橋大学名誉博士。
産業組織論、規制政策、組織論、ゲーム理論、ファイナンス、マクロ経済学、経済と心理学などの分野で第一級の研究を行う。

蓼沼宏一氏

蓼沼宏一

1982年一橋大学経済学部卒業。1989年ロチェスター大学大学院経済学研究科修了、Ph.D.(経済学)を取得。1990年一橋大学経済学部講師に就任。1992年同経済学部助教授、2000年同経済学研究科教授、2011年経済学研究科長(2013年まで)を経て、2014年12月一橋大学長に就任。専門分野は社会的選択理論、厚生経済学、ゲーム理論。近著に『幸せのための経済学──効率と衡平の考え方』(2011年岩波書店刊)がある。

フランスのトゥールーズ第1大学・トゥールーズ・スクール・オブ・エコノミクス(TSE)代表及び教授を務める、ジャン・ティロール博士。産業組織論やゲーム理論の世界的泰斗であり、2014年度のノーベル経済学賞を受賞したことは記憶に新しい。一橋大学名誉博士でもあり、このほど来日して特別講義を行った。その際、ティロール氏と蓼沼学長は、同じ経済学者及び大学経営者として研究分野や大学運営などについて語り合った。

研究全体を貫くテーマは
ゲーム理論と情報経済学

蓼沼:このたびは、一橋大学にようこそいらっしゃいました。

ティロール:ありがとうございます。

蓼沼:ノーベル経済学賞を受賞されたティロール先生をこのたびお迎えし、学生のためのレクチャーをしていただいたことに、私は同じ経済学者として、また本学の学長として大変嬉しく思っています。

ティロール:ありがとうございます。一橋大学とは長いお付き合いになりました。2000年に訪問した後、2013年には貴学から名誉博士号をいただきました。

蓼沼:ティロール先生がノーベル経済学賞を受賞される直前です。

ティロール:まさに。先行指標でしたね(笑)。

蓼沼:まずはティロール先生のご経歴についてお伺いいたします。これまでのご経緯と専門分野についてお話しください。

ティロール:私はさまざまな分野に関わってきましたが、研究全体を貫くテーマはゲーム理論と情報経済学で、これを経済学の多くのサブフィールドに応用してきました。まず、競争政策と規制を扱う産業組織論を研究してきました。しかし、そこでの分析に使われているゲーム理論と情報経済学は、分野を横断するツールとして、たとえば心理学なども含めて、多くの学問分野で活用できます。なぜなら私たちは私たち自身の社会でゲームを行っていますし、人々の間では情報は不完備であるからです。ゲーム理論と情報経済学は、マクロ経済や国際金融、コーポレートファイナンスなど、さまざまな領域に応用できるもので、実際に経済学者のツールとしてきわめて有用です。

蓼沼:ゲーム理論や情報経済学は、経済学だけでなく政治学、心理学、社会学、国際関係学といった社会科学全体を変えた革新的な基礎理論であると思います。

ティロール:その通りだと思います。ゲーム理論と情報経済学を活用することで、国際交渉やさまざまな市場、政治など、あらゆる種類の意思決定環境における対立と協調を分析することができるからです。これらは標準的なツールになっていると言えるでしょう。

蓼沼:ゲーム理論や情報経済学は、事実を解明する理論だけでなく、規範理論にも応用されています。たとえば、ジョン・ロールズの『正義論』でも、人々の意思決定や行動を分析するために使われています。

ティロール:その通りですね。

「市場における力と規制に関する研究」で
2014年度ノーベル経済学賞受賞

蓼沼:次に、ノーベル経済学賞を受賞された研究業績について説明していただきたいと思います。

ティロール:ノーベル賞は研究者の経歴全体に対してではなく、特定の業績に対して授与されます。私へのノーベル経済学賞授与は、産業組織論と市場における力全般に関する研究業績が評価されたものでした。この分野における共著者らとの研究実績は、大きく二つに分かれています。一つは、ジャン=ジャック・ラフォンと共同で行った規制に関するものです。これは、たとえば電気通信や鉄道、電力事業などで、市場で力を持つ企業をどのように規制できるのか、また、これらの企業にどういう種類のインセンティブ・スキームを与えるべきなのかを検証します。情報は非対称的であり、企業は一般に需要について、そして特にコスト構造について規制当局より詳しい情報を持っているため、当局はこの情報がないという事実を考慮に入れなければなりません。したがって、企業に対して強いインセンティブを導入しようとすることと、規制との間に一定のトレードオフが生じます。これが、基本的に私たちが論証したものです。ほかにも、ジャン=ジャック・ラフォン及びパトリック・レイとの共同研究では、いわゆる「エッセンシャル・ファシリティ(不可欠設備)」を利用できるようにすることにより、規制産業の競争力をどのように生み出すかを明らかにした研究があります。エッセンシャル・ファシリティはボトルネックであり、通信産業の回線網や電力産業の配電・送電設備、鉄道の線路や駅など、基本的に同種の設備を用意することがきわめて困難な要素です。これが私の第一の学術的貢献です。

蓼沼:二つ目は何でしょうか。

ティロール:規制とは異なる独占禁止に関するものです。独占禁止は、支配的地位や独占の濫用に目を向け、市場における力の濫用的な行使を防止しようとします。これは、たとえば日本の公正取引委員会といった競争政策当局の守備範囲です。実際、私は昨日、公正取引委員会に赴き、GoogleやFacebook、AppleやAmazonなどがもつ市場における新しい力について話しました。
私たちは、サプライヤーと顧客の間で結ばれるある種の契約に伴う垂直的制限に関するものや、捕食(predation)、知的財産に関わるもの、この20年で再浮上したパテントプールの問題に関するものなど、幅広い研究を行っています。市場の二面性(two-sided market)に関する研究もあります。ノーベル経済学賞で評価された業績の一つが、この研究でした。二面市場では、プラットフォームが少なくとも二つの異なるグループ、典型的には売り手と買い手を結び付けようとします。たとえば、Googleはあなたや私と広告主の間を取りもとうとしています。私たちはGmailを使い、検索エンジンやYouTubeを使うことによって広告主と結びつけられています。Uberは運転手と消費者を結びつけているし、自動車メーカーや販売業者、アカウント所有者などもそうです。これらの二面市場は、今やきわめて重要です。現に、Google、Apple、Amazon、Facebook、Microsoft、アリババ、テンセントという世界の7大企業はすべてこうした二面市場のプラットフォーマーです。本研究がきわめてタイムリーだとして評価されたのは、これらのプラットフォーマーが採用しているビジネスモデルの点でも、競争政策当局が活用できる政策介入の点でも未解決の課題が多いからだと思います。

※パテントプール(Patent Pool)とは、新しい技術の普及を目的に数多くの特許権を企業や研究機関が持ち寄り、一括してライセンスを与えていく仕組み。(ASCII.jpデジタル用語辞典より一部引用)

市場を狙う競争
「コンテスタビリティ」が鍵

蓼沼:ノーベル経済学賞を受賞された業績について私が大変素晴らしいと思うのは、さまざまな分野を研究される中で、インセンティブというものを、人々の行動を説明する基本的概念として確立されたことです。
また競争についていえば、かつて独占とは規模に対して生じ、大規模な設備が必要な産業で生じるものでしたけれども、現在ではむしろネットワークが広がれば広がるほど独占が進むという、大きな社会経済の変化があると思います。そうした中で、人々の厚生という観点からどのように規制すべきなのかは、検証する必要があると思います。かつては非効率性が生じるから独占は望ましくありませんでした。今は果たしてネットワークによる独占を同じやり方で規制するのが人々の厚生の点で肯定されるのかということです。

ティロール:私たちは新しい世界に生きており、独占禁止に関する知識を問い直す必要があるというご意見には賛成です。一つには、ネットワーク社会を考えると、独占はある意味で効率的とも考えられるからです。ネットワークには相互運用性がないため、ネットワーク社会の効用を享受するためには1社か2社、あるいは3社のネットワーク提供者に依存する必要があるかもしれません。私はFacebookを使っていますが、それはあなたがFacebookを使っているからです。ネットワーク社会がそういうものであるため、事実としてネットワーク提供者は少ないのです。実際には1社のみ提供するのが効率的かもしれません。しかし同時に、独占にはまだ多くのマイナス面があります。独占は高価格を招くことが分かっており、また、製品の「共食い」現象を恐れて新しいことに挑戦しなくなるという弊害を生みます。こうしたことから、独占禁止を別の視点から考える必要があります。最近大いに議論されているのが「コンテスタビリティ(競争可能性)」という概念です。コンテスタビリティは、市場の中での競争ではなく、市場を狙う競争です。市場を狙う競争では、次のGoogle的存在が参入し、Googleに取って代わることがあり得るということです。Googleなどの既存事業者が新規参入者の脅威につねに用心していれば、Googleは革新性を失わず、取って代わられることのないよう価格を低く抑えざるを得ないでしょう。既存事業者は少なくとも理論上、できる限りネットワーク社会を築き続けたいと望むものです。実際にそうなるかどうかは、さらに検証することができるでしょう。

FacebookによるWhatsAppと
Instagramの合併買収は是か非か

蓼沼:コンテスタビリティというのは大変興味深い概念であると思います。

ティロール:もちろん、コンテスタビリティの実現には困難が伴います。これが機能するには少なくとも二つの条件が必要です。一つ目は、効率的な新規参入者が実際に参入できること。二つ目の条件はやや難しいのですが、参入者が実際に参入し、既存事業者と競争することです。最初の条件については、参入者はしばしばニッチ市場、それもきわめて小さなセグメントに参入します。現にGoogle自身も最初は検索エンジン事業に参入しました。Amazonも書籍ビジネスから始めました。きわめて小規模な事業ですが、そこから拡大して帝国を築きました。Google、Amazon、Facebook、Appleなどは、最初は得意とする特定セグメントをごく小さなビジネスとして始め、そして事業を拡大していきました。既存事業者が何もかも販売し、ニッチ市場への参入を妨げるような一括販売や抱き合わせ販売を行えば、あるいは彼らが捕食、すなわち新規参入者をえじきにすれば、参入は難しいかもしれません。それが一つ目の条件。独占禁止当局はその種の参入障壁を回避しなければなりません。
二つ目は、新規参入者が参入できても、既存事業者側に取り込まれてしまうことで既存事業者と競争できない場合です。現在、多数の新規参入者が既存事業者に買収されているとみられ、それでは競争は生じず、消費者にとっては価値が生まれません。FacebookによるWhatsAppとInstagramの合併買収は、これらがSNSであるため、買収されなければFacebookと競争できていた可能性があります。実際にはFacebookに買収されたので、本当のところは分からないのです。この問題は合併に関わる政策上の課題を提起しています。これらの合併が反競争的な合併だったと証明することはきわめて難しい。なぜなら、競争が実際には起こらなかったからです。これは大きな問題の1つです。テクノロジーがきわめて急速に進化しているため、WhatsApp とInstagramがFacebookの競争相手になったかどうかを見極めるのは非常に難しいのです。

経済学の価値と
社会的な役割とは

蓼沼:ティロール先生のレクチャーをこの場で受けることができまして、大変光栄に思います。ティロール先生がさらに世界の経済、世界の人々のために競争政策や公的規制を導いていかれることを期待しています。

ティロール:ありがとうございます。私は、経済学が実証的科学というだけではなく規範的科学であることを強調するのは、きわめて重要だと思っています。これは蓼沼先生が前におっしゃったことです。経済学では、もちろん理論や計量経済学、ラボやフィールドでの実験、ビッグデータなど、定量的な手法を重視します。しかし、定量的な手法だけではなく、経済学には実際に、政策立案に大いに活用でき、利用可能なきわめて強い規範的内容があるので、それを深めるのも私たちの仕事の一つです。先生がそれを強調されているのは嬉しい限りです。付け加えることがあるとすれば、先生も同じかもしれませんが、私が経済学を選んだ理由の一つはこの規範的側面であり、それを使ってより良い世界の構築に、政策立案の関与に役立てることができるからです。それが経済学の魅力の一つです。

蓼沼:ティロール先生は最近Economics for the Common Goodという本をお書きになりました。それに関連して伺いたいと思います。経済学の価値、そして経済学にはどのような社会的な役割があるのかということについてお聞かせください。

ティロール:経済学は、社会的目標を定義するものではありません。目標を決めるのは社会です。しかし、それについて考える際に助けとなることはできます。私は著作の中で、少なくとも17世紀のイングランドや18世紀の大陸欧州まで遡る長い伝統の一部である「無知のヴェール(veil of ignorance)」について取り上げ、社会的目標を考えるのに役立てようと試みました。これはシンプルな思考実験です。目標について考えることは非常に難しい。なぜなら私たちにはそれぞれ社会的立場があるからです。私たちは社会的目標について考えるときは、その特定の立場から離れなければなりません。この考え方は、実はジョン・ロールズ、ハーサニその他の人々が20世紀に米国で主張したことと同様に、「仮に私がまだ生まれておらず、私が社会の中でどのような存在になるのか分からなかったとしたら」と自らに問いかけるというものです。「自分は女性、あるいは男性として生まれるのか、健康か病気がちか、貧しい家庭か豊かな家庭に生まれるのか、教育水準の高い家庭か、そうでもない家庭に生まれるのか、日本人かフランス人か、宗教的か不可知論者かといったことが分からない場合、自分はどんな種類の社会で暮らしたいのか」と。これは基本的には、「自分の社会的立場がどうなるのか分からないということが分かっているとき、自分はどのように社会を設計するのか」という問いです。そう問いかけることで、自分がどのような社会を実現したいと思うか、洞察が与えられることでしょう。たとえば、ジェンダーの平等を実現したい。宗教的寛容を得たい。病気のリスクに対して国民皆保険制度をつくりたい。誰もがよい学校に行くことのできる国民皆教育を整備したい。それも1つの保険メカニズムだからです。平等な所得配分を実現したい。競争政策を導入したい、といったことです。このように、社会が必要とするものを決めるのは経済学者ではありません。決めるのは社会です。しかし、私たちは、少なくともそれについて考える助けとなることはできる。そして、私たちの主な仕事は解決策を見つけることです。目標が決まったら、焦点はそれらの目標をどのように実現するかに移りますが、その場合、資源配分と組織におけるインセンティブがより重要な問題になってきます。さらに、私たちはこれらの問題を分析するための道具を作り出します。ただし、繰り返しになりますが、目標を決めるのは社会なのです。

蓼沼:私もご意見に全く同意いたします。経済学が社会の目標を定義するのではなく、社会的目標について人々が合意することに奉仕することが経済学、あるいは社会科学の役割であると思います。規範的経済学も実証的経済学も共に人々の合意形成に奉仕する。規範的経済学は社会的目標を考えるときの思考のフレームワークを提供します。ジョン・ロールズの「無知のヴェール」の考え方もそうですし、あるいはアマルティア・センの「機能」と「潜在能力」という考え方も経済学的な思考から生み出されていると思います。
また実証的経済学は、さまざまな政策や規制などがどのような帰結をもたらすかを示すことで、人々の情報の不完全性をなくし、合意しやすくすることが重要な役割だと思います。

ティロール:情報の非対称性は、もちろん取り除くことは難しい。強力な制度は、実際に情報の非対称性を確実に低減させます。たとえば、間接金融。私たちは金融機関を使って借り手をモニターしています。投資アナリストがスターバックスをモニターしているように、銀行は中小企業をモニターしています。情報の非対称性を減らすために金融機関を使っているのです。透明性規則も、情報の非対称性を低減させるためのものです。
民主主義社会においても、専門家が情報の非対称性を減らそうと働いています。昨今は残念なことに、専門家は批判され、ポピュリストからはもう専門家の意見は聴きたくないとも言われています。しかし、これは民主主義にとってやや危険なことです。専門家でも時には不備がありますが、それでも専門家抜きの民主主義では実際に民主主義を実現することはできません。何でもよい、ということになりかねないからです。
社会の制度の多くには情報の非対称性を減じる仕組みが組み込まれています。十分とは言えませんが。また、人々の嗜好が何かを正確にとらえることは不可能です。しかし、情報の非対称性から私たちは制度の多くを理解できることも事実です。
同じことは代議制についてもいえます。直接民主制はまれですが、スイスなどの数か国、あるいはカリフォルニアなどでは導入されています。それらも民主制ですが十分ではありません。それは一つには、人々が必ずしも十分な情報を得ていないからです。人々が愚かなのではなく、たんにさまざまな課題について情報を得る時間がないのです。そしてそれが、原則として代議制を採用している理由です。常時ではないにしても、原則としてそれらの課題についての情報を得る時間のある人に意思決定を委ねようという制度なのです。

若い研究者は刺激的な環境において
複数の分野で訓練を受け幅を広げよ

蓼沼:そのとおりですね。さて、経済学についての話をいつまでも続けていたいところではありますが、ほかにもお聞きしなければいけないことがありますので、最後に若い研究者へのメッセージをいただきたいと思います。

ティロール:いくつかあります。一つ目はもちろん、複数の分野で訓練を受け、幅を広げることです。研究分野は急速に変化していますし、新しい発想はさまざまな領域を組み合わせることで得られるからです。領域を超えた発想と研究分野の融合が有用になるでしょう。そのためには、経済学の幅広い教養を身に付けることが有効です。時には経済学にとどまらず、人文科学や他の社会科学分野も少なくともいくらかは学ぶことが必要です。実際、私たちはそれを促そうとしていますが、一方で経済学は一段と専門化しているため、難しい面があります。経済学は成熟し、研究者はより専門的な領域へと特化しています。すべての領域の専門家になることは難しいため、どこかの時点で少なくとも一つの分野の専門家になる必要があります。とはいえ、学生時代には多様な視点とアプローチを学ぶことが重要です。
二つ目のアドバイスは、刺激的な環境を選ぶことです。私自身の経験ですが、研究者として同僚や学生、先生方から非常に大きな影響を受けました。彼らのお蔭で、私は異なる角度から物事を考えたり、それまで着目したことのない新しい問題について考えたりするようになりました。また、時には現実に触れることも重要です。私自身、トゥールーズで官民両方の多くのパートナーと働き、そこで新しい研究テーマを見つけました。もちろん、重要な財政的手段ではありましたが、活用できる新しい考え方も得られました。つまり、環境というのは、それが直接の同僚であれ外部との関係であれ、新しいことを考えるのにきわめて有用なのです。
三つ目のアドバイス。研究者になるなら、適切な問題を立てるよう努めることです。実はこれが大変難しい。非常に多くの問題がある中で、適切な問題を見つけるのは最も難しいことであり、経験を積んで学んでいくことなのです。
四つ目のアドバイスは、経済学者としての責任を忘れてはならないということ。これは大変重要です。私たちにはこの世界をよりよくする使命があります。とりわけポピュリズムの広がる時代には、経済学が共通善のために如何に役立つかを説明し、その知識を共通善のために活かされるよう広めていく責任があります。
そして、私からの最後のアドバイスは、自分が研究を楽しむこと、情熱を持つことです。情熱はとても重要です。研究であれ教育であれ、あるいはどんな業界や政府関係機関で働こうと、自分のやっていることを楽しめれば人生は変わり、自身が社会にとってはるかに有用な存在になることができます。自分自身にとっても、目の前の仕事を楽しむことは非常に重要です。それから、学生諸君には自分自身を信じてほしい。自分を信じる。これはとても重要なことです。

蓼沼:私も同感です。

ティロール:特に一橋大学には非常に優秀な学生がいるのですから、彼らが自分を信じないというのはとてもよくない。ぜひ自分の能力に自信を持つべきです。

TSEの設立と
持続可能な運営について

蓼沼:次に、トゥールーズ・スクール・オブ・エコノミクス(TSE)についてお伺いします。TSEは現在経済学の分野で世界のトップスクールの一つです。TSEの設立から、今日に至るまでの歩みについて教えてください。

ティロール:TSEは、ジャン=ジャック・ラフォンが設立しました。彼はハーバード大学でPh.Dを取得した後、1980年に生まれ故郷のトゥールーズに戻り、そこに欧州レベル、世界レベルの大学をつくろうと決意します。当時、トゥールーズには何もなかったので、誰もが彼は無謀だと言いました。実際、ごく少数の若手研究者のみがラフォンの設立を手伝いました。彼は状況を変えたいと思い、何人かの研究者を引き寄せました。私は1991年に加わりました。
最初に彼が状況を変えた方法は、企業や公的機関とパートナーシップを組むことでした。それによって研究資金を確保し、研究者にとっては新しい研究テーマを得る機会となりました。これは企業との契約を通じた応用研究ですが、研究そのものは独立していました。産業界の方々と議論をしますが、大学として独自の研究を行い、自分たちの発表したい内容を発表するという考え方でした。このモデルは2006年まで続きました。残念ながら、2004年にラフォンが亡くなりました。彼は優れた経営者であり、研究者でした。彼の専門領域では世界屈指の研究者の一人でした。若くして亡くなった時、私たちは彼が始めた事業を続けようと決意しました。2006年、運よく財団設立の権利を得ることができ、名称をジャン=ジャック・ラフォン・トゥールーズ・スクール・オブ・エコノミクス財団とし、私はその代表となりました。これは民間の財団ですが、公立の大学として公的なシステムの中に位置づけられています。その一方、財団自体は民営なので、運営方法がより厳格な公的部門とは違い、経営面ではより高い柔軟性が得られています。この財団は基本的に一つの財政手段であり、ガバナンス手段です。私たちは2006年に財団設立の権利を得て、2008年にTSEを統合したのです。

蓼沼:そうでしたか。

ティロール:財団設立の権利を得た後、最初に行ったことは、財政的に持続可能なものにするため企業と政府から寄付を募ることでした。過去には資金が2、3年分しかなく、苦労したからです。米国の大学が行っているように基金をつくり、財政基盤をより安定的で持続可能なものにしたい。そのために財団を活用しました。それから、私たちは財団のガバナンスを確立しました。財団の理事会には15名の理事がいますが、そのうちTSEの関係者は2名のみで、あとの13名は外部からの登用です。また、財団の科学諮問委員会は16名の委員全員が外部で、TSEのメンバーは1人もいません。理事会も科学諮問委員会も外部ガバナンスの確保を目指しています。
大学システムの機能においても多くの改革を実施しようと努めました。その一つが、たとえばテニュアトラック制度の導入です。以前はそういう採用はできませんでしたが、今では可能になっています。実際、最初に採用した研究者の1人は蓼沼先生の学生であった山下拓朗氏でした。彼は一橋大学の学部で先生の指導を受け、その後、スタンフォード大学に留学し、こちらで採用し、高い実績を残して、トゥールーズでテニュア(終身在職権)を手にしました。以前は、トゥールーズで教鞭をとるのはほかのフランスの大学と同じように主にフランス人でしたが、今ではきわめて国際色豊かな布陣となっています。フランスにはテニュアトラック制度がなかったので、本校はこの制度を取り入れた最初の大学です。そのお蔭で国際市場で採用できるようになりました。

熾烈な資金獲得・人材獲得競争
研究の素晴らしさの強調が重要

蓼沼:そこでいくつかお伺いいたします。まず、社会科学の分野は理工系に比べると企業などから大きな額の寄付をもらうのが非常に難しいと思いますが、TSEではどのような工夫をされて基金を大きくしているのでしょうか。また、現在、研究者の獲得競争が国際的に激しくなっています。アメリカの大学などでは高額の年俸を提供する場合が多い中で、TSEは非常に優秀な研究者を集めていらっしゃる。その工夫や方法として、どのようなことをされているのでしょうか。

ティロール:ご指摘のとおり、社会科学の分野で資金を集めることも、米国からの今の激しい人材獲得競争に対抗することも、本当に容易ではありません。しかも、米国だけではなく、多くの欧州諸国や中国、シンガポール、その他の多くの国や地域で人材をめぐる競争は熾烈になっています。21世紀の経済は、大学内外の起業家精神を持つ人材の確保に依存するようになっており、その確保はきわめて重要です。そのために日本の大学もフランスの大学も競争に苦労しています。競争は楽ではありませんが、選択の余地はありません。最良の人材を得るためには競争は避けて通れません。日本の資金提供者を納得させたいと思うのなら、何よりも研究の素晴らしさを強調し、経済学一般の議論が実はビジネス環境のためにも極めて重要であると主張することです。
私は、規制は必要である、賢明な規制が必要であると主張してきました。「レッセフェール(自由放任主義)」は望ましくないし、愚かな規制も良くない。賢明な規制こそが必要なのです。社会科学の研究者が貢献できることは、よりよい経済環境の整備であり、それが実際にその国のビジネスを活性化させるとともに人々の厚生を高めているのです。
私は、高等教育こそが国の未来であるという理由から、政府と企業は高等教育に投資する義務があると考えています。そうしなければ、すべてが海外に流出してしまいます。世界のテクノロジー企業上位20社を見ると、11社が米国企業、9社が中国企業です。世界のテクノロジー企業上位20社すべてが米国と中国にあるとすれば、それが経済活動の未来を示しています。日本や欧州などの国・地域は自国の企業を育成する必要があります。それらの企業が自国の富と雇用を生み出すからです。そのため、優れた教育、特に高等教育と研究活動への投資は非常に重要な義務だと私は考えています。これは、短期的な問題というより長期的な課題であるため、時に義務を怠ってしまうことがあります。ある意味、気候変動対策と似ています。2年遅れてもどうということはないが、最終的には非常に悪い結果をもたらす。ですから、高等教育と研究活動への投資が重要であることを主張して、納得してもらう必要があります。それは社会的責任の一つです。

最良の人材の確保と育成に向けて
良好なガバナンスと能力主義の推進を

蓼沼:TSEには特に優秀な研究者がいますが、人材のリクルーティングにはどのような工夫をされているのでしょうか。

ティロール:私たちは能力主義を貫き、国際的な雇用市場で採用しています。毎年米国で雇用市場を兼ねた経済学会の大会があり、本校からも10人程度が行って面接を行っています。数百人の応募があり、絞り込んでおよそ15人から20人にトゥールーズに来ていただき、その中から採用を通知します。もちろん全員がそのオファーを受け入れるわけではありませんが、毎年1人か2人を採用できています。彼らと7年間のテニュアトラック契約を結び、7年後に評価を行います。評価に際しては、世界の専門家たちに手紙を送り、その研究者の業績について同分野の他の研究者と比較評価してもらいます。こうして研究者の業績の質について外部評価を得ますが、同時に学内の評価委員会の研究者も論文を読み判断します。そうしてテニュアを認めるか否か、最終決定します。このやり方はアメリカの大学などで行われているのと同様です。
若手の採用だけでなく、シニアのレベルの採用でも、同じことを行っています。

蓼沼:一橋大学は日本で社会科学の研究・教育をリードしている大学です。今後、一橋大学がTSEのようにさらに成長していくためのアドバイスをいただければと思います。

ティロール:国際的な水準であるために何が必要かは蓼沼先生のほうがよくご存じでしょうから、特段アドバイスとして申し上げることはありません。現在、人材獲得競争が熾烈であることは事実ですが、先ほど述べたとおり、選択の余地はありません。一橋大学もTSEも同じ競争に直面しています。なすべきことは、最良の人材の確保と育成に向けて良好なガバナンスと能力主義を推進することです。また、一橋大学は社会科学を指向してその諸分野を包含しているという利点もあります。それらが一体となって協働できれば素晴らしいと思います。
TSEでは、7年前にトゥールーズ高等研究院(IAST)を設立し、経済学者が心理学者や社会学者、政治学者、歴史学者、哲学者、法学者などと協働する場を作ろうとしています。IASTはTSEの一部ですが、独立した部分となっていて、研究者たちは相互に交流し、研究しています。彼らはもちろん、ある分野の専門家ですが、他の研究者と交流しようとしています。それは自発的なものです。研究者に学際的研究を強制することはできません。それでも、互いに交流し、学び合う仕組みを作れば、大変有益です。もっとも、一橋大学は名声のある研究機関ですから、私から改めて申し上げることでもないかもしれません。
フランスで気づいたことですが、時に構造的な制約があるため、私たちは公的な大学システムの中にとどまりながら、体系的に改革を進めようとしています。実際に改革できなければならないのですが、容易ではありません。起業家精神が必要ですし、時に対立も覚悟しなければなりませんが、結局、それが長期的に実を結ぶ戦略なのです。

蓼沼:一橋大学も4年前に一橋大学社会科学高等研究院(HIAS)を設立し、学際的研究と国際共同研究を推進しています。TSEとは同じ方向に向かっていると思います。
私はTSEと研究・教育での協力関係をさらに強めたいと願っています。両校はちょうど最近、学生交流を開始したところです。

ティロール:それは素晴らしいことです。

蓼沼:ありがとうございました。