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広い人間力と、二つの専門性、 π型人間を目指してほしい

  • 三井住友銀行取締役会長北山 禎介
  • 一橋大学長山内 進

2014年冬号vol.41 掲載

日本を代表するメガバンクの一行である、三井住友銀行。取締役会長の北山禎介氏は、1969年に三井銀行に入行後、世界の経済情勢が激動するなか、再編を経て今日のメガバンクに至る過程において一貫して同行でキャリアを積んできた生粋のバンカーである。一方で公益社団法人 経済同友会の教育改革委員長に就任し、高等教育の質を向上させる具体策や、新しい産学連携のあり方を検討する要職にある。今の経済界で求められるグローバル人材の育成などについて、貴重な提言を伺うことができた。

北山禎介氏プロフィール写真

北山 禎介

1946年東京都生まれ。1969年東京大学教養学部卒業。同年株式会社三井銀行入行。2001年三井住友銀行常務取締役 兼 常務執行役員、2003年同行専務取締役 兼 専務執行役員。2004年株式会社三井住友フィナンシャルグループ副社長執行役員を経て、2005年に同社取締役社長、株式会社三井住友銀行取締役会長に就任(現任)。また、2008年より公益社団法人経済同友会副代表幹事、2009年より公益社団法人経済同友会教育問題委員会(現教育改革委員会)委員長、2011年より文部科学省中央教育審議会大学分科会臨時委員、2012年より文部科学省国立大学法人評価委員会委員長も務める。

山内 進学長プロフィール写真

山内 進

1949年北海道小樽市生まれ。1972年一橋大学法学部卒業。1977年同大大学院法学研究科博士課程単位取得退学。1987年法学博士。成城大学法学部教授、一橋大学法学部教授、法学部長、理事等を歴任。2004年、21世紀COEプログラム「ヨーロッパの革新的研究拠点」の拠点リーダーに就任。2006年副学長(財務、社会連携担当)、2010年12月一橋大学長に就任。専門は法制史、西洋中世法史、法文化史。『北の十字軍』(講談社)でサントリー学芸賞受賞。その他『新ストア主義の国家哲学』(千倉書房)、『掠奪の法観念史』(東京大学出版会)、『決闘裁判』(講談社)、『十字軍の思想』(筑摩書房)、『文明は暴力を超えられるか』(筑摩書房)など著書多数。

国際化の進展を見据え国際関係論コースを選択

山内:この対談は、グローバルに活躍している方のお話を伺って、いかにグローバル人材を育成するかというヒントを読者に伝えることを目的にしています。伺うところによると、北山さんは学生時代に国際関係論に関心を持ってその専門課程に進まれたとか。

北山:東京大学の文II(文科二類)に入学しました。文IIは通常経済学部に進学するのですが、駒場キャンパスでの教養課程の2年が終わるとき、二つの理由で3年から「教養学部教養学科総合社会科学分科国際関係論」というコースに進むことを選びました。理由の一つは、1966年当時、日本経済は高度成長のなかで国際化が進展する初期の段階にあったことです。国際関係論というコースでは国際政治や国際経済などを学ぶので、これからの社会では大いに役立つだろうと考えました。

山内:もう一つの理由とは何ですか?

北山:駒場キャンパス前には京王井の頭線の駒場東大前駅がありますが、当時私が住んでいた実家は同じ井の頭線の久我山駅に近いところにありまして。本郷まで行くのは面倒だということです(笑)。

山内:なるほど(笑)。駒場は渋谷にも近いですから、本郷よりいいかもしれませんね。

北山:もっとも、4年の頃は大学紛争でほとんど授業はない状態となってしまいましたが。後になって当時のことを振り返ってみると、国際関係論では英語とそれ以外の外国語が必須で、また教養学科としてのリベラル・アーツの科目も徹底的に教育されていました。1学年が60〜70人でしたから、一つの授業が数人から多くて20〜30人という規模で、先生とインタラクティブにやり取りする内容のものがほとんどでした。経済学部などの大人数の授業と違って、1人の学生としては密度の濃い勉強ができたと思います。よい訓練になったと思いますね。

山内:私も学生時代にラテン語を履修しましたが、最後のほうは出てくる学生は3人だけ、という状況でした。少人数の授業ならではの面白さもありましたね。北山さんは語学もずいぶんと勉強されたんでしょうね。

ポップ音楽の歌詞を訳した好奇心

対談の様子1

北山:実は、小学6年生のときに母親のすすめもあって英語の塾に通うことになったのです。まだ昭和30年代の初めですが、母親はずいぶんと時代の先を見ていたのでしょう。中学校は千代田区立麹町中学に進みましたが、おかげで英語の授業は簡単に思えました。その英語の先生がとても立派な方で尊敬する心が芽生え、子ども心に先生の歓心を買おうと、授業以外で勉強する姿勢を見てもらおうと考えました。そして本屋さんで英文日記帳というものを買い、毎日英語で日記を書いて毎週土曜日にその先生に添削をお願いしました。それを1年間続けたんです。きっと先生は途中で挫折するだろうと思われたと思いますが、続けていることを先生からほめてもらいました。それがまたモチベーションになっていったと思います。

山内:それはすごいですね。日本人はよく語学力が低いと指摘されますが、結局は自分で鍛えるしか術はありません。しかし、それを中学生でやったというのは素晴らしいと思います。

北山:当時、アメリカからエルヴィス・プレスリーやニール・セダカといったポップ音楽が入ってきました。高校時代になってビートルズが出てきたわけですが、私も興味を持ちました。それで、彼らが何を歌っているのかが気になって、一生懸命辞書を引きながら歌詞カードを訳したものです。そういったことも英語へのモチベーションに影響を与えたと思います。

北山氏1

山内:なるほど、普通は聞いているだけで歌詞の意味まで調べないという人が多いように思いますが、探究心がおありだったのでしょうね。大学の語学の授業はいかがでしたか?

北山:専門課程に入ってからも、英語の授業はいくつもありました。通常は1冊のテキストを読んでいくという形式でしょうが、教養学科では英語の音を勉強する音声学や、上智大学などの神父の先生がきてキリスト教について学ぶ授業もありました。英文学を読むには、キリスト教の知識がないと作品で訴えたいことが理解できない場合が多いからです。どれも中身が濃い授業でしたね。

山内:教養学部の国際関係論コースは、現在まで存続していますね。

北山:私の頃にスタートしたばかりでしたが、その後成果が出ているようです。外交官をはじめ国際的なステージで活躍する人材を多数輩出するようになり、質の高い授業をしているとの評価が高まったのだと思います。

大学で鍛えられたコミュニケーション力や論理的なものの考え方が役立つ

山内学長1

山内:そういったコースで学んで銀行に就職されたわけですが、そこで学んだ国際経済や国際政治、そして語学などは、銀行でどのように役に立ちましたか?

北山:入行当時は、邦銀の国際業務はまだまだプリミティブな時代ということもあり、グローバル化云々といった世界とは無縁だったと思います。最初に配属される国内支店で学ぶ預金や融資などのベーシックな業務から始まって、30歳頃までにさまざまな業務を経験し、それぞれの分野における知識やスキルを身につけていきます。そのプロセスでは、対峙する人とのコミュニケーションや論理的なものの考え方が重要になるわけですが、大学の4年間ではそういった基礎的な力を養ってもらったと思います。何せ少人数の授業ですから、学生はずっと話し続けていなければなりません。さらに科学哲学などの授業では、学生同士で議論しながら物事をロジカルに論証していくといった訓練を重ねるわけです。そこで身につけたスキルは、入行後にも大きく役立ったと思いますね。

山内:なるほど。そういったコミュニケーション能力や論理力といったスキルはあらゆる仕事の基礎力として役に立つでしょうね。一橋大学では主としてゼミナールでそのような能力が鍛えられていますが、やはり少人数教育は大切ですね。

北山氏2

北山:それから、国際分野で仕事をするには、基礎的なスキルとして英語はどうしても必要になります。英語ができればすなわち国際人、ということではありませんが、英語はあらゆる国際的な業務において今や必要条件の一つであることは厳然たる事実であると思います。その点、小学生時代から学び始め、国際関係論コースで比較的突っ込んで学べたことは、銀行に入ってから国際業務に従事するうえでかなり役立ちましたね。

山内:そうですね。スキルとしての英語という視点は大変重要だと思います。特にグローバル化が進んでいる現在はそうですね。ところで、経済のグローバル化とともに、日本の製造業もいろいろなグローバル化の波を乗り越えて発展していると思います。あるいは、波を乗り越えられず衰退している業界もあるでしょう。そうした動きと軌を一にして、銀行もずいぶんと変わってきているのではないかと思いますが。

北山:おっしゃるとおりですね。銀行は日本経済を映したミラーのようなものです。企業を含めて国際化が大きく進展していくなか、銀行業務も国際化が進んでいます。少し長くなりますが、そのあたりの流れをざっとご説明します。

山内:よろしくお願いします。

国際化する製造業とともに銀行の国際化も進展

山内学長2

北山:私は1969年の入行ですが、この頃は1973年に起きたオイルショックで終焉を迎えることになった高度経済成長の終盤期ですね。当時の日本経済は、主として製造業が輸入した原材料をもとに国内で生産した製品を海外に輸出する、いわゆる加工貿易で稼ぐ構図が続いていました。このため、日本企業の海外拠点も主として販売拠点であったわけです。したがって当時の銀行の国際業務は、原材料の輸入やこうした販売拠点が手がける貿易に対するファイナンスを行うことでした。邦銀の海外支店はほんの一部の国にしかありませんでしたが、海外の銀行と為替業務の代行に関する契約であるコルレス契約を交わして資金のやり取りをしていました。
その後、オイルショックで日本経済はダメージを受けたものの、それが落ち着き、数年で立ち直りました。そして力をつけ始めた日本の製造業は、海外に工場を建てて海外生産を始めるようになりました。すると、銀行は貿易に対する短期の運転資金だけでなく、長期の設備資金も提供するようになったのです。邦銀の海外拠点も増えていきました。

山内:なるほど、日本の製造業とともに銀行の国際化が進展したわけですね。

北山:そんななか1979年にテヘランでアメリカ大使館人質事件が起きて、アメリカはイランの在米資産を凍結する制裁を行いました。すると、イランを筆頭とする産油国は日本をはじめとするアメリカ以外の国に金を預けることになったわけです。その潤沢な資金を得た邦銀は、世界的な資金の流れにおいて仲介役を担うことになりました。
1984年5月の日米円ドル委員会によって、大口預金金利の自由化や外貨の円転換規制の撤廃等、日本の金融・資本市場の大幅な自由化、国際化が実行されることになりました。外国為替及び外国貿易法では、それまでの「原則禁止・例外自由」から「原則自由・例外禁止」へとガラッと変わったわけです。これによって邦銀の国際化や業務の多様化が急速に進みました。それまでの銀行業務はもっぱら融資が中心を占めていましたが、それ以降、非日系企業との取引を含めてのクロスボーダー取引や証券業務など、業務の幅がどんどん広がっていったのです。いわば、一般的な銀行業から複合的金融サービス機関に変貌したともいえるでしょう。

相対的に高まる邦銀の存在感

山内:そのような業務の拡大はバブル経済の崩壊まで続くわけですね。

北山:そのとおりです。1985年のいわゆるプラザ合意を機にバブル経済が始まったと考えられていますが、それが1990年代の初めに弾けてから2000年代に至るまで、坂道を転げ落ちるように逆回転したのはご存じのとおりです。しかし、そうした苦境のなかにあっても、金融行政のあり方やリスク管理手法などに対する見直しが進み、反攻への備えは続けていたと思います。公的資金を注入してもらい体力を回復させることもできました。

山内:リーマン・ショック後は、ダメージが大きかった欧米の銀行に代わって邦銀の活躍が国際舞台で目立つようになりましたね。どのような理由が考えられるのでしょうか。

北山:1990年代の初頭に導入された、国際業務を行う銀行の自己資本比率に関する国際統一基準である「バーゼル合意」(いわゆる「BIS規制」)が数次のリバイスを経て、現在は「バーゼルIII」に強化されています。これは、サブプライムローン問題やリーマン・ショックで顕在化した、アメリカの金融機関を中心とするハイリスク・ハイリターンの行き過ぎた金融資本の自由化が世界の実体経済に大きな悪影響を及ぼしたことに対する反省に基づくものです。バブル崩壊以降、邦銀は国際業務を一気に縮小し、米銀のようにレバレッジを効かせた金融取引についてもあまり手がけてはきませんでした。バック・トゥ・ザ・ベーシックといいますか、旧来の融資を中心とするコマーシャルバンキング業務に回帰していたわけです。私はあえて「幸か不幸か」と言い添えたいのですが、このことによってリーマン・ショックなどの大きな問題から逃れることができたのです。この結果、邦銀は、世界の金融マーケットのなかでの力が相対的に高まることとなり、お客様の信頼やニーズに応えられる存在として競争力を発揮する状況に至っているわけです。こうした背景には、近年の成長地域である東南アジアに強固なポジションを確立しているという、ジオグラフィカルな強みがあることもあったと思います。

  • BIS/Bank for International Settlements:国際決済銀行

メガバンクにおけるトップの役割

対談の様子:左が山内学長、右が北山氏

山内:ご解説いただいたように、銀行はまさに大きな変化を遂げてきているわけですが、そういった環境変化のなかにあって進むべき方向性を見極めていくことが、リーダーの重要な役割ではないかと思います。

北山:リーダー1人だけでは、それほど大きな能力は持ち得ません。銀行は通常3年程度の中期経営計画を策定し、それに基づき経営を進めていますが、その作成においては、メガバンクという大きな組織のなかで、関係する各部署が協力し合って行っています。中期経営計画は大体1年ぐらいかけて作成するのですが、5年、10年という比較的大きなトレンドにおいて、日本やアジア、世界ではどういった状況が続き、どう変化していくのかを見通して、それを前提に世の中がどうなっていくのか、金融機関に対するどういったニーズが顕在化するのか、今後成長もしくは衰退する業務は何なのか、といった仮説をマッピングしていくわけです。そして、そのマップに基づいて人材と資本というアセットを配分するとともに、取るべき戦術も決めていきます。M&Aで時間を買って一気に進めるのか、自前で育てていくのか、といった選択ですね。こうやって描いた仮説と戦略、戦術を実行するか否かを最終的に決断するのがトップの責務です。その後は、動き出したプログラムを節目節目で検証し、必要に応じて軌道修正するなどPDCAサイクルを回していくことになります。こういった大きなストラテジープログラムを進めていくマネジメント体制をつくることや、その体制をきちんとチェックし続けることもリーダーたるトップの役割ですね。

山内:最終決断者という責務は、さぞ重いものでしょうね。

北山:もう一つ、重要な責務があります。どの企業にも、経営理念があると思います。絶対に変えてはならない基軸のようなもので、企業文化ともいえるものです。三井住友銀行のルーツは三井家であり住友家であるわけですが、どちらも江戸時代からの長い歴史があり、当時からの家訓でもある経営理念を現代にまで伝承しています。こうした基軸は決して忘れてはならないものであり、社員は誰もがその重みを感じて日々を過ごしていると思います。
一方で、「不易流行」という言葉がありますが、そういった変えてはならない土台の上で、日々の変化をいち早く先取りし、時代時代に合ったサービスを提供していくことも企業としてはとても重要です。こうした両面のバランスを取るべくコントロールすることも、トップの責務だと思います。一般的に、企業というものは収益を上げなければならず、つい目先のことにとらわれて経営理念を忘れてしまいがちになります。トップはそうした事態をいち早く察知し、必要とあらば、経営理念に立ち返って自らを戒めていかなければなりません。

山内:ものすごい勢いで変化していくなかで、つねに原点を見失わないよう考えつつ取り組んでいくというのはとても難しいことのように思います。しかし、それを成し遂げてこそのリーダー、ということですね。

教育問題の解決をPDCAサイクルに乗せる

北山氏3

山内:ところで今、如水会の理事長をお願いしているのは、住友電気工業の松本正義社長なんです。そういった関係で、一度京都にある住友家の源流たる有芳園に行かせてもらいました。歴史を大切にされており、虚飾がなく深みがあっていいなあ、という印象を持ちました。

北山:有芳園から北に歩いて15分ほどのところには、三井家の菩提寺であり、紅葉の名所としても有名な真如堂があります。有芳園にも真如堂にも代々の物故者を祀る慰霊塔や祠がありますが、毎年4月、三井住友銀行の新入社員は研修の一環として双方を巡り、両家の歴史を勉強するのが習わしとなっています。

山内:素晴らしいことですね。三井も住友も、そういった誇るべき不変の歴史、軸をしっかり持っていて、それが強みだと思います。この強みは日本の強みであるといってよいかもしれません。

奥が北山氏

北山:現在では財閥というのはなくなっておりますが、しかし重い名前を共有する精神的なつながりや責任感は、グループ各社の社員は皆感じていると思いますね。

山内:社員教育の話が出ましたが、教育機関としての大学は、日本経済がグローバル競争から遅れたときに、「グローバル人材を育成していない」といった叱咤をずいぶんといただきました。残念ながらそういう一面も確かにあったとは思います。北山さんは経済同友会の教育改革委員長としても活動されており、高等教育に対していろいろご意見をお持ちだと思います。今の世界情勢を背景に、日本の大学に期待されていることや問題に感じていることには、どういったものがありますか?

北山:2009年に教育問題委員会(現教育改革委員会)の委員長を拝命しましたが、その直前に前任者が初等中等教育への提言をまとめておられたので、私は高等教育にフォーカスして提言をまとめることにしました。ちょうど当時民主党政権がスタートし高校無償化といった議論もありましたので、経済格差による教育格差などにスポットを当てることにしたのです。検討していくプロセスのなかで、文部科学省の方や山内先生をはじめとする大学関係者などと知り合うことになり、また過去の中央教育審議会や日本学術会議などがまとめたさまざまな提言にも目を通し、高等教育や大学が直面する問題についていろいろと理解することができました。そこで一つわかったことは、現在の問題は過去十数年間ずっと議論されてきたもののなかなか解決に向かっていないということです。もちろん、大学といってもいろいろなところがあるので一口には論じられず、かつ教育の問題に失敗は許されないので慎重にやる必要があることは理解できます。そこは踏まえながらも、解決に向かって早く議論を進めるために、PDCAサイクルに乗せていくことにまずは注力したいと思っています。
また、問題にはさまざまな論点があるので、どこかにフォーカスすることで議論を拡散させないようにすることも大切だと思います。企業人として、そういった経営上のノウハウも活かしながら諸問題の解決に貢献していきたいと考えています。

産学連携についての新しいあり方を探る

山内学長3

山内:ご指摘のとおりで、議論を進める仕組みができれば議論も建設的に進めることができると思います。

北山:それともう一つ私が取り組み始めているのは、産学連携についての新しいあり方を探ることです。かつてないほどのグローバル化やイノベーションが求められていくこれからの産業界を担う人材を育成するためにも、大学と企業はもっと連携すべきだと思います。たとえば、経済同友会が企業側を取りまとめ、インターンシップをもっと推進すべく大学側とともにプラットフォームを構築するといったことが考えられます。そこで、具体的にどういったことができるか大学側のご意見も伺おうと、2012年から上智大学や立教大学、琉球大学、沖縄国際大学、沖縄工業高等専門学校、沖縄科学技術大学院大学、昭和女子大学などの各大学を訪問しているところです。

山内:それは具体性があって、よい取り組みですね。

北山:あとは、ご質問いただいた大学への期待ということですが、特に一橋大学のように社会科学系、文系の学部に対して、これまで企業側は基礎的な人間力というか、一般的な社会常識を備えた人材を送り出していただければその後は企業のほうで必要な教育をする、というスタンスが一般的だったと思います。しかし、日本人同士はもちろん、国際的なコミュニケーション力を高める訓練は、大学4年間でもっとできる余地があるのではないかと思います。それに対しては、学生に課題を与え課題解決型授業をしてもらうといったことに企業側ももっと入り込めると思っています。そこで、我々も大学に対して「一緒にやりましょう」とアプローチしているところなんです。

山内:興味深いお話ですね。日本の大学は学部中心の専門教育が主体となっていますが、企業側からは特に社会科学系の専門教育にはあまり期待されていなかったわけで、大学側ものんびりしていた面があったかもしれません。これまではそれでもよかったのかもしれませんが、国際競争が厳しくなっている今、すでに学生間競争も激化し始めているわけですからね。企業も、採用する学生は日本人とは限らなくなっています。そんな時代に対応して活躍できる人材となるためには、各学部の専門教育をしっかり行うと同時に、人間力を鍛えるということをもっと意識しなければならないと感じています。その点でいえば、欧米の大学では昔からリベラル・アーツを重視して人間力強化に取り組んでいるわけですね。日本の大学はそこをどうしていくべきか考えなければいけないと思っています。それに加えて道具としての語学力や、ITのスキルをもっと高める仕組みも必要ですね。

北山:安倍内閣は、6万人を切った海外留学生を12万人に倍増させ、海外からの留学生14万人を30万人に増やす計画を策定して予算化していますね。そういった流れを学生自身も活用し、グローバル人材を志向していってほしいと思います。

山内:おっしゃるとおりで、我々も一橋大生をできる限り多く外に出すことを考えています。

経済界のリーダーになるという高い志を

奥が山内学長

北山:私はよく入行した若い社員に「π型人材になってほしい」と言っています。「横棒は幅の広い人間力を表し、そこから縦に伸びている2本の棒は深い専門性を表している。人間力を広げたうえで、証券業務でもデリバティブでも何でもかまわないから、2分野ぐらいは専門性を深めてほしい」という趣旨です。20代ではまだわからないかもしれないが、30代にもなれば「人間性を備えたうえでのプロとしての専門性」が問われることが理解できるはずだから、今からそのときに備えておいてほしいというアドバイスであるわけです。

山内:「π型人材」というのはわかりやすくてよいですね。リベラル・アーツでよくいわれる「レイト・スペシャリゼーション」、つまり幅広い見識や知力をまず養い、そのうえで専門性の高い知識を身につけるということですね。

2人で握手

北山:そうです。そして、大学への期待はもう一つあります。それは山内先生が一橋大学のミッションの再定義としてまさにおっしゃっていた「社会的公共性」ということなのです。アダム・スミスが『国富論』の前に書いた『道徳感情論』では、まさにリーマン・ショックのような事象を予言しているんですね。市場には悪いほうの「見えざる手」が生起するということです。まさにこうしたことを社会科学系の大学ではしっかり教え、社会的公共性の重要さをわきまえた人材を育成してほしいと思います。

山内:私の言葉まで引き合いに出していただきありがとうございます(笑)。ところで、貴行には一橋大学に講座をご寄附いただいているうえに人材まで派遣していただき、大変ありがたく思っております。最後に、一橋大学の学生にメッセージをお願いいたします。

北山:例年、一橋大学の学生さんには入行してもらっています。現在1万2000人ほどいる総合職のなかで500人ぐらいの卒業生がいますが、どんな部門で活躍しているか調べたところ、国際、大企業取引、投資銀行といった銀行のなかでも先端的な知識やスキルを必要とされる分野で活躍してもらっています。
一橋大学は錚々たる顔ぶれの経営者を経済界に送り出しています。学生はそういった歴史的な冠を載せて卒業し、嘱望されているわけですから、自分も将来、経済界のリーダーになるという高い志を持ってほしいと思います。そうであるためにも、大学の4年間、あるいは大学院を通じてしっかり勉強し、友人と議論もし交友を深めてほしいと思います。そうしたことは必ずや社会に出てからの糧になると思います。

山内:どうもありがとうございました。

(2014年1月 掲載)