グローバル人材に不可欠なリベラル・アーツと語学力
- 株式会社吹野コンサルティング 代表取締役社長吹野 博志
- 一橋大学副学長中野 聡
2017年秋号vol.56 掲載
一橋大学経済学部を1965年に卒業後、日本企業の米国法人マネージャーや社長を経て、デルコンピュータの日本法人会長や米国本社副社長を歴任するなど、グローバルなビジネスシーンで活躍してきた吹野博志氏。「一橋大学のおかげで『アメリカに行きたい』という夢を叶えることができたので恩返しをしたい」と、寄付講座として「東アジア政策研究プロジェクト」の提供や「渋沢スカラープログラム」における「米子プロジェクト」のプロデュースなど、本学に多大な貢献をされている。そこで、国際交流・広報・社会連携担当の中野聡副学長と、一橋大学のグローバル人材育成について語り合ってもらった。
吹野 博志
1942年鳥取県米子市生まれ。1965年一橋大学経済学部卒業。1985年米国ハーバード・ビジネス・スクール上級経営学コース(AMP)修了。1965年日本電子株式会社入社、1970年JEOL USA, Inc.(日本電子USA)マーケティング・マネージャーに就任。1974年セイコー電子工業(現・セイコーインスツル)株式会社入社、1986年Seiko Instruments & Electronics USALtd.(セイコー電子工業USA)社長兼最高責任者を経て1994年デルコンピュータ株式会社代表取締役会長に就任。1995年Dell Computer Corporation, Inc.(現・米国デル社)副社長に就任。2004年株式会社吹野コンサルティングを設立。その後数々の企業の取締役を兼任するなど後進の指導を行う。
中野 聡
1983年一橋大学法学部第三課程(国際関係)卒業後、同大学院社会学研究科修士課程地域社会研究専攻入学。1985年同大学院社会学研究科博士後期課程地域社会研究専攻入学。博士(社会学、一橋大学)。1990年神戸大学教養部専任講師、同大学国際文化学部助教授、文部省在外研究員(フィリピン大学歴史学科客員研究員)などを経て1999年一橋大学社会学部助教授に就任。2003年一橋大学大学院社会学研究科教授、2005年安倍フェローシップ(コロンビア大学東アジア研究所客員研究員)、2013年フルブライト研究員プログラム(ジョージ・ワシントン大学シグーア・アジア研究所客員研究員)。2014年12月一橋大学大学院社会学研究科長・社会学部長を経て、2016年12月一橋大学副学長(国際交流・広報・社会連携)に就任、現在に至る。
「アメリカに行きたい」と一橋大学を志望
中野:吹野さんには、東アジアをめぐる政策研究をテーマとする寄付講座だけでなく、バレーボール部OBとして中国、台湾などアジアの大学とのスポーツ親交にもご尽力いただくなど、まさに本学のグローバル化の推進に多大なご協力をいただいています。ここでは、吹野さんのご経歴も絡めながら、グローバルビジネスのあり方や一橋大学のグローバル人材育成について、さらにグローバル人材に求められるリベラル・アーツとは何かについても意見交換ができればと思います。
まず初めに、吹野さんはアメリカに憧れ、アメリカに行って仕事をしたいということから一橋大学を志望したとお聞きしました。そのあたりの経緯からお聞かせください。
吹野:アメリカに憧れを抱いたのは、子どもの頃に観た『ベン・ハー』や『ローマの休日』、『上流社会』といったハリウッド映画の影響です。1950年代の当時、娯楽といえば映画しかありませんでしたから、邦画も含めてよく観に行きました。それから、私が生まれ育った米子の街に米軍の兵士がたくさん歩いていたのです。米子鬼太郎空港の隣に航空自衛隊の美保基地がありますが、当時はそこを米軍が使用していて、朝鮮戦争の際は一大拠点となりましたから。なぜだか、家に来てスイカを食べていた兵士もいましたね。そんな環境からアメリカを身近に感じていました。
中野:外国に行くなら一橋大学、と考えたのはなぜですか。
吹野:米子東高校の同級生のお兄さんが一橋大学に進学していたのですが、その人が夏休みに帰郷した際に一緒にジョギングする機会がありました。そこで私の進路の話になり、アメリカに行きたいと話したら、「なら一橋大学に決まっている」と。実はそれまで一橋大学は志望校とは見ていなかったのですが、そう言われてさまざまな情報を調べてみると、確かに一橋大学は外国とつながりがあると思えたのです。たとえば、1960年1月にワシントンで調印された日米安全保障条約に、日本側は5人が署名をしました。首相の岸信介、外相の藤山愛一郎、当時閣僚で後に衆議院議長になった石井光次郎、日本商工会議所会頭の足立正、駐米大使の朝海浩一郎です。これらのうち、石井、足立、朝海の3人が一橋大学出身で、そのことが新聞などに出ていたのです。
"英語といえば一橋大学"という評判に引かれて
中野:なるほど、そうでしたね。
吹野:それから、当時"受験英語の神様"と言われていた岩田一男先生や、『英文構成法』『和文英訳の修業』『英文解釈考』の3部作で名高かった佐々木高政先生が教鞭を執られており、"英語といえば一橋大学"という評判が立っていたことに納得したものでした。一橋大学に行けば、素晴らしい先生方に英語を教わることができるということに魅力を感じましたね。
中野:一橋大学は、商法講習所としての成立以来、海外雄飛の人材を育てるという発想があって、そのために、経済学や商学だけでなく、国際人として必要な外国語や教養・外国文化を教える優秀な教員が集まって、前身の東京商科大学を形成したのだろうと思います。そういう環境から、グローバルに活躍する人材として、ビジネスだけでなく外交官などでも中核的な人材を輩出してきました。そんな伝統の中で、戦後・一橋大学の英語の教員にも指導的な人材が集まってきていたのだと思います。
吹野:そうでしょうね。さらに一橋大学の魅力として、やはりゼミは外せませんね。ゼミは前期・後期ともにありました。私は、前期で外池正治先生の英国産業史ゼミを履修したのです。阿佐ヶ谷のご自宅で奥様の手料理をご馳走になりながらの"家ゼミ"をよく開いてくださいました。また後期ゼミは荒憲治郎先生で、奥様にもお世話になりました。
中野:当時は"家ゼミ"がよく行われていましたね。ところで吹野さんはどんな学生だったのですか。留学制度はまだなかったのではないかと思いますが、外国に行きたいという目標に向かってどのように勉強されていたのでしょうか。
吹野:英語の成績はアベレージ以下だったのではないかと思います。4年間もっとしっかり勉強しておけば良かったと今でも思っています(笑)。バレーボール部の活動は一生懸命に取り組みました。マネージャーでしたので、部長だった板垣與一先生のご自宅にもよく行きました。
1970年代、激動のアメリカを目撃
中野:教員とはさまざまな形で親しくされていたのですね。それで卒業後は電子顕微鏡などの理化学機器メーカーである日本電子に入られ、念願叶ってアメリカに赴任されたわけですね。
吹野:そうです。一橋大学を1965年に卒業して日本電子に入り、1970年にアメリカ現地法人のマーケティング・マネージャーとしてサンフランシスコに赴任しました。初の海外です。その後ロサンゼルスに移りましたが、ビジネス的にあまりいい場所ではなく、東海岸に移りたいと会社に申し出たのです。それが聞き入れられてニュージャージーに移り、3年過ごしました。日本電子時代、1970年から1973年まで4年間アメリカにいました。
中野:当時のアメリカはどんな状況でしたか。
吹野:ベトナム戦争の終盤で、印象に残っている光景があるのです。当時はまだ徴兵制で、サンタバーバラの飛行場で戦場に赴く若者の壮行会を行っているところを見かけました。夕焼けに包まれて、見送りに来た両親や友人の前で本人が
中野:1973年に米軍が志願制に完全に移行する直前の時期でしたから、なおさら辛いものがあったでしょうね。
吹野:また、ボルチモアにあるメリーランド大学構内でベトナム反戦デモがあった時、何百人という警官隊が来て、それぞれが連れていた大型の警察犬をデモ隊に向けて放ったのです。逃げ惑うデモ隊の頭上では銃の音も響いていました。すさまじい光景で、日本のそれとの次元の違いを感じましたね。
中野:もし銃弾がデモ隊に当たってしまったら1970年5月4日、4人の学生が死亡したケント州立大学(オハイオ州)事件の再現でしたね。
吹野:そのとおりです。
中野:学生も命がけでしたね。当時、ニクソン大統領が再選されてすぐにウォーターゲート事件が表面化して、まさにアメリカは激動の時代だったと思います。そんなアメリカで生活してみて、どういったことをお感じになりましたか。
吹野:当時のアメリカは経済力や軍事力で圧倒的な存在でしたから、日本との格差も大きかったと思います。驚いたのは、蛇口をひねればお湯が出たことです。それから、車社会が発達していたことですね。
自動車や家電製品など
日本製品の隆盛を肌で感じる
中野:トヨタが本格的にアメリカ市場に進出を始めた時期ではないかと思いますが、日本車はどう評価されていましたか。
吹野:ダットサンなど一部のスポーツカーは人気がありましたが、全体的にはまだまだだったと思います。石油ショック前はガソリン代はそれほど高くありませんでしたので、アメリカ人の多くは大型車に乗る傾向でした。日本の小型車はマイナーな存在でしたね。ただし、1973年に石油ショックが起きてからは、アメリカでも燃費のいい小型車へのシフトが始まり、日本車の人気が上がっていきました。
中野:そんなアメリカで、吹野さんも日本製品を売る仕事をされたわけですが、どういった手応えを感じられましたか。
吹野:おかげさまで、日本電子の電子顕微鏡や核磁気共鳴装置といった製品はグローバルに高く評価されていましたので、アメリカにも当初から受け入れてもらうことができました。
中野:日本の家電製品は高品質だという評価がすでにあったわけですね。
吹野:1967年から毎年、ラスベガスで「コンシューマー・エレクトロニクス・ショー」(CES)という家電製品の見本市が行われているのですが、興味深いことがあります。始まった当初はGEやモトローラといったアメリカのメーカーのテレビやラジオなどの製品が主役だったのですが、70年代に入るとパナソニックやソニーといった日本メーカーが取って代わりました。2000年頃からはサムスンやLGなどの韓国メーカーが台頭してきて、今日ではハイアールや美的集団などの中国メーカーが主役に躍り出ています。時代とともに産業や国情が変化していくさまがよく分かります。
中野:そのとおりですね。1973年末にアメリカから帰国された後はどうされたのでしょうか。
吹野:一橋大学を勧めてくれた先輩の弟である同級生が第二精工舎(現・セイコーインスツル)にいて、帰国して彼と会った時に「うちの会社は新規事業をスタートさせるので人材を求めている。君は適任だから来ないか」と誘われたのです。さっそく彼の上司にも会って食事をし、話を聞くと社内ベンチャーを始めるところで、確かに面白そうでした。そこで参画することにしたわけです。私が企画書を書いた新商品がヒットして大きな事業にすることができました。その事業が一段落した時、アメリカ現地法人の社長にと打診されたのですが、子どもが中学生になる頃でしたので一旦は断ったのです。しかしその後も何度か話を持ち掛けてくれたので応じることにし、1986年から8年ほど、当時の社名であるセイコー電子工業USAの社長を務めました。
中野:日米経済摩擦が激しかった頃ですね。また、シリコンバレーが注目を集め始めた頃だと思います。
マイケル・デル氏と意気投合、
ともにグローバルでの成長を目指す
吹野:電子部品や工作機械を売る仕事でしたが、順調に推移させられたと思います。日本電子時代と合わせて長いこと日本製品をアメリカに売る仕事をしたので、反対にそろそろアメリカの製品を日本に売る仕事をしたいと思うようになりました。そしてアップルやペプシコといった会社の日本法人トップのスカウトを受けるようになったわけです。そうした中に、デルコンピュータもありました。他社は海外担当の副社長や役員が対応したのですが、デルコンピュータはいきなりCEOのマイケル・デル氏が出てきたのです。当時彼は28歳で、出てくるなりホワイトボードにビジネスモデルの図を書いて整然と説明を始めました。素晴らしいと感じて意気投合しましたね。マイケル・デル曰く、「日本市場は閉鎖的で、かつNECほか10社以上がパソコンをつくっている。日本進出はやめるべしという意見が殆どだ。しかしぜひとも進出したい」これに対し私は「このビジネスモデルは顧客とのrelationshipを大切にしており、アメリカよりも日本のほうがうまくいくと思います」と伝えて、日本法人社長就任を引き受けたのです。
中野:そうだったのですね。
吹野:コンシューマー向けの場合、テレビCMなどのコストをかけて小売流通のルートに乗せる必要がありますが、彼は企業向けにまとめて直販することを考えたわけです。卸や代理店を挟まず直接セールスしたほうが迫力があります。私も成功を確信しました。また、アメリカの企業はトップが代わると方針もガラッと変わることが多いのですが、彼はまだ28歳で筆頭株主だから当分変わらないだろうという安心感もありました。とはいえアメリカに長く住んでいたこともあって、いきなりは日本に帰れないから「半年待ってほしい」と言ったら「半年も待てません。今すぐ!」と。急いで帰国の準備をしました。
中野:デルコンピュータは当時創業して10年ぐらいの頃ですね。アメリカで走り始めた事業を吹野さんが日本に持ってこられたわけですが、どういった状況だったのでしょうか。
吹野:当時のデルコンピュータはアメリカではIBM、コンパック、HP、ゲートウェイに次ぐ5番手で、まだまだという存在でした。ヨーロッパではイギリスに進出したばかりで、次に日本、という状況だったのです。ですから、アメリカやイギリスと一緒に大きくしていくという感覚がありました。日本では知名度は全くありませんでしたから。
中野:当時はインターネットの黎明期で、日本ではITブームが始まりかけた頃だったと思います。日本で成功したのには、どういった要因がありましたか。また人材の採用や育成などでご苦労もあったのではないかと思いますが。
吹野:デルコンピュータは東芝やソニーといった企業から部品を調達するための拠点を日本に置いていたのです。そこを母体に日本法人の拠点をつくりました。最初は20人ぐらい採用しましたが、玉石混交でしたね。日本市場向けに製品を組み立てる工場を川崎につくり、アイルランドから本体を空輸してつくっていたのですが、じきに売り上げが伸び始めてその体制では間に合わなくなりました。また、周辺のアジア諸国というマーケットも形成され始めたので、本格的な工場をつくる必要があり、マレーシアのペナンにつくりました。そこから日本や中国、シンガポールとアジア一帯に製品を出していったのです。日本での成功要因は当初法人市場に特化し、代理店を通さず直販でコストを抑え、長期的な視点から徹底的に顧客サポートを行ったことにあります。某大企業に納入したノートパソコンの一部に問題が発生した時、直ちに5000台すべてを取り換えたこともありました。
中野:当時はNECのパソコン市場寡占に対抗するDOS/Vの動きが始まって、まさに市場が変わった時期ですね。ところで、マイケル・デル氏は来日すると必ず秋葉原に行くそうですね。
吹野:そうです。市場調査や競合調査とかではなく、何か新しいものはないか、という純粋な興味です。彼のオフィスは、機械の部品のような物で一杯なのです(笑)
中野:その後、2002年までデルコンピュータ米国本社の副社長としても活躍され、まさにグローバルビジネスを手がけられたわけですね。
4年間のGLPで現れてきた効果
中野:そんな吹野さんに、一橋大学のグローバル人材育成事業についてのお考えを伺っていきたいと思います。一橋大学では、2013年より商学部と経済学部が先行する形で「グローバル・リーダーズ・プログラム(GLP)」をスタートさせました。選抜学生を対象として、2年次以降、商学部・経済学部両学部ごとの特徴を活かしながら、グローバル人材に必要な語学力やコミュニケーション力をはじめ、理論分析能力や政策提言能力、イノベーション能力などをインテンシヴに身につけていくというプログラムです(商学部では渋沢スカラープログラム〈SSP〉と呼んでいます)。ここで一つ興味深いデータがあります。プログラムの開始当初は、GLP選抜学生の英語力が留学経験などを通じて飛躍的に伸びることを期待していたのですが、予想を超えて、GLP非参加学生たちを含めた学部生全体の英語力が伸びているのです。これは、GLPの導入が、英語による授業を系統的に増やしたことをはじめ、全体として語学力を伸ばす点で大きな波及効果を持っていることの結果であると私たちは自負しています。このように、商学部・経済学部のGLPが波及効果の高い結果につながっていることもふまえて、2017年4月から、社会学部と法学部でもGLPが始まりました。その一方、GLP以外も含めて、在学中に長期海外留学に出る学生数は増加していますが、もっと伸ばす必要があると考えています。グローバル人材には、語学力だけでなく国際的な教養や広い意味でのソーシャル・スキルなど、グローバルに通用するさまざまなリテラシーが求められていて、そのためにも長期海外留学はいい機会になると思います。そこで、今日においても学生と交わっておられる吹野さんにご意見を伺いたいと思います。
吹野:最近、英語や海外への興味関心を高めている学生が増えていることは間違いありません。バレーボール部では、隔年で海外遠征に行き、相手校の学生と試合を行うだけでなく英語でのディベートも行っているのです。ですから、遠征前にその国の近現代史ぐらいはある程度勉強する。そういう実践の機会をつくることが大事だと思います。また、そんな学生たちと話す機会も多くあって、よく「留学したいが部活をどうするべきか」「留学もして5年かけて卒業しようかと考えている」といった相談を持ち掛けられます。すると私は決まって「人生は1回しかない。4年で卒業するなんて考えなくてもいい。10年かけてもいいとは言わないが、1年ぐらいは留学したりバックパックで世界を回ったりすることも、いい経験になるのでは。4年で卒業できない人材は採用しないという企業ばかりではない」などと言っています。GLPを受講するのは一部の学生だけかもしれませんが、どういうプログラムがあって、受講している学生にはどんな意識があるのかといったことは聞こえてきていますから、GLP以外の学生の頭の片隅にも留学やグローバル人材への意識はあるのではないかと思います。
中野:GLPの制度設計では、当然ですが4年で卒業することを前提としていますが、実際には5年かけたいという学生も多いようです。せっかく5年かけるなら修士号も取れる5年一貫プログラムなども組み合わせていくと、より積極的に留学を選ぶ学生が増える可能性があるだろうとは思っています。
吹野:4年でも5年でも、その間に何をするかが大事だと思います。外国の大学に行くと、よくGLPのようなプログラムの話になります。するとどの大学にも似たようなものはあるんですね。特に英語圏の国は海外留学が当たり前になっています。その先で、何を学ぶかが大事だと思うのです。
日本の歴史や文化をしっかり学ぶ必要性
中野:そのとおりですね。吹野さんはどうすべきだとお考えですか。
吹野:日本人の場合は、まずは日本の歴史や文化をしっかりと学び、その基盤のうえに語学力やコミュニケーション力を身につけるべきだと思いますね。その基盤が弱いと、「ただ英語がうまいだけのつまらない人」になってしまう恐れがあるからです。アイデンティティとも言い換えられるかもしれませんが、そういう土台が必要だと思います。この私も、今でも勉強中です。
中野:私もグローバル(HGP)科目を担当することになり、英訳中の著書(『東南アジア占領と日本人』岩波書店、2012年)のドラフトをテキストとして使っていますが、GLPやグローバル科目でも、日本の歴史や文化を対象とする英語の授業がまだ不足しているのが現状です。一橋大生が交流学生と英語で議論しているのを見ていると、日本について外国語で説明できるスキルや教養を磨くことが非常に大事だと感じます。そういう場を授業とは別に学生団体などがどんどん自前でつくる校風が一橋大学にはあり、そこにも期待はしています。こういう機会をもっとつくらなければなりませんね。
吹野:同感ですね。日本の学生と海外留学生が合わせて数百人集まってディスカッションする場に立ち会う機会があったのですが、中国人留学生から『日本による中国侵略について皆さんはどう思うか』と聞かれて、日本人学生の誰もが何も言えないという局面がありました。これは恥ずかしいことだと思いましたね。
中野:欧米や、最近では中国からの交流学生を見ても、そういう部分は相当訓練されていると感じます。日本の学生は英語が流暢でも、話す内容を知らないという問題がありますね。まずは基本的な内容を日本語でしっかりと論理的に説明できるようになり、そのうえで外国語でも伝えられるようにするという訓練が必要かもしれません。
吹野:海軍兵学校に行った叔父が亡くなった時、叔父の本棚から『海軍兵学校歴史教科書』という本をもらったのです。そこにはヨーロッパの植民地主義すなわち西力東漸に対抗し、アジアの植民地解放を我々は断行すべしと書かれていました。一方、戦後国連大使を務めた加瀬俊一氏(東京商大出身)の『外交史』によれば、大東亜共栄圏をつくって植民地を解放するというのであれば、アリバイ工作ではないが1回は大東亜会議を開催しておいたほうが良いと当時の外務大臣、重光葵に進言し実現したとのことです。つまり、大東亜共栄圏構想は当時の政権が本気で取り組もうとした戦略ではなかったようです。真面目で約束を守り、性善説を取る人が多い日本人には珍しい話かもしれませんが、欧米ではよくあることです。欧米では、マキャベリスティックというか、相当計算高くないと生きてはいけない環境があるわけですね。そういう人たちを相手にして、いわば知的なストリート・ファイトを行うというのがグローバル交渉です。そういう前提で交渉に当たらないといい結果を出すことはできません。そういう意味で、GLPはグローバル教育の第一ステップとしてはできているとは思いますが、次のステップが求められているのではないでしょうか。
相互理解を深め、人生を楽しく豊かにしてくれる素養
中野:ご指摘のとおりですね。その点、一橋大学は伝統的にゼミ教育が強いので、深い教養や知識を養いやすい環境があると思います。
吹野:一橋大学が大き過ぎず適度な規模であることも大きなメリットだと思います。先生方は授業を手づくりしやすいでしょうから。学生を鍛えるのは、GLPやゼミなどの教室だけではありませんね。短期留学も、部活や寮での生活もいい機会になると思います。むしろ、キャンパスの外に出て実際に行動し、失敗も重ねながら実践的な知恵を身につけていくという場があっていいと思います。その根底には好奇心が必要ですね。
中野:最近は優等生タイプの学生が増えているように思いますから、そういった働きかけが必要かもしれません。
吹野:私は、リベラル・アーツとは知識として外から持ってくるものというよりも、好奇心に駆られて己を知るために積極的に知識を吸収しようとするものではないかと思います。自分の先祖はどういう人で、なぜそういうことをしたのか、そこにはどんな時代背景があったのかというふうに、好奇心の赴くままに文献を読み漁るもののような気がしています。実際に役立つかどうかは後のことだと。
中野:何にでも興味を持つ精神が必要ですね。
吹野:日本人とは何か。なぜあんな戦争をしたのか。ヨーロッパとは、中東とは、と好奇心に駆られて紐解いていくことの面白さは、私にとってかけがえのないものです。それを知っているといないとでは、旅行していてもモノクロの景色がフルカラーになるほどの違いがあります。また、外国で知り合った仕事仲間についても、その人の国の歴史やルーツを知っていれば、「あなたもいろいろと苦労したんですね」と深いコミュニケーションができたと思うのです。パリ郊外の、とあるワイン会社の経営者と知り合い、彼が実家のワイナリーに招待してくれたことがありました。地下にあるワインセラーに下りていくと、土に埋まってラベルもボロボロになったビンテージワインが大量にありました。そんな中から1本を取り出してご馳走してくれたのですが、私にはワインの知識がないばかりに「とってもおいしいですね」という感想しか出てきませんでした。しかし、ちょっとした知識があれば、その時の会話がはるかに深まり、豊かな時間を過ごせただろうと思うのです。リベラル・アーツの必要性は、まさにそういうところに感じます。つまり、何かの役に立つという機能性よりも、相互理解を深め、人生を楽しく豊かにしてくれる素養という価値があることです。そういう素養があって、語学力という技術が大いに活かせるのではないでしょうか。
中野:そのとおりだと思います。本日はありがとうございました。
(2017年10月 掲載)