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グローバル人材は、世界を目指せる環境で磨かれる

  • 首都大学東京理事長/日本サッカー協会最高顧問川淵 三郎
  • 一橋大学長山内 進

2014年秋号vol.44 掲載

1993年に日本プロサッカーリーグ、「Jリーグ」が開幕し、熱狂的なブームが巻き起こったことを覚えている人も多いだろう。当初は10クラブでのスタートであったが、今日ではJ1からJ3までの計51クラブに増え、各クラブのホームタウン(本拠地)も全国36都道府県に広がっている。また、かつては"夢のまた夢"とされていたFIFAワールドカップに日本代表が5回連続出場を果たすなど、日本サッカーの飛躍的な進歩に「Jリーグ」が果たした功績は大きい。その「Jリーグ」の生みの親として著名であり、公立大学法人首都大学東京の理事長である川淵三郎氏と、世界競争力を持つ人材育成について語り合った。

川淵氏プロフィール写真

川淵 三郎

1936年大阪府高石市生まれ。1957年早稲田大学商学部入学。早稲田大学サッカー部時代に日本代表選手に選出され、ローマオリンピック予選、チリワールドカップ予選に出場する。1961年古河電工入社。1961年から同社サッカー部でプレー。1962年アジア大会、1964年東京オリンピック出場。1970年現役引退。古河電工サッカー部監督を経て、1980年ロサンゼルスオリンピック強化部長、日本代表監督を歴任。1988年に日本サッカーリーグの総務主事に就き、プロ化に力を注ぐ。1991年同プロリーグ設立準備室長を経て、(社)日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)初代チェアマン就任。1994年(財)日本サッカー協会副会長、2002年ワールドカップ日本招致委員会実行副委員長。1997年(財)2002年ワールドカップサッカー大会日本組織委員会(JAWOC)理事、2000年同副会長に就任。2002年(財)日本サッカー協会会長に就任。2008年同名誉会長、2012年より(公財)日本サッカー協会最高顧問。2013年より公立大学法人首都大学東京理事長に就任、現在に至る。

山内氏プロフィール写真

山内 進

1949年北海道小樽市生まれ。1972年一橋大学法学部卒業。1977年同大大学院法学研究科博士課程単位取得退学。1987年方角博士。成城大学法学部教授、一橋大学法学部教授、法学部長、理事等を歴任。2004年、21世紀COEプログラム「ヨーロッパの革新的研究拠点」の拠点リーダーに就任。2006年副学長(財務、社会連携担当)、2010年12月一橋大学長に就任。専門は法制史、西洋中世法史、法文化史。『北の十字軍』(講談社)でサントリー学芸賞受賞。その他『新ストア主義の国家哲学』(千倉書房)、『掠奪の法観念史』(東京大学出版会)、『決闘裁判』(講談社)、『十字軍の思想』(筑摩書房)、『文明は暴力を超えられるか』(筑摩書房)など著書多数。

「プロ化よりほかに日本のサッカーを強くする道はない」という強い思い

山内:私もワールドカップブラジル大会の日本代表の試合をテレビで応援しました。今日は川淵さんにいろいろ伺いたいこともあって、楽しみにして参りました。どうぞよろしくお願いします。

川淵:こちらこそよろしくお願いします。

山内:まず伺いたいのは、Jリーグを発足させたときのことです。日本は東京への一極集中現象が顕著ですが、地方と都市部との格差がありますね。企業立地など経済面だけでなく、プロスポーツにおいても本拠地は東京や大阪などの大都市に集中しています。人口が少ない地方ではやっていくのが難しいと思われているからでしょうが、Jリーグは当初から地域重視を掲げてスタートしました。今日でもそれは不変で、人口6万7000人弱の茨城県鹿嶋市という地方には、鹿島アントラーズという大変強いチームがあったりします。逆に、日本の人口の10%を占める東京には5チームはあってもおかしくないところ、東京ヴェルディとFC東京など計3チームしかありませんね。このように、従来の組織原理や常識では考えられない組織づくりをしていて、しかも成功しています。私は凄いことだと思っているのですが、どういったコンセプトや考え方、意思を持って進められたのでしょうか?

川淵:さすが山内学長ですね。Jリーグが開幕して21年が経ちましたが、こうした質問を受けたのは初めてではないかと思います(笑)。

山内:そうでしたか(笑)。

川淵:確かに、Jリーグの構想を発表したときは、「日本にプロサッカーなどをつくって成功するわけがない」などと冷ややかな意見が大半でした。当の我々自身も、これほど選手の技術が向上し、世界レベルに達するほど成功するとは思ってもいませんでした。

山内:そうだったんですね。

川淵:ええ。ですが、プロ化するよりほかに日本のサッカーを強くする道はないという強い思いはありました。日本はアジアでも弱小国でしたし、お隣の韓国は当時の10年も前の1983年からプロ化がスタートしていましたが、日本のトップリーグは企業のサッカー部12団体で構成された日本サッカーリーグ(JSL)というアマチュアリーグでした。そんな企業スポーツから脱皮し、ドイツなどのように地域に根ざしたプロリーグをつくれば、ひょっとして成功するかもしれないと考えたのです。そしてそのコンセプトを掲げてプロ化に奔走しました。参加するクラブには七つの条件を課すことにしました。

高いハードルをクリアした鹿島アントラーズの功績

山内:どんな条件でしょうか?

川淵:クラブを法人化する、小学生〜高校生年代の下部組織(アカデミー)を持つ、1万5000人以上収容可能で夜間照明設備のあるスタジアムを確保する、18人以上のプロ選手を保有するといったものです。また、参加条件とは別に、チーム名から企業名を外すことも各クラブに要請しました。プロ野球と一線を画したJリーグのコンセプトは、「前例がない」「時期尚早」と言われ、一部のクラブの親会社のトップからは、「空疎な理念」「川淵は独裁者」と猛烈に批判されました。しかし、批判されるたびに、逆にメディアを通してJリーグの理念を伝える機会ができましたから、後になって「批判してくださった方は恩人」と思うぐらいになりましたけれど(笑)。

山内:なるほど(笑)。ちょっとしたことでも変えるのは大変なのに、よく貫きましたね。

川淵:失うものは何もない、失敗してもサッカーそのものはなくならないと達観していました。逆に批判されればされるほど燃えましたね。エネルギーに満ち溢れていました。

山内:そういうものなのでしょうね。

二人写真

川淵:七つの条件は高いハードルですが、これを越えられない限り成功しないという考えで突き進みました。JSLには日立製作所や三菱重工といった大企業のチームが多く加盟していましたが、この七つの条件をクリアできなければ、いくら大企業の後ろ盾があったとしても、過去にどんなサッカーの実績があったとしても参加させないという強い信念で臨みました。最初に質問されましたが、発足当初の10クラブに東京をホームタウンとするクラブはありませんでした。それは要件に見合うスタジアムが確保できなかったからです。地域密着を標榜するJリーグの規約には、特定の市町村をホームタウンとし、自治体の協力を得てスタジアムを確保すると記載されています。国立競技場は国の施設で特定クラブのホームスタジアムとして認めてもらえません。都が所有する駒沢陸上競技場は、近くに病院があるため夜間照明を付けられない。それ以外に1万5000人の観客を収容するナイター照明付きのスタジアムは東京にはなかったのです。プロ野球に対抗していくには、巨人のような全国区のクラブではなく、地域を代表するクラブこそが必要だった。全国に広がりのあるリーグにする必要性のほうが大きかったので、東京に固執してはいませんでした。

山内:そんな高いハードルを、鹿島アントラーズはよくクリアできましたね。

川淵:そうなんです。こう言っては失礼ですが、鹿嶋市(当時は鹿島町)のような小さな地方都市ではプロのクラブをつくるなんて誰も本気で考えないだろうと思っていました。当時、鹿島町の臨海工業地帯には、住友金属や三菱油化といった大企業の工場が進出していました。しかし、元々いた地元住民と新しい住民との交流も少なく、若者の地元離れなどもあったため、自治体は住友金属のサッカー部をプロ化して地域活性化の起爆剤にしたいという強い意向を持っていました。それで、当時の茨城県知事が、鹿島、神栖、波崎3町(当時)だけに使える特別会計を含めた総額84億円の出資を決断し、日本初の屋根付きサッカー専用スタジアムを完成させたのです。当時の鹿島町の人口は確か4万5000人くらい。鹿島、神栖、波崎の3町を合わせても12万人くらいでしたから、スタジアムがガラガラでも仕方ないと皆思っていました。日本初の屋根付きサッカー専用スタジアムをつくるということに価値を認めたのです。ところが、前売券はいつも完売で、市内だけでなく東京などからも観客がたくさん詰めかけました。あらゆる意味でのプロクラブの環境整備ができたおかげで、JSLでは2部だった鹿島アントラーズは強豪クラブに躍り出て、初代チャンピオンになりました。Jリーグの理念がまさにマッチしたんですね。ジーコというスーパースターがいてくれたおかげもあるでしょうが、全く予想外でしたね。

山内:それまでの日本からすれば、まさに革命的なことのように思えます。しかも成功しているのだからなおさら凄いことです。これでJリーグの理念でやっていけることが証明できたのではないですか?

川淵:そうですね。しかも鹿島アントラーズは、こちらが要請したわけではないのに、スポーツボランティアの組織をつくり、試合の運営や地域に密着した活動にも熱心に取り組んでくれました。Jリーグ全体の模範生になってくれましたね。

ドイツで受けた衝撃がJリーグの夢を紡ぐ

山内:それも、Jリーグのコンセプトが良かったからでしょうね。ドイツは地方分権が進んでいるので、主だった街ごとにプロチームがあるのは不思議ではないのですが、東京一極集中の日本でできたのは本当に大きなことだと思います。

対談の様子01

川淵:そのドイツがJリーグのモデルになりました。50年以上前になりますが、1960年、私はまだ早稲田大学の学生でしたが、日本代表選手として初めてヨーロッパ遠征に行きました。そのときにドイツ(当時は西ドイツ)で見たスポーツシューレ(スポーツ研修施設)など、充実したスポーツ環境に衝撃を受けました。「こんな施設があったら、市民がどれだけスポーツを楽しめることだろう。日本には100年経ってもできないんじゃないか」と思ったほどです。まさに夢のような環境でした。実際に目の当たりにしたスポーツ施設をJリーグのあるべき姿として目標にできたというのも、成功できた理由の一つだと思います。本を読んだり人の話を聞いたりではなく、実際に自分の目で見て頭のなかに鮮烈に残ったからこそ、Jリーグ立ち上げの際に具体的な夢を語れたのです。

山内:同じものを見ても気がつかなかったり感じなかったりする人が多いと思いますが、川淵さんはそこをしっかり見て頭の引き出しに入れ、自分なりにお考えを体系化されたのだと思います。しかも、信念や情熱を持って進められたというのは、一つの才能なのだろうと思いますね。やはり、海外で日本にない良いものを直接自分の目でたくさん見て、自分の頭で整理するということが大事なんですね。

対談の様子02

川淵:そう仰っていただけると嬉しいですね。ドイツでもう一つショックを受けたことがあります。障がい者の方が、車椅子でバレーボールのような競技を楽しんでいたんですよ。町に出れば、バスも全部車椅子のまま乗れるバリアフリーの構造になっている。今では日本でも当たり前ですが、50年前に日本では車椅子に乗っている人がスポーツを楽しむなんて、全く考えられませんでした。まだ若くて感受性が強かった僕は、「ドイツに生まれた人は幸せだなあ」と、本当に羨ましく思ったものです。

山内:大事なことは、こうやって体系化した考えや思いをどういうタイミングで出すのかということだと思います。普通はそう思っていても、なかなか言い出したり、やり始めたりはできませんから。しかも、信念を持って最後まで貫くことも難しいと思います。それを成し遂げられる人というのは、やはり何かそういう素質を持っているのでしょうね。

プロになることが強化のモチベーション・リソースに

山内:もう一つ伺いたかったことは、日本のサッカーが強くなったことにプロリーグがどのように影響したのかということです。先ほど川淵さんは、「日本はアジアでも弱小国」と言われましたけれども、1968年のメキシコシティーオリンピックで日本は銅メダルを取りましたね。それから後はまた弱くなってしまったように思いますけれども、1993年にJリーグができてからメキメキと強くなって、その5年後の1998年のワールドカップフランス大会で、ついに初出場するに至りました。そこからこの間のブラジル大会まで5大会連続で出場しているわけで、本当に強くなったと思います。これも大変なことだと思うのですが。

川淵:文句なしに強くなりました。

山内:やはり、プロ化が大きかったということですか?

川淵:それは間違いありません。Jリーグをつくるときに、マスコミから「今のJSLの選手をプロ化させてどう変わるのか?」という質問がありました。それを説明するために理論武装できたことが大きな推進力になり、自分にとっても一つの財産になりました。

山内:なるほど。それはどういったものだったのですか?

川淵:ヨーロッパのクラブにはプロを目指すユース育成組織がたくさんあります。そこには年代ごとに20人くらいの選手たちがいて練習しているわけですが、たとえば50メートルダッシュを10本やるときに、コーチはホイッスルをピッと吹くだけで観察している。でも皆真剣に走るんです。なぜなら選手はプロになりたい、認められたい、強くなりたい、うまくなりたいと思っているからです。だから練習で気を抜く選手はいません。でもプロになれるのは1人か2人で、ゼロというところもあります。競争が激しいわけです。それだけに、皆全ての練習に真剣に取り組むんです。そういう環境に16歳前後から身を置いているのです。

山内:なるほど。だからヨーロッパのサッカーは強いんですね。

川淵:私は1980年に日本代表チームの監督を務めましたが、先程の話とは対照的に、ホイッスルを吹いて「走れ、走り切れ!サボっているんじゃないっ!」と怒鳴りっぱなしでした(笑)。とても黙って冷静に観察していられる状況じゃなかったですね。選手たちができるだけ楽をしようとしているのがわかるからです。つまらない試合をしたところでクビになるわけではなく、会社からはそこそこの給料をもらえて生活は保障されている。選手を引退した後も、社員として会社に残ることができる。プロ選手とはモチベーションが全然違うわけです。それがプロになって全ての環境が変わり、人の見る目が変わり、報酬も活躍によって変わる。

山内:プロというのはモチベーション・リソースなのですね。

川淵:たとえば、負荷を与えて骨が折れる限界を10とします。アマチュアでは練習で「これ以上はできない」と自分を追い込む精神的限界を3〜4くらいだとすると、プロだと5〜6以上に増えるんです。同じ選手でも心構えが変わるんです。

山内:プロには「それで生活を成り立たせる」という後には引けない状況もあるでしょうからね。

川淵:それと、Jリーグが誕生してジーコやリネカー、リトバルスキー、ストイコビッチなどといった超一流レベルの外国人選手がたくさんきてくれたことも大きいと思います。彼らから技術だけでなく、プロとしての生活態度まで教えてもらいましたから。

大学運営にも具体的な期限設定や数値目標が必要

対談の様子03

山内:なるほど。ところで、川淵さんは2013年4月に首都大学東京の理事長に就任されました。今までの世界とは様変わりしたと思いますが、いかがですか?

川淵:カルチャーショックでしたね(笑)。一番の違いは、団体や企業の多くはピラミッド型の組織で上の命令一下で動くのに対し、大学は学者の世界ですから命令一下というわけにはいかない。だからこそ、研究活動というものが成立しているのだと思いますが、そこに異文化を感じています。とはいえ、1年数か月経って、大学ももう少し企業型の動かし方を取り入れてもいいのではないかと思っているところです。

山内:一橋大学のように学長が理事長を兼ねるような組織だと、また違うとは思いますが。

川淵:経営能力があるという前提で、両者を兼ねる人がリーダーシップを発揮するほうがスムーズにいって、私はいいと思いますね。

山内:大学のシステムも長い歴史のなかでできてきているので、これを変えるのはなかなか大変だとは思いますが、首都大学東京は2005年の大改革で誕生したばかりで、古い大学とはだいぶ違うのではないかと思います。初代理事長の高橋宏氏は一橋大学のOBで日本郵船の副社長などを務められた方ですが、大学の美点を活かしながらも企業の効率経営を取り入れて運営することを考えておられましたね。

川淵:理事長に就任する前に、2年分の経営審議会の詳細な議事録を全て読みました。それが大変勉強になったのですが、そこに高橋前理事長の「一橋大学には首都大学東京の何倍もの留学生がきている。首都大学東京は努力不足」といった発言が何回も出てきました。一橋大学を見習わなければならないと思いましたね。首都大学東京も、留学生を増やす目標は持っているのですが、いつまでに何人増やすという具体的な期限設定と数値目標がないんですよ。これは民間企業では考えられないことです。具体的な目標を設定すると達成できなかったときに責任を取らされるから、という心配があるようなんです。目標を決めて、その達成のために具体策を立てて実施するということが大事なのであって、結果、達成できなかったときに何が足りなかったかを検証する、いわゆるPDCAのサイクルを回すことが大事なんです。そういうところに問題を感じています。一橋大学ではどうされていますか?

山内:一橋大学も経営協議会で意見が出るのはそこです。できるだけ数値目標を示してほしいと言われます。そこで、大学としてグローバル化がどれだけ進んでいるかが一番わかりやすい指標は留学生の人数だということで、今期(平成22〜27年度)の中期計画では毎年300人程度を受け入れ、同じく300人程度を送り出すということを数値として示し、目標に据えてやっているところです。

川淵:それは素晴らしいですね。

日本人としての文化や教養、歴史の知識がグローバル人材であることの前提

対談の様子04

山内:300人というのは結構な人数で、これまでだいたい毎年200人ぐらいが留学に出ていましたが、このほど思い切ったトライアルとして、大学が渡航費などを負担して1か月という短期間で海外留学に出す制度をつくったのです。まず100人の学生を募ったところ、270人ぐらいの応募があり、100人を選抜しました。こうして300人の目標はほぼクリアしています。最終的には、全学生が卒業までに最低1回は海外に出るということを目標にしています。1学年あたり学部には1000人ほどの学生がいますが、皆が行けるように長期、中期、短期といろいろな留学制度をつくっています。受け入れについても、すでに毎年300人以上の留学生が学びにきています。

川淵:一橋大学は海外でも有名でしょうから、送り出す側も安心なんでしょうね。

山内:卒業生が海外でも頑張ってくれているおかげで、「ビジネスについて学ぶ良い大学」と評価されて、きてもらえるところはあります。また、そうやってきてもらえる有利さを活かして、もっと評価されるようにしようと、留学生の日本での就職支援にも力を入れています。キャリア支援室では学部生だけでなく大学院生や留学生も同様に支援していて、さらに留学生に向けては専用の支援冊子をつくって就職活動の指導をしています。

川淵:なるほど、参考になります。私は新米だからそういった話をもっといろいろ聞きたいですね。大学のトップ同士の情報交換会もやったほうがいいように思います。学生にばかり「もっと勉強しろ」と言うのではなく、理事長や理事も勉強しなければなりませんね(笑)。

山内:今留学生の話が出ましたが、企業や団体によって違いはあるでしょうが、押しなべてグローバル人材の育成が求められています。大学はまさにグローバル人材を育成しなければならないと思います。この対談のテーマも「世界競争力のある人材とは?」というものです。

川淵:確かによくグローバル人材という言葉を聞きます。しかし、「グローバル人材」という決まった人格があるかのように捉えられていることには抵抗感があります。何も一つの型にあてはめて考える必要はありません。いろいろな型があっていいと思います。極端な場合には、英語さえ話せればグローバル人材であるかのように考える風潮もありますよね。

山内:おっしゃるとおりです。

川淵:日本人としての文化や歴史、伝統などを含め、しっかりした教養を身につけたうえで、初めて英語を使って意見が言えるわけですよね。グローバル人材となるには日本人としてのアイデンティティをきちんと学ぶことが必要なのではないでしょうか。

世界競争力を持つには"考える力"が大事

山内:そう思います。そこでやや話が戻りますが、日本のサッカーが強くなって代表選手が海外のチームでプレーするようになりましたね。まさに「世界競争力のある人材」になったということだと思います。そこで、どんな人材が世界競争力を持つのかについての考えをお聞かせください。

対談の様子05

川淵:よく、今の若い人は海外に出ていきたがらないと聞きますが、ことサッカーの世界では全く違いますね。本田(圭佑選手)は小学校の作文に「将来はセリエAに入って10番をつける」と書いているんですが、何とACミランというトップクラブに加入してその夢を実現してしまうんですから、大したものです。

山内:そのとおりですね。

川淵:本田は高校卒業後にJリーグの名古屋グランパスに加入したのですが、練習が終わると電車に乗ってどこかに出かけていたそうです。それが気になった記者が後をつけると、英会話スクールに通っていたんですね。将来の夢を実現させるべく、人知れず努力をしていたわけです。

山内:素晴らしい話ですね。

川淵:ヒデ(中田英寿氏)にしても、長友(佑都選手)にしても、語学を勉強して物事をしっかり考えることができる選手が海外で活躍していますね。もっとも例外もあって、中村(俊輔選手)が英語を話しているところをあまり見たことがありませんが(笑)、スコットランドで大活躍し、MVPまで取りました。中村は日本でもあまり喋るほうではありませんので、高い技術が世界に通用し認められたということで、必ずしも言葉が全てではないということを示していると思います。

山内:それもまたよくわかる話ですね。

川淵:私が初めてヨーロッパに行ったときの話をしましたが、海外に行けばびっくりするような刺激を受けてコロッと生き方や考え方が変わる可能性があります。ですから、一橋大学のように、できるだけ学生にチャンスを与えて少しでも海外を見に行かせるということは、とても重要だと思うんですね。言葉も真剣に勉強しようと思うでしょうし、僕も何度そう思ったかわかりません。

対談の様子06

山内:そう言っていただけるととても心強いですね(笑)。それと、日本人選手特有の強みというものもあると思うんですが。

川淵:ジーコやオシムさん、ザッケローニさんなど日本にくる指導者は皆、口を揃えて「日本人は協調性がある。組織の理解力や規律を守る力はダントツ」と言います。私はそうでもない面もあると思っているのですが(笑)、皆そう言います。それとバランス感覚でしょうか。サッカーは、器用で協調性のある日本人には合っていると思いますね。

山内:なるほど。

川淵:それともう一つ、"考える力"というのが大事なんだと思います。カズ(三浦知良選手)は47歳ですがまだ現役の選手で、今は日本経済新聞にコラムを書いていますが、非常に含蓄のある話をしています。トップレベルの選手が活躍できるのはなぜかというと、四六時中サッカーのことを考えているからだと思うんです。「どうしたら技術が上がるか」「どう戦ったら勝てるのか」「どうしたら試合に出してもらえるのか」「自分には何が足りないのか」など、常に考えることで思考力が磨かれ、それが日頃の生活にも反映される。昔、サッカーの重要な要素を指す「3B」という言葉がありました。ボールコントロール、ボディバランス、ブレインです。チームの戦略・戦術を理解し、相手の動きを読んでいち早く対応することが勝利につながる。頭脳も良くなければ強くならないんですね。ですから、テクニックではヒデや本田を上回っても、ブレインが働かないから一流になれない選手が結構いるんですよ。

若者にとって一番大切な特権は無茶を後顧の憂いなくできること

山内:確かに、スポーツで頂点に立つ人というのは頭を使う人という印象がありますね。私のなかで特に印象に残っているのは、阪急ブレーブス(現、オリックス・バファローズ)の山田久志氏というアンダースローのピッチャーです。どちらかというと強気のピッチングをしていたのですが、ある重要な試合で、もうしばらくは投げられないのではと言われたほど打たれた後、次に登板したときは見事なコントロールで安定した投球を見せてくれました。打たれた内容を検討し、きっと考えながら投げるという新しい姿勢で臨んだんですね。それ以後ずっと安定した美しい投球を見せ続けてくれるようになりました。そういうふうに見ると、スポーツでも考える力が活躍の条件というのはよくわかる話です。スポーツ選手も学生も我々も、大事なのは頭を鍛えることなんですね。そして、応用問題を自分で考えて解けるようにすることが、学業でもビジネスでもスポーツでも大事だということだと思います。

対談の様子07

川淵:それも早いうちからですね。面白い話があるのですが、北京オリンピック予選のとき、本田選手は代表に選ばれたんですが、試合で全然動かなくて見ていて腹立たしい思いをしたことがあります。我々の理解は「動かない=さぼっている」という理論ですからね。後日談で、彼は、いかに動かずに効率的にサッカーをするかと考えていたと聞きました。本田は、Jリーグのクラブの中学生年代のチームからユースチームに上がるときに落とされたんです。なぜかというと、コーチからもっと動けと言われても動かなかったかららしいです(笑)。その彼が変わったのは、オランダに行ってからで、サッカーは動き回らないと活躍できないと悟ったんですね。とにかく、若くしてそんなことを考えているのかと新鮮な驚きを覚えました。以来、彼をリスペクトしています。

山内:本田選手の小学生の頃の作文の話がありましたが、サッカーは最初から世界を目指せる環境があるわけですね。だから早くから頑張れるのかもしれません。

川淵:Jリーグができて、日本の地方のどんな街のチームから出発しても、本人の努力次第でヨーロッパなどのビッグクラブに移籍できるチャンスができました。本田も香川(真司選手)もユースやJリーグを経て世界に飛び立っていったわけですから。そのように世界で活躍できるという夢が描ける環境があるというのは、大事なことではないかと思います。

山内:我々教育の世界も、もっと海外を目指さないといけませんね。

川淵:学生のうちに余裕を持って世界に送り出したいのですが、就職活動が厄介ですね。なぜあんなに早くから始めさせるのか疑問です。それに、企業は大学での成績をさほど重視しないようですが、それだと大学の質の低下につながると思います。勉強もしっかりやり、海外にも出かけて見聞を広める時間を確保させるべきです。そのほうがお互いのためだと思うのですが、産業界と大学界がグローバル人材を育てるためにも話し合うべきではないでしょうか。

山内:そういう問題意識を持つ経営者や大学関係者は個別にはいても、なかなか動きにはつながりませんね。それから、長く勉強した大学院生を企業にはもっと前向きに採用していただきたいと思っています。

川淵:確かに、私も都庁の職員に、大学院生も採用したらどうかと言ったところ、「優秀すぎて、どう活用すればいいかわからない」という答えが返ってきました。特に文系の大学院生はそうなのだろうと思います。

山内:何か専門的にやりたいという人は別にして、普通に採用してくれればいいと思いますよ。大学院生も学生ですから。

川淵:それを聞いて安心しました(笑)。

山内:では、最後に一橋大学の学生に対してメッセージをお願いいたします。

対談の様子08

川淵:一橋大学は日本を代表する大学の一つですから、ぜひ日本の学生の先頭を走っているという心意気を持ってほしいですね。また、国内では誰もが認める存在ですから、世界で認められることを目指してほしいですね。今日の学長のお話でもわかりましたが、海外に思い切って送り出していく方針を掲げられていますから、海外で刺激を受け見聞を広める機会にも恵まれていると思います。若者にとっての特権は、ある種の無茶を後顧の憂いなくできるということだと思うので、失敗を恐れることなく思い切ってチャレンジしてほしいと思います。失敗して初めて人は成長できるという面もありますから。そうして、日本の発展のために役に立つ存在になるという気概を持ってほしいと思います。

山内:どうもありがとうございました。

(2014年10月 掲載)