"伝統を守るための革新"で、日本酒の世界に新風を吹き込む
- 新政酒造株式会社 代表取締役社長佐藤 祐輔
- 一橋大学副学長(国際交流・広報・社会連携)中野 聡
2018年冬号vol.57 掲載
嘉永5(1852)年創業の、秋田の老舗酒蔵である
佐藤 祐輔
1974年、嘉永5(1852)年創業の老舗酒蔵である新政酒造に生まれる。秋田県秋田市出身。東京大学文学部卒業。卒業後は小説家を目指し、さまざまな仕事を経験する。その後編集プロダクション勤務、ウェブ新聞社を経てフリーランスのライターとして活躍。友人が紹介してくれた純米酒を口にしたことから日本酒に目覚め、2007年に家業である新政酒造に入社、代表取締役社長(8代目当主)に就任、現在に至る。日本酒の可能性を信じて独自のアプローチで日本酒造り、プロモーションに挑んでいる。
中野 聡
1983年一橋大学法学部第三課程(国際関係)卒業後、同大学院社会学研究科修士課程地域社会研究専攻入学。1985年同大学院社会学研究科博士後期課程地域社会研究専攻入学。博士(社会学、一橋大学)。1990年神戸大学教養部専任講師、同大学国際文化学部助教授、文部省在外研究員(フィリピン大学歴史学科客員研究員)などを経て1999年一橋大学社会学部助教授に就任。2003年一橋大学大学院社会学研究科教授、2005年安倍フェローシップ(コロンビア大学東アジア研究所客員研究員)、2013年フルブライト研究員プログラム(ジョージ・ワシントン大学シグーア・アジア研究所客員研究員)。2014年12月一橋大学大学院社会学研究科長・社会学部長を経て、2016年12月一橋大学副学長(国際交流・広報・社会連携)に就任、現在に至る。
商学部で簿記に挫折し文学部に再入学
中野:佐藤さんには、5月28日に秋田市で行った如水会主催の移動講座にご登壇いただきました。その時に伺った異色のキャリアと、帰郷し酒蔵を継いでイノベーションを進めているお話が非常に興味深く、進路を模索する学生諸君の参考にもなるかと思いまして、今回この対談企画へのご登場をお願いした次第です。また、個人的ではありますが、アメリカ史教員の私にとっては、佐藤さんの卒業論文タイトルにも大いに興味をそそられました。そのあたりのお話も伺いたいと思っています。
佐藤:「ボブ・ディランとビートニク」ですね。
中野:その卒論をお書きになって東京大学文学部を卒業されたわけですが、最初は明治大学商学部に入学されたんですね。一橋大学商学部にも、家業を事業継承した多くの卒業生がいますが、佐藤さんもそういった経緯でしたか?
佐藤:以前から文学や音楽、美術といったアート系に興味はあったのですが、作家やアーティストを目指すというほどの思い入れもなくて、どこを志望したらいいのか分からなかったのです。父に相談したら「ならば商学部にしておけば」と言われて、そうしておくか、という感じでした。
中野:商学部なら潰しが効くだろうということですか。
佐藤:僕は"潰し"すら考えませんでしたね(笑)。大学に入れば、たくさん本が読めそうだ、バンドが組めそうだ、ぐらいのことしか考えていませんでしたから。
中野:そんな佐藤さんが明治大学を退学して東京大学に入り直されたのは、どういった経緯でしたか?
佐藤:僕は数学的なものが苦手なのですが、商学部で必須の簿記に躓つまずいたのです。みんな1年次から3級を取ったりしていたのですが、僕は苦痛で仕方がありませんでした。また、後で分かったことですが、当時の僕は注意欠陥障害だったのです。簿記アレルギー状態になって90分の授業を聞いていることができず、寝てしまったりしました。簿記が一つの基本となる商学部ではもうやっていけないと思いました。そして、当時ダニエル・キイスの『アルジャーノンに花束を』を読んで心理学に興味を持ったのです。自分で自分を解読できるんじゃないかと。それでいきなり退学しました。
中野:そうでしたか。しかし、簿記は会社経営に必要だったりしませんか?
佐藤:もちろんBS(貸借対照表)やPL(損益計算書)は見ますが、分析資料は顧問税理士がつくってくれていますので、実技として身につけなくても支障はありません。もっとも、自分としても経営などよく知らなかったので、家業に入る際、簿記のできない自分は経営もできないだろうという考えはありました。ですから、経営にはノータッチで酒造りだけやらせてもらおうと考えていたわけですが。それと、簿記に対しては、お金を稼ぐスキルとして身につけることに抵抗感がありました。ロックやパンク、あとはアヴァンギャルドなアートなどが好きで、そういう生き方に憧れていたので、気分としてはビジネスなんぞやってられるか!といった感じですね。
中野:なるほど。
佐藤:ただし、後でスティーブ・ジョブズのようにビジネスと東洋哲学の併存といったケースもあることが分かって、そのあたりは自分の中で折り合いはつきましたが。
中野:東京大学の文科三類の受験に合格するとは、早くから準備を進めていたのですか?
佐藤:割と早くから考え始めました。センター試験は文系の4教科でしか受けず第1段階選抜に合格し、たしか第2次学力試験で英語の論文2本と国語の論文を1本書いて合格できました。
アメリカ文学と音楽にのめり込み
卒論は「ボブ・ディランとビートニク」
中野:東京大学の英文科に入学後はアメリカ文学を専攻されたわけですね。どんなところに惹かれたのですか?
佐藤:好きだったロック音楽と密接だったことと、東洋の影響が如実に出ているところです。鈴木大拙がアメリカの上流社会に禅を広めて影響を与え、ゲーリー・スナイダーが日本で暮らしたりしましたが、そういった東洋思想に影響された部分をなんとなく探していたように思います。そんな関心が、卒論である「ボブ・ディランとビートニク」に結び付いたわけです。
中野:ボブ・ディランはノーベル文学賞の受賞もそうでしたが、本人は好きなようにやってきたのを、周りが時代の寵児にしていったという側面がありますよね。ビートニクの代表的な作家であるウイリアム・S・バロウズも晩年までロックミュージシャンのアイドル的な存在でしたが、エリート的な出自の一方、やりたい放題の破天荒な面がありました。断片をつなぎ合わせるカットアップの技法を用いて、既存の修辞学や論理学をぶち壊した実験的な作品でも知られていますね。
佐藤:その断片の、一見関係のないものが実はつながっていくところに東洋思想の影響が見て取れると思います。バロウズも好きな作家の1人です。
中野:自分が面白いと思うものを追求した結果として一連の作品が生まれ、評価された典型がディランやバロウズだということですね。ところで、私の姉は英文学を研究していたのですが、佐藤さんの卒論の話をすると「さすがに東京大学は自由でいい」と感心していました。
佐藤:いやいや、そうでもないですよ。『白鯨』かシェイクスピアにしろ、と言われるようなところもありましたから。当初はビートニクなど卒論の題材としてあり得ないと言われたぐらいです。とはいえ卒業はさせてもらえましたが。
中野:卒業後は、どうされたのですか?
佐藤:当時は作家になりたいと思っていました。ヘミングウェイもマーク・トウェインも新聞記者出身でしたが、僕もフィクションだけでなくノンフィクションも好きで、なんとなくその方向に進んで行きましたね。たまたま学生時代に、母親の知人であった元読売新聞社の社会部長がジャーナリズムを教えてくれました。彼はノンフィクション全集をくれたりして、いろいろ教えてもらったことも大きかったと思います。その頃から"人生、ネタ探し"的な意識になっていました。
中野:就職は考えなかったのですか?
佐藤:NHKを受けて内定をもらい、研修まで受けたのですが、「やはり組織に入らず1人でやっていこう」と思い直して謝りに行きました。引き留められましたが。
中野:大きな決心ですね。
佐藤:音楽番組をやらせてもらえるという話もあったので、後ろ髪を引かれる思いもありました。でも、今ではあの時入らなくて良かったと思っています。ライターになって自分の興味関心のあるテーマをストレートに追求することができましたから。
物書きを目指した"人生、ネタ探し"
中野:卒業後、具体的にはどういったことをしたのですか?
佐藤:お金が必要でしたから、数か月は家庭教師をして凌ぎました。その後は"人生、ネタ探し"として面白そうなことをしようと、葬儀社に入りました。
中野:ほう。映画の『おくりびと』が話題になった頃でしょうか?
佐藤:その前です。後で『おくりびと』を観ましたが、まさにそういった仕事でした。ご遺体をきれいに整えたりしましたよ。そういった業務は斎場が自ら行うのではなく、下請けの専門業者に出すのです。私はその下請けに入りました。文学的な興味からでしたが、今思い返すと仕事は淡々とこなしていましたね。
中野:"死"は重要な文学のテーマですね。
佐藤:"死"とは他人には起こり得ても、本人にとっては決して体験できない、つまり存在しえない出来事です。しかし、人生の後半、万人にとってそれが最大の関心事になります。まさに宗教・哲学・芸術がそこから発する問題です。その次は、葬儀社にいた人が始めたアマチュアのボクシングジムでも小遣い稼ぎ程度の仕事をしました。リングづくりの手伝いとかですが、面白かったですね。その後、シナリオの勉強をしておこうと昼間に学校に通い、夜間に豊島区の郵便局で契約社員として働きました。最初は目白の高級住宅街を担当したので良かったのですが、池袋地区に配置転換となって、風俗店とかサラ金とか危なそうなところに、現金書留とか裁判所からの内容証明なんかを配達するようになったのです。ちょっと怖かったですね。また、郵便局にはテレビドラマの『池袋ウエストゲートパーク』に出てくるような少年たちがたくさん働いていて、ケンカもよく起きて、ドラマみたいなことが本当にあるんだと思いました。
中野:いろいろと文学的にはいい経験をされたようですね。シナリオの学校での勉強は役立ちましたか?
佐藤:要領のようなものは学べましたね。後々、マンガの原作や、連続ドラマのシナリオづくりの手伝いなんかをやるようになったのですが、勉強していなかったら大変だったと思います。
中野:書き手としては、シナリオライターから始めたというわけですね?
佐藤:そうですね。そのうち、編集プロダクションに入っていた友人から誘われるようになって、そろそろ郵便局も辞めていいかと思い、入社することにしました。そこは大手旅行会社から旅行のガイドブックなどを受託していた会社で、僕は焼き物の本とかをつくりましたね。類似の本を参考にしながら、益子の地図などを載せて、現地のいろいろな店に電話取材して、って感じで。
中野:編集の仕事に広がったわけですね。
社会正義をベースに消費者問題を追及
佐藤:そこでしばらくやって、シナリオライターつながりから日本インターネット新聞社が運営する「JANJAN」というネット新聞の立ち上げに関わる機会を得ました。朝日新聞社の編集委員から鎌倉市長に転身した竹内謙さんが市長退任後に手がけたのです。その編集部で、一般の方から募ったいわゆる「市民ライター」が上げてきた記事の校正や整理を任されました。そのうちに記事が足りないからお前も書けと言われ、いろいろな記事を書くようになりました。その編集部にはさまざまなライターや雑誌社の人が来て、人脈もできていきましたね。当時から食品添加物や悪徳業者などの消費者問題に関心があり、追及するような記事をたくさん書きました。「JANJAN」だけでなくいろいろなニュースサイトともつながって、毎日1本は書いていたと思います。
中野:書き手として実力を蓄えていった頃ですね。
佐藤:ええ。しかし堅めの「JANJAN」では僕の原稿は危ないと思われたのか、ボツが増えていったんです。自分では絶対に面白いと思っていたので、鬱屈していました。そんな時に労務問題のようなことが起こって、いろいろ生意気な発言をしたのです。結局、同僚がクビになったのを機に私も勢いで辞めてしまいました。しかし、仕事の目処はついていたので、完全なフリーランスとしてやっていける自信はありました。さっそくボツになった記事を集めて出版社に持っていったら、本にしてもらえたのです。ペンネームで出版していますが、今はこうして企業の社長をしていますので、書名は控えさせていただきます(笑)。メインの収入源は大手の週刊誌での記事でした。社会派の記事が得意で、食品添加物の安全性を追及することは、私のライフワークでした。たとえば、当時、体にいいとヒットしていた食品が、実は体に良くない添加物が含まれていることを追及し、結果的に発売中止に導いた実績もあります。我ながらよくやったと今でも誇りに思っています。
中野:社会正義がベースにあったのですね?
佐藤:そうですね。ビートニクも一見荒くれ者のようですが、根本では社会正義に熱い人たちだったと思います。ロック音楽にもそういった面がありますね。
中野:同じベースを共有していたから惹かれたのでしょうね。そのほかにはどういったテーマで書いたのですか?
佐藤:あるビジネス誌で農業を担当している人と親しくなって、自然にも関心があったことから農業もいいな、と思っていました。ちょうどそんな時に、親しくしていた先輩フォトグラファーに伊豆で開かれた飲み会に連れていかれたのです。そこで、私が新政を継ぐことになる運命的な出合いをしました。
おいしい日本酒に巡り合い
実家に戻って酒造りの道へ
中野:どういった出合いでしたか?
佐藤:ある参加者の方が「君の実家は日本酒の酒蔵だそうだけど、この酒を飲んでごらん」と勧めてくれたのです。《磯自慢》というお酒でした。天保元(1830)年創業という静岡県焼津の老舗銘柄です。これが非常においしかったのです。
中野:日本酒に目覚めたわけですね。
佐藤:酒蔵のせがれのくせに、それまで日本酒なんて古臭いと一切口にしていませんでした。お酒といえばもっぱらチューハイばかり。しかし、《磯自慢》を飲んで、こんなに日本酒っておいしかったのか、と。何かを好きになるとマニアックにのめり込むタイプですから、これを機に日本酒の探求を始めてしまったのです。それこそ、稼いだお金の大半をつぎ込むほどにです。そうしているうちに、愛知の《醸し人九平次》に巡り合って衝撃を受けました。こういう酒の造り方もあるのか、と。すごいアート作品に出合ったような衝撃でしたね。
中野:そうだったんですね。それで家業を初めて意識したと。
佐藤:当時まだ"人生、ネタ探し"ですから、こんなにうまいのに誰も知らない日本酒というのはいいテーマになるだろうし、そのインサイダー情報が得られるかもしれない酒蔵が実家で、とんでもなく有利な立場にいるという、多少よこしまな認識です(笑)。8代目を継ぐという意識はなく、酒造りをしてみたいという興味ですね。また、相当つぎ込んでいましたから、形にして取り戻したいという思いもありました。
中野:あくまでもジャーナリストとして実家に戻られたわけですね。
佐藤:はい。親父に「酒造りをやらせてほしい」と頭を下げました。そして、まずは基本が分からなければダメだろうと、東京都北区にあった酒類総合研究所に行かせてもらい、1か月半ほど研修を受けたのです。そこには、各地の酒蔵の跡取りなどが20~30人集まっていました。講義や、4人1組に分かれて酒造りの実習をするわけです。同じ組になった、ある新潟の酒蔵から来た女性がブログを書いていたのですが、研修期間中僕だけがそのブログに一度も登場しませんでした(笑)。
中野:なぜですか?
佐藤:素行不良だったからです。当時、ジャーナリストとして追及先といろいろ闘っていて精神的に摩耗していたのと、原稿を夜中に書くしかなかったので、講義中はずっと寝ているような状態で。自分でも「このまま醜態をさらしていては、実家に恥をかかせるだけ」と反省しました。それで、覚悟を決めたのです。
中野:酒造りに集中しよう、と。
佐藤:みんな農業大学などに入って勉強し、さらにここに来て勉強している。若いのに、実家を継ごうとストイックに酒造りを勉強しているわけです。こういう世界もあるのか、と思いました。その時、自分が酒蔵に生まれたことがとてもいいことだと思えたのです。また、ライターのスキルは手に入ったから、いつでもできると。それに、ジャーナリストとして世の中に影響を与えている実感はあっても、何かを批判することを通じてですから、ネガティブな空しさを感じることも、正直ありました。それに対して、酒造りも一つの表現であって、しかもストレートに世の中に問えるものです。ポジティブな感覚でやれると思えました。かつ、こんなにおいしいのに評価されていないという腹立たしさもありました。つい最近まで自分も飲んでいなかったくせに(笑)。
中野:なるほど(笑)。
危機的な状態の蔵元を"伝統回帰"で一気に改革
佐藤:それで、酒造りをきちんと追究していこうと決心しました。北区での研修のすぐ後に、広島県西条町(現・東広島市)の本拠地で1年間じっくり学ぶ研修があり、参加するチャンスを得ました。そこで配られた教科書を開いたら、いきなり自分の酒蔵で発見された「6号酵母」に関する記述がでてきました。現在販売されている酵母の中では最も古いため、教科書に載っていたのです。この酵母が見つかったのは約90年前。曽祖父の5代目卯兵衛である、佐藤卯三郎が当主をしていた時代でした。卯三郎は大正期に醸造を学ぶ最高峰といわれた大阪高等工業学校(現・大阪大学工学部)に在籍し、ニッカウヰスキー創業者である同窓生の竹鶴政孝氏とともに"西の竹鶴、東の卯兵衛"といわれたほど優秀だったそうです。その卯三郎が酒造技術を完成させた昭和5年頃、新政のもろみから《きょうかい6号酵母》が発見されました。この酵母は10℃以下でも楽々と発酵させることができる力があり、酒造業界を席巻したのです。卯三郎の酒造りも、国税庁主催の審査会で昭和15・16年の2年連続で全国首席というピークに達しました。そのように卯三郎は大きな成功を収めたのですが、戦後の混乱の中、結核に罹って52歳で亡くなってしまいました。そうしたことを恥ずかしながら教科書で明確に知って、《新政酒造》に誇りを感じたわけです。この蔵を潰してはいけないという使命感のようなものも感じました。
中野:実家はすごい蔵だったと再認識したわけですね。
佐藤:しかし実家に帰って分かりましたが、当時の新政酒造は普通酒を主体に経営しているありふれた酒蔵の一つでした。いつのまにか価格競争に巻き込まれて、経営は赤字を垂れ流している危機的な状態でした。このままでは銀行管理になってしまう。人に使われることなど真っ平な自分は、やりたいこともできなくなってしまうと焦ったのです。だから、酒造り以前にこの赤字をなんとかしないといけないと考え、自分が正式に継いで一気に改革しようと決断しました。
中野:まず何をしたのですか?
佐藤:広島の研修期間中に考えた、自分がやりたい酒造りをしようと。それは、日本酒を"伝統文化"ととらえ直すことです。酒造業は明治以降、重要な徴税対象になりました。酒税は戦費調達のための重要な手段と目されたのです。このため国家が主導して、西洋科学を積極的に取り入れた、より合理的・効率的な製法が推奨されるようになりました。培養した酵母、つまり《きょうかい酵母》を用いることもその一つです。なお第二次世界大戦中は、発酵力が低かった1〜5号は頒布中止になり、6号酵母のみの頒布となってしまいました。新政は、戦時中の税収アップにこの上なく貢献したわけですね(笑)。ほかにも明治以降の酒造りの近代化は、清酒の醸造法を根こそぎ変えてしまいました。たとえば、日本酒を造るには蒸米と麹と水に酵母菌を加えた酒母を用意するわけですが、その造り方は《生酛系》と《速醸系》の2通りがあります。生酛は天然の乳酸菌で発酵させるのですが、自然に任せるので時間がかかるうえに不安定です。しかし、生酛造りにおいては、酵母が乳酸菌と同時に発育するために強健となり、その酒は劣化・酸化しにくくなるというメリットがあります。また、生酛は乳酸菌が生み出すラセマーゼという酵素によって、アミノ酸をうま味を感じる種類に変えます。だからうま味が深いのです。一方、国が指導した速醸は、酸味料という添加物を使用することで、乳酸菌を生育する手間を省き、生酛の半分以下の時間で早く確実に造ることができます。明治以降の酒造りは「普遍性」や「合理性」を重んじる西洋科学をベースに再構築されてしまいましたから、マニュアルに従えば誰でも一定のものは造れるんですね。"職人の勘と経験"みたいなものはいらなくなっていきました。
中野:なるほど。その場合は工業製品に近いものになってしまうわけですね。
佐藤:ですから、戦時中から現在まで、日本酒の酒母はほぼすべてが速醸系です。私はそんな底の浅い造り方をしたいとは全く思いませんでした。なんでみんなと同じ造り方で同じ質の酒を造らなければならないのかと。そして、幸か不幸か、生酛での酒造りにマニュアルはなかったんです。生酛の伝承は、国の政策によって途絶えてしまったからです。しかしながら、これはチャンスだと思いました。ほかに手がけている蔵がなければ、それだけで競争力がある。そして、今の若者が日本酒離れをしているなら、本当においしい日本酒を造れば、自分がそうであったように新鮮に受け止めてくれるに違いないと。そこで、目指す酒造りのキーワードは"伝統回帰"としました。
地元の若手醸造家と組んで日本酒復興活動に取り組む
中野:どういった内容ですか?
佐藤:日本酒は米、麹、水だけを原料とする純米酒と、醸造用アルコールを混ぜた本醸造酒に分かれますが、当蔵は純米酒だけを造ります。製法は生酛系のみ。あと、使用してもラベルには記載しなくていいような添加物って、速醸酒母に使う酸味料のほかにも、実はけっこうあるんですが、これらも一切使用しません。用いる米は秋田産の米、それも酒造りに用いられてきた高価な酒米だけです。ちなみに現在、秋田市の河辺鵜うやしない養地区というところに2町分の田んぼを借り、うち4反分で米の無農薬栽培も行っています。将来的にはオーガニックの米がメインになるでしょう。仕込み容器も、ステンレスや琺ほうろう瑯引きのタンクから、秋田杉製の木桶にシフトしていきます。将来的にはすべてを木桶にしたいのですが、酒蔵用の大きな木桶を製造する会社は日本に1社しかなく、そこも2020年に製造をやめると言っているので、これも自前でつくるために職人を養成しています。そして、日本酒は空気に触れて酸化すると味が落ちるので、速やかに飲み切れるように容器は720mlだけにしていますね。ざっとそんなところです。ここまで来るのに10年かかりました。帰郷当時は、赤字を垂れ流していましたが、このまま経費削減をしても復活はできないと悟り、あえて銀行からお金を借りて設備投資をし、理想の酒を造ろうと舵を切り始めました。自分が新たに雇った若い蔵人で新銘柄造りを始めたのです。中身が伝統的なぶん、ラベルは斬新なイメージに仕立てようと、6号酵母から取った『No.6』という洋風のネーミングをつけたり、容器のデザインも一見日本酒とは思われない洒落た感じに仕上げたりもしました。
中野:CDに付けるようなブックレットをつくったり、《見えざるピンクのユニコーン》《亜麻猫》、アポリネールの小説の題から採った《異端教祖株式会社》といったネーミングには、佐藤さんの文学や音楽へのオマージュが見て取れます。
佐藤:昔から好きな音楽や小説、民族楽器などのカルチャーからヒントを得ることが多いですね。
中野:まさに革新的ですね。
佐藤:伝統を守るための革新、と思っています。
中野:それで、肝心の売れ行きや反響はいかがでしたか?
佐藤:まずは地元秋田の酒販店を回りましたが、全く相手にされませんでした。ところが、ある酒販店さんが「東京の地酒専門店に持って行ってみては?」とアドバイスしてくれて、早速行ったところすごく評価してくれたのです。それで、自分の酒造りの方向性に自信が出てきて、売り込みを続けていくうちにこの価値を理解し応援してくれる酒販店や飲食店が増えていきました。出荷数量は三分の一程度になりましたが、売上高と利益はなんとか向上させることができました。
中野:今では入手困難といわれるほどの銘柄になり、結果的に経営も建て直されたわけですね。また、秋田の若手醸造家と「NEXT5」というユニットを組んで活動していると伺いました。
佐藤:私同様に潰れかけた蔵元の跡取りが集まって、酒造りの技術向上を図るために交流を始めたことがきっかけです。そのうちに5つの蔵で協力し合って新しい酒を実験的に造り、東京で試飲会を行ったり、日本酒復興活動としてイベントを主催するようになりました。そんな活動が注目されて、少しは若い人にも飲んでもらえるようになったかなと自負しています。
優れたビジネスパーソンには教祖的な素質がある
中野:素晴らしいですね。佐藤さんは経営には興味がないと言われましたが、最近は起業してIPOで一儲けしたいという若者も増えています。
佐藤:本当ですか?自分としては信じられないですね。やりたいことをやるだけで、金銭的なことはどうでもいいと思っているからです。お金があってもそれを失うのではないかとビクビクして生きている人がいれば、1円もないのに好き勝手に生きている人もいる。考え方一つです。自分は後者のタイプになりたい。もちろん、経営者ですから毎月会計事務所から送られてくる業績の数字は見ています。しかし、先月、先年からどれだけ多い少ないという数字を見ても、リアリティを感じないんです。ゲームに付き合っている程度の感覚です。そんなことで人生に影響を受けるわけにはいかないという思いがあるというか。
中野:佐藤さんのお話を伺っていると、とてもストーリー性がありますね。
佐藤:やりたいことの羅列が、たまたまストーリーになっただけだと思います。実際には、造ることより壊してきたことのほうが多いようにも思いますが。
中野:だからこそ、革新できたということかもしれませんね。
佐藤:見ているものが一般的な経営者とは違うのでしょう。スティーブ・ジョブズなど私が好きな海外の経営者を見ていると、ベースに教養があるように思います。しかし、日本の教育は教養を排除していますよね。それでいて、仕事が人工知能やロボットに奪われると騒いでいる。ではなぜ、現在の日本の教育は、いずれロボットに奪われるようなキャリアに向かわせる仕組みのままなのかと。甚だ疑問に感じます。
中野:確かにそうかもしれませんね。教養と知識とは違いますから。
佐藤:知識もあったほうが有利だとは思いますが。
中野:知識量で教養が決まるわけではありませんね。ものの見方に関わる問題だと思うからです。その点、私は渥美清演じる寅さんは教養人だと思っているんです。
佐藤:ムーミンでいえば、スナフキンですね(笑)。
中野:同感です(笑)。本学出身の財界人で如水会理事長も務めた村田省蔵(1878−1957)の敗戦時の弁に、日本人には「教育あるも教養に欠くる所あり」という反省の言葉がありますが、いまだにわれわれにとっての課題であり続けているわけですね。一橋大学は教養主義的なゼミ教育が行われていて、その点は大きな強みとしています。
佐藤:優れたビジネスパーソンは、どこか宗教の教祖的な素質があるように思うのです。
中野:フランスのボルドーワインが成功したのは、単なる味の問題ではなく、その酒造りの精神に人々が共鳴したからだと佐藤さんも仰ってましたね。そこに宗教に近いものがあるわけですね。
佐藤:私は、これからは宗教的なものに依存していく社会になるのではないかと思っています。仕事が人工知能やロボットに代替された人間に問われる能力は、ロボットには処理できない部分ですから、つまるところ人間とは何かという問題と直結しています。つまり良くも悪くも、非合理的な価値を発露させて影響力を発揮する人が、珍重されるのではないかと思うのです。そんな価値を換金すれば、IPO以上の金額になるかもしれませんね。そんな存在には憧れも感じます。
中野:今後のご活躍に期待しています。本日はどうもありがとうございました。
(2018年1月 掲載)