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希少疾病用などの医薬品に特化した製薬ベンチャーで、"満たされていないニーズ"に応える

  • ノーベルファーマ株式会社代表取締役社長塩村 仁氏

2016年冬号vol.49 掲載

科学は長足の進歩を遂げているが、解明されていない領域はまだまだ多い。医学の世界も然り。世の中には原因不明で治療方法がない"難病"や"希少疾病"(日本では患者数5万人未満)と呼ばれる病気がある。厚生労働省の指定難病は300疾病ほどあり、約150万人の患者がその対象となっている。しかし、"希少"であるがゆえに、収益や効率を追求しなければならない製薬会社は、そのための医薬品の研究開発には及び腰だ。そうした中にあって、希少疾病用のオーファンドラッグなどの"アンメット(満たされていない)メディカルニーズ"の医薬品の研究開発に特化して取り組む製薬ベンチャーがある。その名も、ノーベルファーマ株式会社。あのアルフレッド・ノーベルが設立した会社の系譜に連なるところから、そう命名された。同社を創業したのは、塩村仁。化学のプロでもあるという、一橋大学が送り出した"希少"な存在の軌跡を追う。(文中敬称略)

塩村 仁

塩村 仁

1954年神戸市生まれ。1977年一橋大学経済学部を卒業後、三菱化成工業(現・三菱化学)に入社。1981年にコーネル大学ビジネススクールへ同社から派遣留学し、管理会計とマーケティングを学ぶ。帰国後は、三菱化学第1号医薬品であるテオドールの他、新薬の上市責任者となる。2002年三菱化学(現・三菱ケミカルホールディングス)ヘルスケア企画室室長。2003年6月にノーベルファーマを創業、現在に至る。

必要なのに顧みられない医薬品を顧みる

インタビューの様子1

ノーベルファーマが掲げる使命は、「必要なのに顧みられない医薬品・医療機器の提供を通じて、社会に貢献する」こと。2003年6月の設立以来、「ウィルソン病」「新生児けいれん、てんかん重積状態」「悪性神経膠腫」「サイトメガロウイルス網膜炎」「未熟児動脈管開存症」「ウイルムス腫瘍」「悪性胸水の再貯留抑制」「リンパ脈管筋腫症」「膵・消化管神経内分泌腫瘍」といった聞き慣れない難病の医薬品を上市してきた。たとえば「ウィルソン病」は、日常の食事で摂取された銅が肝臓から胆汁中・腸管中に正常に排出されず、肝臓や脳、腎臓などに多量に蓄積し重い障害を引き起こすという病気。この発症率は3万〜4万人に1人とされ、全国に1500人ほどの患者がいるといわれている。しかし、早期に発見し適切な治療・投薬を行えば十分な社会復帰や発症予防が可能なのだ。同社のように、こうした希少な病気のためのオーファンドラッグなどを十数年の間に13品目も上市するのは、極めてハイペースといえる。さらに同社は現在、10程度のパイプライン(医療用医薬品候補化合物)を開発・治験中である。
"医療上必要なのに顧みられない=アンメットメディカルニーズ"があるのは、顧みる立場にある製薬会社にとっては、市場が過小で収益性が低いからである。しかし、少数であろうが、その医薬品を心の底から待ち望んでいる患者は存在している。
誰かが開発しなければ、その患者が救われることはない。その"誰か"になることに、塩村は自分自身の存在意義を懸けることにしたのだ。
企業である限り、存続のために収益を追求するのは当然のことである。しかし塩村は、「収益は目的ではなく使命を遂行した結果であり、また使命を遂行するための手段である」ととらえている。だからこそ、収益性を第一に追求しないスタンスを取る。ノーベルファーマの「行動基準」には、「無駄なものを持たない・買わない、無駄なことをしない・させない」と明記されている。同社の本社が入居しているビルは、東京・日本橋小舟町の路地にある築45年という物件だ。

医薬品開発の方法論は"ドラッグ・リポジショニング"

こうした姿勢は、もちろん肝心要の医薬品開発にも貫かれている。医薬品の開発には膨大な時間と費用がかかることはよく知られているが、それは候補物質の探索などの基礎研究段階から手がける場合の話。同社の研究開発の主たる方法論は、"ドラッグ・リポジショニング"という、すでに上市されている医薬品の新たな効能・効果を開拓し、当局の承認を受けることにあった。したがって、同社は製薬会社でありながら研究所を持っていない。その代わりに、白衣ではなくスーツを着用したリサーチャー(研究者)が世界中から医薬品に関わる情報を集め、評価・分析し、治験などを経て承認を取得する"後期開発"に徹しているのである。そうした医薬品は、すでに人の口に入れる物質としての安全性などはクリアしており、改めて試験を行う必要はない。後期開発に集中することで、開発コストの大幅な削減や開発スピードの向上、上市数の多さをもたらしているのだ。
また、製薬会社や創薬ベンチャーが候補物質の探索などから開発する新薬は、自ずと「この病気に効果がある薬を開発したから、その病気の人は服用してください」という"シーズ型"となる。これに対し、同社は患者の「早く薬をつくってほしい」という要望に基づいて開発する"ニーズ型"。しかも、政府が指定する難病の場合などは、国から開発費を助成してもらえたり、臨床試験(治験)の対象となる患者や医療機関の協力も得やすいなどのメリットがある。
「確実な市場ニーズがあるので、抑制できた一定のコストで開発すれば、上市しても経営的に失敗しないと考えました。かつ、そのように開発しやすい環境がある。しかもニッチなので、競争相手もほとんどいません。市場の小ささがデメリットならば、開発の数で勝負すればいいわけです。そして何より、患者さんやそのご家族、医師に深く感謝されますね。製薬業ほどいいビジネスはないという思いです」と塩村は笑う。
もう一つ、同社にはユニークな特色がある。社員の平均年齢は50代で、しかも大手製薬会社で長年、承認取得業務を経験したベテラン揃いであるということだ。
「いわば"目利き力"と幅広い人脈を持ち、最短距離で目標の承認取得に達する術を熟知しています。かつ、まだ小規模の当社なら、大手に比べて一人ひとりの存在感は圧倒的に大きく、やりがいや生きがいにつながっています。いいことずくめですよ(笑)」

一橋大学では、"伸び伸びした4年間"を過ごす

インタビューの様子2

1954年、神戸に生まれた塩村は、子どもの頃から生物や化学の世界が大好きだった。そして、高校時代は医師を志望する。
「高校3年の1学期まではそのつもりでいました。しかし、模擬テストなどの結果で、自分が行きたいと思っていたレベルの医学部には受かりそうもないと感じたのです。当時は結構上昇志向というか、偉くなりたいという思いがあったので、ならばと医者の道はあっさりとあきらめました。理系でしたので、その代わりに工学部に進む選択肢もありましたが、工学部出身の人は文系の人に使われるイメージがあったのです。ならば、その文系に行こう、と考え直し、文転しました」と述懐する。
そうして選んだのが、一橋大学であった。浪人はしたくなかった塩村に、一橋大学は自分が合格できそうなレベルで、かつ社会科学系の学部においては国内トップクラスの存在と映ったからである。しかも、一橋大学の入試は、理系に有利といわれていた。
1973年、塩村は経済学部に入学する。その入学式の最前列で聞いた都留重人学長(当時)のスピーチを、塩村は今でも忘れていない。4年間の学生生活を決定づけたからだ。
「オイルショックがあった頃で、トイレットペーパーの買い占めが大きなニュースになりました。都留先生は、『関連する企業の人は大変な苦労をしている。君たちの先輩もたくさんいる。社会に出ると、かように大変な思いをするわけだから、この4年間はゆっくり学びなさい』と。もちろん、じっくり勉強せよという意味でそうおっしゃったと思いますが、当時の自分はそうは取らなかったんですね(笑)。おかげで、伸び伸びした学生生活を送らせてもらいました」
コンパクトな規模の大学のメリットを活かし、多くの人と顔見知りとなり、濃密な交友関係を持つことができた。「今でも変わらず交友は続いている」と塩村は目を細める。医学や化学が好きだった塩村は、化学のゼミを専攻。学生生活を通じて、"キャプテン・オブ・インダストリー"を輩出するという学風は4年間で着実に塩村の中に浸透した。
「いざ就職という時は、ビジネスの世界で自分も活躍するんだという思いができていましたね」
しかし、どの分野や企業に入るかという明確なイメージは持てないでいた。そんな時、友人が暮らす学生寮に行った際に集まっていた何人かの友人たちが、「三菱化成(現・三菱ケミカルホールディングス)へ会社訪問に行く」と言うのを耳にした。
「たまたまその数日前、週刊誌で三菱化成の記事を読み、気に留めていたのです。そこで自分も彼らと一緒に会社訪問に行くことにしました」
初回の訪問で三菱化成の人事担当者に気に入られた塩村は、トントン拍子に内定を得る。そして、配属部署の希望を尋ねられた。ちょうどその当時、新規事業として医薬品部門が立ち上がったばかりだった。
「そこで、医薬品の仕事ができるならと希望したら、聞いてもらえたのです。以来、退職するまでの25年間、組織の形は変われど医薬品部門一筋で過ごしました」ちなみに同部門は現在、田辺三菱製薬に分社化されている。

将来が約束されたポジションで覚えた"違和感"

数十名でスタートしたばかりの同部門のメンバーは、薬学や化学などを専攻した先輩ばかり。「そうした人たちに囲まれ、少人数ということもあって、自分は何でもやらせてもらえた」と塩村は言う。経済学部の出身ではあったが、医薬品の研究開発という好きな世界の仕事にも携わることができた。
「医薬品開発の腕を磨くことができましたし、米国・コーネル大学のビジネススクールに留学もさせてもらえました。おかげで文理の"両刀使い"となることができました。会社には本当に良くしてもらったと思っています」
三菱化成は1994年に三菱油化と合併して三菱化学となり、塩村は三菱化学第1号の医薬品である「テオドール」のプロダクトマネージャーとして、販売前の基本売買契約締結交渉や薬価交渉、効能・剤型追加業務を担当。その後も「ノバスタン」(1996年)、「コレバイン」(1999年)といった大型新薬の上市を主導し、功績が讃えられて2度も社長表彰を受ける。1999年、三菱化学の医薬部門は東京田辺製薬と合併して三菱東京製薬に分社化される。塩村は同社に出向、上市済み医薬品の効能追加や剤型追加を専門的に担う部署を創設し、責任者に就任。2001年にウェルファイドと合併して三菱ウェルファーマとなってからは、戦略的プロダクト・ライフサイクル・マネジメントの専門部署の責任者となった。そして翌2002年、親会社である三菱化学のヘルスケア企画室の初代室長に任命され、所管する5社の取締役を兼任するなどの要職に就く。企画室長としては、資本政策という企業経営の中枢業務に関わった。
しかし、その裏で塩村の胸には何か違和感が去来していた。塩村は、次のように打ち明ける。
「企画室長に任命される前、踊り場にいる自分を感じていました。それまで現場で好きな仕事を勢い良くやってきたのですが、次第に現場から離れていったわけです。今思えば、自分は現在の当社のような規模の現場の第一線で仕事をし続けたかったんですね。そんなモヤモヤがありつつ、大企業の出世レースの先頭に立つようなポジションに抜擢されたことで、一旦は満足感を覚えたわけです。他部門の企画室長は皆役員でしたから、自分も同じ道をたどるのだと。そして資本政策の仕事そのものもエキサイティングではあったのですが、やはり自分には不向きだと感じました」
そして塩村は意を決し、独立して事業を起こすプランづくりに着手した。2002年の夏休みを利用し、有給休暇も加えて2週間、その作業に没頭する。
実はその前に、塩村には、独立してノーベルファーマの設立に至るきっかけとなった決定的な出会いがあったのだ。

助手席に座ったことで訪れたチャンス

2000年のこと。化学系の専門商社である稲畑産業のニューヨーク支店に在籍していた米国人の営業担当者が、ある技術を塩村のところに売り込みに来た。興味を覚えた塩村は、別件による出張のついでに、その技術を見に行くことにした。ニューヨーク市内から現地までその営業担当者が車で連れて行ってくれたのだが、その際に塩村は助手席に乗り込んだのである。
「案内される側は目上に当たるし、その営業担当者は自分よりも10歳も年下でしたから、通常は後部座席に座ると思います。けれどもその時、それは何か失礼なように感じたんですね。まだ客でもないし、わざわざ連れて行ってくれるわけですから。しかし、その判断が運命の分かれ道だったというわけです」
片道2時間・往復4時間の車中、塩村と営業担当者はずっと英語で会話を楽しんだ。
「変わり者だと思われたのでしょうか(笑)。ぜひ会ってほしい人がいると、ボスを紹介してくれたのです。そのボスが後の稲畑産業の専務で、当時は北米総支配人を務めていました。その北米総支配人が、ノーベルファーマを設立するキーパーソンになってくれたわけです」
北米総支配人との食事の席で、塩村は「世界的な製薬会社は合併を繰り返して巨大な規模になっている。それは創薬に巨額の開発費がかかるためなのか?やはり医薬品開発は大手でなければできないことなのか?」と尋ねられた。一般的にはそうであるが、やり方次第では大手でなくてもコストをかけずに医薬品を開発できることを塩村は熟知していた。そういった業界事情の話題ならお手のもの。会話は大いに弾んだ。その中で塩村は、踊り場にいる自身の状況や、ある医薬品開発のアイデアも口にした。
「すると、北米総支配人は『ならば、1回考えてみたら?』と言ったんです。つまり、独立して製薬会社をつくることを。稲畑産業として支援することを考えてもいいとまで言ってくれました。それから、その言葉がずっと頭に引っかかっていたんです」

資金と知恵のイコールパートナー

塩村は1年間、熟考した。そして北米総支配人に会い、「いくら開発費用はかからないといっても、一定の資金は必要になる。しかも、開発期間の5年間は確実に利益を生まない。本当に支援してくれるのか」と確認した。
「出しますよ、と。しかも、考えられないような提案をしてくれたのです」
サラリーマンである塩村が出せる創業資金は、大した額にはならない。それに対し、稲畑産業はその300倍の資金を提供する、というのだ。しかも、出資比率は50対50になるように株価を調整するとまで言ってくれたのだ。
「思わず『なぜですか?』と聞きました。普通はそんなことは考えられないからです。せめて51対49にして支配権を持とうとするでしょう。しかし、相手は『我々はイコールパートナーだ』と言うのです。自社には資金はあるが専門知識はない。塩村には、資金はないが専門知識はある。だからイコールだと。そして、50対50にするのは、そうすれば塩村も自分の会社だと思って必死に働くだろうと。そのほうが結果的に新合弁会社は発展し、得られる果実は大きくなる、というわけです。参りました(笑)」
経営の三要素、ヒト・モノ・カネ。その中で金利低下局面にある今、カネの地位が下がっている。むしろ有為な人材は不足気味だ。しかし、多くのベンチャー・キャピタルはそこに気づかないのか、あくまでも冷徹に収益"勘定"に終始し、人間"感情"を顧みない。
「だから、ただでさえ困難が多いベンチャー経営者は途中でやる気をなくしてしまうんだと思います。その点、稲畑産業こそ真のベンチャー・キャピタルだと思いましたね」と塩村は強調する。稲畑産業としても、従来の商社業務だけでは発展性が乏しく、より付加価値の高い事業にインベストメント(投資)していかなければならないという危機意識があった。そんな意識のスコープに、塩村が入り込んだというわけである。
ダイナマイトの発明で知られるアルフレッド・ノーベルは、1870年にNobel Industries Limitedを設立する。同社は合併による多角化を進め、世界有数の総合化学会社ICI(Imperial Chemical Industries)に発展した。その一事業部門であったICI Nobel社が稲畑産業に2002年に買収され、ダイナマイトなどの化学品メーカーであるNobel Enterprises Industries Inc.となった。そのグループ会社という位置づけでノーベルファーマは設立された。

中学、高校時代は山岳部に所属し、大学生になってからは、友人たちとよく山登りに出かけた。就職直前の3月に登った利尻岳にて

中学、高校時代は山岳部に所属し、大学生になってからは、友人たちとよく山登りに出かけた。就職直前の3月に登った利尻岳にて

一橋大学の同級生の紹介で、大学3年の時に交際が始まった現夫人との、学生時代の1枚

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ノーベルファーマ社、全社員とともに

ノーベルファーマ社、全社員とともに

社内風景

画期的なマラリアワクチンの事業化に取り組む

インタビューの様子3

同社設立後、塩村は手始めに、温めていたアイデアによる三つの医薬品の開発に着手する。そのうちの一つは「ルナベル」という月経困難症の薬。これは、経口避妊薬(ピル)としてすでに上市されていたもののドラッグ・リポジショニングによる開発だ。ホルモン製剤によるピルが、子宮内膜症や月経困難症にも効果があることは国内外でよく知られていた。しかし、日本では避妊薬として以外は承認されておらず、したがって保険が利かない状態にあったのである。一部、処方する医師も存在していたが、このピルが月経困難症の薬としても承認されれば、一定の市場が獲得できることに前職時代から塩村は気づいていた。
「会社を立ち上げて、まずは経営を安定させる必要があります。そこで、ある程度の売り上げが期待できるものの、なぜかアンメットメディカルニーズであったこの薬の承認申請を第一のターゲットにしました」
計画どおり、5年後の2008年に「ルナベル」など3つの医薬品を上市し、いよいよ収益拡大サイクルに入った。そんな同社は、徹底した"日にち管理"により、経営を軌道に乗せている。同社の社員はまず期限を決めてから業務に取り組む。臨床試験や申請、承認など、「何月何日までにやる」と自ら宣言して行動するのだ。
「"無駄なことをしない・させない"という行動基準によります。大手のような資金がない当社が生き残るには、こうした工夫や小さな努力の積み重ねが不可欠ですね」と言う塩村は、自社のポジショニングと勝ち抜いていくノウハウを知り尽くしているのだ。
そして塩村は今、画期的なマラリアワクチンの事業化にも力を注いでいる。大阪大学医学部の堀井俊宏教授が開発した「BK-SE36」というマラリアワクチンは、ウガンダの6〜20歳の子どもから若年層に接種したところ、72%(5歳以下は80%)もの高い防御効果を示した。さらに、日本人などが流行地に渡航する際は90%ほどの高い防御効果も予測されているという。
「これが実用化されれば、何十万人もの命を救うことができる、そして、利益もついてくると確信しています。協力を要請された当社としても、大きなチャンスととらえ取り組んでいます」と塩村は目を輝かせる。

"前髪しかない"チャンスを逃すな

そんな塩村は、現在の一橋大生に対して次のようにアドバイスを送る。
「就職先として、大企業以外にも目を向けてほしい。出来上がった会社よりも、成長過程にある会社のほうが面白い」
両方を経験している塩村の意見だからこそ、傾聴に値するだろう。もっとも「すでに結構な人数が新興企業に入っている。今の学生は賢いと思う」と補足する。
また、塩村は「独立するチャンスがあれば、絶対に逃すな」とアドバイスする。若いうちは、それで失敗したとしてもいくらでもリカバリーできるからだ。
「一橋大生は、おそらく社会全体の上位5%には入る優秀な人材です。仮に失敗したとしても、世の中が放っておきません」
さらに、家業を継ぐ立場にある学生には、「ぜひ継ぐべき」とも。すでに事業体としての土台ができているので、創業よりも圧倒的に苦労や負担がかからずに事業を育てることができる。そんなチャンスに恵まれる人がそれを逃すのはもったいないというわけだ。
では、どうすればチャンスに恵まれるのか。塩村は次のように言う。
「入った会社で、目の前の仕事に懸命に取り組むことです。そうしていれば、チャンスは必ず全員に平等に訪れます」
塩村は、新卒で三菱化成に入社してから今日まで、ほぼ1日も欠かさず朝7時前に出勤しているという。夜の付き合いも大事にしているので、その分の仕事時間は朝に回すしかないこと、人がいない朝は効率的に仕事が進むこと等の理由がある。
「自分の結婚披露宴の時、仲人の専務が『塩村君は毎日朝早く出社する』と紹介してくれたぐらいなので、印象的だったのだろうと思います(笑)」
語学力も必須である。現代のビジネスシーンで活躍しようと思うなら、好むと好まざるとにかかわらず英語を使えなければ話にならない。塩村が身を置く医薬品の世界は、情報の大半は英語でもたらされる。
また、塩村は知り合った人を大事にすることも心がけているという。
「チャンスを増やすには、麻雀でいえば単騎たんき待ちより三面聴さんめんてんのほうが有利なように(笑)、人脈を増やすことが大切だと思いますね」
だからこそ、人の悪口は言わず、その人が退職し肩書きが外れるなど立場が変わったとしても、気にせず変わらずに付き合うということだ。
「よく『チャンスの女神は前髪しかない』といいますね。すぐにとらえなければ逃げてしまうということです。ぜひ、意識してほしいと思います」
塩村は、一橋大学の4年間でビジネス感度を高め、好きな医薬品領域において日々一所懸命に仕事に取り組みながら、新興企業が市場を見出すノウハウを身につけていった。そして、ニューヨークで助手席に座った時に現れた"前髪"を逃さなかった、ということだ。

(2016年1月 掲載)