社会学と医学を学んだ、ダブルメジャーの"医師・ジャーナリスト"として科学ジャーナリズムのあり方を刷新
- 医師/ジャーナリスト村中 璃子氏
2016年春号vol.50 掲載
人類になくてはならない、医療。新しい医療技術や医薬品が開発され、今まで治らなかった病気が治癒するようになる、あるいは予防できるようになるというニュースは社会に明るい希望をもたらす。また、エボラ出血熱やインフルエンザなど世界で発生している感染症の状況や、それが社会にどんな影響を及ぼすのかといった情報は、生活のうえでも政策のうえでも不可欠である。一方で、医療は社会問題でもあり政治や政策の問題、ひいては国際問題や外交上の問題となることもある。そういった情報を伝える科学ジャーナリズムの最前線で活躍している、村中璃子。一橋大学で国際社会学(修士)を専攻した後、北海道大学医学部で学んだ現役の医師であり、世界保健機関(WHO)やワクチン会社でも経験を積むという類のないキャリアの持ち主だ。多層的な専門知識を武器に、稀有の"医療ジャーナリスト"として、医療問題をあらゆる層の読者に知らしめる大役を担っている。(文中敬称略)
村中 璃子
1995年一橋大学社会学部卒業、同大学社会学研究科修士課程修了。北海道大学医学部卒業。世界保健機関(WHO)西太平洋地域事務局の新興・再興感染症チーム等を経て、現在、医療問題を中心に幅広く執筆中。2014年に流行したエボラ出血熱に関する記事は、読売新聞「回顧論壇2014」で政治学者、遠藤乾氏による論考三選の一本に。
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大反響を呼んだ子宮頸がんワクチン騒動の記事
先頃、子宮頸がんワクチンを接種された少女が激しいけいれんを起こして苦しんでいる映像がテレビを通じてお茶の間に広まり、"薬害騒動"を引き起こしたことは記憶に新しい。「これは子宮頸がんワクチンによる副作用」「いや、思春期によくある心因性の症状」などと専門家の間でも激しい議論を巻き起こした。そして、接種対象者(10代前半の女性)やその保護者に接種への不安が広がる状況を受け、厚生労働省は「積極的な接種勧奨の差し控え」という措置を取って沈静化を図った。その後、専門家委員会(厚生科学審議会予防接種・ワクチン分科会副反応検討部会)は「ワクチンによる重篤な副反応の多くは心的なものが引き起こす身体の症状」との見解を取っているが、差し控えが継続されている。
この一連の騒動についてレポートした記事が雑誌『Wedge』2015年11月号に掲載され、大きな反響を呼んだ。3篇に分け加筆して出した、ウェブ版の一篇(同10月20日・「あの激しいけいれんは本当に子宮頸がんワクチンの副反応なのか〜日本発『薬害騒動』の真相(前篇)」)は、フェイスブックへのシェアが1万4000件にも及んでいる(2016年1月末時点)。本記事は、中・後篇、さらに続篇にわたり、専門知識を駆使した科学的なアプローチで事の真相に迫った、説得力ある内容となっている。そして、フェイスブックや編集部には一般読者からはもちろんのこと、政策関係者や医療関係者、政治家などからも続々とメッセージが寄せられた。
この記事を書いたのは、医師・ジャーナリストの村中璃子。書いた背景について、次のように説明する。
「けいれんする少女の衝撃的な映像が流れて、その映像ありきの議論となってしまったのでしょう。こうした医療問題もそうですが、日本の科学ジャーナリズムにおいては、記者が科学的な立場からの正しい解釈を入れて記事を書くという作業を怠っていることが多いため、間違った情報や印象が氾濫している状況です。日本の記者は取材に応じてくれる人の発言を言われたままに書くので、取材に応じた人の発言だけがあたかも事実のようになって独り歩きしてしまう、あるいはニュースとして面白いことだけを取り上げるので、真実が見失われてしまうという実態があります」
そこに自らの存在価値があると、村中は次のように続ける。
「科学や医学は一見取っつきづらく分かりづらい。誰にでも分かる言葉や物語で正しい情報を伝えるとともに、社会学と医学という二つの視点を持つ書き手として、科学の記事を書く人、読む人両方のレベルを底上げしたいという思いもあります」
科学ジャーナリズムだけではない。村中は同じく『Wedge』の2015年3月号に「イスラモフォビアとフランス流『自由原理主義』の疲弊〜西欧とイスラム『原理主義』の衝突」と題する記事を書いた。2015年1月7日、パリで起きたシャルリー・エブド紙がイスラム指導者の風刺画を掲載したことに対するイスラム過激派のテロ事件と、それに対して370万人という戦後最大の反イスラム原理主義のデモがフランス全土で行われたことを取り上げたものだ。こうした記事の執筆を依頼され、即座に関係者に取材し高いレベルの記事に仕上げる素養も、村中には備わっている。
「この記事の取材では、在学当時一橋大学でフランス語を教えられていた、東京大学の野崎歓先生にも協力していただけました。一橋大学時代の資産はとても大きいですね」
志望したのは一橋大学探検部
東京で生まれ育った村中。父親は政治記者として活躍した根っからのジャーナリストだ。故・大平正芳元首相と親交が深く、大平氏の葬儀を伝えるテレビニュースでは、親族と並んで最前列に立つ姿が映された。
「大平さんは一橋大学OB。私が一橋大学に合格した時、そのことも引き合いに出して父は大喜びしてくれました」
一方、母親の家系には祖父母の代から医者が多い。現在の村中の職業は、まさにそんな両親の血が混ざり合った産物のように思える。
「記者にも医者にもなりたいとは思っていませんでした。父親は生活時間が不規則で、家族が困ることもしょっちゅう。そんな消耗の激しい仕事の割に、書いた記事は次の日にはもう忘れられてしまう。医者のほうは親族にたくさんいるし、なったところで面白くもないなといった感じで」と村中は述懐する。
そんな村中が一橋大学を志望した契機となったのは、中学生の頃、古本店で見つけた一冊の本だった。探検家、人類学者、外科医で、武蔵野美術大学教授も務める関野吉晴氏が書いた『アマゾン源流インカの谷未知の流れ』(日本テレビ放送網刊)である。関野氏は、1975年に一橋大学法学部卒業後、横浜市立大学医学部で学び外科医となった。一橋大学時代に探検部を創設し、大学3年の1年間、休学してアマゾン川の全流域を下る探検に出た。その時のことを書き記した本である。
「その本を読んで、私も一橋大学探検部に行きたい!と(笑)。もうだいぶ忘れてしまいましたが、この本がきっかけで、中学生の時にスペイン語の勉強も始めて大学院まで続けました。当時からとにかく世界をこの目で見てみたいという思いがありました」
ベルリンの壁が崩壊し、EUへの統合につながっていった時期。"民族"や"国家""ナショナリズム"といったキーワードがよく語られ、村中も強い関心を持った。受験の前に一橋大学の下見に行くと、教室には天安門事件に抗議するビラと東南アジアのバックパック旅行記がたまたま落ちていた。その時、この大学に入り、現在進行形で歴史の舞台となっている場所やこれから変化の時代を迎える国々を、自分の足で訪ねて回ってみたいと強く思ったという。
「考えてみれば現場志向は10代の頃から一貫して変わっていません。生死のせめぎ合う医療現場はもちろんのこと、ジャーナリストとしての仕事においてもそれは同じです。実際、医者が医療問題について書く場合、何の準備もなしに自分自身の経験や周りの雰囲気だけで何となく書いてしまうようなところがあります。けれども、私の場合、医師に加えてジャーナリストを標榜する以上は、どんなに自分が分かっていると思えるようなテーマでも必ず取材を入れるようにしています。まあ、単純に理由をつけて現場に行きたかったり、現場の人に話を聞くのが好きだったりするだけなんですけど......。もし他の医師が書いたものよりも私の記事が力を持つことがあるとすれば、違いはその辺りにもあるのかもしれません」
フィールドワークと称して世界を見て歩いた一橋大学時代
大学に入学すると村中も、長い休みのたびにバックパックを背負っては独りで海外に出かけるようになった。訪れた国は数十か国に上り、現在では考えられないが、シリアに足を延ばしたこともあるという。
「トルコ、シリア、ヨルダン、エジプト、イスラエル、キプロス、ギリシャと地中海の東隅を囲む国々を数か月かけて回ったこともあります。シリアは当時まだ安全でしたが、まともなガイドブック一つなく、私自身、イスラム圏で女性がどんな立場にあるのかも理解しておらず、気ままな独り旅というよりは冒険に近い経験となりました。出かける前にイスラム関係の教授のところに現地の様子を聞きに行ったら、スカーフは絶対に被れとか身体の線の出る服は着るなとか、タクシーに乗ったら後ろの、ルームミラーに映らない場所に座れとかいろいろ言われていたのに、スカーフはただのおしゃれな布という感じで、タクシーも運転手に勧められるがままに助手席に座る始末(笑)。若い異教徒の女性の独り旅が、シリアでどんな意味を持つのか全く分かっていませんでした。この旅行中、ヨルダンからエジプトに向かう船の上で20歳の誕生日を迎えました」
大学3年の後期ゼミには国際社会学の梶田孝道ゼミを選択する。当時日本でも増え始めていた外国人労働者問題、そして、世界中で吹き荒れ始めていた民族問題や移民問題など、グローバライゼーションに伴う諸問題を扱う一橋大学初のゼミで、村中の代が一期生。また、その年、社会学部では一番人気のゼミだった。
「今度はフィールドワークと称し、さらに大手を振って海外に出かけるようになりました。まともに勉強してから行ったことは一度もありませんが、インターネットも今ほど一般的ではなかったし、実際に行ってみて初めて分かることがたくさんありました。今だと全く逆ですよね。ネットで調べて現地に行って、分からないことがあるとまたスマホで検索、みたいな感じで。せっかく現場にいるのに、現地の人に直接話を聞いたり現場の人脈を使って調べたりはしないで、分からないことがあったらネットに向かう。今、インターネットの情報だけで書かれた記事が世に溢れていますが、当時は経験の持つ質が今とは全く違った気がします」
こうして学部時代はよく海外に足を運び、貴重な経験を積んだ村中。学びの面では修士課程を修了して博士課程まで進んだ。しかし、迷った結果、博士課程1年で転身を図る。
「それが、途中からだんだん現場感の面白さだけを頼りに漫然と海外を歩くのも面白くなくなってきて、今度はどこに行ってもどんな社会でも役立つことをやりたいと思うようになりました。特に発展途上国では貧困や死が、日本とは比べ物にならないほどの密度で日常にあります。そんな中、やっぱり医療がいいんじゃないかと。ミクロには海外で臨床を、マクロには国際保健の仕事をするため、やっぱり医者になろうと決めました」
WHOで学んだ感染症と国防の密接な関係
6年間、札幌で暮らしながら医学を学んだ村中は、縁あってWHOで働くことになる。
「臨床医としての仕事も興味深く、やりがいのある経験でした。しかし、社会学を学んだ経験も活かし、何らかの形で海外医療に携わりたいという初心は変わっておらず、WHOで働かないかという話をもらった時には二つ返事で引き受けました」
そう進路選択の理由を話す村中は、フィリピンのマニラに拠点を構えるWHO西太平洋地域事務局の新興・再興感染症(EmergingandRe-EmergingInfectiousDisease)の対策チームで、アウトブレイク(感染症流行)のサーベイランス(監視)や調査、パンデミック(世界的大流行)対策などの仕事に携わることになった。ここは主としてSARS(重症急性呼吸器症候群)や鳥インフルエンザや新型インフルエンザ、エボラ出血熱、MERS(中東呼吸器症候群)など、人類経験したことがなく、世界に流行が拡大する危険性を持つ「未知の感染症」を取り扱う、WHOでも花形のチームだ。
「最初の仕事は、専門知識も経験もほとんど必要としないけれど、チームの核となる非常に大切な仕事でした。『噂の監視(rumor surveillance)』という、感染症に関するインターネット報道をモニタリングする仕事です。WHOというと世界における感染症の流行状況を最もよく把握している場所だと思うかもしれませんが、政府がWHOに報告を上げ、WHOがそれを承認してやっと公式な数字が動くシステムになっているので、実際にはメディアのほうがずっと早く現地の情報を報じます。特にアウトブレイクの初期でそれは顕著です。たとえば、中国の田舎の村の豚500匹がなぜか一晩にして全部死んでしまい、それから3日の間に5人の村人が次々と亡くなっているといったニュースがあったとします。情報は断片的で、これだけでは豚の死と村人の死に関連性があるのか、豚の死因も村人の死因も調べても分からないのか、単に検査結果が出ていないだけなのか、未知の病気がアウトブレイクしたのか、実際には既知の病気のアウトブレイクなのかも分かりません。しかし、アウトブレイクをこうした噂レベルの段階から積極的に拾い上げておけば、流行が拡大したとしても迅速に対応ができるし、その国の政府が必要な対策を取れていないように見える場合には問い合わせをしたり、援助を申し出たりできるわけです。WHOでの1日は、朝一番の会議でこうしたメディア上の噂を検討することから始まりますが、この話し合いに使う感染症のリストを毎朝つくるのが私の仕事でした」
臨床現場でもはっきりとした診断名がつかない場合、データや症状から「鑑別疾患」をいくつも挙げる作業を行うというが、村中によればこの作業はそれに似たところがあるという。
「だから、毎朝暗いうちから1人で仕事です。『原因不明死(unknowndeath)』『原因不明の病気(unknowndisease)』というようなキーワードで初期の噂を探す。そして、すでに流行している感染症に関する噂を拾うため、今度は『インフルエンザ』『デング熱』『エボラ出血熱』などといった病名でも情報を探します。慣れてくると、鑑別疾患を挙げるように、考えられる感染症名や流行拡大の原因をあらかじめ自分で考え、状況をまとめてプレゼンできるようになります。実はこの時の経験が今も感染症ものの執筆をする際のベースになっているのですが、メディア報道をじっくり検討するだけでも驚くほどいろいろなことが分かるんです」
2014年、エボラ出血熱の日本上陸が懸念された際も、村中は適切なメディア報道分析と国内取材を元に冷静さを呼びかける記事を多数執筆。また、日本ではエボラなど危険度が最高レベルの病原体を取り扱うBSL-4と呼ばれるラボを正式稼働させられない実情や(2015年8月に稼動)、エボラ出血熱にも効果がある富士フイルムの抗インフルエンザ薬「アビガン」をテーマに感染症とバイオセキュリティの問題を取り扱った独自の視点の記事を執筆。うち1本は読売新聞「回顧論壇2014」で、政治学者の遠藤乾氏による論考三選の一本に選ばれた。
「医療関係者だけでなく政治学者に認められたというのも嬉しかったですね。WHOは国連の専門機関ですから、当然のことながら非常に政治的な組織です。そこで知ったのは、感染症の問題が諸外国では軍事問題であり国防問題であり、未知の病原体は化学兵器になるということです。一方で未知の病原体を手に入れ、いち早くワクチンや治療薬を開発することが自国民を守るために不可欠で、各国は感染症対策に膨大な金や人をつぎ込んでいるという世界の常識を体感しました」
アウトブレイク終息後にカンボジアの寒村を訪ね歩く
「噂の監視」の任期が終わると、今度は「医療社会学者(medical sociologist)」という珍しい肩書で任期が延長された。当時、アジア各地では鳥インフルエンザが流行して多くの家か禽きんを殺し、散発的にヒトでの死者も出していたが、村中はどんなリスク行動があるのか、またアウトブレイクを経験した村や家族はその後どのような状況になっているのかの調査活動に入った。
西太平洋地域のアジア諸国の田舎では、どこでも自宅の庭で飼育するニワトリが貴重な蛋白源だ。卵や肉が蛋白源となるのはもちろんのこと、ヒヨコが効率よく孵かえるため貧しい家庭でもニワトリを飼育して自給自足の糧としている。村中はカンボジア保健省の案内で、カンボジアの寒村にある、1年ほど前に子どもの死者を出した家を訪ねた。家と言っても、日本でいう家屋のようなものを想像してはいけない。地面の上に木の柱を直接立て、その上にゴザのようなもので屋根を葺いただけの一角がその家族の家だった。地べたにはやせ細った半裸の女性が、目のくりっとした栄養状態の悪い乳飲み子を抱えて座っていた。「かわいい赤ちゃんですね」、そう村中が語りかけると「かわいい?じゃあ、いくらでもいいから持って行って」と、思わぬ返事が返ってきた。鳥インフルエンザで子どもを亡くしたが、またすぐに妊娠し、最近生まれた子どもなのだと言う。
アウトブレイクの際には村のほとんどのニワトリが死に、生き残ったニワトリも近隣の村のニワトリもすべて殺処分となった。女性の子どもは病気のニワトリと遊んだ後、体調を崩して亡くなった。しかし、子どもを亡くしたことよりもずっと辛かったのは「お前の子どもが病気を持ってきた」「お前のところのニワトリのおかげでうちのニワトリまで殺される羽目になった」と恨まれ、居場所がなくなったことだという。流行が沈静化した後も、現地ではそういったスティグマがくすぶり続けていることが分かった。
「アウトブレイクが起きている間はニュースにもなり、WHOも真剣に対応します。しかし、アウトブレイクが落ち着いた後、その現場がどうなっているのかまで考えるという発想は、WHOにはありませんでした。感染拡大やパンデミックの発生が引き続き懸念される状況の中、リスク行動を改めて洗い直すとともに、そうしたフォローアップをするという提案はWHOでも新しいものだったようです」
村中は、鳥インフルエンザで死者を出したカンボジアのすべての村を歩き、詳細なレポートを作成。カンボジア政府が作成中だったコミュニティ向けのガイドラインづくりにも貢献した。こうした業務に、社会学的な視点や、フィールドワークの手法が大いに役立ったことは間違いない。
「マニラのオフィスで噂をまとめディスカッションするのも新鮮な経験でしたが、やはりフィールドが面白かったですね。カンボジアのWHOオフィスにはクーラーがなくて、気温が40度を超える非常に暑い時期、フィールドに行ってもオフィスに戻っても、とにかく暑くて大変でしたけど」と村中は笑った。
大規模疫学調査を通じて多くの幼い命を救う
海外では、医師が医療機関だけでなく、国際機関、アカデミア、行政、メーカー、NGOなどと立場を変えて仕事をすることが一般的である。帰国後、村中は小児用肺炎球菌ワクチンを取り扱う外資系のワクチン会社(現在は外資系大手製薬会社に吸収合併)で働き始める。同社にもこれまでの経歴を買われ、ディレクターの立場で疫学調査を手がけることになった。日本には肺炎球菌による疾病負荷がどのくらいあり、ワクチンを導入した場合、どれだけの病気の発症を防ぎ、どれだけの命を救うことができるのかを調査する仕事だ。肺炎球菌は乳幼児を中心に細菌性髄膜炎などの重篤な疾患を引き起こし、重症化すると死亡することや後遺症を残すこともある。
「発症率を見る疫学調査では、いったいどのくらいの集団を分母として見ているのかを正確に把握する必要があります。ところが、日本の保険制度では都道府県の枠を超えて受診することが可能ですので、いくら人口統計を見たところで正確なところは分かりません。そこで私は、海に囲まれて医療圏が独立している沖縄と北海道で調査することにしました」この調査結果を村中は学術論文にまとめ、同社退職後に学会や専門誌でも発表した。
この調査研究は厚生労働省の班研究に引き継がれ、ワクチンは日本に導入されて、現在では定期接種にも定められている。「当時、細菌性髄膜炎で毎年100人ほどの子どもが亡くなっていると言われて、多くの子どもが後遺症に苦しんでいました。しかし、このワクチンとヒブワクチンが導入されたことにより、日本でも海外と同様、この病気はやっと過去の病気になりました」
日本では「医は仁術である」とされ、医学界は利益を追求するビジネスから一線を引くべきだとする風潮が根強い。その一方で、メーカーが開発する医薬品がなければ医療は成り立たず、研究や学会運営はメーカーからの奨学寄付金が頼りであるといったアンビバレントな状況がある。しかし、村中はメーカーにとってのビジネスが、多くの幼い命を救うという社会的価値を生み出すのであれば、ビジネスを否定する必要はないと考えている。
「ワクチンは公衆衛生政策の要なので、日本では特にビジネスの要素が入り込むことを嫌います。しかし、ワクチンという研ぎ澄まされたサイエンスは、今やメーカーの開発力や資金力、洗練された研究・製造施設がなければ成立せず、安全性を保つことすらできません。商科大学としての色合いの強い一橋大学の中でも社会学部は『自由でいいね』などと別扱いされますが、いわば資本主義の原理を使って多くの人の命を救うという仕事は、一橋大学ならではの実学志向の賜物と言えるかもしれません」と村中は言う。
「ワクチンは健康な人に接種するため、病院で患者さんを診たり、大学で病気の研究をしたりしている一般的な医師には全体像の見えにくい特殊な分野です。私が疫学調査を始めた時点では、大病院の小児科医ですら、海外ではすでに定期接種になっている小児用肺炎球菌ワクチンをほとんど知りませんでした。子宮頸がんワクチンの記事も、業界での経験や知識があったからこそ書けたという部分がありますが、子宮頸がんワクチンとは関係のない、小さな子どものためのワクチン会社で疫学調査をしていただけなのに、『子宮頸がんワクチンメーカーから金をもらって書いた』などと根も葉もないことを言って絡んでくる人もいるので、面倒な部分もあります。もちろん、他の記事と同様、出版社から規定の原稿料をもらっただけで、ワクチン会社との利益相反など全くありません」
一橋大学のネットワークがきっかけでジャーナリズムの世界に
ワクチン会社には2年ほど勤め、新型インフルエンザのアウトブレイクを機にまたWHOの仕事をはさんでから、村中は医療ジャーナリズムの道に入った。こうして、医療現場、国際行政、ビジネス、そしてジャーナリズムの世界を行き来した、稀有のキャラクターが生まれることになる。
ジャーナリズムの世界に入ったきっかけは、新聞社に勤める一橋大学時代の友人に招待された医療関係者とメディア関係者の懇親会だった。
「その会には30分顔を出しただけなのに、なぜかいい縁ができて記事を書き始めることになりました。その後、週刊誌の編集部に勤めるゼミの同期が『うちにも書いてよ』と言うのでそっちで書いたりしているうちに、別の媒体からも声がかかるようになりました。NHKにしか出ないし朝日新聞にしか書かないという医師もいますが、私は週刊誌でもスポーツ新聞でも頼まれれば媒体を問わずにやっています。媒体が違えば読者や視聴者が違います。媒体ごとに書き方を工夫するのは面白いし、いろいろな媒体でやればやるほどいろいろなオーディエンスに情報発信できるからです。もっとも、NHKや朝日新聞から話が来たことはありませんが(笑)」
多様なオーディエンスに触れ、真実を追究し報じることで、不利益を被る立場の人から批判や攻撃を受けることもある。しかし、村中は動じることなく自分の考えを貫く意志を固めている。また、孤独でストイックに書き続ける傍ら、科学ジャーナリズムの裾野を広げることにも意欲を見せる。
「先日、京都大学医学部に招かれて、科学ジャーナリズムについての講義を行いました。新年度より京都大学で教鞭をというお話もいただいています。日本でも医師が執筆することは珍しくありませんが、医師でジャーナリストという形で仕事をしている人はあまり見かけないと思います。専門家に取材して記事を書くジャーナリストの仕事をしているのに、医師やジャーナリストという専門家として取材も受けるという不思議な立ち位置。ペンネームの村中璃子は医業と執筆業を分け、自分の患者さんに混乱を与えないためのものですが、取材相手に「先生」と呼ばれることも多く、同行した編集者によく驚かれます。専門性を持ちつつ、書き手として書くとはどういうことなのか。専門家としてうまく取材を受けるにはどうしたら良いのか。私も人から教わってやっているわけではありませんし、まだまだ学ぶことはたくさんありますが、科学ジャーナリズムに興味を持つ人たちにしっかりと伝え、いい書き手を育てていきたいとも思っています」
(2016年4月 掲載)