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画期的な「煮炊撹拌機」を世界で初めて発明し苦境にあった家業をトップメーカーに育て上げる

  • 梶原工業株式会社、株式会社カジワラ、株式会社カジワラキッチンサプライ
    代表取締役会長
    梶原 徳二氏

2017年冬号vol.53 掲載

「とらやの羊羹」や「赤福餅」といえば、小豆のあんを用いた老舗の菓子としてあまりにも名高い。そのあんをつくる機械を納めているメーカーが、調理器具問屋街として有名な浅草・合羽橋にある。株式会社カジワラ。代表取締役会長である梶原徳二は、一橋大学を卒業後、家業に入り機械の仕組みを学び直して画期的な製品を開発。これを機に、同社をトップメーカーに押し上げた。その根底には、一橋大学でシュンペーターの経済発展理論から教わった「今までにないものをつくり出し、創業者利益を獲得する」という経営哲学があった。(文中敬称略)

梶原 徳二

梶原 徳二

1933年生まれ。1957年一橋大学法学部卒、1959年一橋大学経済学部卒。梶原工業株式会社、株式会社カジワラ、株式会社カジワラキッチンサプライ・各社代表取締役会長。東京商工会議所常議員・税制委員会副委員長、公益社団法人発明協会監査役・台東区少年少女発明クラブ副会長などの公的機関等の役員も務める。1991年に科学技術庁長官賞受賞、1992年黄綬褒章、2013年紺綬褒章を受章。2014年に知財功労賞特許庁長官表彰を受ける。現在、個人で多額の寄付を続け、一橋大学基金運営委員を委託されている。

"自転公転"する撹拌機で通商産業大臣賞などを受賞

インタビュー風景1

株式会社カジワラが手掛けるのは、製あん機だけではない。冷凍チャーハンなどの大型炒め機や、コンビニ弁当の惣菜となるきんぴらなどをドリップ(水分)が出ないよう高火力でつくるハイブリッド加熱撹拌機、ソースやルーなどをつくる煮に炊たき撹拌機などバリエーション豊富である。中でも、レトルトカレーをつくる大手食品会社に専用の撹拌機を軒並み納入していることは特筆に値する。まさに知られざるトップメーカーといえる。機械単体だけでなく、工場の生産ライン全体を施工するプラントエンジニアリングも手掛けている。

「あんをつくるには、ていねいに洗った小豆を煮るところから始まり、煮上がった小豆の細胞を壊さないように粉砕し、皮と実を分けて精製するといった工程を踏みます。小豆をおいしく煮るのは難しいのですが、当社では原料の状態ごとに水、温度、時間という三大要素を最適化するデータを保有しています。こうしたノウハウにより、お客様のニーズにあったあんができる製造ラインを構築することができます」と梶原は胸を張る。
製あん機で大事なのは、いかに小豆の成分を破壊することなく加工・加熱してうまみを醸成するかである。このため砂糖を加えて加熱し、低速でよく混ぜる必要があるのだが、微妙な味の変化を注視しながら長時間、焦げ付かないように混ぜる作業は、長年の製あん職人の悩みの種であった。
カジワラを製あん機のトップメーカーに押し上げたのは、1960年に世界で初めて梶原が自ら考案・開発し、1964年に通商産業大臣賞や御法川発明賞を受賞した画期的な「煮炊撹拌機」。従来の製あん機ではどうしても焦げ付きが出てしまっていたものを、焦げ付かないように鍋の底を羽根状の撹拌装置が"自転公転"してあんをかき取るようにし、加えて公転を斜めの軸とし低速での撹拌効率を高めたのだ。梶原は特許出願し、1964年に「煮炊撹拌機特許」を取得。1960年にこの新製品の第一号ユーザーとなったのはある小さな菓子工場で、そのメカニズムと機能を高く評価、従来の製あん機の3倍の値段で買ってくれた。しかし、収益力が乏しかった当時、完成した煮炊撹拌機を宣伝することもままならず、その後はなかなか売れなかった。そこで梶原は、1964年2月に発明協会が主催する東京都発明展示会に出展してみることにした。すると、多くの人の目に留まることとなり、梶原の発明はここで高く評価され、先述の受賞に至る。それだけでなく、展示会に訪れていた大手製菓会社の技術者が注目し、チョコレートに入れるイチゴクリームを練る機械としての導入が決まった。

機械

「当社として初めて大企業に認められた瞬間でした。非常に大きな力になりましたね」と梶原は述懐する。
ちなみに、この「煮炊撹拌機」に「製あん機」あるいは「あん練り機」という従来の名称をつけなかったのには理由がある。
「旧型の焦げる撹拌機の時代にも、佃煮・惣菜などの調理用としても『あん練り機』は少なからず利用されていたのですが、加熱撹拌の必要とされる食品加工の分野が広いことを直感して、分かりやすい『煮炊撹拌機』という名称にしたのです」
この狙いが的中し、大手製菓会社の採用によって用途展開を始めたことは言うまでもない。

ビジネスパーソンに憧れ一橋大学商学部に入学

梶原は、1933年7月、東京・浅草に生まれる。父親は1939年に合羽橋商店街に個人で梶原工業所を創業。そこで、菓子店向けの機械や道具の製造販売を始めた。戦後も同じ場所に新たに間口5間(9m)、奥行き10間(18m)の工場兼店舗を構えて事業を再開する。
「今でこそ合羽橋は飲食店向け調理器具の問屋街となっていますが、その当時は菓子店さん向けの道具問屋街だったのです。その一角でうちも菓子店さん相手に商売をしていました」
終戦の年に12歳になった梶原は、翌年東京都立第七中学校に進学する。この1946年(昭和21年)は旧制中学校として最後に新入生が入学した年で、同校は3年後、新制の東京都立墨田川高等学校に改称された。戦前の東京府立第七中学校であり、旧制第一高等学校(現在の東京大学)などの旧制高校や海軍兵学校、陸軍士官学校への進学者を多く送り出した、下町では第三中に続く名門校である。梶原が進学した当時も優秀な生徒が集まっていた。
梶原は、入学するとクラブ活動として英語部に入る。そこには、後に写真家として大成し、2010年に文化功労者に選出された、東京工芸大学名誉教授の細江英公氏もいた。
「細江さんとは今でも親しく付き合っていますが、強心臓のいい男で当時から英会話がうまかったですね」
英語部には、来日していたリビングストン氏というアメリカ人の実業家夫人が教えに来ていた。夫人は生徒たちに実業家の仕事や生活ぶりについても話し、「その話に影響を受けた」と言う梶原は、将来は自分もビジネスパーソンになって豊かな生活を送れるだけの給料を稼ごうと考えた。家業を継ぐつもりの兄が1人いたが、父親は自分一代限りとも考えていた節があったようだ。いずれにしろ、梶原に家業を継ぐつもりはなかった。
大学進学の時期になり、梶原は担任の教師から東京大学への進学を勧められる。しかし、家業にゆとりがなかったため母親は浪人を絶対に許さなかった。そこで梶原は、英語部の先輩で一橋大学に進学していた田口栄一氏のところに相談に行く。田口氏は、後に三菱レイヨンの社長・会長を歴任した人物である。
「田口さんは、『お前なら一橋大学に絶対に受かる。だから来い』と言ってくれました。そこで、一橋大学を受験したわけです」

結核に罹り外交官への道を断念

ビジネスパーソンになろうと考えていた梶原は、1953年に一橋大学商学部に入学。当時のゼミ制度では、後期は自学部のゼミを履修しなければならなかったが、前期はどの学部のゼミでも履修することができた。「商学部のゼミには思想的なものはないだろう」と考えた梶原は、法学部の国際法のゼミを選択する。

株式会社カジワラカスタマーセンター東京営業所(埼玉県八潮市)。ユーザーテスト室では、煮炊撹拌機などカジワラ製品の実機で食品製造テストが可能。

株式会社カジワラカスタマーセンター東京営業所(埼玉県八潮市)。ユーザーテスト室では、煮炊撹拌機などカジワラ製品の実機で食品製造テストが可能。

「国際法は条文があるわけではなく、条約、慣習法や法の一般原則を中心とし、正義や条理といった概念が総合的にまとまった体系のものです。これを学んだことで、今に至るまで法律の理解と解釈に大いに役立っていますね」と梶原は言う。
一橋大学では、経済企画庁長官や財務大臣などを歴任した尾身幸次氏や、石原慎太郎氏など後に有力な政治家となる人物と同期となった。後年、梶原は中小企業経営者を集め、学生時代から特に親しかった尾身氏に働きかけ、中小企業の同族会社における内部留保金に対する二重課税を解消しようと運動し、その撤廃を実現させた。「その際も、一橋大学で法律を学んだ知識があったからこそ、中小企業基本法に着目して政策と税制の矛盾をつくことができた」と梶原は振り返る。

国際法ゼミに集まる学生たちは、外交官志望者が多くを占めていた。高校時代の憧れの教師から「外交官に向いている」と言われたことが頭に残っていた梶原は、ビジネスパーソンよりも外交官になることを選び、2年生の終わりに法学部への転部を決意する。当時は商学部から法学部などへの転部ができたのだ。そして4年生の夏に外交官試験を受験し、合格する。最後の面接試験も自信を持ってこなした梶原に、不運が襲いかかった。身体検査で結核に罹患していることが分かり、その診断結果とともに不合格通知が届いたのだ。梶原は、大平善梧教授の門下で、後に一橋大学の法学部長、国際大学の副学長を歴任した細谷千博教授(当時)に相談する。細谷教授も結核で苦しんだ経験があるという話を聞いていたからだ。そして、細谷教授から北里研究所病院を紹介され療養する。仕方なく1年留年し、翌年に外交官試験に再度チャレンジすることにした。ところが、その試験場で喀血してしまう。
「それで、外交官になるという気力が萎えてしまいました。すぐに外交官への道は断念しましたね」
療養でだいぶ症状はよくなり、担当医から「働けないことはない」と告げられる。そこで、知人から誘われた総合商社の就職試験を受けるものの、不合格。企業への就職も厳しい状況に追い込まれたと悟った梶原は、経済学部に学士入学して出直すことにした。
「その後、同級生から『いっそ社会学部にも入ったらどうだ。それで一橋大学の全学部を制覇した初の存在になれるぞ』と冗談を言われましたが、落ち込んだりはしませんでしたね」
経済学部では、中山伊知郎教授のゼミを履修する。あのシュンペーターから直接学んだ、近代経済学の担い手とされた名教授だ。
「つまり私はシュンペーターの孫弟子ということになります(笑)。中山先生の理論経済学は私には難しかったですが、企業経営にとって本質的に重要なことを学べたことは大きいですね。特に、『経済発展の原動力はイノベーションであり、イノベーション(新機軸)があらゆる発展のエンジンとなる。そして企業者こそその担い手なのだということです。企業者として今までにないものを開発・つくり出し、顧客の求めに応じる付加価値の高い製品を提供することで企業と市場を発展させることができる。そして企業は結果として開発者(創業者)利益を得ることができる。ゆえに商品開発がことのほか重要である』という考え方は、後に当社の社業で大いに活きることになりました」と梶原は強調する。

家業のあまりの苦境に自ら立て直しを決断

工場風景

1959年に一橋大学を二つ目の学士号をもって卒業する。しかし、結核は完治せず就職はまだ無理な状態であった。そこで、法律にも関心があった梶原は弁護士を目指すことにした。梶原は父親に「昼間は家業を手伝って夜勉強するから、もう2年ほどここに住まわせてほしい」と頼み込んだ。そんな梶原を心配した母親などの薦めもあって、しっかり者の女性と結婚する。その女性は仙台で幼稚園教諭や踊りの指導をしていたが、梶原とともに家業に加わることになった。妻に経理事務を任せて、それまで経理も手掛けていた番頭を営業に出すことにした。経理などは未経験の妻に、梶原が簿記を一から教え込んだ。そのかいあって、妻は今でもカジワラの現役監査役として経理部長や銀行の相手をしている。
あくまでも弁護士志望ではあったが、いざ家業に就いた梶原には経営上のさまざまな問題点が見えてきた。従業員たちは、気性は良くても職場を転々とするような職人気質が充満し、外注依存も多く、極めて生産性の低い町工場であった。さらに、人のいい父親は2人の職人にのれん分けのような形で独立を許したものの、この職人らは仁義から外れて同じような製品をより安く売り、得意客をさらってしまったのだ。さらに、販売した製あん機に対してクレームが次々に入り、加えて従業員による経費の使い込みも発覚。「あまりの苦境ぶりに危機感を持った」と梶原は打ち明ける。

インタビューの様子

「父親は戦災の焼け野原から漸く立ち直ってきたことで疲れが出てきていたようですし、兄が経営に加わっていたものの、従業員の管理ができなかったようです。やっていくうちに『このままではダメだ』と、自分が本気で取り組むしかないと思うようになりました」
従業員は7人とささやかな規模でありながらも、梶原は従業員から「新入りの二男坊に押さえつけられるのは面白くない」などと言われることもあったという。そんな梶原は現場に入って必死になって働いた。幸い、結核は癒えて体は年々丈夫になり、修理仕事はもちろん、夜行列車に乗っての出張セールスも平気でこなせるようになった。しかし、資金も人材も少ない零細企業。学生上がりの自分には仕入れ先との価格交渉もできない。そうした日々の業務の中で、菓子店の職人があんを加熱しながらいかに焦げ付かさず練り上げるかに苦労している姿を、目の当たりにする。そして梶原は、機械を工夫することで焦げ付かずに撹拌できるようにならないか考え始めるようになった。「幸い、50坪の敷地ながら工場とひと通りの機械だけはある。この苦境を打開するには、自らの工夫で顧客の悩みを解消しニーズに沿った新製品を開発するしかない。良いものをつくれば、独立した元の社員に持っていかれた以前のお客さんも戻ってきてくれるに違いないと思い至りました」と梶原は言う。

工場作業風景

夜学の理工学部で機械を学び新製品開発にまい進

カジワラ、梶原工業の現場は、設備の安全と衛生環境を重視。煮炊撹拌機のトップメーカーとして、高機能・高品質、そして安心・安全な製品を開発・製造している。

カジワラ、梶原工業の現場は、設備の安全と衛生環境を重視。煮炊撹拌機のトップメーカーとして、高機能・高品質、そして安心・安全な製品を開発・製造している。

子どもの頃から家業を見て多少は機械に親しんできたものの、正式に学んだことはなく図面を引いたこともない。機械を自分でバラすことで組み立て方は学べるものの、基本的な素材や加工法についての知識はまるでなかった。そこで梶原は新聞記事でたまたま見つけた早稲田大学理工学部の夜間講座に1年間、通うことにした。理工学部の教員が副業的に開く講座であったが、理工学部の教室や実習施設で学ぶ、れっきとしたカリキュラムであった。そこで梶原は機械の本質を学んでいく。
「どんな材質をどう加工すればいいか、熱で金属はどのように膨張するのか、機械とは本質的にからくりであるといった基礎知識を通じて、機械設計のベースが身についたと思います」
さっそく梶原は、従来、型の製作や削り仕上げに手間のかかる鋳鉄でつくっていた製品を、より軽く手間も少ない板金製の缶体に替えるなどして製品の改良を試みた。「その際に、モーターの振動をどう吸収するか、溶接による寸法のブレをどう処理するかといった早稲田で学んだ基礎知識が大いに役立った」と言う。

家業に入って数年が経ったこの頃、梶原は未来の弁護士に嫁いだつもりの妻に頭を下げた。
「司法試験どころではなくなってしまった。仮に弁護士になれたとしても、家業を潰してしまうわけにはいかない。自分はこの家業のおかげで大学まで行かせてもらった。父親が抜けたら自分がここを背負っていくしかないと、妻と自分に言い聞かせて覚悟を決めました」
いざとなったら、妻に幼稚園教諭をやってもらい、助けてもらうことを梶原は考えたようだ。
そして梶原は、「焦げ付き防止」を考え続ける。菓子店があんを練るのには、伝統的な平鍋(銅さわり鍋)が使われていた。従来の撹拌機は、その平鍋の円の中心に軸を置いて羽根を回転させるという単純な構造で、鍋底をまんべんなくかき取る動作ができなかったことで焦げ付きが発生していた。どうすれば、鍋底をまんべんなくかき取ることができるか。海外の業界誌をいくらめくっても、ヒントになるような製品は出てこなかった。
ある夏の日、電車に乗った際に天井を見上げた梶原の目に、回転する扇風機が飛び込んできた。その動きを見つめた梶原は、「首を振りながら回る扇風機のような撹拌装置をつくって釜の中でうまく回転させれば焦げ付かないのではないか」とひらめいた。そして考案したのが、冒頭で触れた、首を回す扇風機のように"自転公転"する撹拌機である。

番犬と称する、これまで獲得してきた特許の数々。

番犬と称する、これまで獲得してきた特許の数々。

カスタマーセンターでは、お客様のレシピに沿って商品テストを行う。機械を使って商品の出来具合をチェックする社員と共に。

カスタマーセンターでは、お客様のレシピに沿って商品テストを行う。機械を使って商品の出来具合をチェックする社員と共に。

夢からヒントを得た画期的な発明と特許戦略

梶原は、この新製品開発の作業に、合羽橋商店街の通りに面した工場で取り組んでいた。完成させた試作品を、たまたま通りかかったお客さんが興味を持ってのぞき込んだ。
「その方は菓子店の店主で、『これは面白い、完成したら買うよ』といって第一号のユーザーになってくれたのです。そのお店は今はもうなくなってしまいましたが、大いに励まされました。あの時は本当に嬉しかったですね」
開発のポイントは、斜めに自転公転する撹拌軸の導入にある。ミソは、撹拌軸がスムーズに伸縮する機構と、2枚の撹拌羽根を揺動可能にするためにやじろべえのように撹拌軸に取りつけるという二つの発明だ。いずれも特許を取得している。
「撹拌軸は、鍋底にぴったりフィットさせるためにスプリングを内蔵しています。この撹拌軸にトルク(回転力)をかけながらスムーズに伸縮させる必要があるのですが、これが非常に難しかったのです。そんな時に、親父が重い製品を大八車に載せて運んでいる夢を見たのです。そうだ、重い物を動かすには車を使えばいいんだとひらめいたのです」
根を詰めて考えていると夢にまで出てくるとよく聞くが、まさに梶原も夢でヒントを授かった。撹拌軸の中に溝を削り、そこに車を通すことでスムーズに伸縮する機構を完成させた。後に特許が公開されたことで、今では他社の多様な製品でこの発明が使われている。

梶原工業発展のきっかけとなった、初期型の煮炊撹拌機とその構造について語る梶原氏。

梶原工業発展のきっかけとなった、初期型の煮炊撹拌機とその構造について語る梶原氏。

ちなみに、自転公転の機構を用いた類似製品はほかにもあったことを梶原は後で知る。
「かまぼこをつくる際に、魚肉を擂する機構に自転公転が使われていました。しかし、火にかけるものではなく、羽根でかき取るものでもなく、私が着想したものとは似て非なるものでした」
なお、梶原は特許取得などを通じて、知的財産を守ることにも熱心に取り組んできた。
「まるで番犬のように会社を守るところから"番犬特許"と呼ばれるようになりました」と梶原は笑う。同社は2016年10月現在、50件ほどの特許を保有。期限切れや廃棄分も含めると、百数十件の特許を取得してきた。埼玉県八潮市にある同社のカスタマーセンターには、まさに番犬のように50点ほどの特許証書がズラリと壁に掛けられている。

「撹拌機などのニッチな市場に大手は入ってきません。しかし、中小規模の同業は狙っています。特許をしっかり取って真似されないようにする必要があります」
それでも、中国で行われた食品機械展示会でカジワラの製品を真似た機械をよく目にした。「ひどいケースでは、カジワラのロゴまで同じものもあった」という。
「しかし、当社ではつねに技術改良を加えて新たな特許を取得しており、最新の当社製品のほうがはるかに良いということを、日本の食品メーカーの皆さんは分かってくれています。『中国の工場でも、カジワラの機械を使っています』と言ってくれますね」

一橋大学卒が通じない世界で、一橋大学で得た友と自信を胸に努力する

先ほどの言葉どおり、梶原の経営方針の真ん中には「新製品開発」があることが分かる。そんな梶原は、中小企業の経営の要諦についてどのように考えているのだろうか。
「新製品ができるかどうかという開発力の問題と、その売上が直ちに伸びていかず、しばらく低迷の時期をたどる問題をどう乗り越えるかだと思います」
新製品ができたとしても、それが世の中に認められて売れるようになるまでに時間がかかる。資金に限界がある小規模企業の場合、その間をどうやりくりするかが大きいというのだ。何か問題が発生しても、たじろがず、逃げずに対処する胆力も求められる。
「うちの場合は、合羽橋商店街に工場があって他社の製品を積極的に取り扱って、現金収入を得たことに助けられましたね。それで持ちこたえながら、完成した新製品の評判が徐々に口コミで広がり、売上の二次曲線が上向いていきました」
自社開発の製品は、仕入れ販売と利幅のケタが違う。発明した「煮炊撹拌機」がレバレッジとなって、その後も試行錯誤を繰り返しながら順調に拡大再生産のサイクルに入ることができた。つまり、新製品を完成させた後も、"飽くなき製品やサービスの改良"が欠かせないのだ。
「もっと口当たりが滑らかなあんをつくるにはどうすればいいかを突き詰めるために、小豆の分析研究もずいぶんやりました。その世界で著名な研究所の先生に話を聞きに行くと、『私は製餡組合の依頼で研究しているので機械屋さんには教えられない』とあからさまにシャットアウトされたこともあります。しかし、当社は日本一、つまり事実上世界一の製あん機メーカーになろうという自負がありますから、小豆の加工法も自前で研究し、あらゆるデータを蓄積してきました」と梶原。こうした姿勢が、同社の地位を揺るぎないものにしているといえるだろう。
そんな梶原に、一橋大生へのメッセージをもらった。
「あらゆる技術が進んだ今の時代は、新しいことをやれるチャンスは少ないかもしれませんね。けれども、どんなに大変でも世の中のために尽くし、正当な対価を得るということが極めて大事なことであると私は思います。お金があれば、多くの人を救い、新たな夢を与えることができるからです」
梶原は、外交官や弁護士になるという希望を、罹病と家業のためにあきらめ、苦境にあった家業を起死回生の新製品開発をテコに、従業員数約300人・年商約65億円の企業グループにまで育て上げた(2016年10月現在)。そして、2人の孫をそれぞれ英国留学に出し、さらにバレリーナになる夢を追う孫娘(次男の娘)も同じくロンドンに送り出している。また、家族だけでなく従業員全員に対しても、ハワイやシンガポールへの社員旅行をプレゼントしている。
「こうしたことはすべて、お金があるからできることです。その源泉は何かといえば、付加価値のある商品づくりや、それをものにする人材、商品を正当に評価してくださる顧客の存在であると思いますね」
商品や人材、顧客といった事業基盤をつくることは生易しいことではないが努力の果実は大きい。だからこそ梶原は「実家が事業をしている学生は、その基盤を引き継ぎ、力一杯経営努力をすることを考えたほうがいい」とアドバイスする。
そして、もう一つ。

工場が手狭になり、現在向かい側に第二工場を建設中。さらなる発展を目指す。(第一工場4階屋上駐車場より写す)

工場が手狭になり、現在向かい側に第二工場を建設中。さらなる発展を目指す。(第一工場4階屋上駐車場より写す)

「自分が一橋大学出身であることは、拠りどころとする業界によっては表に出さないほうがいいかもしれません。私が家業に入って相手にした多くの方は、菓子職人や菓子店の経営者。一橋大学を出たなんて表に出したら、かえって距離を置かれてしまうリスクを感じ、おくびにも出しませんでした。一橋大学出身であることは、良い友を得たことと、ここで学んだという自信が経営の随所で活かせることで十分であったと私は思っています」

(2017年1月 掲載)