「自分たちでつくる」精神を原点に、食文化を未来へつなぐ
- 株式会社西原商会 代表取締役社長西原 一将
2025年10月2日 掲載
「食文化の継承には、採算を超える価値がある」。そう語る西原一将は、業務用総合食品卸会社・西原商会の社長として、伝統と現場を重んじる経営を続ける。DJに没頭した学生時代、KDDI勤務を経て家業を継ぐことになり、それまでの過酷な労働環境の改善や商品戦略の刷新に着手。地域を支える食品産業を未来につなぐM&Aにも取り組んできた。「自分で動かなければ何も始まらない」と話す西原に、一橋大学時代に育んだ行動力と人とのつながり、そして今の若者たちに伝えたい思いについて語ってもらった(文中敬称略)。
西原 一将(にしはら・かずゆき)
西原商会代表取締役社長
1976年鹿児島県生まれ。ラ・サール高等学校を経て、1995年商学部経営学科入学、2000年卒業。同年KDD(現KDDI)に入社し、約5年間の勤務を経て2005年に西原商会関東へ入社。2007年取締役就任を経て、2012年から代表取締役社長を務める。事業承継型M&Aを推進し、九州有数の食品メーカーである五島製麺や松山製菓の代表も兼任。大学時代はDJとして音楽イベントを主催し、RHYMESTERなどと交流。サッカーを通じた地域貢献にも注力し、2016年から2024年まで鹿児島県サッカー協会会長、2024年より日本サッカー協会副会長を務める。
食文化の継承に挑むM&A戦略
「長崎ちゃんぽんの味を絶やしたらだめだ、と思ったんです」
そう語る西原一将が社長を務める西原商会は、鹿児島に本社を置く業務用総合食品卸の専門商社であり、全国に59拠点を構える。同社の特徴的な取組の一つが、事業承継型M&Aである。冒頭の言葉は、西原が主導して進めた地元・九州の食品メーカーである五島製麺とのM&Aに関する経緯を聞いた際に、その思いを表すものとして西原が述べたものだ。
中華麺のジャンルの一つである長崎ちゃんぽんの麺には、
西原商会のM&A戦略は、売上げや利益の最大化を第一の目的としていない。「美味しいかどうか、貴重かどうか、面白いかどうか。それが判断基準です」と西原は言う。言葉だけを聞けば無謀にも思えるが、実際に彼が手がけた企業の多くは立て直しに成功している。
「少しでも利益が出れば、古くなった営業所を建て替えたり、新しい営業所をつくったり、また効率の悪いところを改善できる」と話すが、そのプロセスが会社の成長につながり、社員のやりがいや挑戦の機会にもなることを第一義に考えているのである。
常に地続きだった、自身の幼少期と事業成長を続ける家業
西原商会は、1971年に鹿児島県鹿児島市で有限会社として創業された。創業者は西原の父であり現名誉会長の西原一義氏と祖父の故・西原喜一郎氏、そして事務担当の横山氏。営業車両1台という態勢から始め、西原4兄弟が順に加わることで徐々に事業を拡大した。1975年には新社屋を建設し、鹿児島市内に支店も開設。1976年には株式会社西原商会と有限会社西原食品工業(現・西原食品)に事業を分離し、新たな拠点に移転。九州から中国地方、そして関東にも進出し、全国展開を果たすまでに成長した。
西原の原点には、家庭と会社が地続きだった環境がある。西原商会の本社ビル内に自宅があり、一将少年が学校から帰ると、受付の社員が「おかえりなさい」と声をかけてくれるのが日常だった。
中学受験を経て、名門ラ・サール中学校へ入学。中・高時代はサッカー部に所属し、生徒会でも活動した。父から「(会社を)継ぐか」と聞かれたのは中学1年の時。そのつもりだったので「はい」と返事をしたが、あまり深く考えたわけではなかったと話す。
音楽が好きで、中学時代に読んだ雑誌をきっかけにDJに興味を持ち、大学進学後は本格的に機材を揃え、クラブ通いとレコード収集にのめり込んだ。
大学は、東京大学に行くものだと思っていたが、想定外の不合格。一橋大学には後期試験で合格した。事前に合格していた慶應義塾大学と迷ったものの、最終的に一橋大学を進学先として選択することになった。このときの選択は、卒業後25年が経った今でも大正解だったと西原は言う。その理由は、ビジネスの手法や理論を吸収できる環境ということ以上に、自ら価値あるものをつくり出すことを経験し、学ぶことができたからだと振り返っている。
「自分たちでつくる」精神が一橋大学での原点
一橋大学では、KODAIRA祭(春の学園祭)の実行委員としても活動した。大学がある国立、自身が下宿した国分寺は、都心とは違った面白さがあったという。「青山や渋谷などは"勝手に面白いことがあふれてくる都会"というイメージでした。そんな場所とは距離があったこともあり、"自分たちで企画して楽しむ"という環境だったことが、すごく良かったですね」と西原。面白さをつくり出し続ける学生生活を満喫し過ぎたこともあり、西原は2年生を2度経験し、大学には5年間通った。ただ、大学時代に学内外で知り合った友人たちとは、今も交流があり、自身の財産だと話す。
「一番良かったのは、たくさんのいい仲間たちに出会えたことです。バカなことを一緒にやれる仲間がいたというのは、本当に大きな財産でした。そして、遊びにしても何にしても"自分でつくる"という姿勢が自然と身についたこと。仲間がいて、自発的に動く環境があって。それが僕にとっての一橋大学でした」
就職活動を始めたのは、大学に入って4年目の年明け頃。縁あって、KDD(国際電信電話株式会社)の内定を得たが、西原が入社した年の秋にKDDとDDI(第二電電)とIDO(日本移動通信)が合併し、KDDIが発足するという激動の時期だった。事業環境も整っておらず、入社から間もない時期は飛び込み営業が主な仕事だったという。その後はサービス企画部に配属され、法人向けネットワークサービスなどを担当。そして、営業企画、インターネット関連の企画部署へと異動し、携帯電話の普及とともに激しく変化する業界で忙しく働いた。「いろいろなことがあって本当に激動でしたけど、その時にしか味わえない面白味も多かったと思っています」と語る西原。現在でもKDDI時代の同期や後輩との交流は続いており、取材前日も10人以上が集まる宴席に参加し、大いに盛り上がっていたところだと教えてくれた。
新たな環境でも自ら行動し、改善する面白さを実感
KDDIでの勤務を楽しんでいた西原だが、父との約束もあり、2005年に西原商会へ移った。配属は、西原商会東京本店。自らトラックを運転して営業に回るところからスタートしたという。入社当時、西原商会はいわゆる「ブラック企業」と言われてもおかしくない労働環境だった。朝6時台に出社し、夜11時まで働くのが当たり前。社員数はおよそ990人だったが、年間退職者が330人。実に社員の3分の1が毎年辞めていた。しかし、そんな環境でも会社の業績は伸びていたため、西原は「この環境を立て直せばさらに良くなる」と感じていた。
西原はまず、自分自身が「嫌だ」と感じたことを一つずつ改善することに集中した。営業現場では「面倒くさい」と思うことも多かったが、それをどう変えれば良くなるかが早い段階で見えてきたという。改善に取り組み、結果が出るとその変化が面白く感じられた。中でも大きかったのが、業務を進行するための仕組み・システムの刷新である。
「人事制度や評価制度を大きく変えることはもちろん、業務フローも見直し、商品戦略も転換。社員教育にも取り組み、会社の構造を変えていきました。会社の変化とともに離職率も激減しましたし、従業員数も売上高も、右肩上がりの成長を遂げている状況です。社員からも、システムが新しくなってすごく楽になったと言われましたね」
社長に就任する前に、M&Aも経験した。先代の社長である父も、かつて5社ほど経営破綻した会社を引き受けたことがあり、そのうちの数社の案件を西原が担当した。その経験は、現在のM&Aにも活かされているという。赤字続きだった食品製造の現場を引き継いで改善に取り組む中で、現場の動きを知り、端緒の段階で効率的な立案を手がけてきた実績が、今に活きているということだろう。
そしてM&Aへの取組には、西原が一橋大学時代に身につけた「仲間とともに自分たちでつくる」という姿勢も大きく影響しているという。
「すでに整っている会社を、お金だけ出してそのまま引き継ぐということには、あまり面白さを感じられません。きれいに整った場所に迎えられるような宴席よりも、騒がしい酒場で一緒に飲んで語り合うような、ある意味で"泥臭い現場"のほうが面白いと感じるんです。自分たちで手を入れて、直して、つくっていくほうが性に合っているんだと思います」
想定外の連続を面白がる柔軟性が、変化の時代を生き抜く力になる
人と会って話す。これが西原のスタイルだ。象徴的なのは、西原商会には社長室がないことだ。西原自身、広報部と同じフロアにデスクを置き、日々の仕事をこなしているのだという。
「社長室というのは、情報が入らなくなる閉ざされた空間だと思っているので、最初から必要ないと考えてきました。打ち合わせが必要なら、打ち合わせスペースで十分です。もし社長室があっても、その中でメールチェックくらいしか僕にはやることはないので、そもそも無駄な空間なんです」
今、西原の会社経営におけるモチベーションの中心は、「会社を大きくすること」ではない。もちろん、グループ企業が増えることで西原商会本体が大きくなれば、できることも増えるが、「大きさ=良さ」とは考えていないという。生み出した利益を設備投資や業務効率の改善につなげるといった、実利面での価値を重視する成長戦略ならありだと話す。
M&Aについても、規模の拡大だけを積極的に追うのではなく、地域の食文化を守るといった文脈で取り組める話があれば受けるというスタンスだ。難易度の高い案件も多く、条件を考えると断らざるを得ないものも多い。しかし、食文化の継承という視点で見ると"今ここで"手を打たなければいけないものばかりだという。
「経営陣とはよく"儲かっているいい会社は、うちが買う必要ないよね"と話しています。むしろ、困難を抱える会社や後継者のいない会社を受け継いでこそ、自分たちの価値が発揮できると考えているんです。どれくらいまで会社を大きくするつもりか、と問われることもありますが、むしろ"どこまで行けるんだろう"と思っているくらいで、遠い将来のビジョンはあえて定めていないんです」
現在務めている日本サッカー協会(JFA)副会長も、自ら求めていた職ではない。西原自身も「なぜ自分が?」という思いがいまだにあるという。きっかけは、西原商会が鹿児島ユナイテッドFCの支援をしていた縁である。鹿児島県サッカー協会会長を8年間務め、都道府県の協会会長の中では退任時でも最年少だった。
2024年3月、同年齢の宮本恒靖氏が日本サッカー協会会長に就任するタイミングで、副会長にと乞われたのだという。まったく想定していなかった形で、日本サッカー協会の副会長という役割を担うことになった西原。
「最近は、まったく予期せぬところから、いろいろな"矢"が飛んできて、想定通りにいくことのほうが少なくなっています。正直、あまりに想定通りにいかないので、長期の計画を立てないほうが良いのではと感じることもあるほどです」
自分が“これだ”と思ったものに全力で取り組んでほしい
2024年には英国ロンドンにも出店したが、その理由を聞かれても、「かっこいいから」くらいしか答えがないという。鹿児島からスタートし、逆風の中で事業を展開してきた会社だからこそ、スピードだけを重視するような社風ではない。そのように自社を捉え、人間同士の時間をかけた直接的な交流を何よりも大切にする西原は、急速に変化する現代に生きる若者を、どのように見ているのだろうか。
「スピードを重視するうえでは、今は何でも調べれば出てくるように見えるし、情報があふれているように見えます。でも、やはり自分で動かないと始まらない、人に会わないと何も起きない、という感覚が僕にはあるし、それが一橋大学での一番の学びだったように思います。今の時代、いろいろな選択肢がありますし、正解が一つではないからこそ、迷うことも多いと思います。でも、自分が"これだ"と思ったものに向かって、全力で取り組んでみてほしいです。結果よりも、そこで得られる経験や人とのつながりが、きっとその後の人生に活きてくると思います。そして何より、自分自身が楽しめること。どんな環境でも"楽しい"を見つけられる人が、結局は一番強いと思いますよ」
クラブイベントなどでDJとして活躍していた在学当時のスナップ。