型にハマらなかったからこそ分かる、一橋大学の懐の深さ
- ラジオプロデューサー橋本 吉史
2025年7月30日 掲載
「一橋大学は出たけれど」──この少しひねりのあるタイトルの大学公式Podcast番組※が、30〜40代の卒業生たちにじわじわと届いている。2024年7月に始まったこの番組は、毎回およそ30分、国立駅からJR中央線で新宿駅に着くか着かないかという"ちょうどいい長さ"で、不定期ながら月に1〜2回のペースで配信されている。番組のホストを務めるのは、元TBSラジオのプロデューサーで、現在はフリーランスで活動する橋本吉史氏。自身もまた「出たけれど勢」の側にいると語る橋本氏は、番組を通じて、画一的なキャリアに収まらない一橋大学の卒業生たちの声をすくいあげている。富山県の進学校から現役合格して入学した橋本氏が現在のキャリアに行き着くまでの軌跡と、一橋大学への思いについて語ってもらった。(文中敬称略)
- ※大学公式Podcast「一橋大学は出たけれど」:https://open.spotify.com/show/01QrinIKVMWcwsiWtUyE7i
橋本 吉史(はしもと・よしふみ)
ラジオプロデューサー・配信者
1998年4月、一橋大学商学部に入学し、2003年9月に卒業。2004年4月にTBSラジオに入社。手がけた代表的な番組に、『ライムスター宇多丸のウィークエンド・シャッフル』『アフター6ジャンクション』『赤江珠緒 たまむすび』『ジェーン・スー 生活は踊る』『爆笑問題の日曜サンデー』などがある。ギャラクシー賞ラジオ部門では大賞・優秀賞・奨励賞など、数多くの受賞歴を誇る。2024年6月にTBSラジオを退社し、現在はフリーランスのプロデューサーとして、ラジオ、Podcastなど音声コンテンツや配信メディア、企業コンサルティングなど幅広い分野で活動している。
一橋大学を「出たけれど勢」のコミュニティをつくりたい
番組収録中の様子。2024年6月にTBSラジオを退社し、現在はフリーランスのプロデューサーとして活動している。
2024年7月、一橋大学卒業生の、卒業生による、卒業生のためのPodcast番組『一橋大学は出たけれど』が始まった。2025年に創立150周年を迎える同大学のPRの一環ではあるものの、橋本は予告編で、「なんか大学と疎遠になったよな、みたいな、そんなあなたこそ主役です」と語りかけている。
一橋大学キャリア支援室が公表している「2023(令和5)年度学部卒業生進路状況」によれば、卒業生980人の就職先として最も多い業界は金融だ。そして、情報・通信、証券、官公庁、保険と続く。政財界や法曹界で活躍する卒業生も多く、大企業のトップのプロフィールに「一橋大学卒業」の文字を見つけることも珍しくない。
しかし、橋本は、同じく予告編で「そうじゃない人もいっぱいいて、まったく違う分野でめちゃくちゃ活躍している人もいる」と語っている。『一橋大学は出たけれど』は、まさにそんな"そうじゃない人"にこそスポットを当てる番組だ。
番組が始まる1か月前に、橋本は、20年勤めたTBSラジオを退社してフリーランスになっている。「一橋大学は出たけれど」は、橋本の枕詞でもあるのだ。
「ちょうど、フリーランスのプロデューサーとして活動を始めるタイミングで声がかかったんです。一橋大学を出てはいるけれど、44歳にもなって、何をしているのか分からない、学歴を完全に持て余してフラフラしているような人間──そんなふうに見えていたのかもしれませんね」
『一橋大学は出たけれど』の♯14、♯15にゲスト出演した1983年卒の中野聡学長も、「『出たけれど』っていう人たちが語る一橋らしさこそ、本当の一橋らしさだと思っている」と話している。
学長がラジオリスナーと知り、40代にして如水会に入る
橋本がPodcast番組をつくる大きなきっかけの一つとなったのは、中野学長との出会いだ。その縁をつないだのは、橋本が制作を担当したライムスター宇多丸氏のラジオ番組でスポンサーを務める西原商会の社長・西原一将氏だった。西原氏も一橋大学の卒業生で、中野学長が橋本のつくる番組をよく聞いていることを知ってのことだった。
学長から、若い世代の如水会入会率が低いことを聞かされた橋本は、「そうだろうな」と思ったという。橋本自身も如水会員ではなかったが、学長が自身のラジオ番組のリスナーと知った嬉しさから、そのタイミングで思わず如水会に入会したという、やや気まずい経緯がある。だからこそ、同世代の30〜40代が如水会に入らない理由はなんとなく分かる。それは自分たちに「エリートではない」「一橋大学卒の王道キャリアではない」という後ろめたさや劣等感があるからではないか。そうであれば、財界で活躍しているような王道のエリート卒業生ではない、ユニークなキャリアの人たちにスポットを当てた企画があれば、「それなら自分も参加したい」となるかもしれないと思った。
そして何より、中野学長も愛するPodcastというジャンルは、口コミでじわじわ広げるメディアとして最適だ。卒業生だけをターゲットにすればいいのだから、YouTubeのように拡散させて"バズらせる"必要はない。むしろ、今は"バズり"すぎると"炎上"にもつながってしまう時代である。Podcastであれば、クローズドな感覚で卒業生だけの健全なコミュニティを構築していくことすらできる。橋本が長年携わってきたラジオの文化の知見が大いに活かせると感じたのである。
1日10時間以上の勉強で、一橋大学に合格
橋本がメディアに興味を持ったのは、中学生から高校生にかけての頃だった。橋本の出身は富山県高岡市。地元では一番の進学校といわれる富山県立高岡高等学校に進学しながらも、勉強はそこそこに、テレビの深夜番組を夜な夜な見ていたという。そのうちに、「こういうものをつくる仕事をしてみたい」とも思うようになった橋本は、ラジオの深夜放送を聞く友人に教わった番組を熱心に聞くようになり、休み時間などにコソコソと「あれ、聞いた?」「これ面白いよ」と情報交換していたそうだ。
「当時はインターネットもありませんし、ラジオではじめて"都会の大人"のトークを聞いた感覚がありましたね。深夜ラジオには、どこか秘密結社的な雰囲気もあって、この面白さが分かる自分はすごいのではないか、というような背伸びができる感覚がテレビとも違い、好きになっていきました」
東京に出て、いろいろなカルチャーに触れてみたい。そして、その発信元となるメディアでコンテンツをつくる仕事もしてみたい。そう考えて、志望校を東京の大学に絞った。自身の成績では東京大学は難しいという現実的な判断と、得意科目で入試に臨めるという理由で、一橋大学の商学部を志望。高校2年生の終わり頃から突如、1日10時間以上の猛勉強を始めた。何としても東京に出る、という一つの強い思いが橋本を動かし、本人曰く「鬼気迫る勢いで」一心に勉強に取り組みながら成績を上げていったという。その結果、第一志望の一橋大学商学部に入学。しかし橋本は、商学に興味があったわけではなかった。
「当時の僕は一橋大学のことをよく知らなかったんです。偏差値が高いということは分かりましたが、富山にいるとそれ以上の情報を得られる機会は少ない。ほかの私立大学と比べて、どれだけすごいのかも分かっていなかったし、進路にどれだけ役立つのかもまったく見えていませんでした。ただ、この選択は大正解だったと今では思っています」
衝撃的だったプロレス研究会との出会い
上京した橋本が大学周辺で暮らしはじめて驚いたのは、想像していた東京と違ったことだ。
「えっ、ここ東京なの?って思いました。電話番号の市外局番も03じゃなくて042。僕は国分寺に部屋を借りたんですけど、すぐに、ここは思ったより東京のはずれなんじゃないか?と気がつきました」
そんな上京組ならではの戸惑いを感じながら始まった大学生活で、まず考えたのは「課外活動でコミュニティに入ること」だった。
とにかく友だちをつくろうと、さまざまなサークルを見学。華やかなキャンパスライフをつかみ取るべく回ってみたテニスサークルなどはあまり肌に合わず、模索を繰り返す中で橋本が出会ったサークルが、その後の大学生活を決定づけることになる。それが、学生プロレス団体である一橋大学世界プロレスリング同盟(HWWA)、通称「プロ研」──プロレス研究会だ。
東キャンパス生協食堂の前。キャンパスが新入生歓迎イベントで沸く中、カラフルなビニールひも「スズランテープ」でざっくり囲った即席のリングで、2人の学生が上半身裸でプロレスの試合をしている場面に出くわした。橋本はその衝撃的な出会いを、今もはっきりと覚えているという。そこでは、華奢で弱々しいレスラー(荒川ひとりぼっち選手)が、大柄でいかついレスラー(汗体臭選手)とリング上で対峙していた。見ていて驚いたのは、その試合は華奢なレスラーが「宇宙人ストレッチ」と呼ばれる"インチキ極まりない技"で勝ったことだった。ひ弱で体を鍛えていない選手が大柄な選手を倒せるわけがない。一体どういうセオリーがこのリング上で成立しているのか、逆に興味が湧いたという。
「見たことのないパフォーマンスに、思わず引き込まれましたね。この人たち、ただふざけてるんじゃなくて、ちゃんとエンターテインメントを考えてるぞ、と思ったんです。これがプロレスなのか?一体何なんだ?と思って、思わずリングの近くにいた部員に声をかけました」
新歓イベントで声をかけてきた新入生を、プロレス研究会が手放すわけはなく、「そのまま流れで、気づけば練習に行くようになっていました」(橋本)。
一橋らしさを学生プロレスで知る
一橋大学世界プロレスリング同盟(HWWA)、通称「プロ研」時代の橋本を捉えたスナップ。
練習に行ってみると、さらに予想外のカオスな状態だった。HWWAはインカレサークルで、当時は、一橋大学の学生だけでなく、武蔵野美術大学で油絵を描く学生もいれば、東京大学医学部の学生もいた。しかも、学生ですらない、新宿二丁目のゲイバーのママまでなぜか練習に参加していたのだ。多様性という言葉が一般化する20年以上前のことだ。
橋本は、多種多様な人たちが、同じリングでプロレスをしている状況を、面白いと思った。直感的に、ここに身を置くべきだと思い、熱心に練習に通うようになったという。
「気づけば選手候補として扱われていて。もちろん、プロレスをやりたくて一橋大学に入ったわけじゃないですし、人前でプロレスをやるなんて、当初はとてつもない恥ずかしさも迷いもありました。でも、やってみて分かったんです。これはただのごっこ遊びじゃない。本気のエンターテインメントなんだって」
そう思った理由の一つに、観客の楽しませ方があった。たとえば、試合冒頭でいきなり大技や必殺技を繰り出しても、観客は誰も盛り上がらない。大切なのは、どんな技をどんな順番で出していくか、どんなキャラクターで、どんな背景があり、どうしてこの試合に至るのかという「物語」の部分。観客を盛り上げて、どうしたら最後に「楽しかった!」と感じてもらえるか。そういうことを、いつも真剣に考えているサークルだった。
「HWWAは、自由なサークルに見えて、実はものすごく厳しい場所でもありました。本当に面白くなければ人気レスラーにはなれない、という事実を突きつけられるんです。サークル内の人間関係でなんとなく周囲に引き立てられるようなこともありませんし、お客さんに支持される個性があるかどうかだけが重要なんです。学生プロレスが興行をやるのは、学園祭や地域の祭りなど、通りすがりのお客さんしかいない場所のみ。つまり、我々を目当てにチケットを買って見に来るファンがいて、応援してくれるベースのような環境は基本的にありません。お客さんはつまらなければ容赦なくその場から立ち去ります。でも面白ければずっと見続けてくれます。だからこちらも真剣に観客と向き合わなければいけませんでした。顧客のニーズと自分たちのやりたい表現のせめぎ合い、つまり商学部的にいえばマーケットインとプロダクトアウトのバランスを実践から学べていたともいえます」
自分がつくり上げたプロレスの試合で、目の前の知らない人が笑ったり驚いたりしてくれる。橋本はリングの上で「ああ、これか。これが『伝わる』ってことか」と感じたという。また、一橋大学の学生プロレスには他の団体と違った個性があることが橋本の誇りでもあったそうだ。
「インチキ万歳」というプロ研のスローガンが書かれたのぼりを手にする学生時代の橋本。
「団体の掲げるスローガンが『インチキ万歳』なんですが、プロレス団体でこのフレーズを使うことはほぼタブーです。ここでは、プロレスラーのまねごとがしたいというよりも、プロレスを批評的な視点でカウンター的に表現し、なおかつ大学生だからこそできるエンターテインメントにこだわっている。実は、ジャンルとしてプロとの差別化が完璧にできているんです。これは、インテリジェンスをさまざまなフレームワークで動かそうとする、イノベイティブな一橋大生のマインドがあるからこそできる活動でした」
学生プロレスラーとしての活動が本格化する中で、もう一つ、橋本が時間を割いていたのはライブハウスでのアルバイトだった。一橋大生の定番アルバイトだった塾講師や家庭教師は、まったくやる気が起きなかった。受験勉強を追体験するのが嫌だったそうだ。とはいえ、生活費を稼ぐ必要には迫られていた。そこで選んだのが、もともと興味があった音楽に関わる場所で、なおかつ東京のカルチャーをより肌で感じられるようなところ。それが、住んでいた国分寺よりもさらに東京都心寄りの吉祥寺にある老舗ライブハウスだった。
「国立からは立川のほうが便利で近く、ついそちら側に行きがちなんですが、僕には少しでも東京の中心に近づきたいという謎の野心があったので、吉祥寺を選びました。ライブハウスで働いていれば、ジャンルを問わず音楽ライブに数多く触れることになるわけで、そこではじめて知るアーティストに衝撃を受けたことが、"東京で未知のカルチャーに出会う原体験"のようなものとしてとても印象に残っています。一橋大学が東京の都心ではなく、国立市という絶妙な立地だったことによって突き動かされた部分もあるので、これが自分のややひねくれた人格形成に役立ったのかもしれませんし、他大学にはない一橋大生の玄人好みで個性的なマインドは、こういうところもベースになっているのかもしれないですね」
念願のテレビ局に内定するも、卒業できずに内定取り消しに
プロレス研究会とライブハウスのアルバイトで、橋本の時間はどんどん埋まっていく。勉強もそれなりにやったつもりだったが、3年生に上がることができなかった。留年である。
このタイミングで、仲の良かった学内の友人たちは先に進んでしまい、授業も独りぼっちで受けるはめになったが、かえってマイペースに大学生活を送ることができて良かったという。
その後、3年生になって入ったゼミは、経営学原理の村田和彦(現一橋大学名誉教授)ゼミ。「教授が優しそう」という軽い気持ちで選択したのだが、入ってみると意外にも留学生の多いゼミで、日本人のゼミ生は3人程度、あとはアメリカ、中国、ドイツ、スウェーデン、ウズベキスタンなどさまざまな国から学生が参加しており、とにかく国際色豊かだったという。アメリカ人留学生と夜通しのゲーム対戦で日本のゲーム機の素晴らしさを語り、一緒に出掛けた居酒屋でドイツ人留学生の酒量に驚き、中国人留学生との卓球勝負で予想通りのレベルの高さを実感するなど、授業以外の時間も楽しい、そして貴重な体験の連続だったという。
ゼミに入った頃から、周りは就活ムードになっていく。商社や外資系金融を目指す人が多かったが、橋本は初志貫徹し、メディアやエンタメの業界を目指した。
最初に就職試験を受けたのはテレビ局。そこで早々にテレビ朝日に内定をもらえたことで、本人曰く「調子に乗って」しまう。内定をもらった翌日には、耳にピアスの穴を開け、髪を金髪にし、俺は勝ち組だ、と思い込んでしまったという。
しかし、4年生で迎えた3月、卒業発表の日の掲示板に、橋本の番号はなかった。
「まさか、と思いました。一瞬で頭が真っ白になって、絶望。卒業できなければ、内定も取り消しです。現実を受け入れられず地面を見つめたまま、何十分もそこにいた気がします。今でも学生課の掲示板前の地面に貼ってあったタイルの模様はしっかり覚えてますね」
テレビ朝日に電話をすると「卒業する前提で内定を出していますから、内定は取り消しです」と、当然だが厳しい言葉をかけられた。次に電話をしたのは、母だった。せっかく勝ち取ったはずの進路が白紙になったうえに、さらなる留年。暗い声で報告すると、母は「気にしなくていいよ」と優しく言ってくれたという。
すべてが無駄でなかったと、今なら分かる
ところがその電話を切った数時間後、母は富山から上京し、橋本の部屋までやってきたという。
息子のことが心配だったのだろう。しかし、母にはもう一つ大きな目的があった。「今から単位を落とした先生に一緒に会いに行こう、話せば分かってもらえるかもしれない、そういうことじゃないかもしれないがお金も持ってきた」と言うのだ。
橋本は驚いて、「ありがたいけど、卒業できなかったのは自分のせいだし、そんなことでつかんだ未来には悔いが残るからやめよう」と言い、心を入れ替えてもう一度やり直すことを母に誓ったそうだ。
その晩、自分の部屋に泊まった母の、疲れて眠る大きないびきを聞きながら、隣で橋本は「かあちゃん、ごめんな」と号泣したという。翌朝、橋本はピアスを外し、髪を黒く染め直した。就職情報サイトを片っ端からチェックして、翌年に向けて就職活動を一からやり直した。今度は、広告会社や出版社、学習塾など、さまざまな業界の企業100社ほどに必死でエントリーし、その結果、2社の内定を獲得した。そのうちの1社がTBSラジオだった。
「もう1社もとても面白そうな企業だったのですが、僕の中ではやっぱりエンターテインメントをつくるメディアの仕事がしたいという気持ちがあって、TBSラジオに入社しました」
その後、数々のラジオ番組を手がけ、20年。現在はフリーランスとなり、ラジオの世界のみならず幅広い分野で活動する橋本だが、今になって振り返ると「自分がやってきたことがすべてつながっている」という感覚があるという。
「一橋大学での学びは、今のキャリアとは直結していないように見えると思います。でも、たとえば商学部のマーケティングの授業で聞いた企業サービスの最前線の話は、現在手がけている企業との取組において大いに役立っています。また、一般教養で受講したヒューマンセクソロジーの講義の内容は、人間として今こそ特に必須の素養を身につけることにつながっていますし、ゼミで図らずも留学生と交流したことで世界の多様な価値観や国民性を知ることができました。そして、留年や卒業失敗という経験を通して人間の業について考えることができましたし、何より学生プロレスで体に染み付いた『人を楽しませるための基礎知識』はエンタメに関わる仕事で大いに役立っています」
一橋大学は出たけれど、で分かった一橋らしさとは
橋本がプロデュースおよびパーソナリティを務めるPodcast番組『一橋大学は出たけれど』には、一橋大学を卒業した後に、ユニークなキャリアを歩む人たちが次々に登場する。芸人、スナックのママ、アニメ監督、漫画家、YouTubeチャンネルのスタッフ、小説家、アーティスト、会社員から鮮魚販売業へとキャリアチェンジした人など、その肩書きはさまざまだ。一見、一橋大学で学んだことが将来に直結していないようでいて、しかし彼らは皆、「大学での時間が財産」と話す。
橋本自身も同じ気持ちだという。
「多様な卒業生たちに学生時代の話をインタビューしていると、思っていたよりもバリエーションに富んだ過ごし方をしていた人が多く、個性的な学生生活も大学側に受け入れてもらえていたんだなと感じられます。真っ当に勉強して4年間で卒業する人だけではなく、僕みたいにちょっと回り道をしている人も多い。『もっと遊んでいいんだよ』という寛大な目で学生を見守ってくれている中野学長に、あらためて感謝したい気持ちですね」
そして今、一橋大学については次のように思っているという。
「これまでは、自分はこの大学のイメージと違うと思っていましたが、最近感じるのは一橋大学が重んじる『実学』とは、単にビジネス的なことを指しているのではなく、すごく懐が深い話なのではないかということ。というのも、この時代、何が実学として役立つのかということも多様化していると思えるから。リベラルアーツという言葉がビジネス書で出てくる時代ですからね。むしろ、関係のなさそうな経験こそがイノベーションに役立つこともあるというか、その意味で実学というのは最強の考え方でもあるのではないかと思えるんです」
橋本自身がまさに、学業だけでなく課外活動に明け暮れた後に、ラジオ番組をつくり続けることになり、そしてそのキャリアが、卒業生がもう一度交流するためのメディア・一橋大学公式Podcastの誕生につながっている。
「まさか自分が大学公式の仕事をすることになるとは思っていませんでしたし、こうしてインタビューを受けていること自体、信じられない展開ですが、一橋大学とは本当はそういう大学だったんだと実感しています。『Captains of Industry』を掲げる一橋大学が、学生の多様な生き方や学び方を受け入れることは、実は筋が通っているんだ...と都合良く解釈しています」
『一橋大学は出たけれど』での多様な卒業生たちとの対話を通じて、橋本は「一橋らしさ」とは何なのかについても考えるようになったという。
「これまでゲストで登場してくれた、ユニークなキャリアの『出たけれど勢』と話して印象的だったのは、『ほとんどの人が留年している』『知識欲がありゼミは厳しいところに入っていた』『事務処理能力が意外と高い』『卒業生同士で群れていない』などの共通点があるということ。なるほど、皆がマイペースで、楽しく、頼もしく生きている人たちばかりだなと思いましたね。意外な「一橋らしさ」が徐々にあぶり出されてきているので、番組にもっといろいろな卒業生を呼んで話を聞きたいです」
そんな印象があるからこそ、「大学に行く動機は何でもいい」と橋本は言う。
「卒業してからの進路を考える際にも、一橋大学を出たからこうしなければいけない、というある種の思い込みがあるかもしれません。でも、Podcastのゲストと対話していて感じるのは、そもそも一橋大学で学び、過ごす時間そのものに価値があるということ。その後にどう生きるのかばかりを考える意味は、あまりないのかなと思います。何がどこで役立つかなんて分からないし、無理に役立てようとする必要もない。そもそも、自分の人生がこれからどうなるかなんて、誰にも分かりませんからね」