楽な道を好む本能を理性でねじ伏せ、茨の道を行く
- 株式会社オーダースーツSADA 代表取締役社長佐田 展隆
2024年10月2日 掲載
「本格フルオーダースーツが初回お試し価格1万9800円!」というキャッチフレーズでエンドユーザーの関心を引き、圧倒的な品質、フィット感、コストパフォーマンスで満足度を高める。この手法で着実に業績を伸ばし、2024年に創業101周年を迎えた株式会社オーダースーツSADA。4代目の代表取締役社長である佐田展隆氏は、一橋大学経済学部を卒業後、さまざまな苦難を乗り越え、同社は会社史上最高の売上を達成する見込みだ。バブル崩壊とともに苦境に立たされた大手繊維メーカーにあえて就職。その後、傾きかけた家業を継いでV字回復を実現させるも再生ファンドに譲渡。東日本大震災をきっかけに家業再生に乗り出し、自社製品を着てスキージャンプに挑戦する動画をYouTubeに投稿。意志を持って「茨の道」を歩み、紆余曲折を経て現在地に辿り着いた佐田氏の半生に迫る。(文中敬称略)
佐田 展隆(さだ・のぶたか)
株式会社オーダースーツSADA 代表取締役社長
1999年一橋大学経済学部卒業。東レ株式会社でテキスタイル営業に従事する。2003年株式会社佐田入社。2005年、代表取締役社長就任。2007年、金融機関の債権放棄とともに、会社を再生ファンドに譲渡。2008年引継ぎを終え株式会社佐田を退社。しかしリーマンショックで再生ファンドが撤退することになり、2011年7月に会社の再々生のため株式会社佐田に呼び戻される。2012年代表取締役社長に復帰し、オーダースーツの工場直販事業強化を柱に企業改革を進め、3期連続増収増益を達成し会社業績を安定化。現在に至る。
プロスポーツチームのオフィシャルスーツサプライヤー
阪神タイガース、千葉ロッテマリーンズ、名古屋グランパス、ガンバ大阪、柏レイソル、ベガルタ仙台、アビスパ福岡...取材場所となった岩本町にある本社の応接室には、株式会社オーダースーツSADA(以下、SADA)のフルオーダースーツに身を包んだプロアスリートたちのポスターが並ぶ。
「チームさんからチームさんへのご紹介で、現在はプロ野球2チーム、Jリーグ12チーム、Bリーグ5チーム、WEリーグ3チームに私たちのフルオーダースーツを提供しています。ベガルタ仙台さんとは18年、柏レイソルさんやアビスパ福岡さんとは17年のお付き合いになりますね」
第一線で活躍する選手たちの体は、既製のスーツにはまず収まらない。サッカー選手の片太ももは、65センチなんて当たり前。野球選手のオーバーバスト(胸回りと腕回りを合わせた寸法)は300センチなんていう選手もいたそうだ。しかし、鍛え抜かれた体にしっかりフィットしたスーツは、着下ろしたときに非常に映える。そこでフルオーダースーツの出番だ。
きっかけは東日本大震災前の2007年、ベガルタ仙台から同社の宮城・三本木工場へのオファーだった。以来、フルオーダースーツを継続して提供するうちに評判となり、ほかのチームからも次々にオフィシャルスーツサプライヤーのオファーが舞い込むようになった。
2011年からは従来の卸業から製造小売業に転換、今期(2023年8月〜2024年7月)は会社史上最高の売上を達成する見込みだ。
中途半端を嫌い、子どもにも数字とファクトを求めた父
SADAは「背広」が浸透し始めた大正末期の1923年に創業。戦後は洋服生地の卸業と、町のテーラーからオーダースーツの縫製を請け負う下請け工場として発展してきた。佐田は、3代目社長・久仁雄の長男として東京・杉並区で生まれた。その後、次男・三男が誕生し、佐田は3人兄弟となった。
久仁雄は人望が厚かった。会社や工場に行けば職員が笑顔で集まってくる。結婚式でスピーチをすれば両家の家族に感謝される。息子の運動会では保護者競技で必ず1位を獲って拍手を浴びる。そんな父親を、佐田は心から尊敬していた。
一方、子どもたちへの教育は厳しかった。中途半端な返答を許さない。「AかBか?」と聞かれたら、子どもたちは必ずどちらかを選ばなければならない。「どっちでもいい」「分からない」という中途半端な返答は逃げの姿勢と捉えられ、叱責された。また、子どもたちが何かを要望するときは、数字やファクトを用いてロジカルに伝えなければならなかったと佐田は回想する。
「たとえばゲームソフトが欲しい場合。『買って〜』では通じません。せっかく広い家をお父さんが建ててくれたのだから友だちを呼びたい。みんながゲームをやりたがっている。僕と弟のお小遣いを合わせれば3ヶ月で買えるけれど、今買いたい。僕と弟のサインを書いた承諾書を渡すから3か月分お小遣いを前借りさせてください!...と、ここまでロジックツリーを組まないと納得しない人でした」
どうしても交渉が成立しないときは2代目社長だった祖父・茂司に泣きつき、要望を叶えてもらうこともあったようだ。もっとも、戦争からの復員後、会社を成長させながら久仁雄を育て上げた茂司もまた厳しい人だった。幼かった佐田に、折に触れ「迷ったら茨の道を行け」というシビアなメッセージを送り続けていたのだ。このメッセージを、佐田は自らの人生で実践していくことになる。
一橋大学スキー部で主将を務め、インカレ2部に昇格を果たす
東京都立西高等学校を卒業後、佐田は2年間の浪人生活を経て第一志望の一橋大学経済学部に入学する。浪人中であっても志望校がブレなかった理由は2つ。まず、尊敬する久仁雄が一橋大学経済学部卒業生であり、その素晴らしさを息子たちに熱く語っていたことが影響している。次に、そんな父が進んだ道を自分も歩むことで「家業を継ぐのは自分です」とアピールする狙いもあった。実は、久仁雄は家業を3人兄弟の誰に継がせるか明言していなかった。
晴れて一橋大学に入学した佐田を待ち受けていたのは、体育会スキー部からの猛烈な勧誘である。久仁雄が体育会スキー部に所属し、クロスカントリーの選手として活躍していたことから、「佐田先輩の息子が入学した」という情報が同窓会経由でスキー部に伝わっていたのだろう。勧誘を断り切れなかった佐田は入部後、アルペン、クロスカントリー、ジャンプとさまざまな競技を経験し、4年次には主将に。佐田の頑張りによってインターカレッジ(インカレ)では男子2部に昇格した。
「国公立6大学が集まる大会では、各大学が持ち回りで幹事をやります。大会の規模が大きいので、運営に携われたことはかなり良い経験になりましたね。部活動の卒業生への交渉も同様です。れっきとした社会人の皆さんに、スキー部の活動費や大会の協賛金をお願いして回った経験も、社会に出てから生きていると思います」
授業を通じて数字を読み解く力、論理的思考力、文章力を身につける
スキー部の主将として部員のマネジメントを行う能力は、入学と同時に入った一橋寮の生活で培われたという。2年次の先輩が佐田ら新入生に寮のルールを守るよう指導。半年後には次の新入生を迎えるために、後輩が体調不良になったとき、生活費に不安を抱えているとき、孤立しがちになったときのサポート方法など、実践的なアドバイスが伝授された。一橋寮でノウハウを学んだ佐田は退寮後スキー部に寮のルールを持ち込み、部としての結束を強化していった。
スキー部の活動にのめり込んだ分、勉強との両立には苦労したようだ。それでも一橋大学という環境は、佐田にさまざまな知見を授けている。
「父の教育もありましたが、大学で学んだおかげで数字には強くなりました。1・2年次には授業で数学をかなり使いましたし、管理会計のような発想でレポートをまとめた経験も大きかったですね。卒業論文も含め、レポートをまとめるには大量の書籍を読まなければなりません。文章のセンスが磨かれたことで、以前出版した自著にそのセンスが活かされていると思います。また、レポートをまとめるには自分の意見をロジカルに組み立てる必要がありますが、そこで役立ったのがゼミで行ったディベートです。自分の意見を客観視できますし、あえて自分とは真逆の意見もロジックを組み立てて伝えなければならない。一橋大学で学んだことはすべて、その後の自分の支えになっていると感じています」
バブル崩壊の影響が最も大きかった繊維部門への配属を希望
1999年に一橋大学経済学部を卒業した佐田は、東レ株式会社(以下、東レ)に就職する。時代は就職氷河期だったが、一橋大学でスキー部の主将を務めた経験が評価され、多くのメーカーの面接を受けることができた。最終的に東レと大手自動車メーカーから内定をもらい、悩んだ末に東レを選択。大手繊維メーカーを選んだのは、いつまで経っても後継者を指名しない久仁雄の関心を自分に引きつけておきたい、という思いがあったからだ。しかし当時の東レは、バブル崩壊の波に本格的に飲み込まれ、各部門で在庫の山を抱えていた状態。その時に浮かんだのが、祖父のあのメッセージだった。
「『迷ったら茨の道を行け』ですよ。そこで特に状況が厳しい繊維部門への配属を希望したのです。私の選択に、前述の大手自動車メーカーの人事の方は呆れていましたね」
業績が落ちていた東レでは退職者が続出。ベテラン2人で担当していた業務を新人の佐田が1人で担うことになった。大口の顧客が経営破綻寸前のため、社内各部署に顧客の紹介を依頼して回る日々だった。そして、新規開拓のノウハウを学ぶ機会にもなった。
「電話帳をひっくり返し、担当エリアの潜在顧客のリストを作って電話をかけまくりました。大事なのは相手の関心を引くこと。そこで先輩から『お試し価格』を教えてもらいました。競合と同じ品質の製品を少し安く作り、一度試してもらうという提案をして商談の機会を設ける。製品にご満足いただけたら、次からは正規の価格で取引をするわけです。とにかく話を聞いてもらえれば活路は開ける。東レでは営業の何たるかを教えてもらいました」
古参従業員に怒鳴られながら、家業の営業部門をテコ入れ
5年後の2003年、当時29歳の佐田に久仁雄から「戻ってきてほしい」との連絡が入る。父の会社は存続が危ぶまれていた。バブル期に入り、大手百貨店からオーダースーツを請負い、急成長を遂げ、1990年には中国(北京)に工場を建設。さらなる拡大を図ろうとしていたときにバブルが崩壊し、経営は赤字に転落した。金融機関からの融資は25億円。またもや茨の道である。しかも今度は東レ時代とは異なり、社内の抵抗勢力と向き合わなければならなかった。自社の営業スタイルにも大きな課題があり、そこにメスを入れなければならなかったからだ。
「繁忙期と閑散期では工場の稼働率が異なるため、原価が上下します。その変動を年間でならしておおよその原価を把握する。そのうえで売値を決めるのが王道です。しかし、当時の営業部門には標準原価という概念がありませんでした。繁忙期も閑散期も関係なく値引き一辺倒で仕事を取ってくることが優先されていました。また、1着1着作らなければならないフルオーダースーツと、仕様が統一されている制服では前者の原価が当然高くなりますが、安い制服料金のほうで受注してしまう。営業部門と工場は毎日いがみ合いでした」
資金調達で疲弊し体調が芳しくなかった父に代わり、佐田は社内の営業部門の矢面に立つ。古参の従業員から「学卒(=大学卒業者)は引っ込んでろ!」と怒鳴られながらも評価制度を改定。適正な売値で受注しなかった場合には、営業としての評価を大きく下げるという大鉈を振るった。当然営業部門は猛反発。部長3名が「自分たちの営業スタイルを認めなければ会社を去る」と辞表を叩きつける事態にまで発展した。
その時、久仁雄は「上司のうろたえた顔を部下は絶対見逃さない。私はお前に賭けている。だから笑って受け取りなさい」と、辞表を受け取るよう指示した。
すでに茨の道を遥か先まで歩んでいた久仁雄の言葉に従い、佐田は辞表を受け取った。部長たちは会社を去り、残された若手従業員だけで顧客との関係を再構築することになった。佐田は東レで培った新規開拓のノウハウを若手に惜しみなく伝授。自身も顧客を回り、今までの価格設定の誤りを伝えて理解を得ることで取引を復活させていった。その結果、会社の単年度の業績はV字回復。前期8000万円の赤字から、後期は収支トントンというところまで持ち直す。佐田が社長に就任した翌年度には営業利益が1億円、翌々年度には1億7000万円となり業績は上向き始めた。
釣りと山登り、2つの趣味でリフレッシュ
忙中閑あり、壷中天あり。佐田が好きな安岡正篤の『六中観』にあるように、佐田はどんなに忙しくても趣味の釣りと山登りに積極的に時間を割いた。
「これが救いだったと思います。父と釣りに行くときにはもう仕事を忘れ、お互いに黙って釣り糸を垂れていました。山にはスキー部時代の仲間と登っていましたね。クロスカントリーの練習で山走り、今でいうところのトレイルランニングをやっていたので、山登りは速かったですよ。そうやってリフレッシュできる別天地を持っていると、考え方が変わりますし新しいアイデアも出てきます」
しかし、いざ仕事に戻って数字を見ると、佐田の奮闘は焼け石に水だった。金融機関には利息だけで毎年1億円を返済しなければならない。いくら業績が上向いたとはいえ、返済に充てる原資はなかった。冒頭で紹介したように、2007年にはベガルタ仙台のオフィシャルスーツサプライヤーとなってスポーツ界に進出を果たしたものの、翌年には会社を再生ファンドに譲渡せざるを得なくなった。久仁雄は自己破産、佐田は「従業員の雇用を守る」という父との約束を果たした後、責任を取って会社を去る。
製造小売業に転換して学んだ知名度と信用度の大切さ
転機が訪れたのは、皮肉にも東日本大震災が発生した2011年。宮城・三本木工場が被災、1か月後には操業を再開したものの、東北のテーラーが大量に廃業してしまったのだ。すでにリーマンショックで撤退していた再生ファンドからSADAを引き継いだオーナー会社は金融機関と折衝。佐田を呼び寄せることを決断する。
何度目の茨の道だろうか。佐田は卸売業から製造小売業に転換し、再スタートを切った。そこで売りにしたのがフルオーダースーツの「お試し価格1万9800円」である。実店舗に加え、楽天などのECサイトでも販売を開始したが、返ってきた反応はフルオーダースーツがその価格で収まるはずがない、というものだった。
「嫌になりますよね。でもこの苦い経験から、卸業と違って製造・小売業は知名度と信用度を高めないと何もできないと分かったのです。大企業のように巨額の広告宣伝費を投入するのではなく、WEBを使って何かやろうと部下と話し合いました。それが2013年のことです」
突破口になったのは、部下が広告代理店から「売上が3倍になる事例」として教えてもらったYouTube動画『Will It Blend?』シリーズだ。米国Blendtec社の家庭用ミキサー「Total Blender」のCM動画で、同社の社長がiPhoneやビリヤードのキュー、バービー人形などをミキサーに入れ、粉末状にして製品の性能をアピールするものだった。社長が自社製品で変なことをすればインターネット上で注目される。そう結論づけた部下たちは佐田の趣味である山登りに着目。同じく2013年に富士山がユネスコ世界文化遺産に登録されたことから、「社長がフルオーダースーツ、鞄、革靴で富士山頂まで登る姿を撮影してYouTubeに投稿しよう」と決まった。
「動画を投稿したときは登山家に叱られると思いましたが、むしろ面白がってくれました。その後も富士山頂からスキーで滑り降りたり、スーツ姿でスキーのジャンプ台から滑空したり...。さまざまな動画をアップしていたら、メディアが注目してくれたんです。『カンブリア宮殿』(テレビ東京)や『激レアさんを連れてきた。』(テレビ朝日)で紹介されてから、番組を観ましたと言って弊社の製品をお買い求めになるお客様が明らかに増えました。オフィシャルスーツサプライヤーのオファーも未だにいただいていますしね。ですからやって良かったですし、これからも続けていくつもりです」
茨の道を進むのは、周囲のためでもある
何度も修羅場を経験してきた佐田は今、祖父の「迷ったら茨の道を行け」というメッセージをどう捉えているのだろうか。
「人間は目先の快楽に飛びつき、嫌なことからは逃げ回る本能を持っています。しかし、一方で人間には理性がある。楽な道を選ぼうとする本能を理性の力でねじ伏せたなら、進むべき道は自ずと見えてくるのです。私自身、学生時代も社会人になってからもそういう道を選び続けてきたから強くなれたし、修羅場を切り抜けられたと思います。楽な道はいくらでもありますが、絶対に茨の道を選んだ方が自分のためになるし、ひいては周囲のためになる。私はそう考えています」