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視覚の中に情報が見えてくる、非言語的な映画を撮り続ける

  • 映画監督三宅 唱

2023年10月2日 掲載

一橋大学在学中に映画美学校とのダブルスクールにチャレンジし、学生時代には短編映画を、卒業後すぐに長編映画を撮り、映画監督としての経験を培ってきた三宅唱。2012年には長編第2作『Playback』がスイスのロカルノ国際映画祭に正式出品され、2022年に発表した『ケイコ 目を澄ませて』では主演女優が日本アカデミー賞の最優秀主演女優賞に選ばれている。中学3年生で映画づくりに目覚めた三宅は、一橋大学という環境から何を吸収し、そのキャリアをどのように築いていったのだろうか。(文中敬称略)

画像:三宅 唱氏

三宅 唱(みやけ・しょう)

一橋大学社会学部在学中2007年に映画美学校第10期フィクション・コース初等科を修了。2009年に一橋大学社会学部卒業。2012年監督作品『Playback』で第27回高崎映画祭新進監督グランプリ、第22回日本映画プロフェッショナル大賞 新人監督賞受賞。2022年監督および脚本を手がけた『ケイコ目を澄ませて』が第77回毎日映画コンクールにて日本映画大賞、女優主演賞、監督賞、撮影賞、録音賞受賞、第96回キネマ旬報ベスト・テンにて日本映画作品賞、主演女優賞、助演男優賞、読者選出日本映画監督賞受賞、第46回日本アカデミー賞にて最優秀主演女優賞受賞、第65回ブルーリボン賞にて作品賞、主演女優賞ノミネート、第36回高崎映画祭にて最優秀作品賞、最優秀主演俳優賞受賞、第32回日本映画批評家大賞にて監督賞受賞。最新作は映画『夜明けのすべて』(2024年2月全国劇場公開予定)。

言葉ではとらえきれない感情を表現するのが、自分にとっての映画づくり

インタビュー中の三宅 唱氏 1

2023年3月10日、グランドプリンスホテル新高輪において「第46回日本アカデミー賞」各賞の発表と表彰式が行われた。大物俳優や監督がノミネートされる中で、最優秀主演女優賞を獲得したのは、3年前に同賞の新人俳優賞に輝いた岸井ゆきのだった。そして、岸井が主演した映画『ケイコ 目を澄ませて』の監督・脚本を手がけたのが、一橋大学社会学部出身の三宅唱である。

先天性の聴覚障害がありながら、下町のボクシングジムに通う小河ケイコと、彼女を取り巻くジムのオーナーやコーチ、選手、家族の姿を描いた作品だ。聴覚障害のある女性がアルバイトをしながらプロボクサーとして実績を築く苦労、下町のジム特有の不安定な経営基盤などを背景に、ストーリーを展開させる。しかしそのいずれにも軸足を置かず、セリフもBGMも削ぎ落とし、岸井演じるケイコの不機嫌そうな表情と鍛え上げられた肉体、そしてスパーリングやロードワークの様子を淡々と描いていく。観る側のタイミングやコンディションによっていくらでも解釈の幅を広げられる、そんな自由度の高さがこの作品に不思議な雰囲気を与えている。

もっとも、三宅の話を聞くとそれは不思議でもなんでもなく、映画が本来持つべき資質なのだと思えてくる。

「映画にできないこと、向いていないことはたくさんあります。言葉で表現できるなら小説のほうが向いているかもしれないし、あるいは何か早急に訴えたいことがあるなら、映画というもの凄く手間暇かかるメディアを使うより、もっと直接的な行動を起こすべきだと思うんですね。では映画にしかできないことは何か?と考えると、それは非言語的なもので、たとえば言葉では説明しきれない感情だとか、時間をかけた方がより面白いもの。それを表現できるのが映画です。そういう意味で、多分自分の映画のほとんどの情報は、基本的に視覚の中に見えてくるものだと考えています」

非言語的であるからこそ、観る側にさまざまな受け止め方を提供できる。そんな映画をつくり出す三宅は、一橋大学出身であることをどのようにとらえているのだろうか。

中学3年生で短編を撮り、映画が総合芸術であると直感する

北海道札幌市で生まれ育った三宅は、今からおよそ四半世紀近く前の1999年、中学3年生の時にすでに短編映画を撮っていた。学校の文化祭で上映するための作品だったが、三宅は映画が総合芸術であることを直感したという。

「とんでもなく面白い体験でした。映画の中には文学もあれば、絵画、音楽、あるいはつくるときは体を動かすという意味でスポーツの要素すらあるのです。かつ、社会のあらゆる分野を考える対象にしますから、ジャーナリスティックな要素もあるでしょう。『映画は総合芸術だ』ということを直感した中学の時の思いは、今でも変わりません。21世紀になって、映画に対するそういう思いは若い世代にはないのかもしれない。"サブカルチャー"のジャンルに収まっているかもしれないです。しかし私にとっては変わらず最大の芸術、総合芸術なのです」

今でこそ自身の映画から日本アカデミー賞受賞者を出す三宅だが、中学の頃からはっきりと映画監督を目指していたわけではない。ハリウッドの超大作からヨーロッパの文芸作品まで、映画を観ることが大好きだった三宅少年は、映画を研究し、映画について思索を深める研究者の道にも興味を持っていた。

父親が自営業者だったことから、もともと三宅には将来会社勤めをするというイメージがなかった。学業や将来の選択についてあまりうるさく言われた記憶がなく、「心配はしていたでしょうけれど、だからといってプレッシャーをかけてくるタイプの家庭ではなかった」と振り返る。そこで高校卒業後の進路としては、「自分は文系である」との自覚は持ちながらも、大学で法律や経済、商業について学ぶことは考えなかった。では文学かといえば、三宅の興味は映画をはじめとする芸術全般や現代思想に広がっていた。

「私立には受かっても行くつもりはありませんでした。領域横断で学べそうな国立の大学を探して、著作を読んで感銘を受けた鵜飼哲教授(現・一橋大学名誉教授)がいらっしゃる一橋大学か、京都大学か。でも京都を旅行したときとても暑かったことを思い出し(苦笑)、一橋大学一択で受験しました」

残念ながら現役合格は叶わず、1年間の浪人生活を経て、三宅は一橋大学社会学部に入学する。

難解なジャック・ラカンのテキストに挫折感を味わう

入学した当初の三宅にとって、大学はなじみやすい環境とは言えなかったようだ。まず、当時の新1年生が体験する新歓イベントに、三宅は「違和感を覚えた」と語る。浪人生活は送りながらも「それなりに遊んできた」という自覚のある三宅は、受験勉強を頑張って現役で合格して弾ける同級生たちを冷めた目で見ていた。

「浪人あるあるだと思いますが、なじもうとしなかった、というのはありますね」

それでも一応映画サークルには所属し、2〜3年生の頃には先輩の映画製作の手伝いや、自らも短編映画を撮るなどの活動をしていた。しかし、3年生になると同期の部員が就職活動をし始めたため、三宅自身もサークルと距離を置き始めることに。

また、一橋大学社会学部を選んだ理由でもある鵜飼教授のゼミも、「ついていけなかった」と振り返る。

「鵜飼先生の知識人としての知性の厚みや行動力には圧倒されましたし、一緒に参加した大学院生の人たちは面白くて本当に刺激的でした。でも、ゼミで精読することになったジャック・ラカンのテキストは、フランス語の原文どころか英語に翻訳したものでもあまりに難解で...。研究者の道は早々に諦めました」

そんな三宅が力を入れたのが、映画館でのアルバイトと、アルバイト代を原資にした映画館回りである。在学中はずっと渋谷の映画館でのアルバイトを続け、稼いだアルバイト代を元手に月30〜40本、「札幌時代には観られなかった映画を観まくった」という。

時間をかけて結論を出すことに付き合ってくれるゼミという空間

インタビュー中の三宅 唱氏 2

一方で、三宅自身が想定していなかった一橋大学との接点も生まれていた。

一つは、図書館である。世界的に有名な蔵書を誇る一橋大学の図書館は、三宅にとって、世の中の流れとは違う流れに身を浸すことができる貴重な空間だった。

「渋谷でアルバイトしたりしていると、つい遊びたくなりますよね。でも図書館に行くと、ほかの学生が資格の勉強をしている姿を目にするわけです。すると『自分も好きな勉強をしよう』と考え直すきっかけをもらえます。ですから私はとても図書館が好きでしたね。なんというか、自分をリセットさせてくれたのです」

もう一つは、言語社会研究科・武村知子教授のゼミである。そのゼミには写真サークルやジャズ研究会、そして三宅のように映画サークルなど、文系かつ文化系の学生が集まっていた。武村教授は研究テーマをあえてゼミ生一人ひとりの選択に任せ、対話相手に徹したと三宅は振り返る。それぞれ異なるテーマ選択をするゼミ生に対し、武村教授は順番に対話し、「どうしてそうなったのか?」「もっと違う言葉で言い換えるとどうなるか?」などの問いを投げかけていった。しかも単にゼミ生に問うだけではなく、一緒に考える姿勢を貫いていたという。

「自分一人で考えていても、本当の結論のもっと手前のところで簡単にストップしてしまうと思うんです。そんな私たちに対して、武村先生は極めて穏やかな速度で『どうして?』と粘ってくれる。時間をかけて付き合ってくれる、そんな空間にいられたからこそ、気づかないうちに好き勝手に、なるべく映画のことを考え続けられたのではないか。今はそんなふうに感じています」

映画美学校とのダブルスクールがスタート

鵜飼教授のゼミで経験した挫折から、研究者になることを諦めた三宅は、いよいよ映画を撮ることに本格的に向き合い始めた。もっとも、正確に言えば「諦めた」のではない。映画について研究することも、映画を撮ることも、映画について、映画と社会の関係について考えるという意味では同じ。ただし、デスクで調べ物をするよりは、誰かと一緒に体を動かしながら、映画の面白さを探るほうに楽しさを感じる...という自らの資質に、三宅は気づいたのだ。そして、映画サークルの仲間たちが就職活動を始めた3年生の時、映画美学校フィクション・コース初等科に入学。一橋大学とのダブルスクールをスタートさせる。映画製作のノウハウを学びながら仲間を増やしていった三宅は、テレビ局のAD(アシスタント・ディレクター)のアルバイトも始める。その経験から後に広告映像の仕事も紹介されるようになるのだが、それは後述しよう。

助成金をもとに撮った長編第1作で、プロの俳優に認められる

いくつかの短編映画を手がけた三宅は、2009年に一橋大学を卒業。同時に『スパイの舌』という短編映画で、第5回シネアスト・オーガニゼーション大阪(CO2)エキシビション・オープンコンペ部門にて最優秀賞を受賞する。その後、CO2の助成金をもとに、2010年に初長編映画『やくたたず』でメガホンをとった。ただし、助成金だけでは不十分と考えた三宅は、札幌時代の友人たちに数年ぶりに連絡をして、資金の援助を求めている。

「みんなしかるべき企業に勤めて、30〜40代でやりたいことをやるために貯金をしていたんです。そのお金の一部を融通してくれたのですから、とてもありがたかったし、『大したもんだな...』とも思いました。でも、30〜40代まで生きていられるかもわからないし、将来を真面目に考えることから逃げていたんだとも思いますが、とにかく撮りたい映画を撮ろうと、それだけを考えていました。映画で生計が立てられるかどうかなんて、考えても暗くなるから考えてませんでしたね(苦笑)」

そして、『やくたたず』に参加した俳優の村上淳が、三宅の仕事ぶりに関心を示し、次の作品を一緒につくろうと持ちかける。その出会いが、三宅にある大きな決断をさせ、後にロカルノ国際映画祭に正式出品される『Playback』へと発展していく。

生計を立てるための仕事と映画づくりの両立を決意

インタビュー中の三宅 唱氏 3

「ある大きな決断」とは、三宅が何を生業にして生きていくか、ということに関する決断だ。前述したように、三宅はテレビ局のADのアルバイトをした経験から、一橋大学を卒業後、広告映像の仕事を紹介されるようになった。フリーランスの映像製作者として、企業用VP(ビデオパッケージ)や通販番組で使われる映像の製作に携わっていたのだ。短編・長編の映画監督との、いわば二足のわらじである。生計を立てることだけを考えれば、実はその当時すでに「フリーランスの映像製作者一本でも、十分食べていけそうだった」と三宅は語る。

しかし、三宅が映像製作者一本に絞らない...というよりも、三宅を映画づくりに踏みとどまらせる出来事が立て続けに起こる。まず、ある企業が運営するパーティーの撮影に参加したときのこと。クラッカーが鳴り響く様子をファインダー越しにのぞきながら、三宅は「自分が身につけた撮影技術が、望ましい形で活かされていない」と感じたという。さらにその後、2011年3月に企業用VPを撮影していたとき、福島第一原子力発電所で水素爆発が起こった。上司のパソコンでその映像をリアルタイムで見た三宅は、いよいよ意思を固めた。「今自分がやるべき仕事はこれじゃない」と。

「食べていくための仕事は続ける必要はあります。でも、自分が子どもの頃に映画からもらったエネルギーは、もっとワクワクするものです。お金で割り切れるものではないから、映画づくりも続けようと。どうしよう...と悩んだわけではなく、『両立させよう』とすぐに決断しました」

その決断から3か月後の2011年6月、三宅は俳優の村上のオファーを受けて『Playback』の撮影を始める。映画は翌2012年に第65回ロカルノ国際映画祭のインターナショナル・コンペティション部門に正式出品された。ロカルノ国際映画祭といえば、スイスで最も権威があり、若手作家の登竜門とも言われている。その映画祭で、三宅は長編2作目にして早くも世界デビューを果たすことになったのだ。

「自分の経済状況は恥ずかしいレベルで国内では無名でしたけれど、国際的にはもう『映画監督』と認知され、その時からこの職業に伴う責任感を自覚するようになりました。『ケイコ 目を澄ませて』が日本アカデミー賞最優秀主演女優賞を受賞したときも、自分の中ではそれほど大きな環境の変化は感じていません」

ほかから与えられたものに自覚的なエリートであるために

三宅の経歴を改めて眺めると、そこにはエンタテインメントの世界で見受けられる「下積み」「苦節○十年」というストーリーがほとんど見当たらないのだ。本人によれば、一橋大学を卒業後の数年は、「友人に製作資金を融通してもらうほど経済的にキツかった」とのことだ。しかし、同じく本人の口から、「そこからは幸運の連続だった」という証言も得ている。

インタビューの後半、三宅は興味深い発言をした。ある映画評論家との対話の中で、「自分はエリートであるという自覚を持たなければならない」ことに気づかされたのだそうだ。続けて三宅はこう語った。

「学歴に関係なく知性を発揮する人もいて、そういう人に対する憧れもあります。しかし、一橋大学卒という肩書きは、どう考えても、エリートなのです。それを忘れてはいけないと思っています。そういう立ち位置は、自分でつかんだものである以上に、環境によって外から与えられたものでもあるので、『そのことを自覚して何ができるか?』ということを常に考えるべきかもしれません」

何より興味深いのは「環境によって外から与えられたものでもある」という認識である。1年の浪人生活を経て一橋大学に合格したのは、たしかに三宅本人の力によるもの、つまり「自分でつかんだもの」だ。しかし「環境によって外から与えられたもの」もまた多いようだ。

映画が与えてくれた総合芸術という直感。うるさく言われることもプレッシャーをかけられることもない家庭環境。行くたびにリセットする機会を与えてくれる大学の図書館。「どうして?」という問いを発し、結論を出すまで粘り強く付き合ってくれる武村教授のゼミの空間。地元の友人による映画製作の資金援助。そしてVPなど映像製作の仕事をくれるネットワーク...。こういった「外から与えられたもの」を自覚したうえで、何ができるか。三宅の場合、それは観る側にさまざまな受け止め方を提供する映画づくりだったのではないか。

「外から与えられたもの」に敏感な三宅は、だからこそ一橋大学の後輩に以下のようなメッセージを投げかけた。

「お金や立場に関係なく、家族でもない他人が、真剣にモノを言ってくれる機会は、おそらく大学が最後です。少なくとも映画に関しては、面白ければお金を払うし、そうでなければ払わない。それだけになります。社会に出てから真剣にモノを言ってくれる他人と出会う機会も、ネガティブな意見を耳にする機会も、おそらく減る。だからこそ、今ある人間関係や時間を大切にしてほしいですね」