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西洋クラシックとインドの大道芸人、両者の価値観を融合させたら面白いことになる

  • 音楽ライター高坂はる香

2023年7月3日 掲載

幼稚園からピアノを習い始めたものの、ピアノを専門で学ぼうと考えたことは一度もなく、音楽関係の大学に進んだわけでもない。そんな音楽ライター・高坂はる香は、今やピアノの国際コンクールの取材では引っ張りだこの存在だ。そんな高坂は一橋大学大学院時代、インドの大道芸人のスラム支援プロジェクトについて研究。半年間行った現地でのフィールドワークの経験が、西洋クラシックの世界を飛び回る現在にも息づいている。その経験とはどのようなものか。そして今、何を目指しているのかについて語ってもらった。(文中敬称略)

画像:高坂 はる香氏

高坂 はる香(こうさか・はるか)

中央大学法学部卒業後、2005年一橋大学大学院社会学研究科修士課程修了。大学院ではインドのスラム支援プロジェクトを研究。その後ピアノ音楽誌『ショパン』の編集者として、世界のコンクールやピアニストを取材。2011年よりフリーランスの音楽ライター、編集者として活動。ショパン国際ピアノコンクール、チャイコフスキー国際コンクール、ヴァン・クライバーン国際ピアノコンクールなどの長期取材に基づくウェブ上での情報配信などを行っている。

音楽と適度な距離を保つ音楽ライター

インタビュー中の高坂 はる香氏 1

フリーランスの音楽ライターとして活動している高坂はる香は、2018年1月に『キンノヒマワリ ピアニスト中村紘子の記憶』を上梓する。内容はタイトル通り、2016年7月に逝去した世界的なピアニスト・中村紘子の生涯を扱ったものだ。興味深いのは、中村紘子個人にフォーカスしてひたすらその才を称揚するわけでも、裏話を綴るわけでもなく、中村紘子を取り巻く社会との関わりの中でピアニストの等身大を捉えようと試みている点だ。

「戦前のピアノ教育、戦後の日本経済、大衆人気、バブル......こういった視点を絡めながら、中村紘子さんがどういう力を発揮して昇りつめていったかを分析する。そんな評伝であれば、私が書く意味があると思い、引き受けました」

高坂がそう語るときの「私」とは、音楽ライターを生業としながらも音楽と適度な距離を保っている「私」だ。

「最近では『ピアノの国際コンクールの取材と言えば高坂さん』という形で仕事の依頼が入ります。需要があることはありがたいですし、取材は楽しい。もちろん音楽は大好きで、すばらしい才能と出会ったときの感動は格別です。でもコンクールマニアとして飛び回っているわけではなく、人々に楽しんでもらうための素材を得る手段の一つに過ぎない。私自身はそう捉えています」

そんな音楽との距離感が、ピアノの国際コンクールに象徴される西洋クラシックの世界と、これから紹介するインドの大道芸人スラムを等価に捉え、「両者を混ぜ合わせたら面白い」と考える源泉となっているようだ。

とうとう好きになれなかったピアノのレッスン

埼玉県出身の高坂は、幼稚園の頃から高校までピアノを習っていた。しかしーー。

「緊張してしまうので、人前で弾くのは嫌でした。ですから、自宅で弾いているだけで十分だったのです。高校生の頃、ピアノの先生がパートナーの転勤でイギリスに行くことになってレッスンがなくなり、大喜びしました。そんな私が音楽ライターをしていることを知ったら、先生は驚くはずですよ。『あんなにやる気がなかったのに』と」

むしろ高坂は運動が好きだった。中学ではバスケットボール部、高校ではテニス部に所属。後に大学に進学してからも、市民が運営するバスケットボールチームで活動していたほどだ。運動が好きで部活に打ち込んでいた高坂は、高校のテニス部の顧問から、中央大学への推薦入学をオファーされる。私立の中でも学費の負担が少ない大学であることを知り、同大学への進学を考える。最終的に法学部政治学科を選択した理由について、高坂は「法律よりも国際政治の分野に興味を持っていたから」と語る。

ただし大学での話に移る前に、あるキーパーソンを紹介しておかなければならない。それは高校で倫理の担当教員であったA先生だ。旅行が大好きなA先生は、ある授業で1時間すべてを費やし、自分がイスラエルの死海を旅行したときの話を披露した。その姿が印象に残った高坂は、大学に進学後たまたま再会した際に、高坂の将来に大きな影響を及ぼすアドバイスを受ける。

組織の歯車になって、もがくだけの人になリたくない

インタビュー中の高坂 はる香氏 2

中央大学に進学後、高坂はそれまで苦手意識を持っていた英語に対する考え方を改めた。
「高校までは、テストの点は良いけれど話すのは苦手という、典型的な日本人でした。でも大学に入ってから『英語は話せたほうがいい』と思い直し、2年になる前の春休みに1か月、フロリダの語学学校に短期留学したのです。直接話せる人口が一気に増えることを体感できる、良い経験でした」

そこで本格的に海外に興味を持った高坂は、翌年の春にはマイアミのホステルに1か月半住み込み、図書館で勉強したり、ルームメイトと遊んだり......という経験を積む。そして3年になったある日、あのA先生と偶然再会する。「アメリカの次は、どこに行けばいいか」と尋ねたところ、「インドがいいですよ」とアドバイスをもらった。追って自筆のインド滞在記が高坂のもとに届き、インドの良さを知ることとなった。その影響もあってか、高坂は「ちょっと行ってみようか」という軽い気持ちでインド行きを決めた。親の反対を押し切り、インドで過ごした2週間は「危ない目にもあったし、嫌な思いもしたけれど楽しかった」と振り返る。

このインド旅行によって、開発援助や国際協力の分野に興味がわき、JICA(国際協力機構)やJETRO(日本貿易振興機構)、大手新聞社などを就職先として意識するようになった。しかし、ここで高坂はいったん立ち止まる。

「このまま就職しても、組織の歯車になってもがくだけの人になってしまうのではないか、と考えたのです。現場で一生懸命解決策を見つけていくことは大事ですが、前例を学び、さまざまな知見をもとに代替案を提示できたほうがいいじゃないですか。ただ、それにはもう少し勉強する必要があると思い、大学院への進学を思い立ちました」

周囲が就職活動の真っ只中にあった大学4年の夏前、高坂は受験勉強に没頭。一橋大学大学院社会学研究科地球社会研究専攻(当時)の修士課程に進んだ。

大学院への進学、そしてピアノ音楽誌「ショパン」との出会い

高坂が大学院で地球社会研究専攻を選択したのは、国際開発論、アフリカ地域研究を専門にしていた児玉谷史朗教授(現・一橋大学名誉教授)の存在が大きい。

「地球社会研究専攻であればしっかり勉強できると思ったこと、児玉谷先生のゼミに興味を持ったことなどが、一橋大学大学院社会学研究科を選んだ理由です」

児玉谷教授の専門はアフリカだったため、インドにはネットワークがない。そこで高坂は修士1年の頃、自らインターネットでインドのNGOなどを調べて電話をかけ、コンタクトを取った。その中から数件のNGOを選んで実際に訪問し、研究に協力してくれるかどうか当たりをつけていった。
ちなみに当時高坂は、研究を進めるかたわらスポーツジムでアルバイトをしていた。しかし修士2年に上がる頃、アルバイト先を「ショパン」というピアノ音楽誌の出版社に切り替える。

「人に情報を伝える手段を学びたいと考えるようになったのです。そこで出版業界のアルバイト先を探しているうちに『ショパン』のことを知りました。一応幼稚園からピアノをやっていましたから、そのつながりで何とかなるだろうと思い、採用してもらったのです」

家族経営のような小さな会社で、とにかく人手が足りない。高坂は採用された直後、70代後半の社長から「(イギリスの)リーズでの取材に荷物持ち兼通訳で同行してほしい」と頼まれる。次第に海外出張に慣れてくると「1人で行ってきて」と出張自体を任されるようになったそうだ。

「ショパン」でのアルバイトで貴重な経験を積みながら、しかし高坂は2年の秋に大学院を休学。翌年春までの半年間、兼ねてから準備を進めていたインドでのフィールドワークに乗り出す。対象に選んだのは、大道芸人カーストのスラムだった。

なお、インド行きを決めた高坂に、「ショパン」の社長は「インドからも連載を書いて送ってね」と依頼することを忘れなかった。

週3回スラムに通い、大道芸人たちの生の声に耳を傾ける

インタビュー中の高坂 はる香氏 3

高坂が向かったのはインドの大都市、デリーである。そこには大道芸人のスラムがあった。
「インドのNGOが、フェアトレードのコンセプトを"パフォーマンス"に導入していることに興味を持ったのです。スラムに暮らす大道芸人を、仲介業者をできるだけ通さずに外国に連れていき、パフォーマンスをしてもらう。そして対価を大道芸人に還元して、彼らがプライドを持って仕事も生活もできるようにする。学校やトイレを建てて終わりではなく、自活を援助する一つの方法として『面白いなぁ』と。そこで私は大道芸人自身の実態をフィールドワークするために、半年間休学してデリーに滞在したのです」

インドにおいて「大道芸人」は一サービスを提供するカーストであり、ダリットに属している。たとえばインド北西部のラージャスターン州では、かつて地域の富裕層・王族が開くパーティーなどで、芸を披露し、それによって報酬を得ていた。しかしそうした仕組みが崩壊し、各地の大道芸人が職と住居を求めて都市部に流入。700世帯がスラム化し、助け合いながら生きていかざるを得なくなる。その後、政府が始めたスラム一掃プロジェクトのため、現在その大道芸人たちは別の地域に移住。生活環境はかなり改善されたようだが、当時は不法占拠状態でプレハブが無計画に広がり、衛生環境も悪かった。高坂はそのスラムに週3回足を運び、フィールドワークを行った。

「開発援助の効果や、実際にスラムでどういう問題が起きているかについて、現場で聞き取るという人類学的なアプローチでリサーチを行い、問題を掘り起こそうと思いました。その研究を修士論文としてまとめることができれば、後々そういうプロジェクトに携わったとき、問題を予測したり解決策を考えたりするうえで役立ちますから」

スラムに通い始めた当初、高坂は大道芸人たちから「NGOサイドの人」と見られ、あまり心を開いてもらえなかったという。しかし毎週通い詰めていくうちに次第に打ち解けてくれるようになった。彼らとの会話では、「海外公演に行った夫が現地の女性にプロポーズしたのでNGOに怒鳴り込んだ」といった話や、NGOへの苦情なども聞かせてもらえたという。
そんな大道芸人や家族の様子を目にしながら、高坂はポジティブな印象を強めていく。

「まず、スラムがとても明るいのです。路地を歩いているとバンバンッて太鼓の音が聞こえてきて、その音に合わせてお兄ちゃんが踊りながらシャンプーをしたり。リズム感はもう抜群です。かと思えば、楽器を使う前に身を清めるなど、何百年、何世代にもわたって受け継いできた道具や演奏、パフォーマンスに対して敬虔な気持ちで向き合っている。しかし、パフォーマンスでは稼げない人も多いため、家族に由来する職能とは関係のないドライバーや物売りになる若者、さらには麻薬の売買に手を染める若者もいます。こういう人たちの中からプロジェクトで成功に導ける人が増えれば、子どもたちにも『自分も稼げるかもしれない、バイクに乗れるかもしれない』という気持ちが芽生えますよね」

高坂は帰国後に復学し、さまざまな視点を加味しながら多角的な分析を加え、修士論文にまとめていった。所属ゼミの児玉谷教授からは「どうなることかと思いましたが、最後の論文はすごく面白かったですよ」とコメントを得る。しかし高坂のスラムへの思いは、修士論文とともに終わったわけではなかった。

西洋クラシックも、インドの大道芸人も、自分にとっては等価な存在

大学院で3年間研究に打ち込んだ後、高坂は就職を選んだ。もっとも、大学時代に候補に挙げていたような団体や企業では、組織が大きいために希望通りのポジションを任されるかどうかわからない。そこで高坂はアルバイトを続けていた「ショパン」の出版社を就職先に選ぶ(インドからの連載はやり遂げていた)。「とりあえずは『ショパン』に就職して、転職するならすればいい」と考えながら6年間勤め、2011年にフリーランスとして音楽ライターの活動を始めた。

「ショパン」時代から現在に至るまで、国際ピアノコンクールなどの取材を通して高坂が向き合ってきたのは、いわゆる西洋クラシックの世界だ。その世界で活躍するピアニストたちへの取材を通して、圧倒的な技術の差は当然としても、自分が人前でピアノを弾くのが嫌だった理由が分かったと語る。

「まず、世界的なピアニストは緊張が快感で、『また次も味わいたい』と思える人たちなのです。シューベルトの楽譜を見たら涙を流してしまい、その感動を人前で音にして共有しようとする。こういう人たちが西洋クラシックの世界で成功するのだ、と。私には絶対無理でした」 その一方で、違和感を持つ場面もある。それは西洋クラシック以外の表現に彼らがどのような視線を送っているかが滲み出る瞬間だ。

高坂には、西洋クラシックの世界で活躍する人たち、天上から与えられた素晴らしい音楽に命を懸けて向き合っている人たちの価値観がよく分かる。その一方で、インドのスラムで太鼓を鳴らす大道芸人たちの技術、リズム感、音楽・楽器・先人に対する敬虔な気持ちもまた、よく分かる。どちらも高坂にとっては「自分には成し得ない素晴らしい表現力と価値観で生きている」という意味で等価であり、等距離に位置しているのだ。このような西洋クラシックの世界での経験を踏まえ、高坂は、「西洋クラシックとインドの大道芸人の価値観、両方を混ぜ合わせたら面白いのではないか」と考えるようになったという。同時にかつて通っていたスラムに西洋クラシックを持ち込む、という活動も始めている(現在は新型コロナウイルス感染症拡大防止のために休止中)。

「子ども用サイズのバイオリンを3、4挺購入して、現地の日本人の知り合いに講師として参加してもらい、子どもたちにバイオリンを教えるというプロジェクトを始めました。もともと音楽の素養がある子たちですから、10年後には相当ハイクオリティな表現力を身につけているでしょう。その子たちがプレイヤーとして、講師として活躍し始めたときに何が起こるか、私は見てみたいです。また、その子たちの活躍によって、世界経済のしわ寄せを被っていた人たちにきちんとお金が流れるシステムが、私が死んだ後もずっと続くようにしたい。そういうことが一つでもできたらいいなと思っています」

語学力を磨き、相手と直接対話することで得られる刺激は大きい

最後に、現在一橋大学に通う学生、一橋大学への進学を検討している若い人たちに、アドバイスをもらった。

「相手と直接コミュニケーションを取ることで得られる情報は、とても刺激的です。そして直接コミュニケーションを取るには、やはり語学力を磨いておく必要があるでしょう。今は翻訳アプリもたくさんありますし、通訳の方もいるので、コミュニケーションには困らないですが、得られる刺激の大きさは明らかに違います。今受験勉強をしている方、受験勉強を終えてそれほど時間が経っていない方は、自分にとって一番効果的な語学力の磨き方が分かっているはずです。その中には、『映画をずっと観る』があってもいい。私自身、真面目に学び始めるのが遅かったからこそ、時間がたくさんあるうちに語学力を磨き、直接刺激を受ける準備をしておくことをお勧めします」

ピアノの国際コンクールの舞台裏で、インドのスラムで、相手からの刺激を受け、大きな目標に向かっている高坂だからこそ発信できるアドバイスだ。

スナップ写真4

大学院生時代、パペッティア一族との写真。
スラムで一番の歌い手の家で。

スナップ写真1

大学院生時代、フィールドワークの終盤にホーリー祭があり、仲良くなったスラムの一家と一緒にお祝いに参加。

スナップ写真3

パペットショーの写真。
パフォーマンスはストリングパペットと音楽で行われる。

スナップ写真2

音楽ライターとして働き始めてからもパペッティア一族との交流は続いた。NGOのオフィスで再会した時のスナップ。上記2枚目の写真で一緒に写っている小さい子供たちも、12年経ち大きくなっていた。