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常識を疑い、観る者の価値観を揺さぶるテレビドラマのプロデューサー

  • 株式会社テレビ東京 制作局 ドラマ室
    兼 クリエイティブ制作チーム
    祖父江 里奈

2022年10月3日 掲載

テレビ東京のプロデューサーとして数々の話題作を世に送り出してきた祖父江里奈。「テレビ局に入ってドラマをつくる」という強い思いを持って上京した祖父江は、一橋大学社会学部で学生生活を送る。今回の取材は、祖父江のリクエストで国立・西キャンパスの教室で行われた。「大学の門をくぐった途端、タイムスリップした気分になりました」。一橋大学と国立という街への愛情溢れる語り口から、この環境が現在の祖父江の出発点だったことが窺える取材となった。(文中敬称略)

祖父江 里奈氏 プロフィール写真

祖父江 里奈(そぶえ・りな)

2008年一橋大学社会学部卒業、株式会社テレビ東京入社。『モヤモヤさまあ〜ず2』『YOUは何しに日本へ?』などのバラエティ番組を担当後、2018年制作局ドラマ部(現・制作局ドラマ室)に異動。『来世ではちゃんとします』『だから私はメイクする』『38歳バツイチ独身女がマッチングアプリをやってみた結果日記』『共演NG』プロデューサー。

社会通念を疑いながら、数々の話題作を世に送り出す

ゲイ・カップルの食生活をテーマにした『きのう何食べた?』。

性に奔放な女性をコミカルに描く『来世ではちゃんとします』。

メイクを通して社会や自意識と闘う女性たちを扱った『だから私はメイクする』。

遅咲きの青春を謳歌する女性にフォーカスした『38歳バツイチ独身女がマッチングアプリをやってみた結果日記』。

40代独身女性エッセイストと自由奔放な70代の父親との関係を描いた『生きるとか死ぬとか父親とか』。

テレビ東京のプロデューサー・祖父江里奈は、社会通念を疑い、観る者の価値観を揺さぶるような数々の作品を生み出してきた。

小学生で「テレビ局に入って番組をつくる」という目標を持つ

画像:インタビュー中の祖父江 里奈氏1

岐阜県で生まれ育った祖父江はいわゆる"テレビっ子"で、保育園児の頃にはすでに『アメリカ横断ウルトラクイズ』を観て楽しんでいたという。

「『〜ウルトラクイズ』が終わったのは、たしか私が8歳の時。ほかにも『オレたちひょうきん族』や、志村けんさんの番組をよく観ていたのを覚えています。親もエンタメが大好きで、私は親から『テレビ(番組)をつくる仕事がある』と教えてもらいました」

そんな環境で育った祖父江は、小学生の時に「東京に行ってテレビ局に入り、番組をつくる」という目標を持つ。出演する側ではなく、あくまでつくる側志向だったことが興味深い。「出る側に気持ちが行ったことは一度もないですね」と祖父江は振り返る。そして作りたい番組の種類も、はじめは慣れ親しんでいたバラエティだったが、次第に物語を紡ぐドラマへと変わっていったそうだ。

高校3年の夏まで演劇に打ち込んだ後、いよいよ目標に向かって進学先の検討を始める。

「とにかく東京の大学に行く。学部は、少しでもテレビ局に入れるチャンスがありそうな社会学部。ただし裕福な家庭ではなかったので、私立ではなく国公立。そんなふうに絞り込んでいき、一橋大学の社会学部を選んだのです」

ただし、残念ながら現役合格は叶わなかった。第一志望を東京大学に変更し、名古屋の予備校に通って必死に勉強する日々が始まる。そんな中でも松嶋菜々子主演のドラマ『美女か野獣』は欠かさず視聴。マスコミ業界でバリバリと働く女性への憧れを胸に受験勉強に励んだ。当時「働く女子」を描いて人気を呼んでいた漫画『働きマン』(安野モヨコ)や『サプリ』(おかざき真里)からも、祖父江は大きな影響を受けている。

1年間頑張ったものの、第一志望の東京大学は不合格だった。しかし、現役時代には手が届かなかった一橋大学社会学部に合格。上京が決まった。

人間の生きる営みをミクロに見つめるスタンスに共感

祖父江は国分寺にアパートを借り、そこから4年間国立キャンパスに通う。国分寺〜国立間の往復を中心に、吉祥寺から立川までのJR中央線エリアが祖父江の生活圏であった。学業はもちろん、友人とのサークル活動からアルバイト、遊びまで、すべてこのエリアで完結させていた。吉祥寺より東に行ったのは就職活動を始めてからのことで、「そのころに、向こうが(東京の)中心だったと知りました」と笑う。

入学後、祖父江は少しでも気になる授業はできるだけ「覗きに行った」。当時特に興味を持って受講していた授業を挙げてもらうと、まず「インプロ(即興演劇)」という答えが返ってきた。その名のとおり即興劇を演じるもので、毎回机を取り払って体を動かす授業は、演劇を続けていた祖父江には学ぶことが多かったようだ。また、安川一教授(現・特任教授)の「社会心理学」では、写真、フェミニズム、メイク、ファッション、アートなど幅広い分野の知識を学ぶ。

「毎日自分の写真を撮り続ける女性の日記を読む等、社会心理学と言いながらあまりに幅が広すぎて自分が何を学んでいるのか混乱するほどでした。でも、人間の生きる営みをミクロに見つめて分析する先生のスタンスにとても刺激を受けましたね」

さらに、安川教授の授業でジェンダーというキーワードに出会い、興味を持った祖父江は、ジェンダーを専門に研究する佐藤文香助教授(現・教授)の授業も受講。大学に入るまで触れたことのなかった世界に衝撃を受けたという。

「すごく分かりやすくて衝撃的だったのは、『人間の性は2つではない』という話です。セックス(生物学的性別)・ジェンダー(社会的・文化的性別)・セクシュアリティ(性的指向)による男女の組み合わせは、8つ。しかもそれらはグラデーションになっているので、8つにさえはっきりと分けられるわけではない。だから性は多様なのです...という話を聞いた時は驚きました。それまで考えたことがなかったですし、まったく触れたことのない知識でしたから」

大学キャンパス、そして国立という街への愛情

画像:インタビュー中の祖父江 里奈氏2

祖父江は歴史ある建造物に彩られた一橋大学のキャンパスもさることながら、キャンパスを取り囲む国立という街にも、とても愛情を感じている。国立駅南口から三方向にのびた通り(大学通り・旭通り・富士見通り)、整然とした区画、昭和の時代から続く店の数々、豊かな自然...。その美しさに惹かれた祖父江は、自ら国立の街の歴史を調べ、さらに愛情を感じるようになったという。

林大樹教授(現・名誉教授)の「街づくり」の授業ではフィールドワークとして国立の街を回り、富士見台の商店街の人々にヒアリング。ある店舗の経営者からは、学生運動をしていた頃の話を教えてもらった。「一橋大学は学生運動が盛り上がらなかったから、◯◯大学まで遠征した」など、長く国立に住む人々のエピソードをもとに、友人と『わがまち国立』という演劇を創作。くにたち市民芸術小ホールで上演したそうだ。

当然アルバイト先も国立が中心だ。公民館1階喫茶わいがやをはじめ、オムライス店、フラワーショップ、塾講師...。アルバイトで貯めたお金で日本テレビが開講するシナリオライタースクールに通っていたという。興味の向くままに出向いてさまざまなことを吸収しながら、「テレビ局に入り、番組をつくる」という目標は持ち続けていた。

トリエンナーレでの突撃インタビュー、そして就職活動

3年次を迎え、祖父江は安川教授のゼミを選択。「人間の生きる営みをミクロに見つめて分析する」というスタンスのもと、安川教授はゼミ生を『福岡アジア美術トリエンナーレ』に連れていく。来場者に突撃インタビューを行い、コメント取りをして回るというミッションを課した。国立の街の人々へのヒアリング同様、初対面の人に自分から声をかけ、限られた時間で必要な情報を引き出す。そのための度胸と技術を、祖父江はここで身につけられたのではないだろうか。

そして就職活動の季節が訪れる。第一志望はもちろんテレビ局だが、大手金融・メーカーが開催する学内説明会にも足を運んでみた。しかし「興味は持てませんでした」と祖父江は振り返る。待っていても来ないなら、こちらから出向こう。そう考えていよいよ吉祥寺という"東の関所"を越え、テレビのキー局をすべて受け、唯一内定をもらったテレビ東京への就職を決めた。

大学で培った経験を、バラエティの制作で発展させる

画像:インタビュー中の祖父江 里奈氏3

「東京に行く」「テレビ局に入る」という目標は達成した。では「番組をつくる」という目標はどうか。結論から言えば達成できたのだが、最初は祖父江が望んでいたドラマではなくバラエティ番組制作部門への配属だった。テレビ東京の方針として、新人は現場での経験を積むためにバラエティ制作チームに配属となるケースが多いという。2008年にテレビ東京に入社した祖父江は、2018年に制作局ドラマ制作部に異動するまでの10年間、バラエティの制作で経験を積んだ。

担当したのは『モヤモヤさまあ〜ず2』『YOUは何しに日本へ?』などのドキュメントバラエティだ。これらの番組は、一般の人々とどのようなコミュニケーションを取れるかがクオリティの肝になる。制作を任された祖父江は、「国立の街の人々や、トリエンナーレの来場者へのインタビュー経験が役に立った」と感じたそうだ。

「特に安川先生から学んだ『人間の生きる営みをミクロに見つめる』というスタンスは、とても役に立ちました。まったく面識がない市井の人々に声をかけ、その人の職業や暮らし向き、生い立ち、どんなことを考えながら生きているか...こういったお話を伺うことは、安川ゼミなどで経験していたことです。だから大変ではない、という意味ではなく、より深く人々の懐に入って、良い番組がつくれると感じました」

もっとも、『モヤモヤさまあ〜ず2』で国立・国分寺を紹介した時にはタガが外れたようだ。第二の故郷とも言える国立・国分寺を「すごく宣伝した」と祖父江は振り返る。その熱が番組を視聴した国立市の職員に伝わったのか、祖父江は2019年に開催された『旧国立駅舎再築記念シンポジウム〜発見!まちの魅力〜』に招かれ登壇、「くにたち愛を語る/「エモい」街の魅力」というテーマで講演を行っている。

ドラマ制作部に異動後、改めて向き合った「ジェンダー」

そして前述したように、2018年に制作局ドラマ部に異動。子どもの頃からの目標をようやく達成した形だ。はじめから「バラエティ制作は10年間」と決まっていたわけではない。いつ希望が叶うかまったく分からない状態で、心が折れることはなかったのだろうか。

「なかったですね。私はこの10年間で、置かれた場所で楽しく生きていける自分に気づきました。やってみれば、何でも楽しいものですよ。それに、ドラマづくりは人間の営みを描く作業ですから、バラエティで学んだことは何一つ無駄になりません。また、学生時代に富士見台の商店街などで聞いて集めたエピソードを、演劇というフォーマットで物語に紡いで発表することと、私の中ではまったく同じ作業です」

物語を紡ぐポジションになった時、祖父江の中で重要なキーワードが再浮上する。「ジェンダー」だ。テレビ東京のドラマ制作で、プロデューサーは脚本家と一緒に脚本を書き、キャスティングを行う。物語のクオリティの鍵を握る存在なのだという。また、あらかじめテーマが決まっている場合もあるが、自らテーマを考えて実現させることも多い。祖父江が自らテーマを考える場合は、「自分が観たいもの」が基準だ。そして祖父江が観たいものとは、ジェンダーと向き合ったドラマなのだ。

結婚も出産も仕事も、すべては個別案件、都度対応であるべき

画像:インタビュー中の祖父江 里奈氏4

祖父江は大学でジェンダーについて学んで以来、自身の「結婚しないで、男性みたいにバリバリ働こう!」という考え方に違和感を持っていた。

「今となっては変な考え方ですよね。結婚も出産も、するかしないかは自分で決めること。力んで否定する必要はありません。働き方に男性も女性もなく、その人の働き方があるだけ。すべては個別案件、都度対応であるべきだと私は思います」

このような問題意識を、祖父江は冒頭で紹介したようなドラマに昇華し、世の中に問い続けてきたと言える。そして、ジェンダー研究は変容していくので、つねに注視していないといけない、と付け加えた。

「たとえば『働きマン』も『サプリ』も、その時の時代の空気と向き合った優れた作品だと今でも思います。そしてお2人の現在の作品を読むと、時代を見つめるという感覚をしっかりアップデートしていらっしゃることが伝わってきます。私もジェンダーを扱う以上、その姿勢から学び、アップデートしていかなければなりません。理由は、傷つく人を1人でも減らすためです。ドラマはエンターテインメントですから、誰も傷つけない作品をつくるのは無理だと、私は思います。だからといって開き直るのではなく、傷つく人を1人でも減らすよう、制作者は努力し続けなければなりません。それには最新のジェンダー研究の動向を見続け、知識で自らをアップデートする必要があるのです。弱者に寄り添うとは、そういうことですよね」

いろいろな考え方を知っていれば、追い詰められても呼吸がしやすい

祖父江里奈という人物は、小さい頃から目標を持ち続け、達成したという点では一貫しているが、今回の取材を通して「一橋大学以前/以後」に分かれているという印象を受けた。それほど一橋大学での4年間は、祖父江にとって自らのステージを上げる機会になったのではないだろうか。最後に、現在一橋大学に通う後輩、そして岐阜時代の祖父江のように一橋大学への進学を考えている未来の後輩に、メッセージを送ってもらった。

「少しでも興味を持ったことはやってみてほしいですね。授業、アルバイト、サークル、就職活動...食わず嫌いせず一つでも多くのことにトライして、いろいろな人とおしゃべりをして、多くの考え方に触れるといいと思います。何故なら、考え方が一つしかないと、追い詰められた時にすぐ苦しくなります。後がなくなります。逆にいろいろな考え方ができると、呼吸しやすくなるものです。大学では真の友人をつくらなければ!と焦る必要はありません。いろいろな人と付き合って、考え方の引き出しを増やしていけばいいですよ」

取材後、学生時代に通った店の思い出話をするうちに、祖父江は突然「今、将来の夢ができました!」と笑みを浮かべた。「国立に戻って、飲み屋をやります」。その後スマートフォンのカメラを構えながら、「私はもう少し写真を撮っていきますのでおかまいなく。ありがとうございました」とその場を後にした。