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誰でもできる「話す」「朗読する」ことをプロフェッショナルとして究めたい

  • ナレーター・フリーアナウンサー大熊 英司

2022年3月25日 掲載

テレビ朝日のアナウンサーとして33年間、「『ぷっ』すま」などのバラエティ番組のMCや「ANNニュース」のキャスター、オリンピックやボクシングの試合の実況中継などを務めてきた大熊英司。「スタート当初、苦手なスポーツ中継に苦しんでいた時、ゼミの教授だった美濃口武雄先生から励まされたことで続けることができた」と述懐する。2020年に独立し、フリーアナウンサーとしてナレーションの仕事に取り組み始めた大熊に、学生時代やアナウンサー生活、今後のビジョンについて聞いた。(文中敬称略)

大熊 英司氏 プロフィール写真

大熊 英司(おおくま・えいじ)

1987年一橋大学経済学部卒業。同年4月アナウンサーとして全国朝日放送株式会社(現・株式会社テレビ朝日)入社。ニュース、スポーツ、バラエティ番組等さまざまなジャンルの番組を担当。代表的な番組に「『ぷっ』すま」(サブMC(2001-2018))、「ANNニュース」(週末朝・昼キャスター【2006-2020】)、「さんまのナンでもダービー」(サブMC【1993-1995】) 「ステーションEYE」(スポーツコーナー【1993-1995】) 「炎のチャレンジャー」(実況ナレーション【1995 - 2000】) 「NBA FAST BREAK」(MC【1996 - 1998】) 「やじうまワイド」(MC【1998 - 2002】) 「ちい散歩〜昭和散歩〜」(ナレーション【2006-2012】) 「ワイド!スクランブル」(新聞コーナー【2012-2013】) 「スピードキング」(MC【2011-2013】) 等がある。2020年株式会社テレビ朝日を退職、7月1日より総合芸能プロダクションのシグマ・セブンに所属し、フリーアナウンサーとしての活動のほか、ナレーターとしても活動の幅を広げていく予定。

東京に出てみたい、と一橋大へ

画像:インタビュー中の大熊 英司氏 1

1963年に東京で生まれ、すぐに広島、名古屋へと移り住んだ大熊。幼少の頃から長く暮らし、現在も実家のある名古屋市を出身地と表明している。
「幼稚園のおゆうぎ会で、舞台で『はじめのことば』を言う大役を仰せつかりましたが、その頃から人前でしゃべるのは好きだったように思います」と大熊は言う。
小学校3年生になる頃まで放送されていた日本テレビのバラエティ番組「シャボン玉ホリデー」(第1期)や、「今夜は最高!」といった音楽とお笑いが混ぜ合わさったようなバラエティ番組、そしてさまざまなクイズ番組が大好きだった。
「そんな番組を通じて、テレビの世界に憧れました。クイズ番組や音楽番組の司会者がかっこいいと思い続けていましたね」と大熊は振り返る。
名古屋市立菊里高校から一橋大学経済学部への進学を選んだのは、いくつかの理由があった。
「まずは東京に出てみたい、と。それから、家は普通の家庭でしたので、国立大学なら負担が少ないだろうと思いました。そこで、自分の成績や学力でチャレンジできそうだった一橋大学に志願することにしたんです。一橋大学はフォークシンガーの山本コウタローさんや作家の石原慎太郎さん、田中康夫さんの出身校として知られていて、そういう大学に行ってみたいという思いもありました。経済学部を選んだのは、文系でしたが数学が比較的得意だったからです。でも、一橋大学に行って何かをしたいという明確な考えはありませんでした」
しかし、初年度は不合格。私立大学も受験し合格したが、やはり一橋大学に入りたいと浪人生活を決めた。
「受験で訪れた国立キャンパスの雰囲気にほれ込んでしまったからです。学生が伸び伸びしているというイメージがとても気に入りました」
2度目の受験で無事に合格し、1、2年生しかいない小平キャンパス(現:小平国際キャンパス)に通い始めた。
「生協のある建物の2階に『こっぺい』という喫茶室があって、そこに行くと大抵友だちが見つかりました。東京とはいえ郊外で、キャンパス全体で学生が少なくアットホームな雰囲気があり、ギスギスしたところがまるでなく自分に合っていると感じましたね」

サークル活動や麻雀、ボウリングを楽しむ

大熊はそんなキャンパスで学生生活を謳歌する。学習塾の講師や家庭教師のアルバイトを始め、高校時代に吹奏楽部でフルートを担当したことからイージー・リスニング楽団のサークルに誘われて参加することにした。一橋祭では兼松講堂でコンサートも開催し、フルートを演奏したという。さらに、テニスのサークルにも所属する。また、麻雀やボウリングも楽しむようになった。ちなみに、現在の大熊のプロフィールシートの趣味の欄には「ボウリング、麻雀、フルート、テニス、料理、居酒屋巡り」と書かれており、当時好きになったものが現在まで続いていることがうかがえる。
「当時、国分寺のアパートに住んでいましたが、当地に『国分寺ボウル』というボウリング場があってよく通いました。『こっぺい』に友だちが4人集まると雀荘に行ったという感じでしたね。国分寺の居酒屋にもよく通いました。とにかく、自由にいろいろなことをさせてもらえたと思います」
肝心の学業のほうは「あまり思い出はありません」と大熊は正直に話す。当時はまだ大らかな時代で、勉強家とは間違っても言えない学生だった。しかし、そうした中でも、やはりゼミのことは強く印象に残っているという。
「美濃口先生のマクロ経済のゼミで、英語の原書を学生が順番に読んで内容や考察を発表するというものでした。自分以外の学生はみんな優秀で、先生と友人が助けてくれて自分はやっとついていくことができたと思います」

テレビ朝日に内定、念願をかなえる

当時の就職活動は、10月が会社説明会の解禁日。しかし、マスコミは動きが早く、他の学生よりも数か月早くテレビ朝日の内定を受けた大熊を、美濃口教授は大いに喜んだという。
「先生は、ろくな卒論でなくてもそんな自分を卒業させてくれました」
子ども時代からテレビ局のアナウンサーになるという念願を抱き続けていた大熊は、同じくマスコミ志望の友人との情報交換の中でアナウンサー学校の存在を知る。大学4年生になる前の春休み、アルバイトで稼いだ8万円を投じて1週間のコースに参加した。
「その学校に来る人は大学の放送研究会に属している学生が多く、事前知識がない自分にはとても刺激的でした。彼らとの情報交換の中で、その春からテレビ各局の就職セミナーが始まると聞いて、自分も参加したのです。2社目に参加したテレビ朝日から『研修に来てください』と内定をもらいました。あれよあれよという間にパパッと決まった感じです」
一方、経済学部の周囲の学生は就職活動で銀行や商社などに行く者が多く、「アナウンサーはダメで元々、記念に受けておこう」と考えていた大熊も、テレビ局が第一志望という前提で銀行からも内定を得ていた。
「もしテレビ局に縁がなければ、今頃は銀行マンだったと思います」

"人"を伝える魅力でマイナスをプラスに

画像:インタビュー中の大熊 英司氏 2

念願かなって局アナとなった大熊であったが、そのスタートはほろ苦いものとなった。当時のテレビ朝日では、新人男子アナウンサーは全員、スポーツ中継を経験させられたからだ。
「実は当時、スポーツには興味関心がなく、苦手意識が先に立っていました。最初にやったのは高校柔道の地方大会でしたが、高校時代に剣道はやったものの柔道はルールも何もわからず、一から勉強をしました。しかし、どの立ち技もみんな"払い腰"に見えてしまうんです。そこで、実況中継で思わず『払い腰!』と言うと、解説者から『今のは大外刈りですね』と訂正されてしまいました」と大熊は打ち明ける。
そんな入社2~3年目の頃のこと。美濃口ゼミの同窓会が開かれた。大熊は美濃口にそんな近況を報告し、「苦労しています」と告げた。 「美濃口先生は、苦手なことでも続けていくうちにいい方向に好転することがあるといったことを話してくれて、優しく励ましてくれました。その一言がどこか心に残って、続けることができたのではないかと今でも感謝しています」
後に大熊はボクシング中継番組の「エキサイトボクシング」のメイン実況アナウンサーを務め、大橋秀行や川島郭志といった世界チャンピオンのタイトルマッチの実況をすべて担当するようになる。ボクシングの実況を始めた時から、インターネットなどない当時、ボクシングジムに通って選手の話を聞くことに努めた。
「その当初、ボクシングに興味があるわけでもなく、汗臭いジムに取材に行くのは正直、嫌でした。しかし、純粋にチャンピオンを目指して頑張っている選手の話を聞いていくうちに、そんな選手の思いや人柄について伝えたいと思うようになったのです。スポーツとしてのルールや見方といったことよりも、人としての魅力を伝えたいと。1か月に3~4つのジムを回ってさまざまな選手に話を聞くことが楽しくなりました。ここからスポーツが嫌でなくなり、ぐっと楽にスポーツ実況の仕事ができるようになりましたね」そう思うようになると、大熊はスポーツ大会の頂点ともいえるオリンピックの中継をしたいと望むようになる。そして、2006年のトリノ冬季五輪でカーリング競技などの実況を担当することができた。

「『ぷっ』すま」の番組づくりに手応え

その後、最も手掛けたかったバラエティ番組の仕事が巡ってきた。最初は、1993年から1995年まで続いた、クイズバラエティ「さんまのナンでもダービー」の進行役と最終レース実況役である。
「スポーツの実況中継で培ったスキルが認められたのだろうと思っています。この時、嫌だったスポーツ中継を続けて良かったと思いましたね。今思えば、美濃口先生の言葉が大きかったと思います」
その後、1995年から2000年まで、「ウッチャンナンチャンの炎のチャレンジャー これができたら100万円!!」の実況を手がける。
そして、2001年。「『ぷっ』すま」のサブMCにアサインされ、2018年3月31日の番組終了まで大役を務めた。草彅剛とユースケ・サンタマリアがメインMCを務め、毎回ゲストとさまざまな対決をするという内容である。大熊は両名に絡みながら対決の実況を行うという役どころで、草彅から"熊の助"というニックネームを授かった。23時過ぎからの深夜枠であったが、当該枠のバラエティ番組として最高平均視聴率を稼いだ人気番組であった。
「2人にリードしてもらいながら、どう絡むか楽しく考えながら取り組めました。途中から、自分も『こうするのはどうでしょう?』と意見が言えるようになりましたが、あの番組づくりには出演者やスタッフがみんなで参加し、いい感じで運んでいけたと思っています。それがいい思い出になっていますね」と大熊は言う。

ナレーション*を突き詰める道へ

* ここではテレビやラジオ番組での語りなどのことを指す。

そして2020年6月、大熊はフリーアナウンサーとしての独立を果たす。その思いや経緯について、大熊は次のように説明する。
「『「ぷっ」すま』が終わり、その後手がけたニュース番組も終わったところで、56歳ともなったのならば後進に道を譲り、自分はやりたかったことをやろうと思うようになりました。会社にいればまだ番組に関われたかなとも思いますが、それは若い世代に譲るべきだと。また、段々と管理職的な仕事が増えていましたが、自分は『「ぷっ」すま』のようにみんなでつくる現場の仕事が好きだったのです。そこで、前々から考えていた次なる道へ進むことにしました」
その"次なる道"とは、ナレーションの仕事である。大熊は、局アナ時代からナレーションに興味を持っていたが、なかなか手がけるチャンスがなかった。
「話したり朗読したりといったことは、基本的に誰にでもできること。だからこそ、番組の中でプロとしてこれを行うことに難しさを感じたのです。視聴者の中に心地良くすんなりと声が入っていくことは、簡単なことではないと。間のつくり方や声の高低といったことをしっかり学ぶ必要がある。10年ほど前にそう気づき、ナレーターとして日本の第一人者である槇大輔さんの勉強会に参加させて頂いて教えを乞うたりして、自分なりに勉強を始めたのです」
それ以来、いずれはナレーターとして生きていくことを大熊は考えてきた。そこで、「『ぷっ』すま」の終了を一つの契機として、定年前の早期に退職し、この道を突き詰めていこうと決心したのだ。
退職後、大熊は前出の槇が所属する声優・ナレーター事務所、株式会社シグマ・セブンに加わり、フリーアナウンサーとしての道を歩み始めた。初仕事は、ある企業の紹介VTR。
「原稿をもらってナレーションするわけですが、分からない言葉だらけで、全部をネットで調べてから臨みました。この歳でまた1年生からやり直している気分ですが、非常に新鮮で刺激的ですね」と大熊は朗らかに言う。
アナウンサーではあっても会社員であったが、「企業の仕事をするようになって、会社のことをわかっていなかったと自覚した」と大熊は反省する。
「今さらですが、学生時代にもうちょっとしっかり勉強していればなーと思うことはありますね」

画像:インタビュー中の大熊 英司氏 3

そんな大熊は、一橋大学の後輩たちに次のようなメッセージを送る。
「テレビ局のアナウンサーの仕事は、ニュース原稿を読むだけでなく、いろいろな人に会ってインタビューしたり、番組でタレントさんと絡むといったことも多くあります。そんな時に浅くても広範なことに知識や関心があると、より対応しやすくなります。私はその点で専門家の話を聞けるだけの学問ももっと勉強しておけば良かったとの思いはありつつも、アルバイトやサークル、麻雀やボウリングといろいろ遊んだこともどこかで役に立ったと思っています。ですから皆さんもよく遊び、よく学べば、きっとどこかで役に立つのではないかと思っています」