地域を元気にして巡る、自称"回遊魚"
- 社会起業家尾野寛明
2020年6月29日 掲載
高校時代から起業家を志し、一橋大学入学直後から学生仲間と"教科書リサイクル"ビジネスをスタート。有限会社エコカレッジを設立し専門書EC(Electronic Commerce=インターネット通販)に発展させ、最盛期は年商1億円を稼ぐまでに。その後、関心の赴くまま活動を地域活性化にシフトし、各地でまちづくり実践塾を運営するなど100以上の事業を主導する。自らについて「1か所に留まると死んでしまう、まるで回遊魚」とジョークを飛ばす"旅する社会起業家"の軌跡を辿る。(文中敬称略)
地域の未来をつくるローカルチャレンジャーを生み出す
「幸雲南塾」。この塾では地域で学びと実践の機会を繰り返すことを通して、地域の未来を切り拓いていく人材を育成している。尾野が2011年に島根県雲南市でスタートさせた。「地域を元気にしたい」「もっと住んでいて楽しいまちにしたい」「地域の課題解決を仕事にしたい」、そんな想いをカタチにし、地域の未来をつくるローカルチャレンジャーを生み出す。塾卒業生の活動は、仲間や地域を巻き込んで、地域の課題解決につながる動きや起業につながっている。
塾卒業生の中には、出雲市出身の矢田明子氏がいる。矢田氏の経歴にはNPO法人おっちラボ創設者/現副代表理事、Community Nurse Company株式会社代表取締役、島根県雲南市立病院企画係保健師、島根県総合発展計画策定委員という肩書が並ぶ。活動のコアは"コミュニティナース"の普及である。
コミュニティナースとは何か。Community Nurse Company株式会社のホームページには、次のように書かれている。
「職業や資格ではなく実践のあり方であり、『コミュニティナーシング』という看護の実践からヒントを得たコンセプトです。地域の人の暮らしの身近な存在として『毎日の嬉しいや楽しい』を一緒につくり、『心と身体の健康と安心』を実現します。その人ならではの専門性を活かしながら、地域の人や異なる専門性を持った人とともに中長期な視点で自由で多様なケアを実践します」
"普通の人ができるまちづくり"を追求する
社会保障費の削減が喫緊の課題である日本において、"未病"対策の重要性が叫ばれている。病気になってから医療機関にかかるのでは、遅い。病気の早期発見・早期予防が、医療費の削減や、何より本人や家族の幸せにつながる。そこで、街中を隈なく歩き回って住民とコミュニケーションを取り、未病対策を浸透させる存在が必要と、看護師でもある矢田氏が考え出した取り組みだ。矢田氏は今、全国各地を飛び回ってこの普及に努めている。
矢田氏は、幸雲南塾に参加した動機について次のように話している。
「すぐに起業するとか、ビジネスにつなげなくてもいいというキャッチフレーズに引かれました。私はもともと医療・福祉が専門で、普通のプログラムではできない、高齢者のための新しい健康づくりのカタチを探りたかったのです。以前から考えていたことでしたが、幸雲南塾の存在を知って、ここで刺激を受けてみようと。入塾して良かったのは、どんな分野であれ参加者はロールモデルに出会えること。『あっ、これならできそうだ』『自分のやりたいことに応用できる』といったモデルが見つかるんです。私もそういう刺激を受けて勇気が湧き、一歩踏み出すことができました」
そんな矢田氏を、尾野は「才能の塊」と絶賛する。
「このような人材であることを、本人も含めて誰も気づかなかったのです。幸雲南塾のような取り組みを現在全国20カ所以上で取り組んでいますが、矢田さんのような人材を一般の市民の中から掘り起こし、普通の人ができる地域づくりに繋げることこそ、私が最もやりたいことなのです」
こう尾野が強調する背景には、地域活性化事業ではうまくいかないケースをいくつも見てきたことがある。有名な地域活性プロデューサーを招き、補助金を使って注目を集めるようなイベントや施設、名産品などを企画する――。
「ところが、住民から同意を得られないケースが後を絶ちません。どこかの成功事例をそのまま当てはめようとするプランが多いからです。そうではなく、そのまちで暮らす普通の人が、そのまちに真に必要なプランを考え運営することこそが重要ではないか。私の問題意識はそこにあります」と尾野は力を込める。
米倉誠一郎教授との出会いと父の死が契機に
尾野が起業家を志す契機となった出来事が、二つある。一つは、高校3年生の2000年春。大学受験に向けて入った予備校で受けた、一橋大学の米倉誠一郎教授(現一橋大学名誉教授)の特別公開授業だ。
「米倉先生は『IT革命が世の中を変える。これからはイノベーションの時代だ』と力説されていましたが、その言葉や先生の存在感が衝撃的だったんです。こんな先生がいるのか、と。大学教授のイメージが激変しました(笑)。そして、それまでモヤモヤしていた自分の将来像が、起業家になるというクリアなビジョンに変わりました。また、そんな先生がいる一橋大学にも興味を持ちました」
インターネットが爆発的に普及し始めた2000年当時、株式会社サイバーエージェント(1998年創業)などのITベンチャーが集まりだした東京・渋谷周辺は"ビットバレー"と呼ばれ、起業熱を帯びるようになる。そして、"ITバブル"が発生――。そんな時代の空気を、尾野は米倉教授を通じて感じ取った。
商品が売れ続けるには、数学的にどういった戦略を立てればいいかというマーケティング・サイエンスに関心を持った尾野は、それを学ぶ商学部の国内最高峰は一橋大学であると感じ、第一志望とする。
もう一つの契機は、高校3年生の秋に父親が亡くなったこと。大手商社に勤めていた父親の姿を幼少期から見て、なんとなく自分も商社に勤めるようになると思い続けてきた。「しかし、父親が亡くなったことで、大企業に入るよりも自分の思うように生きてみろと背中を押されたように感じた」と尾野は述懐する。
入学直後から起業に向けて始動
2001年に現役で一橋大学商学部に合格した尾野は、早速米倉教授の「創造性開発フィールドワーク」という名物授業を履修する。身の回りにある課題を見つけ出して解決策を考えるという実践的な授業だ。「この授業でかなり鍛えられた」という尾野は、夏から起業に向けた行動を始める。予備校時代の仲間に声をかけ、どんなビジネスをするかについて意見交換を行った。そして「創造性開発フィールドワーク」で見つけた"教科書リサイクル"というビジネスアイデアを打ち出した。大学の教科書は高価であったが、学生は買わないわけにはいかない。その一方で、学生の経済的な負担は、小さなものではない。そこで、先輩学生から使わなくなった教科書を買い取り、後輩学生に売るというシンプルなビジネスモデルを考えた。尾野は「価値の下がりにくい専門書の古書売買にビジネスチャンスがある」とみていた。
そこで尾野は、まずは古書売買ビジネスを学ぼうと一橋大学の先輩が学生店長を勤めていた中古本販売チェーン店で、1998年の秋からインターンを始める。「その先輩店長は、学生でありながらチェーン店の坪当たりの売上ベスト5に入るほど大活躍していました。いろいろためになることを教わりましたね。店が忙しくて大学は中途退学されましたが、その後、その会社の人事部長の要職に就かれました」と尾野は話す。
行動力が評価され"優秀賞"を受賞
2001年の暮れ、尾野は手持ちの資金5万円で書籍を購入し、その後資本金300万円で有限会社エコカレッジを設立し、事業をスタートさせる。
「試しに、どこかの大学で実験的に教科書の売買をやってみようという話になりました。数人の塾仲間が入学した私立大学の学生が飛びつきそうだという結論に至り、2002年4月の入学シーズンに、チラシをつくってその大学の前で配布を始めたのです」
アルバイト先の学習塾の塾長から借りたワゴン車をその大学の前に横付けし、段ボールを20箱ほど並べて、「要らない教科書買い取りま~す!」と声を出し始めると、みるみる黒山の人だかりに。先輩学生から買い取るとすぐに後輩学生に売り、わずか2時間で11万円の売上になった。そんな一団が、大学当局の目に留まらないはずはない。
「何をしているんだ、やめなさいと怒られました。ワゴン車がレッカー移動され、取り戻すのにせっかく稼いだ自分の分け前がなくなりました(笑)」
その後、日本初の社会起業家ビジネスコンテスト「STYLE2002」に参加した尾野は、一連の経緯をプレゼンテーションする。
「この無鉄砲な活動の顛末がウケまして、優秀賞を受賞しました(笑)。ほかはMBA(経営学修士)的なかっこいいプレゼンテーションばかりの中、異色だった自分の発表に対し、まずは行動しようという姿勢が評価されたようです」
インドへ渡航、グローバルに就業経験を積む
勢いづいた尾野は、専門書ECを立ち上げて事業を加速させる。「面白いように売り上げが伸びていった」という状況に、管理が追いつかなくなった。
「その頃、このまま自分で事業を続け、会社に就職することはないだろうと感じていました。そこで一度、会社組織というものを経験しておこうという気持ちになって、会社運営を仲間に託し、2003年の春から1年休学してAIESECの海外インターンシップでインドのIT企業で就業体験を積むことにしたのです。少し事業から離れたいという思いもありました」と尾野は打ち明ける。
最初に採用してくれたという理由で、尾野はプネーにあるIT企業に入社する。プネーは、インド最大の都市であるムンバイの南東部に位置し、同国8番目の人口を擁する都市。世界各国からグローバル企業が進出し、バンガロールとともにIT企業が集積しているエリアとして知られる。そこの企業で尾野はマーケティングの仕事に就いた。
「マーケティングといっても、一日中Googleで日本企業のURLを検索しリストを作成するという仕事。グローバルビジネスの一端とはこんなものかと、感じつつもいい勉強になりました。また、ローカルスタッフとの協働には、プライベートで人間関係を深め、コミュニケーションをよく取らなければならないということも学びました」
シェアハウスで暮らした尾野は、世界中から留学してきたエリート学生たちと交流する機会を持つこともできた。「たわいもない話で盛り上がる中、大人しくて会話が不得意なドイツ人学生がいたが、彼は非常に優秀で仕事がよくできた。グローバルビジネスにおいては自己主張ができなければダメという思い込みがあったが、実力こそが重要だと知った」と尾野は話す。
関満博ゼミで"関ワールド"の面白さにどっぷり浸る
復学した尾野は、自らの事業運営と学業の"二足のわらじ"生活に戻る。「いろいろな人と出会うことにワクワクしていたため、退学することを考えた」と言う尾野は、一橋大学に入学したならばゼミは履修しておこうと思い留まり、3年次から関満博教授のゼミを履修することにした。同ゼミは、夏休みに地方企業を視察する共同研究プロジェクトのレポートが卒業論文代わりになると聞いたからだ。ゼミが始まると、尾野は"関ワールド"の虜となる。
「中小企業の後継者育成や地域産業振興の第一人者であった関先生は、各地から指導要請があり、先生について回ることが面白くて仕方ありませんでした。先生は何か所かで自治体と連携して経営塾を主宰していましたが、その中に町工場が集積する墨田区がありました。昼間は企業を視察して回り、夜は経営者たちと言葉を交わすわけです。その主力メンバーで、深海探査艇『江戸っ子1号』で有名になった株式会社浜野製作所という金属加工会社と知り合い、私は、『なんでもすぐやる課特命課長』という名刺をつくってもらい、そこでアルバイトをすることになりました(笑)」
特命課長の尾野は、小ロット短納期の加工を引き受けるWebサイトを立ち上げ、半年間で100件ほどを受注するなど貢献する。
「"関ワールド"にどっぷり浸りたかった」という尾野は、関教授の行き先を調べて現地に先回りするようになる。
「待ち伏せしたのです。同行させてほしいと頼んでも、自治体や企業との調整が大変で断られるからです。そんな先生を困らせてやろうという悪戯心もありましたが(笑)、行ってしまえば先生から『仕方ないなぁ』と言って帯同させてもらえると分かっていました。一連の同行では、大学の教室では得られない、生々しい中小企業経営の実態や活性化策について学べたと思います。現在の私の活動のベースになっていますね」
島根県川本町と出合い、事業拠点をシフト
そんな同行先の中に、島根県があった。関教授と同県に通い、県の産業政策を担当する部長クラスと話すようになった尾野は、斐川町(現・出雲市)の中小企業支援機関から仕事を頼まれるようになる。
「東京都庁でまちづくりに関わる部長などには会うことができなくても、島根では大いに歓迎してくれました。通ううちに、地域でこそ自分の価値を発揮したいと思うようになりました」
そうこうするうちに卒業が迫り、有限会社エコカレッジを運営する仲間たち全員の就職が決まっていった。後を託せる後輩を見つけることもままならなかった。会社をどうするかという問題が尾野に立ちはだかる。そんな折、たまたま島根県中央部の川本町と出合った。典型的な過疎の地域で、今から数年前に町唯一の書店が閉店したことを知った。夜、町長以下、町の人たちとの会合の場で、その書店を何とか復活させたいという話になった。
「勢いもあって、『自分は東京で本のECをやっていて1万5,000冊の在庫を持っていますが、倉庫代に困っていたんです。この在庫を持ってきたら面白いかな』などと口走ったら大いに盛り上がりまして。次の朝、町役場から電話が入り、『町長がお呼びです』と言われました。行ってみると、町長は『尾野先生!』と。『やめてください、夕べは尾野君と呼んでたじゃないですか!』ということになり(笑)。つまり、書店を私が復活させる話は冗談では済まなくなったというわけです」
町長から説得された尾野は倉庫代が東京の100分の1というメリットを享受することに決め、2006年秋に有限会社エコカレッジ の本社を川本町に移す。書店も復活させたが、専門書ばかりで来店客はほとんどない、売り上げの99%がECという店である。
また、尾野は合同会社を設立し、障がい者を雇用する就労支援作業所を立ち上げて、地域の伝統産業を伝承するものづくり業も始めた。
いくつもの肩書で、まちづくりに取り組む
しかし、会社経営に集中しきれない尾野に、専門書ECや就労支援作業所の管理を託していたメンバーから不平不満が出てしまう。
「自分は経営者には向いていないと、この時に悟りました。もう会社は譲渡しようと決めたものの、就労支援作業所しか引き取ってもらえませんでした。1億円ほどの在庫資産があるECは自分1人でやるしかなくなりました。そこで、当時奥出雲町の学校で授業を受け持つことになっていたので、発送作業などは週1回だけと決め、書籍の値段を3倍にして仕事量をセーブしつつECの継続を決めました」
その後、都会の若者を農村や離島に受け入れるツアーや耕作放棄地対策、民営図書館の運営支援、空き店舗活用アドバイザーなど多彩な活動に走り回った。東日本大震災が発生した2011年、島根県雲南市で「幸雲南塾~地域プロデューサー育成講座~」をスタートさせ、活動の主軸とする。
これまで、尾野に付いた肩書は、ざっと次のとおりだ。
有限会社エコカレッジ代表取締役。総務省地域力創造アドバイザー。島根県中山間地域研究センター客員研究員。海士町都市と農山漁村の新たな共生・対流システムの構築アドバイザー会議検討委員。江津市過疎地域ビジネス創業検討委員会委員。川本町商店街空き店舗再生事業アドバイザー。斐川町産業支援NPOアドバイザー。NPO法人農家のこせがれネットワーク理事。井笠広域観光協会アドバイザー。デジタルハリウッド大学非常勤講師(ソーシャルビジネス論)。島根リハビリテーション学院特任教員。NPO法人わがこと副理事長。NPO法人あした香る副理事長。
そんな尾野に、学生時代に経験しておくべきことについて尋ねた。長考してから、「ちょっとした遊び心、ですかね。知識や経験、人脈は当然培ってもらって仕事に役立ててほしい。でもいい仕事をする人は実力とちょっとした遊び心がある。それは会社員でも公務員でもいえること。そんな遊び心を培っていくのは学生時代にしかできないことかもしれませんね」と語った。
現在は、東京と島根を往復しながら仕事を行う。
写真は島根のオフィスで
ECによる専門書の販売、発送は尾野社長自ら行う