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病児の入院に付き添うママを、おいしい食事で笑顔にしたい

  • 特定非営利活動法人キープ・ママ・スマイリング 理事長光原ゆき

2020年1月15日 掲載

2人の娘が先天性疾患を持って生まれ、入院付き添い生活を余儀なくされた。やりがいを感じて打ち込んでいた仕事も、フルタイムワークは断念。長女は健康になったが、次女は満1歳を目前に、容態が急変して亡くなってしまう。11か月という短か過ぎた次女の人生を無駄にしたくないとの思いからNPO法人を設立。娘たちの入院によって経験した付き添い家族の過酷な生活環境を改善することを目指し、おいしい料理で応援する活動を始めた。そして今、もっと多くのママが笑顔で病児と向き合うことができるように、この活動を事業化するフェーズを迎えている。(文中敬称略)

光原ゆきさん プロフィール写真

光原ゆき(みつはら・ゆき)

1974年、東京都生まれ。1992年、一橋大学商学部経営学科入学。1996年に卒業後、株式会社リクルート入社。さまざまなウェブメディアのプロデュース、人事、ダイバーシティ推進に従事。先天性疾患を持つ娘を亡くした経験から、2014年に就業の傍らNPO法人女子カラダ元気塾(現・キープ・ママ・スマイリング)を設立。2018年12月よりNPO活動に専念。

次女が生きた11か月を意味のあるものに

あと1か月で1歳だったのに――。生まれてすぐに手術を受け、その後も入退院を繰り返した次女は、入院中に寝返りがやっとできるようになったと喜んだ翌日、容体が急変した。「"絶望"という言葉の意味を、この瞬間に知った」と光原は振り返る。
子どもがいなくなれば、育児休暇も終わる。1か月間の有休休暇を申請した光原は、泣き暮れた。次女が生きた11か月の意味は何だったのか、ひたすら自問自答を繰り返す。そして、次女に付き添うつもりだった時間がポッカリ空いたことに気づいた。
「いつまでも泣いてはいられない、次女のために使うと決めていた時間を使って何かを生み出すことが、次女が生きた11か月を意味のあるものにすると思えたのです」。
これが、NPOを設立し現在の活動を始める契機となった。

キャンパスに一目惚れをして一橋大学に

画像:インタビュー中の光原ゆきさん 1

高校時代のこと。これといってやりたいことが見つからなかった光原だったが、一橋大学のキャンパスに一目惚れをした。理系が得意だったこともあり、数学の配点が高い商学部を受験、合格する。

経営学や経済学の授業は、具体的にイメージができず難しいものが多かったという。「ビジネスを何年も経験した今なら、面白く感じられるだろうけれど。当時は授業にあまり熱心ではなく、決していい学生とは言えませんでしたね」と話す。
一方、精を出したのは高校3年生の受験指導を手がける塾講師のアルバイト。年がほとんど変わらない高校生に授業をするだけでなく、一人一人の進路相談にも乗りサポートした。教えることも好きだったが、志望校に合格したと報告をくれた生徒と喜びを分かち合える瞬間も嬉しく、アルバイトにのめり込んだ。

自分らしく働けそうとリクルートに就職

そんな光原でも、就職活動に際しそのまま塾講師となる道は選ばなかった。大きな組織で自分の力を試したいという思いがあったからだ。就職活動では金融業界を中心にOBOG訪問をしていたが、偶然リクルートを知り興味を持つ。
「出会う人全てがエネルギーに溢れ魅力的で、自分も自然体で背伸びせずに話ができ、内定をもらいました。この会社なら自分らしく働けそうだと思えて入社することにしたのですが、何をやっている会社なのかまったく分かっていませんでした(笑)」
入社した1996年は、yahoo! Japanが設立された年であり、時代はインターネット黎明期。リクルート社が紙媒体からウェブメディアへのシフトを推進する部署への配属となった。パソコンに縁がなかった光原だが、ウェブメディアのプロデュースや広報、プロモーション業務などで活躍する。

想像もしていなかった"病児を育てる母親"に

男女を問わず、そして若手にも身の丈以上の仕事を与えてくれる環境で、やりがいのある仕事に没頭していた光原。子どもを授かっても以前と変わらずキャリアを積んでいくことしかイメージしていなかった。35歳で第一子を妊娠した時も、医療サイトの編集長を担っていたため、出産したらすぐに復職するつもりでいた。「上司にも、『産休が明けたら戻りますから後任は置かないでください』と頼んだほど」と言う。ところが、産んだその日に長女は新生児集中治療室に搬送される。ワーキングマザーとしてバリバリ働く未来が、全く想像もしていなかった"病児を育てる母親"として過ごすことになろうとは......。「もう復職できないかもしれない」と呆然となった。
長女は生後1週間目のクリスマスの日に8時間に及ぶ大手術を受ける。そのかいあって、半年後には退院し、保育園も見つかって復職を果たした。長女の通院や保育園通いと仕事を両立させながら、生活は少しずつ落ち着いていった。

有名私立大学病院でも前例がない難病

そして、3年後に次女を授かった。しかし、妊婦健診で、またしても先天性疾患を抱えていることが判明した。都内の有名大学病院でも手術の前例がないといわれる難病だった。「どうして健康に産んであげられないんだ、と自分を責めた」と光原は打ち明ける。医師から「手術をして命は助かったとしても、障害が残る」と告げられ、娘に寄り添って生きていく覚悟をした。しかし、次女は入退院を繰り返しながら11か月を懸命に生き、そして逝った。
産休前、光原は赤ちゃんグッズ通販雑誌の編集部で、赤ちゃんモデルの写真を豊富に掲載した誌面をつくっていた。撮影に光原も立ち会っていたため、愛児を亡くしたばかりの身には残酷な時間となることは明白だった。
「上司に相談すると人事部に異動となりました。人材育成や組織活性、そして、ダイバーシティ推進というポジションを得て、プレママやママとの面談も多く、若い女子社員の母親的な存在として今までの自分の経験を活かせているという実感もありました。」

※ダイバーシティ=多様な人材を積極的に活用し、企業の発展や活性化に向ける取り組みのこと。

母親の付き添いは考慮されていない状況

結局、2人の娘は最良の治療を求めた結果、計6つの病院に合わせて1年以上、入院したことになる。光原は可能な限り娘の傍らで過ごし、人手の足りない小児病棟で娘にミルクを与えたり、オムツ換えをして尿量を計測したり、娘の体調の変化を医師や看護師に細かく説明するなど診療のサポートに努めた。
しかし、小児病棟は病児の治療が第一義にあり、ましてや完全看護を前提としているので、基本的に母親の付き添いを考慮した対応になっておらず、その対応は病院によってもまちまちだ。ある病院では母親の食事を有料で提供し、シャワー室も自由に使うことができた。しかし、別の病院では病室ごとにシャワー室が備えられている一方、食事の提供はなし。また、別の病院では食事の提供もシャワー室もなく、近所の銭湯の地図が渡されるだけという状況だった。

「温かいご飯とお味噌汁が食べたい」と願う日々

「夜、寝返りもできないような狭い簡易ベッドに横になっても、医療機器の電子音がずっと鳴りっぱなしで、点滴の確認などに看護師さんが何度も来ます。満足に寝てなんかいられません。昼間もただでさえ乳児は目が離せないのに、病児の場合は酸素吸入が外れていないかとか、点滴は詰まってないかとか、気にしなければならないことが多いのです。トイレに行くことさえままならないのに、銭湯に行ったり食べ物を買いに行ったりする時間をつくることが、物理的にも精神的にも大変でした。こんな付き添い生活の中で一番辛かったのが食事でした。コンビニのおにぎりやお弁当ばかりの日々。せめて野菜不足を補おうと、おでんの大根を食べるなど、ささやかな工夫もしましたが、温かいご飯とお味噌汁が食べたいってずっと思っていました」

"負"の解消が活動の原点に

リクルートのビジネスは、世の中に存在する"負"を見つけ、そのギャップを解消する情報を提供することでマネタイズにつなげるという"基本パターン"がある。そんな思考回路が身についていた光原は、入院付き添いのなかで、こうした小児病棟の実情を世の中に知らしめることで、"負"の解消につなげられないかと考えた。
「病院によって付き添い者の置かれる環境に差があることを知っているのは、6病院も経験した自分ぐらいなのかもしれないと。患者の命を救うことが最大の使命である病院を咎めることではない。けれども、母親の笑顔が闘病に対する病児の励ましや支えになることも、また確かな事実なのです。付き添い者の生活環境の過酷さは、医療の隙間に落ちた課題だと思いました。次女のために使うはずだった時間を使って何かを生み出そうと考えた時、この"負"をなんとかよい方向に変える活動をしたい、と思い立ちました」

※マネタイズ=ネット上の無料サービスから収益につなげること

おばんざい屋さんの思いに支えられる

画像:インタビュー中の光原ゆきさん 2

活動のヒントはあった。京都の大学病院で次女が手術を受けた時のこと。入院した2カ月間、友人知人のいない同地で光原は、付き添い家族が泊まれるファミリーハウスで過ごした。手術後、新生児集中治療室に入った次女とは1日3回、30分ずつしか面会できない状況となり、光原は時間を持て余した。
「おいしいごはんを食べようと、近くのおばんざいを出すお店に食事に行きました。そこで、久しぶりに温かい手づくりの料理をいただいて、本当に体に染み入るようなおいしさで。毎日昼も夜も通い始めたのですが、3日目ぐらいに不審に思ったのか、店長から『ずっと来てるね。近くに引っ越してきたの?』って聞かれたのです。事情を話すと、『うちの娘も去年入院したから、大変さは分かる』と。それで、『毎日お弁当を届けてあげるから、何個いるか電話して』って言ってくださったのです。もう、嬉しくて。さっそく仲良くなっていた小児病棟のママたちからオーダーを集めて注文すると、店長の息子さんが病棟の入り口まで毎日届けてくださいました。その日から私たちのQOLが急上昇しました。温かなご飯と思いに支えられたのだと思います」

※QOL = Quality of Life(生活の質・人生の質)

NPO法人を設立、活動を始める

リクルート在職時の2005年頃に医療サイトを立ち上げ、編集長を務めていた光原は、知見を広げるために東京大学医療政策人材養成講座に通ったことがある。そこで出会った医療提供者、政策立案者、患者支援者、ジャーナリストたちは、どの人も医療に対する志を持ち、長女と次女の闘病時期だけでなく、NPO設立から今に至るまでさまざまな面で支えてもらっているという。NPO法人女子カラダ元気塾(現:キープ・ママ・スマイリング)も、この講座で出会い、光原の思いに共感してくれた仲間が中心となって設立にこぎつけることができた。2014年のことである。
NPO設立後、具体的に何から活動を始めるかを考えていたある日、日本マクドナルド社が社会貢献活動として支援している付き添い家族が滞在するための「ドナルド・マクドナルド・ハウス」を訪問する機会を得た。すると、その日の夕食を提供するためにキッチンで調理をしているボランティア団体がいた。

三つ星レストラン経験のシェフが協力

「その様子を見て、これだ!と思ったのです。私自身は、まったく料理が得意ではないけれど、料理上手な友人たちに手伝ってもらえれば、温かい食事を提供できると感じたのです。そこでドナルド・マクドナルド・ハウスに夕食ボランティアの申し出をしました」
活動開始に当たって、光原は力強い援軍を得る。ニューヨークの三つ星レストラン「Jean-Georges」で日本人初のスー・シェフ(副料理長)に抜擢された後、「ジャンジョルジュ東京」の開店から料理長として活躍し、2018年から青山のレストラン「The Burn」の料理長に就任した米澤文雄氏だ。光原の団体の理事を介して知り合い、ボランティアでメニュー作成や料理指導をしてもらえることになったのだ。

「おいしい料理から元気をもらえた」と笑顔に

こうして2015年7月から「ドナルド・マクドナルド・ハウスせたがや」で原則月1回、滞在者に夕食を提供する「ミールプログラム」の活動をスタートさせた。野菜不足に悩まされた自身の経験を米澤氏に伝え、季節の野菜をたっぷり使った食事になるよう、メニューにはこだわっている。こんな夕食を食べたママたちからは「野菜が多くて温かい食事は久しぶり」「おいしい料理から元気をもらえた。看病がんばります」といった感想が多数寄せられ、その向こうにママたちの笑顔が見えるような気がして、光原は何よりも嬉しいという。
また、長女の付き添いの際、大学病院の個室で年越し蕎麦もおせち料理もない侘しい年末年始を過ごした経験から、大晦日は必ずボランティアスタッフと一緒に年越しそばとおせち料理を作り、年末年始も入院を余儀なくされる付き添い家族へ届けている。そのほか、学校が長期休みの時期には、管理栄養士の指導のもと看護学科や食物栄養学科の大学生とともに「中高生ミールプログラム」を実施し、中高生の初めてのボランティアの機会となっている。さらに2018年1月からは、聖路加国際病院小児病棟でランチの提供もスタートしている。

ボランティアスタッフの方たちと撮った写真

ボランティアスタッフとともに

シェフ料理の缶詰「ミールdeスマイリング」を開発

活動を始めて4年、これまでに食事を提供した人数は延べ2000人を超える。しかし、もっと多くの付き添いママに食事を届けられないかとの思いはずっと抱えていた。また、聖路加国際病院で配布しているようにお弁当を届けたいと相談をしたある病院からは「衛生面の観点でお弁当配布は難しい」と断られた。そんな時に、「100個単位の小ロットでも缶詰をつくってくれる会社」との出会いがあった。
「米澤シェフのつくるメニューを缶詰にすれば、衛生面も問題がなく、また常温で保存できるために全国の小児病棟においしい料理を届けられるとひらめきました。さっそくシェフに相談すると賛同してくださり、全国の小児病棟で付き添うお母さんにオリジナルの缶詰をつくって配布するプロジェクトが動き出しました」
2018年夏に缶詰の試作品づくりに着手。お母さんをおいしい料理で笑顔にしたいという思いを込めて、この缶詰を「ミールdeスマイリング」と命名する。米澤シェフによる4種類のメニューは缶詰とは思えない味に仕上がり、予想以上においしかった。光原はこれなら喜んでもらえると思ったものの、製造資金が足りず見切り発車になるおそれがあることに気づく。
「こういう時、決まって見えない力が助け船を出してくれるのです。日本財団さんの助成金を頂くことが決まって。まさに救世主でした」

米澤シェフと光原ゆき氏

米澤シェフが開発に尽力してくださった缶詰「ミール de スマイリング」。
この缶詰を使って作る料理レシピの提供も行っている。米澤シェフとともに

持続可能な活動とするためNPOに専念

この助成金と寄付金で4種類の缶詰を1000缶ずつ製造することができた。しかし、それも全国の小児病棟に配布するとなれば、在庫はすぐに尽きてしまう。持続可能な活動とするためには、助成金や寄付金だけに頼っているわけにもいかない。ここで光原の腹は固まった。22年間の会社員生活にピリオドを打ち、NPO活動に専念することを決めたのだ。
「『ミールdeスマイリング』を商品化して、企業や一般にも販売しようと考えました。まずは企業。災害時の備蓄品として置いてもらえないか、と。賞味期限が切れる際にも、この缶詰ならレストランの味として従業員が喜んで持ち帰ってくれると思うのです。一般的な備蓄食品は廃棄されるケースが多いと聞いていますが、これならそのようなムダを出さずに済みます。

自らの活動はいずれなくなることが理想

現在、原価は1缶500円ほどかかるから、いわゆる"高級缶詰"だ。しかし、病児ママが笑顔で子どもに向き合えることに価値を感じる企業が支援してくれることを、光原は願っている。
一般に広めるためにも、缶詰にひと手間をかけ、おいしい料理に早変わりさせるアレンジレシピを米澤氏と開発。また、缶詰にとどまらず、レトルトタイプの保存食も開発を開始した。
「2020年から活動持続のための法人営業活動を本格化させます。その際にも、いろいろな企業や団体、個人と協働し、活動を広げていきたいと思っています。ファンドレイジングにも力を入れます。関心のある方はぜひご連絡ください」と光原は呼びかける。
最後に、この「おいしい料理で入院付き添い家族を応援する」活動は「いずれなくなることが理想」と口にした。
「私たちの活動を知って、それぞれの病院が付き添い家族への食事提供を始めるなど、付き添い者の生活環境がよりよくなることが目指す世界。その時、私たちの役割は終了です」

※ファンドレイジング=民間非営利団体などが活動する上で必要となる資金を集めること

画像:「ミールdeスマイリング」とパンフレット

レストランの味が味わえる缶詰「ミールdeスマイリング」と活動普及のためのパンフレット

NPO法人 キープ・ママ・スマイリング http://momsmile.jp