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渋沢栄一の思想を忠実に実践、誰もが活躍できる企業をつくる

  • 三州製菓株式会社代表取締役社長斉之平伸一

2019年3月20日 掲載

斉之平 伸一氏プロフィール写真

斉之平 伸一(さいのひら・しんいち)

1948年東京都生まれ。1971年一橋大学経済学部卒業後、松下電器産業株式会社(現・パナソニック株式会社)入社。1976年松下電気産業を退社し、家業である三州製菓株式会社に入社、1988年同社代表取締役社長に就任、現在に至る。埼玉県経営者協会副会長、社会福祉法人子供の町理事長、埼玉県物産観光協会理事、埼玉県道路公社理事、埼玉いのちの電話後援会理事、彩の国工場振興協議会幹事などを務める。元埼玉県教育委員会委員長。著書に『脳力経営』(致知出版社)、『3倍「仕事脳」がアップするダブル手帳術』(東洋経済新報社)などがある。

終戦直後に米菓の製造販売業として創業した、三州製菓株式会社。2代目社長の斉之平伸一(1971年経済学部卒業)は、渋沢栄一やピーター・ドラッカー、松下幸之助の経営思想や理論を学び、同社を成長軌道に導く。それとともに、経済産業省「ダイバーシティ経営企業100選」や「APEC女性活躍推進企業50選」などに選定されるような女性活躍企業への変革を進めている。児童養護施設支援や、地元・埼玉県の教育活動にも身を捧げ、渋沢の「論語と算盤」「公益と私益」「義利両全」などの思想を忠実に実践する、斉之平の人間像に迫る。(文中敬称略)

経営者を目指して一橋大学へ

1948年に東京都文京区に生まれた斉之平は、「子どもの頃から、父親の会社を継ぐという意識があった」と述懐する。そこで、大学は"経営者を養成するトップレベルの大学"というイメージのあった一橋大学経済学部を迷うことなく選んだ。
学生時代の4年間は、文京区の自宅からの通学は大変だと大学近くにアパートを借りた。「思い出といえば、ヨットやゴルフの同好会仲間と遊びに行ったこと。自分なりに楽しい4年間を過ごしました」と話す。
その一橋大学で、森有礼が1875(明治8)年に設立した商法講習所が一橋大学の源流であり、その後、渋沢栄一が大学を支援してきたと知る。「大学の歴史の中で渋沢が大きな貢献を果たしたことを知り、関心を持ちました」と斉之平は振り返る。家業の三州製菓が当時、渋沢の出身地である埼玉県に工場を構えたことも、渋沢の存在を身近に感じさせた。渋沢について学ぶうちに、渋沢を「プロフェッショナルとしてのマネジメントの必要性を世界で最初に理解した」人物として評価したピーター・ドラッカーにも関心を持つ。さらに、経営者を目指す斉之平は、"経営の神様"と呼ばれた松下幸之助の経営を実地で学ぼうと、卒業後に松下電器産業(現・パナソニック)に就職した。
この3人の経営哲学や経営理論が、経営者としての斉之平のバックボーンとなった。3人には"人(社員)を大切にする"ことと"私益より公益を重視する"という共通の考え方があることに気づき、自身の経営の信条とした。斉之平は1976年に三州製菓に入社し、1988年、40歳で2代目の社長に就任する。以来、今日までこの2つの信条は斉之平の経営を貫く基軸となっている。

多品種少量生産でニッチ市場に集中し成長軌道へ

斉之平 伸一氏の写真

斉之平が入社した当時の三州製菓は、従業員40人前後・売上高6億円程度の小規模の米菓メーカーだった。経営状態は良好とはいえず、黒字と赤字を繰り返していたという。そこで、営業担当者にインセンティブを支給してやる気を引き出そうとしたが、ほぼ空振りに終わった。自分自身も営業活動に取り組んだ斉之平は、数年して業績が上がらないのは営業担当者のやる気の問題ではないことに気がついた。
「当時の営業先は菓子問屋が8割ほどを占めていました。商品はそこからスーパーマーケットなどの量販店やコンビニエンスストアに流れていました。しかし、このルートは大手メーカーともろにぶつかっていたのです。大手企業に選ばれる決め手は、価格です。中小企業の当社は価格で太刀打ちできません。当社の営業担当者は非効率的な営業で苦戦を強いられ、疲れていました。インセンティブでどうにかなる問題ではなく、マーケットの構造的な要因があったのです」
斉之平は、ドラッカーの理論に解を求めた。『経営者の条件』に「成果を上げるための秘訣を一つだけ挙げるならば、それは集中である」と書かれている。「ならば、不利な量販店・コンビニエンスストア市場は捨てて、残りの2割に集中したらどうか」と考えた。その2割とは、全国に点在する和菓子の専門店ルートだった。それらの望む味や形の煎餅やあられを生産したり、三州製菓オリジナルの商品をつくり直接卸すのだ。典型的な多品種少量生産となり、大手は手を出さない。かつ、ニッチな市場となるので、トップシェアを取れば高い利益率も期待できる。幸いなことに、斉之平のこのニッチトップ戦略に、社長であった父親は同意してくれた。
「しかし、現場の社員からは大反発を受けました。営業担当にしてみれば、これまで苦労して築いてきた問屋との関係を中抜きによって壊すことになり、製造担当にとっては多品種少量生産は作業量が増えて負担になるからです」
そんな状況を懸念した父親は、営業先の選定などを慎重に行うように意見し、斉之平は10年ほどの時間をかけて徐々に市場の切り替えを図っていった。それとともに、売り上げや利益は伸びていったという。

女性が発想したヒット商品「揚げパスタ」

揚げパスタの写真

和菓子専門店ルートが順調に軌道に乗り始めると、今度はテーマパークに着目。さらに、駅ナカや空港の販売店といったニッチなチャネルを増やしていった。こうして、同社の経営戦略の柱となる"マルチ・ニッチ・トップ戦略"が完成する。この戦略を現場で支えている主役は、女性社員たちだ。
同社の強みは、この戦略を実現させる商品の企画力や提案力にある。「新商品がつねに売り上げの30%を占めるという目標を掲げ、パフォーマンスを評価、確認し、売り上げシェア2%以下の商品は製造をストップするルールも決めて半期ごとに全商品の売れ行きを確認し、新陳代謝を図っています」と斉之平は言う。次の年に同じような新商品は出さない。企画のポイントは、北海道から沖縄までの各地にある名産品を材料として使用したり、それぞれの卸先専門店のコンセプトに合う商品やパッケージのデザインの工夫、さらにクリスマスや正月、花見といった季節に合った商品を企画するといったもの。
こうした商品づくりを手掛ける商品企画室のメンバー15人は、全員女性が占める。その大きな理由は二つ。一つは、店頭で商品を購入する顧客の大半が女性であること。女性が興味を示す商品を考えるのに、女性の視点は欠かせない。もう一つは、女性の発想力に期待したのだ。
「男性は、煎餅という枠の中で考えようとする傾向が強いのですが、女性はそんな枠を自由に超えて発想できるのです。その最たる例が『揚げパスタ』です」
埼玉県の渋沢栄一ビジネス大賞特別賞を受賞した『揚げパスタ』は、女性社員がイタリア料理にヒントを得て開発した、揚げたパスタにトマトやチーズ、えび塩、黒胡椒など9種類の味をつけたスナック。2001年の発売当初は販売に苦戦したものの、「煎餅の味や形を変えるのとは異なる、未知の分野へのチャレンジ」と改良を続ける方針を打ち出す。「一度に食べ切れる量にしてほしい」といった顧客の声を聞きつつ味のバリエーションを増やし、機械を改良して軽い食感を増すなどの努力を続けた。こうした結果、2006年頃から売れ始め、現在では売上高の10%を占める主力商品に成長している。

主体性を養う「一人一研究制度」

こうした商品開発力を高めるために、1995年に「一人一研究制度」を始めた。ここにも、ドラッカーの「組織は、優秀な人たちがいるから成果を上げるのではない。組織の水準や習慣や気風によって自己開発を動機づけるから、優秀な人たちを持つことになる」(『経営者の条件』)との考え方が反映されている。この制度は、いわば"夏休みの自由研究"。テーマは、会社の業務に関わることだけでなく、個人的なことでもかまわない。現に、2007年度にはダイエットに成功した社員がそのプロセスをプレゼンテーションし、金賞を受賞している。斉之平自らも、「熟成玄米のおいしい炊き方」を披露して盛り上げた。「目的は、社員の創造性を高めること。テーマを押し付けては、"やらされ感"を覚えていいアイデアは出ない。あくまでも自由に楽しく発想してもらい、いいアイデアを出す習慣を身につけてもらえれば、自ずと業務でも創造性を発揮してもらえるのです」と斉之平はその狙いを語る。
商品開発などへの積極的な女性活用は、同社の経営方針の最たる特徴となっている。2019年1月現在、235人の社員に占める女性の割合は73%。女性管理職は25%、役員は半数に及ぶ。女性管理職については、2020年までに政府が掲げる目標比率の30%を超える35%に定めているが、達成は必至の情勢だ。同社が女性活用先進企業であることは学生にも知られることになり、就職の会社説明会に参加する学生の80%近くを女子学生が占めるという。斉之平は女性を活用し始めた理由について、次のように話す。
「私は埼玉県の教育委員会委員長等を務めたことがあるのですが、小学校に行くと一番前に座っているのは大抵女の子で、校長先生に聞くと女の子のほうが成績が良いというわけです。学力や積極性で、女の子のほうが勝る。にもかかわらず、社会に出ると女性社員は男性社員の補佐役に回ることが多いですね。日本の女性管理職の割合は、OECD諸国で最低レベルです。女性がもっと活躍できれば本人の自己実現につながるし、国全体にとってもプラスです。女性の潜在能力を発揮させれば、会社を成長させる大きな力になることは間違いない。ならば、当社を女性が活躍できる企業にしようと決意したのです」

女性が長く活躍できる諸制度の工夫

卓上に並ぶ表彰楯

女性が長きにわたって職場で思う存分活躍できるようにするためには、出産や育児、介護といったライフステージごとに柔軟に対応する就労環境が不可欠だ。そのための制度づくりに力を入れている。まず、結婚や出産で離職しても、その後の再入社も歓迎している。職場復帰した社員は、制度導入当初は、子どもが小学校に入学するまでフレックスタイム制度や1日6時間の短時間労働制度、所定外労働免除を利用できるようにしていたが、社員の要請を受けて小学校3年生まで利用できるように改正している。
パートとして職場復帰しても、やる気や能力次第で正社員に再登用する。実際に、アルバイトから課長クラスの管理職まで昇進し、定年退職した女性社員もいる。
ユニークなのは、「一人三役制度」。いわゆる "多能工"制度だ。1人の社員が、現在の担当以外の2つの業務も担当できるようにスキルを身につけることで、子どもの発熱などで急に帰宅しなければならなくなった時に、ほかの社員がカバーできるようにする狙いがある。副次的に、有給休暇を取得しやすい環境が醸成され、仕事を1人で抱え込まずに済むようになって残業時間の削減にもつながった。
しかし、こうした制度は得てして"掛け声倒れ"に終わりかねない。そこで同社では「一日一善活動」も併せて行っている。これは、お互いにどのようにカバーし合ったかを毎日の朝礼で発表し、その内容をイントラネットにアップして全社で共有するというもの。さらに貢献度の高い社員は毎月表彰している。
「これらの取り組みで、社内に"お互いさま"と助け合う文化が形成されていきました」と斉之平は相好を崩す。そのほか、「ノー残業デー」や「残業申請制度」など、一般的な制度も併用している。
こうした一連の取り組みと成果が高く評価され、同社は経済産業省「ダイバーシティ経営企業100選」及び、その中の25社しか選ばれない「ホワイト企業-女性が本当に安心して働ける会社」に、さらに「APEC女性活躍推進企業50選」(日本企業は5社)に選定された。そのほか、斉之平は、経営者として男女共同参画社会づくり功労者内閣総理大臣表彰、女性活躍推進法に基づく認定制度の「えるぼし」の三ツ星認定などを受けている。

渋沢の「合本主義」を実践する全員経営

どうしても"女性活用"に光が当たってしまうが、「すべてのものを真に活かす」という社志と「人が真に活きる経営を追求する」という社訓を掲げてダイバーシティ経営を実践する同社が活用するのは、女性に限った話ではない。社員の定年を、渋沢栄一が第一国立銀行の頭取を退いた77歳に変更し、シニアの活用にも取り組む。さらに「現在まで外国人社員を雇用した実績はありませんが、今後はその可能性も大いにあります」と斉之平は言う。
もう一つ、斉之平が志向するのは"全員経営"だ。そのために、経営理念や経営方針、財務数値、目標管理、人事考課、年間スケジュール、各社員の強みといった内容を盛り込んだ「システム手帳型事業計画書」を全社員に配付。また、任意参加であるが、「クレームゼロ委員会」「環境整備委員会」「安全衛生委員会」「IT委員会」「シスター&ブラザー委員会」といった13もの委員会を立ち上げ、部署を横断して活動している。年度初めに目標や活動計画を発表し、PDCAサイクルを回す形で活動し年度末に成果を報告するというものだ。これにより、社員の主体性や実行力を養い、ボトムアップで会社運営に関わる機会をつくっている。
ボトムアップという点では、社長が一番下で、その上に管理職ならぬ"支援職"、その上に一般社員、そして一番上に顧客を置く"逆ピラミッド"型の組織図を作成して社員にそのことを意識させている。管理職を"支援職"と呼ぶ理由を、斉之平は次のように説明する。
「"管理"というと上からコントロールされるイメージがありますが、当社には馴染みません。そうではなく、社員の活躍を支援するのが仕事であるという考えから、"支援職"と呼ぶことにしています」
この"全員経営"は、斉之平による渋沢の「合本主義」の一つの実践である。「合本主義」とは、資本家が短期的な利益を追求しがちな資本主義に"人本主義"の要素を加味することで、長期的に利益が社会全体に行きわたるような経営の在り方を提唱したものだ。

"晩晴を貴ぶ"精神で社会福祉活動に邁進

斉之平 伸一氏の写真2

前述のとおり斉之平は渋沢栄一の経営思想に私淑し実践を続けており、2015年に埼玉県の渋沢栄一賞を受賞している。渋沢の有名な思想としては、「論語と算盤」「公益と私益」「義利両全」などがある。道徳と経営は合一すべきで、経営で得た収益は私欲を満たすためだけでなく、社会貢献にも使うべきとの考え方だ。斉之平は、社業の傍ら、というよりも社業の多くを専務以下に任せ、社会福祉法人子供の町理事長や埼玉県の教育委員会委員長(2013年に委員長は離職)として、活動を続けてきた。斉之平は、時に私財を施設の運営資金に充てながら、その運営を見守っている。
「『論語と算盤』や『公益と私益』『義利両全』は、いずれも実践していくうちに世の中が良くなって、巡り巡って自分にも返ってくるという考え方です。私益を優先すれば、どうしても貧富の差が拡大し、ギスギスした世の中になってしまいます。そうではなく、性別や年齢、学歴など関係なしにすべての人が活躍し豊かになれる社会になれば、国全体が幸福になると思うのです。渋沢は、夕陽が没する時に素晴らしい光を放つことにたとえて『晩晴を貴ぶ』と言っていますが、70歳の私は、そんな世の中に少しでも近づければと考えて、渋沢の思想をこれからも実践していきたいと思っています」と斉之平は言う。そういった生き方のほうが、人として豊かで充実感が味わえると斉之平は実感している。
しかし、渋沢栄一が没して90年近くが過ぎ、その名前を見聞きする機会は少なくなっていく一方だろう。「だからこそ、渋沢によって守られた一橋大学に関わる学生や卒業生、教職員などすべての人は、渋沢の功績を語り継いでほしいですね」と斉之平は力説する。
「渋沢については、出生地の深谷市ではテキストを作成して小中学校の生徒に教えています。それ以外、渋沢の功績を承継するのは渋沢栄一記念財団と一橋大学ぐらいではないかと思います。ぜひ、その認識を新たにしてもらえればと願っています」と斉之平は力を込める。