新たな産業の創造者を夢みて一橋大学の門をたたいた
- 株式会社ダイテックホールディング 代表取締役社長 ファウンダー&CEO堀 誠氏
2013年夏号vol.39 掲載
ガソリンスタンド向けのPOSシステムや建設設備業向けのCADソフトというニッチな分野でトップシェアを占める株式会社ダイテックホールディング。同社を創業した堀誠は、1958年に「キャプテンズ・オブ・インダストリー」に惹かれて一橋大学に入学した。一代で年商約160億円の企業グループを育て上げ、今では科学・芸術振興への支援にも情熱を注ぐ。そんな堀の横顔に迫る。(文中敬称略)
堀 誠
1937年生まれ、1962年商学部卒。株式会社ダイテックホールディング、代表取締役社長・ファウンダー&CEO。公益財団法人堀科学芸術振興財団理事長。同財団が運営する堀美術館には、三岸節子、梅原龍三郎ら昭和初期にパリに留学し、日本的な洋画を生み出そうとした芸術家たちの作品並びに東山魁夷、杉山寧、加山又造など近代日本画の傑作が展示されている。
実学を学ぼうと商学部を選択
企業創業者では北浜銀行(現・三菱東京UFJ銀行)の岩下清周、「海運王」と呼ばれた内田汽船の内田信也、各地に水力電気会社を興し、二葉亭四迷の長編小説『浮雲』のモデルとなった大田黒重五郎、皇后美智子さまの祖父でもある日清製粉の正田貞一郎ら。財界首脳経験者では、日本興業銀行(現・みずほ銀行)の頭取・会長を務め「財界の鞍馬天狗」の異名を取った中山素平や、日本経団連初代会長を務めた元トヨタ自動車社長・会長の奥田碩ら。そして「中興の祖」と呼ばれる数々の名経営者など、創立期から一橋大学が産業界に送り出してきた人材は枚挙に暇いとまがない。まさに、建学の理念「キャプテンズ・オブ・インダストリー」の体現である。ここで紹介する堀誠も、創業者となることを志し、この理念に共鳴して一橋大学に進学した1人だ。
1937年に名古屋市に生まれた堀は、地元の愛知県立明和高校に進学する。
「父親は医者でしたが、遠い親戚に一橋大学を卒業し実業家になっていた者がいたこともあって、一橋大学の名前はよく知っていました」と堀は述懐する。進学先の大学は偏差値で決められてしまうようになって久しいが、「自分のやりたいことにプラスになる大学に進みたかった」と、経営者になりたいと願っていた堀は「キャプテンズ・オブ・インダストリー」に惹かれて一橋大学を選んだ。そして、実学中の実学と考えた会計や簿記を学ぼうと商学部を選択する。
「学生運動が盛んな時代であまり勉強に身が入るという雰囲気ではなく、さりとて学生運動にも特に参加しませんでした。国立や小平など知り合いの下宿を転々とし、友人にも恵まれましたが、総じて平凡な学生だったと思いますよ」
東芝に就職。配属希望は「名古屋工場の経理」
卒業後は、「将来の創業にプラスになる企業で働きたい」との強い思いで東芝に就職する。「メーカーの原価計算や会計ノウハウを身につければ、会社経営で怖いものはない」という考えがあったのだ。そして、配属希望を聞かれた堀は「名古屋工場の経理」と回答し、希望は叶うこととなる。
「会計について、大学の授業を聞き、本を読んで、基礎だけは理解していました。それが実際に工場で経理の仕事をして、まだ勉強不足であったことがよくわかりました。まさに実学は実地で学ぶに限ると思いましたね」
しかし、堀はもう一つ大きなことを工場の経理で学んだ。「自分は経理のプロではなく、経営のプロを目指すべく一橋大学で学んでいた」ということの再認識である。
「東芝の工場の経理には、全国の商業高校からトップクラスの生徒が入社してくるんです。皆非常に優秀で、大学で少し簿記を学んだくらいの私は、経理実務では到底彼らにかないません。そこではたと気づいたのです。一橋大学は経理マンを育てていたわけではない、と。逆に自分にできること、すべきことは何かを考え、経営者への思いを新たにしましたね」
もっとも、堀は東芝で出世することに関心はなかった。
「出世しようとしていたら、工場ではなく、上層部と接する機会の多い本社の経理に配属希望を出していたと思います。その点、私は『なぜあの人は工場に行きたいんだ?』と思われていたかもしれませんね」と笑う。
公認会計士は"自分の仕事"ではない
そして、当時、大企業を中心にコンピュータリゼーションの波が到来していたことが、堀のキャリアに大きな影響を与えた。工場の経理業務をコンピュータ化するプロジェクトに加わり、コンピュータの威力を知ったことが後々の創業に役立つことになる。
工場の勤務時間は朝8時から夕方の4時まで。終業後にたっぷり時間を持てた堀は、ひととおり学んだ原価計算や会計の知識をさらに突き詰めるために、公認会計士の勉強を始めることにした。東芝はゼネラル・エレクトリック社の会計制度を取り入れるなど先進的な面があり、その理解を深めておこうと考えたのである。そして入社2年目に2次試験に合格することができた。公認会計士資格を取得するためには2年間の業務補助経験が必要になる。そこで、堀は東芝を4年で退職し、名古屋市内の公認会計士事務所に転じた。
その事務所は、トヨタ自動車販売(現・トヨタ自動車)や中部電力といった地域の大企業の監査に携わる名門。大先輩の会計士について、堀もそういった企業の監査業務に従事した。
「しかし、事務所に属していたということもあると思いますが、どこか"自分の仕事"という感じがしないんですね。やはり自分には起業しかない。学生時代からの経営にかける思いはますます募っていきました」
根拠のない自信や情熱だけで起業
とはいえ、堀に何か具体的な事業プランがあったわけではない。あるのは根拠のない自信や情熱だけであった。そして、東芝で携わったコンピュータによる合理化を、大企業だけでなく中小企業にも導入し課題を解決するというところにビジネスチャンスがあると思い至る。1969年、堀は会計事務所を退職し、堀会計事務所計算センター株式会社(1984年に株式会社ダイテックに改称)を設立した。32歳のときである。
堀は、友人との交流のなかでビジネスアイデアをつかんでいった。モータリゼーションの進展著しい当時、着目したのはガソリンスタンド(サービスステーション=SS)だった。
「SSにいろいろなモノを売る仕事をしていた友人がいたのですが、彼によると、SSは出店すればするほど売り上げが伸びる状況にありました。しかし、成長のボトルネックが一つあったのです。それは、事務作業が追いつかないことでした」
1日に150〜300台の車が給油や洗車などで来店するが、掛け売りが大半で、伝票を発行し、後で請求書を渡す手間がかかっていたのである。堀は、この業務にコンピュータを活用することで効率化を図るビジネスを思いついた。そして、さっそくタイプライターで営業案内を自作し、名古屋地区のSS経営者に飛び込み営業を始めたのである。
創業から3年間は赤字に
「手応えはありました。『今困っているから非常に興味深い提案だ。だけど本当にあなたにそんなことができるのか?
うまくいったら金を出すという条件でどうだ』と言ってくださった最初のお客さまが現れ、その約束を果たすために事業を具体化させていったのです」
まだ信用のない堀であったが、幸いなことに日立のソフトウェア部門にシステムをつくってもらうことができた。
「自社にはまだコンピュータを置けなかったので、当初は日立さんのデモ用の機械を使わせてもらい仕事を進めました。一方で、注文はどんどん入ってきました。半年後には日立さんが正式にレンタル契約をしてくれたので、事業を軌道に乗せることができました」
とはいえ、当初のビジネスモデルは決して先端的なものとはいえなかった。顧客の売上伝票を回収し、それをキーパンチしてコンピュータに入力して作成したアウトプットを顧客に届ける、というもの。コンピュータ使用コストはまだ高く、技術も未熟であったために取ったスタイルだった。
「当時、80欄カードや90欄カード(データやプログラムなどの入力媒体)に穴をあけてデータをつくり、コンピュータに入力するというシステムがありました。それだと正確に入力できるのですが、カード1枚当り入力コストが10円もするのでコストが合わないんです。そこで、私は『紙テープ鑽さんこう孔タイプライター』というものを見つけ、ある中堅のメーカーに発注しました。ところが、紙テープだと正確に入力できないのです。したがって、一度紙にプリントして伝票一枚一枚を突き合わせてチェックし、間違いを直していくわけですが、これは人海戦術でやるしかありません。お客さまは楽になったかもしれませんが、我々はてんてこ舞いでした。初期はそんな感じでしたから、利益など上がらず3年間は赤字でしたね」
日本石油との業務提携でトップ企業に飛躍
そういった泥臭い苦労を重ねながらも技術の進歩にも恵まれ、1973年に計量器とインラインで結ばれた日本初の給油所向けレジスター「SS‐POSシステム」を開発、手書き伝票を不要にした。これが当たり、堀はビジネスを洗練させていく。数年で名古屋圏のSSとのビジネスを一巡させると、全国展開に着手。1980年までに東京、関西、中国、九州、東北、四国に事業所を開設。1987年までに北海道と北陸にも開設し、全国主要都市を網羅した。
全国展開とともに堀が力を注いだのは、それまでの個別SSへの営業から、大手元売り石油会社へのアプローチである。つまり、本部を押さえることで系列のSSを丸ごと顧客にしようという戦略だ。
「もちろん、我々には営業規模の効率的な拡大というメリットがありましたが、石油会社に対しては、系列SS全体の業務を革新できるという大きな意義があると確信していました」
1980年には最大手の日本石油(現・JXホールディングス)との業務提携にこぎ着ける。
「このときは、社員に間違われるほど日本石油さんに日参していましたね(笑)」
サービス面でも、1980年には各SSのPOS端末と本部、計算センターとの間を回線で結び、売り上げを瞬時に記録する最先端の情報システムを構築、それまでのSSの売上管理業務は劇的に効率化された。このシステムは進化を遂げながらダイテックの主力事業であり続け、今日ではSS向け情報処理サービスでは日本のトップ企業へと発展している。
本能的に建築設備分野のCAD開発に進出
それだけではない。売り上げではSS向け事業の3倍近い規模に成長しているもう一つの事業が同社にはある。1987年に第1号の製品をリリースした、建設設備や土木に特化したCAD(コンピュータによる設計製図)ソフトの開発だ。今日では、この分野のスタンダードとなっており、東京スカイツリーや東京駅丸の内駅舎保存・復元、新丸の内ビルディングなどの建設工事でも使われている。CADに着目した理由を、堀は次のように言う。
「SS向けのシステムは、汎用コンピュータを用いてつくられたものでした。しかし、1980年代に入ると、オフィスコンピュータ(オフコン)やパソコンといったよりコンパクトなハードウェアや、マイクロソフト社などのソフトが登場しました。機械はどんどん小型化し、価格も安く、そして誰にでも使いやすいものになっていく。このトレンドに乗らなければだめだ、との思いがありました」
そこで選択したのが、建築設備分野のCADであった。
「あるところでCADの存在を知り、本能的に『これだ』と思いました。定規と鉛筆で作図するといった、エジプトのピラミッド時代までさかのぼる設計技術が、キーボードを押してできるようになった。これは数千年に一度の技術革新であると思いました。そして、その渦中にいられることを大変幸運に感じたのです」
40年間黒字経営を続け利益総額は681億円に
CAD事業にも紆余曲折はあった。既存のオフコン用のCADソフトを自社仕様にしたものを販売するという形でスタートしたが、顧客のニーズに応じてカスタマイズしようとすると、オリジナルのメーカーでしか手を加えられないブラックボックスの部分があったのだ。
「ならばと、AとBを結ぶ直線を描くという最も基本的な操作の部分からオリジナルで開発しようと決めたのです。決めたからにはと、邁進していきました」
SS向け事業で構築した全国拠点のスタッフを総動員し、全国の大手建設設備業者の大半を押さえることができた。
その後、レンタルオフィスや貸ホール・貸会議室、不動産投資、デジタル印刷、ライブハウス(名古屋ブルーノート)など事業の幅を広げ、2006年には持株会社ダイテックホールディングを設立し、グループ経営にステージを上げている。なお、ダイテックは創立4年目から2012年度までの40年間、黒字経営を続けており、税引前利益の総額は681億円に及ぶ。
「2013年度は創業以来の最高額になると思います」と堀は満足げだ。
研究者に総額7.8億円の研究費を助成
昨今、堀が心血を注いでいるのは、ビジネスだけではない。1991年にダイテックグループからの資金と私財を提供し、公益財団法人堀科学芸術振興財団を設立。科学者への研究助成、「堀美術館」の運営、若手アーティストや美術大学生の創作活動への支援に努めている。
まず、科学者への研究助成では、「情報」「医療」「エネルギー」を対象領域として、22年間の累計で、主に名古屋地区の研究機関に在籍する254人の外国人を含む793人の研究者に総額7.8億円の研究費を助成している。
「堀美術館」は、ダイテックホールディング本社の向かい、多くの歴史的建造物が保存されている「文化のみち」エリアにある。美術品収集家でもある堀の貴重なコレクションを一般公開するため、2006年にオープンした。藤田嗣治、梅原龍三郎、佐伯祐三、杉山寧、加山又造、東山魁夷、三岸節子といった名匠の作品が展示されている。作品収集は毎年続けられており、年2回、展示作品の入れ替えをして常連客でも楽しめるように運営されている。
若手アーティストや美大生に作品発表の場を
若手アーティストに対しては、「Dアートビエンナーレ」という作品発表の場を2009年から隔年で提供。応募作の中から45点前後の作品を選出し、最優秀賞には500万円、優秀賞には100万円などの賞金を授与するとともに、アジア各地で行われるアートイベントに招待し世界に羽ばたくチャンスも提供している。さらに、2013年3月、愛知県立芸術大学、名古屋芸術大学、および名古屋造形大学に在籍する学生の、各大学から推薦された全15作品を展示する第1回の「H/ASCA展」を、名古屋中心部の自社施設で開催した。これも、最優秀賞100万円、優秀賞50万円といった賞金授与のほか、上位3名をアジアのアートイベントに招待した。このほど最優秀賞に輝いた愛知県立芸術大学の村上仁美さんは、「学外の世界で認めてもらえる機会は学部生にはめったにないから励みになる。留学を考えているので、海外でアートの現場に触れられるのも嬉しい」とコメントしている。
世の中をよくするため科学と文化を両輪に
こうした科学や芸術への支援活動を始めた経緯について、堀は次のように言う。
「財団を設立する前の1980年代後半から1990年代にかけての頃、当社は非常に大きな収益を上げていました。我々がここまで事業を伸ばすことができたのは、コンピュータを中心とする科学技術の発展のおかげだと思ったのです。ハードやソフトの進化で、我々の抱えていた問題もブレークスルーできた。ならば、我々の上げた収益はすべて我々のものにするのではなく、その科学技術に恩返しをしようと考えたのです。また、芸術に関しては、私が個人的に絵画好きということもありますが、日本は産業では先進国であっても、芸術文化振興への環境づくりにおいては後進国という問題意識があったのです。才能溢れる若きアーティストは数多くいても、彼ら彼女らが思う存分活動し生活を成り立たせていく機会が、あまりにも乏しい。そこに少しでも力になれれば、という思いがありました」
会社のメセナ活動として取り組むという選択肢もあったが、それだと業績に左右されて地に足をつけた活動が続けられなくなる恐れがあることを懸念し、堀は財団法人の設立を決めた。「世の中をよくするには、科学技術だけでは足りない。芸術文化があってこそ初めて両輪が揃って前に進める。そこで、科学もアートも支援することにした」と言う堀は、個人の知名度を高めるような団体などに属することなく、名古屋という場所で独自に「ノブレス・オブリージュ」を実践していると言えよう。
一橋大学は、時代を切り拓く指導者を育成すべき
そんな堀は、一橋大学や東芝で学んだ時期を次のように回想する。
「間違いなく、私の基本をつくってくれた私の師のような存在です。一橋大学の4年間で吸収した素養、東芝で身につけた原価計算や会計の知識は私の原点、根幹であることはいささかも変わっていません」
そして、OBとして現役の学生やこれから一橋大学を目指す若者、そして一橋大学そのものに、次のようにメッセージを送る。
「東京商科大学時代の如水会の名簿を見ていると、素晴らしい人材が脈々と輩出されてきたことがよくわかります。特に戦後は、人生の黄金期に敗戦を迎え、どん底から這い上がってきたという迫力のある創業者が数多くいますね。一方で、私の頃の名簿には、東証一部の大企業のトップや幹部がズラリ。そして現在はおそらく、そうした大企業に入社を志望する学生で占められていることでしょう。それはそれで意味のあることだと思いますが、私は、一橋大学とは時代を切り拓く指導者、まさに『キャプテンズ・オブ・インダストリー』こそを輩出する大学であるべきだと思うのです。全国の高校からそれに値するポテンシャルを秘めた優秀な若者を預かっているのですから、一橋大学にはそうした指導者を育成する使命、責務があるはずです。名古屋の地から、私が大いに期待しているところです」
(2013年7月 掲載)