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高校生に"多様性と学びの交差点"を提供。 「HLAB」で、日本の教育を変える

  • 一般社団法人HLAB 代表理事小林亮介氏

2015年秋号vol.48 掲載

2004年の*8万3000人弱をピークに減少傾向にあった、日本人の海外留学。ここ数年は持ち直しの傾向もあるが、"内向き"と批判されて久しい。しかし、その要因としては、海外経験のある先輩という"ロールモデル"との接点がないという環境も大きいのではないか。そんな疑問を抱き、高校生と国内外の学生や社会人との接点をつくり、多様性の中での"互いからの学び"の場を提供する「HLAB」を立ち上げた小林亮介(24歳)。高校2年の半ばから1年間アメリカに留学後、一橋大学に入学し、半年後にハーバード大学に転学。寮生活の多様性溢れる環境でリベラル・アーツを学ぶことの素晴らしさを体験し、これを日本の高校生にも提供しようと思い立ち、大学2年から活動を始めた。その視線の先には、高等教育の制度設計への関わりを通じて、日本を背負って立つ人材を育成しなければならないとの問題意識がある。(文中敬称略)

  • 文部科学省調べ

小林 亮介

小林 亮介

2009年4月一橋大学法学部入学。同年、併願していたハーバード大学からも入学を認められ、9月にハーバード大学の学部課程であるHarvardCollegeに入学。ハーバード大学在学中にHLABの活動を始める。2014年6月同大学卒業後に帰国し、同年12月よりHLABを社団法人化。現職は、一般社団法人HLAB代表理事、ファウンダー兼エグゼクティブディレクター。ハーバード大学のリベラル・アーツの仕組みを基に、日本の高校生に国籍や世代を越えた交流の場を提供している。

"ボーダーを越えた人的交流を可能とするハブの創出"がミッション

インタビューの様子-小林氏1

HLABの説明資料には、次のように書かれている。
「HLABは、『授業からの学び』ではなく、多様性の中での『互いからの学び』の機会を提供します。リベラル・アーツに基づくサマースクールの実施を通じて、国内外、世代間、地域間、学校間などの壁を越えて、多様なコミュニティを結びつけ、様々なロールモデルとの交流と対話の場(ピア・メンターシップの機会)を創造します。多種多様な知的刺激とリソースから得られる教育環境を提供することで、知的好奇心と情熱溢れる人材の養成を行うとともに、教育を通じた国際交流、ならびに地域活性化の機会を提供します」
ロールモデルとなるメンターは、東京大学、京都大学、一橋大学、慶應義塾大学、早稲田大学など国内の国立・私立大学はもとより、ハーバード大学、プリンストン大学、オックスフォード大学、パリ政治学院、シンガポール国立大学、北京大学など世界の錚そうそう々たる顔ぶれの学生が務める。また、スタートした2011年から2013年の間に参加した高校生も、卒業後、こうした大学に進学している者が大半を占めている。
「HLAB」の活動の中心は、8月中旬に1週間前後行われる、高校生を対象としたサマースクールだ。会場および募集人数は、東京80人、長野県小布施町50人、徳島県牟岐町50人、宮城県女川町60人。毎回、競争率は数倍という人気ぶりだ。
期間中、ハーバード大学の寮生活を模した「ハウス制度」という行動班を組み、食事、入浴、就寝などの生活およびワークショップやディスカッションなどの学びの時間を共にする。各ハウスは実行委員、日本人バイリンガル大学生(ハウスリーダー)、外国人大学生(セミナーリーダー)、高校生で構成され、さらに各メンバーの経歴や英語力、期間中に受講するセミナーが異なるようにグルーピングされる。こうして長い時間を共有しながら"多様性の中で互いから学ぶ"ことの土台となるハウス制度は、HLAB運営の根幹となっている(HLABの頭文字Hは、ハウスのHでもある)。
サマースクールのプログラムとしては、ハーバードなどの学生によるリベラル・アーツ・セミナーや、各界で活躍するビジネスパーソンや研究者などによるパネルディスカッションやフォーラム、ハウス単位のグループディスカッション、さまざまな社会人ゲストを招いてのフリーインタラクション(自由な対話)、各地域の特性を活かしたワークショップなどさまざまな時間が設けられている。
こうした"多様性"と"交流"の中で、高校生が自分自身と向き合い、自分の関心のあるテーマを探し、将来を主体的に選択するためのサポートをする。まさに"リベラル・アーツ"そのものだ。
「私たちは、こうした環境をつくり出すために"ボーダーを越えた人的交流を可能とするハブの創出"をミッションとしています」とHLAB創設者で代表理事の小林亮介は言う。

「少し怖かったけれど、メチャクチャ楽しかった」の一言で留学を決意

HLABにて3名で

HLABにて、現役学生の実行委員たちと

1991年生まれ、弱冠24歳の小林は、東京・小平市の出身。地元の公立小学校から、一橋大学にも近い桐朋中学校に進学した。
「自由な校風で知られていて、そうした環境で好きなことを勉強したいと進学させてもらいました。国立の街の、アカデミックで、それでいて自由な雰囲気にも惹かれました」と小林。高校も桐朋高等学校に進学し、一橋大学の半年間を含めて6年半、国立に通った。
小林の父親は、早稲田大学理工学部の教授である。まだ3歳の頃、父親が研究のため、MIT(マサチューセッツ工科大学)に1年間滞在することになり、小林も一緒に渡米したが、その時のことは記憶にはない。そんな小林にとって"初の海外体験"となったのが、中学2年の時に学会に出席する父親に連れて行ってもらったロンドンだ。ここで、キャリアの原点となるような体験をする。

「学会が行われたケンブリッジ大学の、歴史ある美しいキャンパスに感動しました。海外の文化に憧れも抱きましたね。その半面、強烈な劣等感を抱く経験もしたのです」
1人でロンドンの街を歩いていた時のこと。空腹感を覚え、おそらく安いだろうとハンバーガーショップに入ることにした。少ない小遣いしか持っていなかったからだ。しかしメニューを見ると、セットが10ポンドと書かれている。
「10ポンドは、当時で2700円ぐらい。高くて驚きました。これでは小遣いがなくなってしまうと思い、セットではなくハンバーガーの単品を頼もうとしたのですが、うまく言葉が出てこなかったのです。何とか言ってはみるものの、店員には伝わらず『ドリンクは何にする?』とジェスチャー交じりに聞かれる始末。非常に悔しい思いをしました。中学で2年間英語を勉強しても、こんな簡単な会話もできない。大学院時代に初めて海外に出て苦労したという話を父親からも聞いていました。そこで、早く海外に出て学ばなければダメだと実感したのです」
これらの原体験から、高校生になったら海外留学することが具体的な目標となった。ところが、海外留学は行く1年前に決める必要があった。学業への影響がなるべく出ないように高校2年で行くためには、高校1年の時点で決めなければならない。バレーボールの部活動も忙しいし、海外生活はどことなく怖いイメージもあって、小林はなかなか決めきれずにいた。「期限までの3か月でよく調べて決めよう」と思い始めた時に、小林の人生を変える存在が現れる。
「1学年上のESS(English Speaking Society)部の部長が、留学から帰ってきたのです。そこで、単純に『怖くありませんでしたか?』と聞いてみました。すると彼は『少し怖かったけれど、メチャクチャ楽しかった』と。その一言で強烈に背中を押され、3か月の調査などどうでもよくなったのです」

受験から遠い場所にいたことで自分とじっくり向き合えた

インタビューの様子-小林氏2

親に負担をかけまいと、桐朋高校の学費より安い費用のコースを探し、アメリカはオレゴン州の小さな田舎町の高校への交換留学を決め、3年生のクラスに編入することにした。出発直前になってもホストファミリーが見つからず、現地で4軒にステイして決めるという苦労も。「精神的に鍛えられた」という小林は、高校2年から1年間、同地で過ごす。「オレゴンの外は外国」といった土地柄で、クラスメイトは皆幼稚園から一緒という狭い世界。
「それだけに疎外されるかと心配しましたが、そんなことはありませんでした。逆に、1人に受け入れられるとどんどん交友関係が広がりましたね」
授業は難なくこなせた。ほかの生徒が1枚しか書かないレポートを15枚も書いて、100点満点なのに150点を取ったこともある。大変だったのは、英会話だけだった。
「1年間では身につかないと感じました。このことが、アメリカの大学へ進学する契機にもなりましたね」と小林は述懐する。なお、同高校の校長は、小林の桐朋高等学校の成と同高校での成績や学習態度を勘案し、卒業格を与えてくれた。日米二つの高校の卒業証書を持つ日本人は、珍しいだろう。
桐朋高等学校など日本の進学校では、2年生ともなれば大学の受験勉強が本格化する。「参考書は数冊しか持っていかなかった」という小林は、そんな受験のムーブメントから離れることができた。
「結果的にこのことがとても大きく作用したと思います。自分とじっくり向き合う時間が持てたからです。また、空いた時間で、進学先として真っ先に考えていた近所の一橋大学をはじめ、進学を考えていた大学にはどんな先生がいて、どんな論文を書いているのかといったことを調べることもできました」
考えてみると、小学校の卒業文集で同級生は皆楽しかった思い出話を書いたが、小林だけが9・11について書いた。子どもの頃から何より国際情勢に興味があった。英語の勉強にも意欲がある。そんな小林は国際関係論を専攻しようと決めた。

一橋大学副学長の助言でハーバード転学を決める

HLABの3人で

問題は、日本の大学か、アメリカなど海外の大学か。高校3年の6月に帰国後、小林は、一橋大学で国際関係論を教え国際関係学会の理事長も務めた大芝亮教授にアポを取り、疑問をぶつけてみた。
「大芝先生は、日本とアメリカの学者の論文を読み比べてみたら?と。レベルの平均はアメリカのほうが上だと分かるというわけです。たしかに、教科書に書かれている学者や理論は大抵横文字で、学術論文を読んでみても、引用論文は英米の学会誌がほとんど。さらに日本の社会科学の多くの先生は、アメリカの大学で博士号を取得しています。そして先生は、やるならアメリカ、特に社会科学系に強いハーバード大学が一番、と勧めてくれたのです」
それまでAO入試が念頭にあった小林は、父親から「AO入試で入りたいところがあるわけではないなら、AO入試に逃げようとせずに真剣に取り組め」と叱咤された。そこから猛然と9科目の受験勉強を始める。そして、日本の大学としては、海外留学の機会も豊富そうで、親しんだ国立の地にある一橋大学法学部の受験を決意。その時ちょうど同学部に後期試験が新設された年で、受験科目は英語の論文と、日本語の面接であった。
そして、一橋大学に見事合格する。
前後して、ハーバード大学はじめ、プリンストン大学やイエール大学などアメリカのアイビー・リーグへの受験の準備も進めた。「手探り状態だった」と小林は当時を振り返る。
「同じ高校からアメリカの大学に進学した先輩は1人もいませんでしたし、周囲にはそういったコミュニティもありませんでした。アメリカの大学はどんな雰囲気なのか、どんな生活が待っているのか、授業はどんな感じで進むのか、受験手続きを行いながら自分なりに調べました。経験者が1人でも身の回りにいれば、大いに違っていたと思います」
一橋大学に入学した後、ハーバード大学の合格通知も届いた。その要因を、小林は次のように振り返る。
「英語力は自信がなかったのですが、英語力のある学生を入れたいのならばアメリカの学生を取ればいい。ということは、英語力はあまり考慮していなかったということです。それよりも、多様性を重視したのだと思います。ハーバード大学の1学年1600人のうち、留学生は10%程度ですが、そのほとんどはアメリカンスクールやインターナショナルスクール出身です。そんな中で自分は日本の高校からオレゴンのローカルな高校に留学し、そこそこの成績を収めた。そんなバックボーンをしっかり評価してくれたのだと思います」
とはいえ、合格通知が届いた時は「本当か?」と実感がなかったという。
「すごく迷いました。一橋大学の毎日は厳しかったけれども、とても充実していたからです。そこで、先生方に相談したら、『行ってみなさい』と。当時副学長だった大芝先生までも『せっかくのチャンスだから行きなさい。もしダメでも、いつでも戻って来られるから』とおっしゃいました。副学長までが出て行けと言うなら、そうしようかと(笑)」
また、ハーバード大学から奨学金を得ることもでき、学費と生活費を合わせても一橋大学の学費と変わらないレベルに収めることができたのも大きかったという。

ハーバードの"寄宿型リベラル・アーツ教育"に感銘

インタビューの様子-小林氏3

一橋大学に入学してすぐの新入生歓迎コンで小林は、隣に座った、弟がカナダの高校に留学したという学生と意気投合する。高校時代、生徒はコミュニティが制限されていて、学校外の世界と接点を持つ機会がほとんどない。同世代の、たとえば高専に行っている人はどんなことを勉強しているのか知らないし、インターナショナルスクールでは何をやっているのか分からない。そんな話で大いに盛り上がった。
「お互い、ものすごく情報が欠落していると思いました。現に、彼は国内でサマーキャンプ活動をしていましたが、自分には縁のない世界でしたし、逆に彼にとっては私のような海外留学という選択肢があるとは思いもよらないことだったからです。そこで、私たちが"内向き"と批判されるのは、私たち自身に要因があるというよりも、そんな環境に置かれていることに問題があるのではないかと思えたのです。この時の思いつきが、後のHLABに結びつきました」
ハーバード大学への入学を決め、留学するまでは日本での大学生活を思いきり充実させようと考えた小林は、「せっかくゼミで有名な一橋大学に入ったからには、ぜひ経験してみたい」と、ある教授に頼み込んで4年次の国際関係論のゼミに参加する。
「そのゼミでは、他大学のイベントもありました。その場で1年生は自分1人です。だから目立ったのでしょう、ある大学の学生から『うちのゼミにも来ないか』と誘ってもらえました(笑)。そしてそのゼミでも外務省を訪問するなどいい経験ができました。まさに多様な環境でしたね。一橋大学は結果的にハーバード大学に似ていると思いました」
小林は一橋大生時代、毎日のように学生仲間の部屋に入り浸って、食事を共にしたり、いろいろなことを議論したりしてさまざまなアイデアを得ることができたという。ハーバード大学の寮は、まさにそれを一回りも二回りも大きく広げたような環境であった。
ハーバード大学の学部生の多くは、入学すると寮に入るという。その寮には、学部生だけでなく、社会人経験のあるロースクールやビジネススクールの大学院生や教授も暮らしている。そういった多様な人たちが、一つ屋根の下で生活を共にするという環境ができ上がっているのだ。
「たとえば、食堂で顔を合わせ、食事をしながらいろいろな話をします。学生同士で宿題や、レポートを見せ合ったり、先生も交えて議論したり。その中でいろいろなアイデアが湧いてくる。これが非常に刺激的なのです」
ハーバード大学では、これを"Residential Education(寄宿型リベラル・アーツ教育)"として、学習システムの中心に置いているのである。世界的イノベーション企業として知られるGoogle社の充実した社員食堂はたいへん有名だが、その狙いも、集う社員同士が触発し合うことによるイノベーションの創出にあることが知られている。
「そして、リベラル・アーツの本領は、そのプロセスを通じて学生が真にやりたいテーマを見つけることにあります。結果的にウォール街で活躍する金融関係者や弁護士、コンサルタントになって稼ぐ人はたくさんいますが、大学は一言も『君はウォール街に行くべきだ』などとは言わず、学生が進路を見つけることの手助けだけを徹底的にする。学生たちに、同じ寮に住む金融関係者や弁護士、官僚らと接点を持たせる。そして納得できるまで話し合わせ、ロールモデルを見つけるサポートをする。この環境こそが、日本にないものだと感じたのです」

竹内弘髙教授、槙原稔氏との出会いで活動基盤が確たるものに

活動の様子

2009年9月、ハーバード大学の入学式で聞いた学長の言葉を、小林は鮮明に覚えている。
「この大学の財産は何か?世界有数の図書館かもしれないし、優秀な教授や研究者かもしれない。しかし、一番の財産は、ここにいる君たち一人ひとりだ。375年の歴史で多様な人材を輩出したことこそが、本学の最大の財産なのである」
小林は、宮澤喜一元首相やヘンリー・キッシンジャー元国務長官も参加した学生交流プログラムの日米学生会議に参加し、HLABの原型となるアイデアを固めるとともに、一緒に活動する仲間を得る。また、一橋大学名誉教授でハーバード・ビジネス・スクールの竹内弘髙教授との出会いは、特別に大きかった。竹内教授は、現在までHLAB運営へのアドバイスや精神面で小林を大いにサポートしている。さらに、ハーバード大学のOBである、三菱商事相談役の槙原稔氏とも知己を得た。HLABに共鳴した槙原氏を通じて、三菱商事がメインスポンサーとなってくれた。現は、経営コンサルティング会社のP&E
DIRECTIONSもスポンサーとなってる。こうして財務基盤も整備できた。
そして、小林は大学2年の時にHLABの活動を開始。2010年5月、手始めに母校の進路指導部と協力して、高校生と大学生がカジュアルに進路について話し合える「座談会事業」を実施した。この活動に、ハーバード大学の学生仲間が快く協力してくれた。
「彼らも私と同じようにロールモデルを見つけられなかったことを残念に思っていました。ちなみに、日本に来るのは自腹で、です。それほどまでして、自分の残念な思いを晴らしたいという強い思いがあるのです」
翌2011年には、第1回のサマースクールを東京で開催。すると、評判を聞いた岡山の高校生から「情報が集まる東京ではなく、地方でこそやってほしい」という要請が届く。そこで翌年は日米学生会議で出会った鳥取出身の仲間と同地で「スピンオフ・プログラム」を開催。徐々にネットワークを広げ、2013年は小布施町でサマースクールを開催した。そうした活動で日米を行き来した影響もあり、1年休学して2014年6月、ハーバード大学を卒業する。小林は直ちに帰国したが、胸には一つの悩みを抱えていた。
「実は、イギリスの大学院への進学を考えていました。教育分野での就職を考えると、明らかに勉強不足だったからです。そこで、竹内先生のところに推薦状をお願いしに行ったところ、『大学院や企業で小林はどうやって世のため人のために貢献するつもりなんだ?』と、断られてしまったんです。要は、HLABを放り出すつもりなのか?という忠告でした。確かに、自分が抜けたら空中分解してしまうだろう。それはできない、と腹を固めることができました。竹内先生のおかげです(笑)」
それまでは学生団体の形で運営していたが、徳島県や長野県などからサマースクールを委託事業として要請されるようになり、きちんと法人化する必要にも迫られる。そこで、2014年に社団法人化した。

見据えるゴールは遥か遠い先に

HLABパンフレット

以上のように活動基盤を固めてきた小林。今後、HLABを通じてどういった課題にチャレンジしていこうと考えているのか。
「大きくは三つあります。一つめは、日本の教育のあり方に一石を投じること。二つめは、海外の学生に、もっと日本に興味を持ち、知ってもらうこと。そして三つめは、日本の国際関係を取り持てる人材づくりに貢献することです」
一つめはもう説明不要であろうが、改革すべき典型的な事象を挙げておく。大学にある"留学生専用寮"の存在だ。日本国内にあっては、多様性の象徴的な存在といえる留学生を一つの施設に囲い込んでしまうのは「愚の骨頂」と小林は明言する。こうした日本の教育風土を変えていく。
二つめ。小林がハーバード大学の寮で一緒になった外国人学生の中には、小林を通じて日本に興味を持った人が多かったという。今、来日する外国人観光客が空前の規模となっていることが話題だが、日本に来る人はそもそも日本に興味がある人だろう。しかし、世界には日本など知らず、興味もない人が圧倒的に多いのだ。そんな人たちも、身近に日本人が1人いるだけで変わる。そんな日本人を増やしていきたいと考えている。
三つめは、槙原氏や竹内教授のような真の国際人をもっと輩出しなければならないという危機意識だ。
「竹内先生のように、ダボス会議で英語のスピーチを行って日本のプレゼンスを高めることができる人はそうそういないと思います。槙原さんのように、アメリカにあれほど深い人脈を築いている人もいません。そんな両人がいなくなったら、日本は世界の中でどうなってしまうのか心配です」と小林は訴える。国と国の関係も、突き詰めれば個人同士の関係で決まるところが大きいのだ。「そんな人材を日本はることができていない」と小林は案じる。
小林が見据えるゴールは、遥か遠い先ある。しかし、24歳という若さには、ものにも代えがたい可能性が満ち溢れている。第二、第三の小林を輩出することが、おそらく小林の憂いを晴らす道となるだろう。そこに小林は気づいているのかもしれない。

(2015年10月 掲載)