日本には前例のない、DX時代の「Captains of Industry」の創造
2021年9月2日 掲載
渡部 敏明(わたなべ・としあき)
ソーシャル・データサイエンス教育研究推進センター長、経済研究所教授
七丈 直弘( しちじょう・なおひろ)
ソーシャル・データサイエンス教育研究推進センター副センター長、経営管理研究科教授
大月 康弘(おおつき・やすひろ)
一橋大学理事・副学長(総務、人事、研究、社会連携、広報担当)
鷲田 祐一(わしだ・ゆういち)
データ・デザイン研究センター長、経営管理研究科教授
社会科学の視点からデータサイエンス領域を推進する、新学部・研究科の設置
2023年(令和5年)4月に、社会科学の視点からデータサイエンス分野の教育研究を推進するため日本初となる「ソーシャル・データサイエンス学部・研究科(仮称)」の設置を予定している。
1875年(明治8年)に開設された商法講習所を源流に持つ一橋大学は、常に時代の要請と向き合いながら、各界の指導的担い手を育成。社会科学の諸分野を中心に最高水準の研究教育を展開する卓越した学術コミュニティとして、その歴史を刻んできた。2019年には、これまでの少数精鋭・全人教育による人材育成の伝統と実績、及び将来に向けた構想が評価され、人文社会科学系大学として初の指定国立大学法人の指定を受けている。「ソーシャル・データサイエンス学部・研究科(仮称)」の設置構想は、その際に展開・評価された将来構想の一環である。
実に70余年ぶりとなる新学部・研究科の設置。関係者には並々ならぬ想いがあるはずだ。そこでHQでは、準備室にあたるソーシャル・データサイエンス教育研究推進センターのセンター長、副センター長、データ・デザイン研究センター長及び一橋大学理事・副学長にヒアリングを行い、設置の背景や構想中のカリキュラム、育成する人材像、社会貢献の可能性などについて語ってもらった。
今、社会に求められているのは「イノベーションを牽引していくような人材」
昨今の情報技術の進展に伴い、社会における様々な課題を従来の社会科学のアプローチで解決することが困難になってきている。一方で、情報技術の進展は我々に膨大なデータの利用可能性をもたらし、大規模なデータを統計学、機械学習、人工知能の技術などを駆使して分析することで、新たな経営課題や社会経済課題の解決法を提案できる人材が求められている。
また、2020年11月に実施した独自調査の結果では、文系国立大学がデータサイエンス系の新学部を設立する場合に求められる人材は、1位が「イノベーションを牽引していくような人材」で50%超となっていた。DX(デジタル・トランスフォーメーション)時代の「Captains of Industry」人材が求められていると言えるだろう。
「このような認識に立ち、調査結果も踏まえた上で、本学では伝統的に強みがある社会科学と数理・統計教育に基づくデータサイエンスを融合させることにより、社会における情報技術の進展やいわゆるデジタル・トランスフォーメーションに貢献できる人材を輩出することを目的とした新学部・研究科を設置する予定です」(渡部敏明教授)
なお、2021年6月時点での新学部・研究科の概要は、以下の通りとなっている。
- 学部:社会のデジタル・トランスフォーメーションが進む中、ビジネスや政策の現場において日々蓄積されるデータを用いて、ビジネスに革新を起こし、新たな社会経済課題に対する解決策を提案・実践できる先導者の育成を目指す。
- 研究科:統計学、情報・AI、プログラミングにおける高度な専門的知識および技術を修得し、データ駆動型のアプローチを用いて専門的な立場からビジネスにおける新しい価値の創出、社会経済の新たな課題解決を実践し、新たな社会科学の創造に貢献できる人材の育成を目指す。※博士後期課程は、2025年(令和7年)4月設置予定。
新学部・研究科名に込められた、「ソーシャル」の意味
「データサイエンティストの育成が急務であることは分かった。しかしそれは理系学部が担うべき使命ではないのか?」「社会科学の総合大学である一橋大学が何故?」...このように捉える向きもあるだろう。
確かに一橋大学は、社会科学の総合大学として教育・研究を進めてきた。しかしその一方で、入学試験における数学の配点比率は高く、高校で理系を選択した学生を相当数受け入れてきた実績がある。文系出身だけではなく、理系出身の教員も数多く在籍している。
新学部・研究科では、この特徴をより色濃くして、文系・理系の枠にとらわれない『文理共創』を理念として掲げている。入学時、学生の意識が文理に分かれていたとしても、授業や演習を通してお互いに切磋琢磨し、双方の科学的知見を得て社会に出てもらうことが目的である。
また、世界的に見れば、データサイエンスは理系とは考えられていない。そもそもデータサイエンスはコンピュータ科学の一つであるが、コンピュータ科学は数学、心理学(認知科学)、建築学などとともに文系学部または学際的学部に分類されているのだ。付け加えれば、理系は自然科学に軸足を置いた学問領域と考えられている。
「ところが日本では、『コンピュータ=機械』というイメージから、あまり吟味することなくコンピュータ科学を理系に分類してきました。母体である数学は文理に共通の言語なのに、無用な溝が生まれてしまったのです。その溝を埋め、本学がずっと構想してきた『数学を中心に置いて社会科学を考える』ということを改めて打ち出したいと考えています」(鷲田 祐一教授)
"データに基づいて社会科学を考える"そこにこそ、新学部・研究科名の頭に「ソーシャル」と付けた意義がある。DXが進む社会のニーズに対応しながら、社会科学を新しい方向へと改革していく。そして、学生には経営課題や社会経済課題の解決策を提案し実行するための能力を磨いてもらう。「ソーシャル・データサイエンス」にはそのような想いが込められているのだ。
既存の4学部および他大学のデータサイエンス学部との違い
それでは、現時点(2021年6月)でのカリキュラム構想は、どのようになっているのだろうか。
既存の商学部・経済学部・法学部・社会学部においても、それぞれの学問分野に相応しいデータ分析の技術を学ぶことができる科目は複数提供されている。しかし、新学部では、より汎用性の高いデータサイエンスの技術とそれらを活用する上での倫理的・法的な問題などをより体系的に学ぶことができる。また、経営課題や社会経済課題の解決にあたって、まずデータに基づいて思考するいわゆる「データ駆動型」のアプローチを取ることも、既存学部との違いの一つと言えるだろう。
ちなみに他大学の既存のデータサイエンス学部と比較した場合、その違いは「ソーシャル」という名称に集約される。教育課程の中では、データ分析の技術を社会科学の諸分野および経営課題や社会経済課題の解決に応用することを重視。人材育成の面では、データサイエンスの新たな技術を開発する既存のデータサイエンスを含めた情報系や工学系の学部に比べ、それらの技術を活用して経営課題や社会経済課題の解決策を提案し実行できる人材育成に重点を置いている。このような特色があるからこその「ソーシャル・データサイエンス」なのだ。
企業や政府機関から提供されたデータをもとに解決策を検討する「PBL演習」
そして、新学部・研究科の特徴が最も顕著に表れる科目が、「PBL(Project Based Learning)演習」だ。これは企業や政府機関などから実際の経営課題や政策遂行における社会経済課題と、それらを解決するためのデータの提供を受け、少人数での演習を通して実際に手を動かしながら解決法を検討していく実践的な科目である。データ提供元となる企業や政府機関は、現時点では日本国内だが、近い将来には国際的展開を行う可能性もあるという。
「本学で学んだ留学生の評判は、中国、韓国、ASEAN諸国など、アジアにおいてとても高くなっています。新学部・研究科においても、国際的に活躍する人材を育成していくという使命は変わりません。多くの留学生に新学部・研究科で新しいディシプリンを提供するという意味でも、データ提供元を海外に広げていくことは当然視野に入れています」(大月康弘理事・副学長)
なお、上記カリキュラム構想はまだ検討段階のため、名称や内容については今後さらに変化および深化する可能性があることを付け加えておく。
データサイエンスの専門家が一堂に会する、研究機関としての魅力
冒頭で触れたように、「ソーシャル・データサイエンス学部・研究科(仮称)」の設置は、社会科学の視点からデータサイエンス領域を推進する新たな教育研究分野を確立することを目的としている。ここでは「研究」機関としての魅力にフォーカスしてみよう。
その魅力を一言で表現すれば、データサイエンスの専門家が一堂に会する空間だからこそ、学生・大学院生が"回り道"をせず、データサイエンスに特化した知見を一気に吸収できることにある。
"回り道"とはなんのことだろうか。ソーシャル・データサイエンス教育研究推進センター副センター長の七丈直弘教授は、研究者としての自身の過去を振り返り、「自分が25〜30年間かけて習得したことが、ここ(新学部・研究科)では学部・修士の6年で習得できる」と語る。つまり、これまでのデータサイエンスの専門家は、これからデータサイエンスを学ぶ学生と比べて20年近く"回り道"をしていた、というのだ。
たとえば七丈教授の場合、社会のさまざまな現象を理解する共通言語としてまず数学を学んだ。その後、数理的思考を社会で活用するために工学で博士号を取得し、数理に基づく材料開発に着手。そこでイノベーションは社会的な営みの中でこそ起こることを認識し、研究開発マネジメント(技術経営学)を自ら学んだという。数理に基づく研究開発マネジメントは、「ソーシャル・データサイエンス」の範疇に含まれる。しかし、七丈教授には当時基礎となる理論や教育プログラムがなかったため、学会での情報入手や共同研究者からの手ほどきを契機として独学で学ばざるを得ず、結果的に25〜30年もかかってしまったのだ。
その長いプロセスを6年に凝縮し、データサイエンスの専門家たちからワンストップで学べる環境が、新学部・研究科のもう一つの特徴である。そして学術界からは、ソーシャル・データサイエンスという学問を体系化して欲しいという期待が寄せられていることも重要なポイントだ。
「ソーシャル・データサイエンスの学術的な体系化はこれからの課題です。というのは、社会的課題を解決するためには、データサイエンスが、エスノグラフィー、マーケティングリサーチ、未来洞察...など、社会科学のどの分野に関連するかがまだ見えていないからです。しかし各分野に連携の可能性を秘めたツールが眠っていることも確かだと考えています。新学部・研究科では、専門の先生方と膝を突き合わせて議論や研究ができる。これは大きなメリットです」(七丈直弘教授)
さらに一橋大学は、新学部・研究科の設置に伴い、国内に頼もしいアドバイザリーボードを持っている。そこには東京工業大学、産業技術総合研究所、統計数理研究所が名を連ね、一橋大学に対してさまざまなサジェスチョンを提供している。今後は人材交流も予定しているとのことで、研究機関としての魅力がより高まっていくことは想像に難くない。
過去のアーカイブに光を当て、政府機関にも影響を与える
教育研究機関としての魅力にあふれる新学部・研究科の存在は、一橋大学が持つ貴重なデータベース・アーカイブにも新しい光を当て、国際研究に貢献する可能性を持っている。
たとえば一橋大学経済研究所の日本経済の長期統計は、江戸時代末期〜今日に至るまで、漏れなく時系列に沿ったデータである。この貴重なデータを参照するために、現在も世界中から研究者が一橋大学を訪れ、自らの感性で客観的データをデジタル化。論文として世界に発信している。
「日本経済ばかりでなく、アジア経済情報についても宝庫である、と自負しています。いずれも紙で保存された情報ですが、この規模の、かつ欠落のない一連のデータは極めて珍しく、アメリカでもカーネギーメロン大学くらいしか持っていないでしょう。また、第二次世界大戦中の中国に関する経済データなどは、中国研究者などからとても期待されています。新学部・研究科でも、紙からメタデータを切り出し、発信するというテーマを盛り込んでいけたらと考えています」(大月康弘理事・副学長)
これは最後(次項)で触れるが、学生の将来の職業としては政府機関、つまり「データをつくり、社会経済課題に活用する」立場になる可能性もある。たとえばGDPを作るようなミッションを持った時、一橋大学が持っている高品質の生産性データベースや政府統計、国内外の株式・為替レートなどについて学んでいたら、それは大きなアドバンテージとなる。
自らも日本銀行金融研究所でファイナンスやマクロ経済モデルの計量分析を行い、一橋大学社会科学高等研究院EBPM研究センター研究員も務めるセンター長・渡部敏明教授は、「政府機関においてもEBPM(Evidence Based Policy Making:データなど証拠に基づく意思決定)を行っていることは間違いなく、今後益々重要になる」と語る。
新学部・研究科が想定する、卒業生・修了生の活躍領域
最後に、新学部・研究科の卒業生・修了生がどのような領域で活躍することを想定しているかを紹介する。
日本においてはIT技術者の多くがシステムを構築する企業に在籍している。一方、それらの技術を活用する側の企業に在籍するIT技術者は少ない。これはデータサイエンスの職種についても同様で、データ分析の技術をさまざまな企業の経営に効果的に活用できるデータサイエンティストが、日本全体で見て不足している。
新学部・研究科の卒業生・修了生については、卸売・小売、通信・交通、製造業をはじめとした情報技術を活用するさまざまな企業において、データ分析のプロジェクトを統括するマネジメント力を発揮できる職種-プロダクトマネージャー、ビジネスデザイナーなど-での活躍を想定している。
また、政府機関や金融機関において政策効果分析・リスク分析を行うグループを統括したり、コンサルティングファームやシンクタンクにおいてさまざまなビッグデータ分析をグループで推進するアナリストなども想定している。
さらに、大学や研究機関における社会科学、人工知能学、認知科学、統計学など分野横断的な学術研究者、あるいは独立起業を目指す卒業生・修了生が生まれることにも期待がかかっている。
一橋大学が「ソーシャル・データサイエンス学部・研究科(仮称)」を通して確立を目指す教育研究は、DX時代の「Captains of Industry」の創造であり、日本には前例がない取組と言える。開設まであと2年を切った。ソーシャル・データサイエンス教育研究推進センターを中心とした議論は、さらに熱を帯びたものになっていくだろう。