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日本の社会科学をリードする大学から、社会科学における世界最高水準の研究拠点への飛躍を目指して

2016年冬号vol.49 掲載

140周年記念企画~講演レポート~

蓼沼宏一学長写真

蓼沼宏一学長

江夏由樹名誉教授写真

江夏由樹名誉教授

西澤保名誉教授写真

西澤保名誉教授

鈴村興太郎名誉教授写真

鈴村興太郎名誉教授

佐藤宏理事・副学長写真

佐藤宏理事・副学長

開会挨拶 蓼沼 宏一学長

「形式的なものではなく、今後の基礎を固めるじつのある企画を」

2015年10月25日、雲一つないさわやかな秋晴れの下、一橋大学創立140周年記念講演会《一橋大学学問史(1)─戦経済学と近現代社会》が開催された。会場となった国立キャンパスの兼松講堂には、3人の名誉教授の貴重な講演を聴こうと、老若男女を問わずたくさんの聴講者が集まった。
こうした周年記念日には、華やかな式典が催されることが通例かもしれない。しかし冒頭挨拶に立った蓼沼宏一学長は、「形式的な記念式典や単なる祝賀会ではなく、10年後の創立150周年を見据え、本学の今後の発展への基礎固めとなるような実のある企画を行いたいと考え、実現したものです」と、講演会開催の目的を語った。
「この講演会は、明治8年に商法講習所が開設されて以来、140年にわたる一橋大学の学問の歴史を振り返り、今後のさらなる発展を考えるための企画の第1弾です。現在、一橋大学は、日本の他の大学と同様に大きな転換点にあります。日本の社会科学をリードする大学から、社会科学における世界最高水準の教育研究拠点へと、大きく飛躍しなければなりません。そこに至る道は決して平坦ではなく、10年、20年先を展望した取り組みが必要です。
今回は、経済学の分野における本学の学問の過去・現在・未来を考えるため、いずれも、それぞれの専門分野で研究を牽引されてきた3人の名誉教授の先生方を講演者としてお招きすることができました。皆様、学問の世界にしばし浸って、本学の今後の発展を共に考える時間を過ごしていただければ幸いに存じます」(蓼沼学長の開会挨拶より)

講演1 江夏 由樹名誉教授

「東アジア近代史のなかの一橋大学」

東アジア史が専門である江夏由樹名誉教授の講演は、まず一橋大学の歴史とその学問を振り返ることから始まった。1955年10月刊行の『一橋論叢』特集号『一橋大学創立八十周年記念 一橋学問の伝統と反省』から、江夏名誉教授は、村松祐次「東洋経済事情」と増田四郎「歴史学」の2つの論考を挙げながら、現実から問題をつかみとり、「学問」へと高めていく道筋を持つ、つまり「現場があること」が一橋大学における学問形成の典型的な例である、と指摘した。そして19世紀末から20世紀初頭(日清・日露戦争以降)、時代はそうした学問を必要としていたとも語る。

「明日、上海に行って会社を起こせる、人脈を築ける人間を育成すること。それが時代の要請であり、一橋大学の興隆期にもあたる」(江夏名誉教授)

そして江夏名誉教授は、日本の東アジアにおける経済活動の拡大とともに、如水会が海外支部を開設していった歴史にも言及。
さらに、1860年頃から展開した中国における洋務運動(西欧の近代的兵器と学問の導入)と、一橋大学(当時の高等商業学校)の興隆を対比しつつ、一橋大学の学問の特長は、①現場が生み出した学問、②時代と向き合った学問の構築、③学問分野の拡がりとその体系化の進行の3点にあるという指摘で、講演は締め括られた。

講演2 西澤 保名誉教授

「福田徳三と一橋経済学の歴史的伝統」

一橋大学が創立140周年を迎えた今年10月、福田徳三研究会の編集で『福田徳三著作集』(全20巻)の刊行がスタートした。同研究会の代表を務める西澤保名誉教授は、講演の冒頭においてそのことにふれ、さらに記念講演会当日『著作集』の第一回配本の見本が届いたことを報告した。
西澤名誉教授は、1930年6月刊行『如水會々報』の「福田徳三君追悼録」における福田への賛辞(「母校東京高等商業学校を他に先んじて大学化せしむる」「時弊匡救の運動にも関与せる」「一大学者にして一大運動者を兼ねたる」)を紹介。関東大震災後の内務省社会局参与としての活動や、ロシア・科学アカデミー(1925年)においてケインズと同じテーブルについて議論を行った様子にもふれながら、福田の厚生経済研究、そして厚生闘争の展開と資本主義の前途について、詳しい説明が行われていった。

講演3 鈴村興太郎名誉教授

「一橋大学と規範的経済学の伝統-理論経済学と経済政策論との対話-」

2003年から5年間実施された一橋大学21世紀COEプログラム「現代経済システムの規範的評価と社会的選択」において、拠点代表者を務めた鈴村興太郎名誉教授。その後も2014年4月の一橋大学経済研究所規範経済学研究センターの発足や、一橋大学社会科学高等研究院(HIAS)の重点研究にも携わるなど、蓼沼学長が課題とする「社会科学における世界最高水準の研究拠点への飛躍」を行ううえで、重要な役割を担う人物である。

「一橋大学は、純粋理論の研究者として出発しつつ、経済政策論への傾斜を次第に強めて転進した経済学者を輩出してきた」
「経済政策の現場から、新たな理論的研究のシーズを持ち帰って経済理論の拡充と進化に資する研究は、ひとり一橋大学のみならず、これからの日本の経済学の脱皮と研鑽に期待しなければならない」
「厚生経済学の哲学的・情報的基礎に関しても、一橋大学には豊かな研究の蓄積があるが、この資産が国際的に発信されて厚生経済学の理論的な進化を先導する展開は、今後のいっそうの研究の蓄積と、国際的な研究ネットワークとの連携の充実に俟まつ点が多い」(以上、鈴村名誉教授)

鈴村名誉教授はこれらのメッセージを発信するとともに、マックス・ウェーバー『職業としての学問』から「普通、政策は教室で取り上げられるべきではない(中略)教室では予言者や煽動家は沈黙して、教師としての彼が語るのでなければならないのである」という文章を引用。一橋大学が今後も生きた経済学を研究するうえで、踏まえるべき立ち位置にも言及した。

閉会挨拶 佐藤 宏理事・副学長

「新しいグローバル化の波の中で、新しい方向を見定める必要性」

最後に、佐藤宏理事・副学長より閉会の挨拶が行われた。佐藤理事・副学長は3人の名誉教授が行った講演のポイントを振り返りながら、19世紀終盤のグローバル化の波の中で一橋大学がその礎を築いたように、現在の新しいグルーバル化の波においても、新しい方向を見定める必要性がある、と強調した。
また、佐藤理事・副学長によれば、次期の中期計画においては、世界的な研究ネットワークの中でHIASを中心とした先端的な社会科学研究を行うこと、そしてそうした先端的研究をもとにプロフェッショナルスクールの高度化をはかるとともにグローバルリーダー育成を一層推進していくという柱が立てられている。まさに冒頭で学長が言及した「10年、20年先を展望した取り組み」と言える。
その基礎固めとして行われた今回の記念講演会は、3時間に及ぶ長丁場にもかかわらず、聴講者の興味関心をつねに壇上に引きつけながら、大盛況のうちに幕を閉じた。

講演会の様子

日時2015年10月25日(日)14:00~17:00
一橋大学創立140周年記念講演会 一橋大学学問史(1)-経済学と近現代社会
場所 一橋大学兼松講堂(国立キャンパス)
開会挨拶 蓼沼 宏一 一橋大学長
講 演 1 「東アジア近代史のなかの一橋大学」 江夏由樹 一橋大学名誉教授
講 演 2 「福田徳三と一橋経済学の歴史的伝統」 西澤 保 一橋大学名誉教授
講 演 3 「一橋大学と規範的経済学の伝統-理論経済学と経済政策論との対話-」 鈴村 興太郎 一橋大学名誉教授
閉会挨拶 佐藤 宏 一橋大学理事・副学長

講演要旨

当日の講演内容について、3名誉教授が要旨をご寄稿くださいました。

東アジア近代史のなかの一橋大学

江夏氏プロフィール写真

江夏由樹

一橋大学名誉教授、特任教授

  • 『一橋論叢』1938年1月に創刊した一橋大学の紀要。学問領域で細分化されない総合誌として2006年3月まで刊行された
  • 中山伊知郎(なかやま いちろう、1898年9月20日~1980年4月9日)経済学者。一橋大学初代学長(1949年5月~1955年10月)
  • 村松祐次(むらまつ ゆうじ、1911年1月16日~1974年3月6日)経済学者。一橋大学長事務取扱(1969年7月~11月)
  • 増田四郎(ますだ しろう、1908年10月2日~1997年6月22日)歴史学者。一橋大学第5代学長(1964年4月~1969年7月)

一橋大学の学問の歴史を省みるうえで、1955年にまとめられた『一橋大学創立80周年記念一橋学問の伝統と反省』を読み返してみることは、大変興味深い。『一橋論叢』の特集号としてまとめられた本書には、当時の中山伊知郎学長の文章に続き、教員28人(26分野)がそれぞれ担当する学問領域についてその「伝統」と「反省」を記している。現在、その内容は一橋学問の将来を考えるうえで貴重なメッセージとなっている。
講演者(江夏)は東洋経済史を担当していたことから、この特集号の中での村松祐次「東洋経済事情」と増田四郎「歴史学」を主に取り上げ、議論の材料とした。村松教授は一橋大学が商法講習所から出発して、幾多の苦難を経て、高等商業学校、さらに、大学へと昇格していったこと、その歴史がこの大学の学問形成に大きく影響していたことを強調し、その典型的な分野の一つとして「東洋経済事情」という講座を挙げた。日清・日露戦争後、日本はその経済活動の現場となるアジアの政治・経済・社会・歴史などを調査・研究する学問を必要とした。根岸佶教授が確立したこの講座は、そうした時代状況の中で成長し、現実の問題と向き合う中で、学問的世界を構築していった。講演では、日露戦争後、南満洲鉄道・大連港などの経営で重要な役割を果たした犬塚信太郎、相生由太郎という本学卒業生の足跡も紹介し、当時の実学と学問との間に存在した不可分な関係にも言及した。一方、「歴史学」を担当した増田教授も、一橋では、実際上の必要から発した先学が、研究の円熟とともに到達した独自の境地が、結果的にみて「歴史学」となったことを述べている。一橋学問は現実の諸問題に直面することから生み出され、研究分野の専門化が進みつつも、人文科学の領域をも含む形での学問的拡がり、その体系化を目指す歴史を有していたと言えよう。

福田徳三と一橋経済学の歴史的伝統

西澤氏プロフィール写真

西澤 保

一橋大学名誉教授、帝京大学経済学部教授

  • 福田徳三(ふくだ とくぞう、1874年12月2日~1930年5月8日)経済学者。日本の近代経済学の父といわれる
  • ベルリン宣言 高等商業学校(当時)の大学化を求める意見書。福田をはじめ、8人の日本人留学生により1901年1月に発せられた。
  • 塩野谷祐一(しおのや ゆういち、1932年1月2日~2015年8月25日)経済学者。一橋大学第12代学長(1989年12月~1992年11月)

一橋大学の創立140周年の記念の年に『福田徳三著作集』の刊行を始めることになりました。福田徳三(1874-1930年)は、1896(明治29)年に高等商業学校を卒業して、翌年からドイツに留学しました。
留学中に恩師ブレンターノと『労働経済論』(1899年)を書き、学位論文をドイツ語で出版し、若き同僚と「ベルリン宣言」(1901年)を発して「商科大学設立の必要」を訴えました。その頃から、遺作となった『厚生経済研究』(1930年)までのほぼ30年間が活動期で、本著作集で20巻に及ぶ膨大な著作を書きました。「アダム・スミスが世界の経済思想史において巨峯であり、そこから出発してもよいと同じ意味で......、日本では福田徳三から出発してもよいかと思うのです」(赤松要)と言われました。
福田の活動期にはソヴィエト社会主義が誕生し資本主義システムの大きな転機でした。日本でも社会主義・マルクス主義が高揚し、河上肇はマルクス主義への傾斜を鮮明にしますが、福田は厚生経済・社会政策の有用性を主張し、後の福祉国家・福祉社会論を高調しました。ドイツの歴史・倫理学派の薫陶を受けた福田は、経済学は富と同時に人間の研究であるとしたマーシャルに惹かれました。ケンブリッジのピグーの厚生経済学に学びながら、その厚生主義・帰結主義─功利主義に満足できず、オクスフォード理想主義を汲むホブソンの人間的福祉の経済学に拠り所を求めました。それは、「生こそが富」と説いたラスキンに従って、貨幣尺度でなく「生」の価値基準を追究するものでした。効用、物財とは別の価値を求める姿勢は、山田雄三はじめ福田の門下生にも受け継がれ、またラスキンを評価し、「生活の質」の向上を追求した都留重人の思想にもつながるように思われます。それはまた、故塩野谷祐一教授がラスキンについて言われた、センの潜在能力アプローチにもつながる「厚生経済学と福祉国家」の一つの源流のように思われます。

一橋大学と規範的経済学の伝統─理論経済学と経済政策論との対話─

鈴村氏プロフィール写真

鈴村 興太郎

一橋大学名誉教授、早稲田大学名誉教授・栄誉フェロー
日本学士院会員

  • 都留重人(つる しげと、1912年3月6日~2006年2月5日)経済学者。一橋大学第6代学長(1972年4月~1975年3月)
  • シュンペーター(ヨーゼフ・アーロイス・シュンペーター、1883年2月8日~1950年1月8日)モラヴィア出身の経済学者。
    近代経済学の巨匠といわれる。1931年に来日し、東京商科大学(当時)をはじめ、各地で講演を行った。
    一橋大学附属図書館では、シュンペーターがハーバード在籍時に収集した資料の一部を「シュムペーター文庫」として所蔵している

この講演では、先学が種を播き、今後のいっそうの成熟が期待される一橋大学の経済学の知的資産を、《規範的経済学》に的を絞って語ることにしたい。
第一の資産は、一橋大学の実学精神の一側面として、経済政策の構想と実装に積極的に発言する経済学者が、戦後に限っても数多く登場したことである。中山伊知郎と都留重人はその代表例である。皮肉なことに、中山と都留の共通のメンターというべきシュンペーターは、単純な理論の帰結を現実の政策の場に持ち込む一部の学者の傾向を《リカードゥの悪癖》と呼んで戒めたが、中山と都留は《国内開発主義vs貿易主義》論争(中山vs都留)、《戦後資本主義の変質》論争(都留)、《八幡製鐵・富士製鐵の合併》論争(中山伊知郎・篠原三代平vs小宮隆太郎・渡部経彦)など、戦後日本の代表的な経済論争に主導的な役割を果たしたのである。このように政策志向的な理論家は、その主張において失敗した例も少なくないが、こうした失敗例の根を探って経済学の発展の契機とすることも、実学としての経済学の重要な一面なのである。
第二の資産は、経済政策論の理論的基礎とされる《厚生経済学》(ピグー)の構造を批判的に検討して、社会的評価の哲学的基礎を再検討する伝統である。戦前から戦後初期には中山伊知郎、山田雄三が体現したこの伝統は、その後は塩野谷祐一などによって深められて、現代の規範的経済学における非厚生主義的・非帰結主義的なアプローチに流れ込んでいくことになった。経済研究所に最近附置された規範経済学研究センターは、一橋大学の第二の資産を自覚的に継承して、国際的な研究ネットワークの一つのハブに成長することが、現在期待されている。

(2016年1月 掲載)