hq50_img00.jpg

働くことは生きること

  • 株式会社髙島屋 代表取締役専務肥塚 見春
  • 商学研究科教授山下 裕子

2016年春号vol.50 掲載

一橋大学には、ユニークでエネルギッシュな女性が豊富と評判です。
彼女たちがいかにキャリアを構築し、どのような人生ビジョンを抱いているのか?
第48回は、株式会社髙島屋代表取締役専務の肥塚見春さん(1979年、社会学部卒)です。
聞き手は、商学研究科准教授の山下裕子です。

肥塚氏プロフィール写真

肥塚 見春

1979年一橋大学社会学部卒業。同年、株式会社髙島屋入社。夫のアメリカ留学に同行するため1985年に退職し、1987年に再雇用制度を活用して再入社。執行役員広報・IR室長、上席執行役員営業企画部長などを経て、2010年に岡山髙島屋社長に就任。2013年9月に大手百貨店では生え抜きとして女性初の代表権を持つ取締役に就任した。

2015年12月22日、「流通システム」の授業で、「百貨店を経営する、キャリアを拓く」という特別講義をしていただき、その後、お話を伺いました。

男女差別なく働ける髙島屋を選択

山下:肥塚さんは、最初から流通業界を志望されていたのですか?

肥塚:自分は事務系の仕事には向いていないと思っていました。それなら「商い」かなと。叔父が和倉温泉で土産物屋を営んでいてよく手伝っていましたし、高校生の時は地元の百貨店でアルバイトをしました。ただ、男女雇用機会均等法の施行前でしたから、百貨店で女子学生が面接を受けられたのは髙島屋と西武百貨店だけ。髙島屋は処遇に男女の差別がないことにも惹かれました。

対談中の山下氏1

山下:多くの部署を経験されていますね。

肥塚:入社37年で17回異動しています。髙島屋でもかなりレアケースです。中でも印象的なのは、立川の駅ビルに直営店を出店する際の立ち上げから運営を任されたことです。本社からの指示は、「好きにやっていい。ただし、これまでの髙島屋と同じことをしてはならない」。小さくても店をつくった経験は、とても大きかった。私にとって分岐点だったと思います。

山下:オープン前の大変な時期に最初のお子さんを出産されたのですね。

肥塚:オープンが10月で9月2日が出産予定日でした。いつから産前休暇をとったらいいのか分からず、がむしゃらに働いているうちに8月15日に破水して急遽入院しました。今は戒めとして、こんな危ないことはしてはいけないと周囲に言っています。オープン後も大失敗しています。完全買い取りの仕入れで、1000万円ほど売れ残してしまった。本当に辛くて、眠れなかったですね。結局、日本橋店に買い取ってもらいましたが、それ以降、仕入れを変えました。100万円の予算の時は80万円くらいしか買わず、足りない分は、その都度メーカーに仕入れに行く。大判の風呂敷で背中に背負って持ち帰っては店頭に出すという商売をしていました。時間も人手も足りませんから、休日の展示会は子連れで行きましたね。

山下:それだけ頑張られていたのに一旦退職されたのですね。

肥塚:両親や主人、妹夫婦、近所のお母さん方と、皆に手伝ってもらって回していましたが、2人目の子どもができた時に母が入院することになりました。同じ頃、夫から職場に電話があり、「アメリカ留学が決まった。条件は家族同伴だ」。これは、神様が辞めろと言っているのだと思い、退職を決めました。

山下:完全に仕事を離れるつもりでいらっしゃったのですか?

対談中の山下氏2

肥塚:はい。石原さんに緊張しながら相談に行くと、一通り話を聞いた後、「再雇用があれば辞めなくてすむんだなぁ」とおっしゃいました。アメリカに行った年に男女雇用機会均等法ができ、翌年、髙島屋に再雇用制度ができたのです。

山下:石原さんがトップダウンで制度をつくられたのですね。即断即決の行動力が、将来のトップ人材を呼び戻すことになったのだから、感慨深いです。

石原一子氏/1952年東京商科大学(現:一橋大学)卒業。東京商科大学初の女性入学者。卒業後は株式会社髙島屋に入社。1979年常務取締役就任。東証一部上場企業初の女性重役、経済同友会初の女性会員となる。

失敗から逃げない。その先に成長がある

対談中の様子

山下:1987年に髙島屋に復帰され、その後マネジャーから副部長、部長と昇進されていますが、立場によって背負うものや見えるものはどのように変わるのでしょうか。

肥塚:復帰後、店づくりの経験を認められ、新宿店の開設準備に関わることになりました。1996年のオープンに際し、婦人服・下着売り場のマネジャーになりました。マネジャーになって学んだことは、ビジョンを持つこと。それは難しい言葉でなく、誰にでも分かる簡単なものでいいのです。その時は「婦人服・下着売り場で日本一になろう」でした。辛抱強く言い続けることで、黙っていても部下が他店の有力な売り場を見に行くようになりました。
2003年に横浜店の紳士服・紳士雑貨・スポーツ販売部の副部長になりましたが、この時に学んだのは「中間管理職のなんたるか」。上には部長、下にはグループマネジャーがいる。その間で、組織とはこういうものなのかというのを学びましたね。上司の部長が部長時代のロールモデルになりました。

山下:どのような方だったのですか?

対談中の肥塚氏1

肥塚:組織の運営の仕方を本当に理解している方で、「決められないなら、俺が決める」と言う。それは嫌なので、皆が必死に議論する。でも、決めただけではだめで、「責任者は誰で、いつまでに実施するのか」とさらに詰めてくる。副部長の大切な役割は潤滑油になることです。部長の方針に完全に納得できなくても、部下には部長に押し付けられたと思わせてはいけない。組織に船頭は1人でいいのです。翌年、部長になった時に言われたのが、「よく頑張った。今度は、個性を出していい」。よく見ていると思いました。
部長時代に学んだのは、「責任」です。忘れもしない1月でした。その年は個人情報保護法が施行された年でもありました。催事が終わり、クレジットカードの控えが256件紛失したことが判明しました。番号は下4桁が伏せ字なので事故が起こる可能性は低いですが、お客様に不利益な情報はすぐに開示することにしました。五大紙に社告を出し、当時の店長には二度も記者会見をお願いしました。ご迷惑をかけたお客様にはお詫びの手紙だけでなく、閉店後に電話をかけることを毎日1か月続けました。私と副部長、総務や人事にも手伝ってもらい、閉店後から21時半までかけ続けました。そして23時から反省会という日々でした。そして、最後に部下への説明です。朝礼で、社員と派遣社員の方、合わせて1000人弱に説明しました。関連の売り場では、泣き出す女性も多かった。部下を泣かせるくらいなら、もっと厳しくやるべきだったと心底後悔しました。
その後の異動で、ディビジョン長になりました。全19店舗のバイヤー軍団の総責任者です。2006年に新宿高島屋のリニューアルに向けて週に1回、専務に役員室でプレゼンしたのですが、よく怒られましたね。もう50歳になっていたのに、1年間怒られつづけた。ストレスは溜まりましたが、悪い点を指摘してもらえたのは、ありがたかった。厳しい人ですが、新宿髙島屋をこうしたいというロマンがあると感じたから、ついていくことができたのです。

高くジャンプするために、まず、しゃがむ

対談中の肥塚氏2

山下:そして執行役員として広報・IR室長に就任され、さらに2010年に岡山髙島屋の社長に就任されます。

肥塚:岡山髙島屋は両備ホールディングスの出資を受けていますが、そこの小嶋光信社長(当時)が、岡山髙島屋の会長でした。小嶋さんが、次の社長はぜひ女性にしてくれと要請されたのです。

山下:地方交通の再生請負人、貴志川線のたま駅長の発案者として有名な方ですね。小嶋さんとタッグを組んで赤字企業を短期間で黒字転換され話題になりました。結果を出すためにどんなことをされたのですか?

肥塚:岡山髙島屋は、2億5000万円の赤字企業でした。現地でまず目にとまったのが、外装のテントの色あせ。床も薄汚れていました。赤字企業だと替えられないのです。予算がない中でどう立て直すか。まず、新聞、テレビ、ラジオ、すべて挨拶回りをし、「岡山髙島屋初の女性社長です。ぜひ取材を」とお願いしました。ただし、取材場所と写真は岡山髙島屋で、と注文をつけて。取材の日までにはきれいにしたいが、テントだけで250万円かかる。決算日を前に前任の店長に頼み込んで、前任の責任でまずテントを替えました。実際には店は変わっていなかったのですが、変わったというイメージを伝えられたのではないかと思います。同時に、商品とサービスとおもてなしを向上させるプロジェクトも立ち上げました。皆が頑張ってくれて、「サービスしたいチーム」は今でも残っています。
引き続き店舗の改装も必要でした。たとえば1000万円の改装は難しくても、100万円でも200万円でも着実に取り組んでいこうと、身の丈に合ったやり方で進めました。

対談中の山下氏3

山下:改修しないとお客さんを呼び戻せないが、改修すると赤字が増える。安っぽい改修をしてしまうと百貨店らしさが損なわれてしまいます。黒字転換という課題は非常に重いものだったのではないですか?

肥塚:小嶋社長が、「世の中の常識では、赤字会社はボーナスを出せない」とおっしゃったのです。「1回しゃがまなかったら、大きなジャンプはできないよ」と。非常に辛い判断でした。髙島屋の場合、賞与は中央で一括交渉でしたから赤字でも出るのに、そこを敢えてカットする。単独での賞与交渉は、全社的にも初めての経験でしたが、全社員に直接、私が説明しました。13回、会社の経営状況を説明しました。そんな中、早期退職優遇制度で、大量に要の人材が退職してしまったのです。さらに、追い討ちをかけるように、食中毒事件が起きた。

対談中の山下氏4

山下:どれだけのご苦労か想像もできませんが、その結果、1年で、黒字転換を達成された。

肥塚:10円でも黒字は黒字です。マイナス10円でも赤字は赤字、天国と地獄ほど違います。営業利益をどうやって出していくのか、そのためにどうやって皆にその気になってもらうのか。同時に経営の土台を固めていかなければなりません。

山下:翌年、大きなジャンプをされたそうですね。

肥塚:残って手をつないで頑張ることに決めてくれた社員たちに、大規模改修しようと約束しました。本社の決裁を取り付けないと予算は確保できない。本当にいろいろな部門の方々が助けてくれたのです。

山下:黒字化していなかったら手をさしのべたくてもできなかった......。

肥塚氏と山下氏写真

肥塚:黒字になったのは、社員や派遣社員の方の努力の賜物だと思います。岡山に向けて出発する時に、先の専務に「岡山のお客様に誠意を持って寄り添うんだぞ」と言われました。「お客様に寄り添う」というのは、本当にいい言葉。すべての髙島屋の活動の根源だと思います。

山下:経営ってここまで体を張って頑張る甲斐があることなんだな、と心の底からエネルギーがわいてきました。最後に、若い皆さんへのメッセージをお願いします。

肥塚:働くということは、生き方を選ぶのと同じだと私は思っています。自分が生きてきたこと、守ってきたことは、仕事のやり方にそのまま表れる。会社の先輩に「商いは学歴じゃない、知恵を使うかどうかだ」と言われたことがあります。知恵を使うためには、人間としての素養が必要です。深い学識と教養をお持ちの経営者の方が多く、いつも刺激を受けています。勉強することによって得られる忍耐力や理解力、素養としての知識や学問は生き方に表れます。今だからできることを真剣にやってほしいと思います。

対談を終えて「英雄の条件」

働くってこんなにカッコいいことなのか!
息を呑んで耳を傾ける学生達と一体となり、お話に聞き惚れてしまった。華のあるお姿に、凛と通る声、大勢の人を率いてこられたオーラが漂う。素敵・素敵・素敵。
次々と大役に抜擢され、先々で大きな困難が待ち受ける。がぶりと四つに組み解決すると次のステージにパワーアップ。武器が一つずつ備わっていく。ワンシーンごとに守護神も現れる。石原一子さん、たま駅長の小嶋さん、改修を後押ししてくれた木本さん(現株式会社髙島屋社長)......。ある上司の方がダース・ベイダー似だったと、映画の封切に合わせて笑わせてもくださった。そうか、スターウォーズ!まさに、英雄の物語なのだ。
すべての人の人生がそうなるわけではなかろうに、なぜ、肥塚さんのキャリアは英雄譚なのか?
第一に役割。今自分は何をすべきか、その定義が明快である。英雄譚では天命(Calling)。
第二に責任。役割に対して100%責任を完遂する。コミットメント。
第三に学習。失敗してもそこから必ず学ぶ。次に活かすことで成長する。変容。
あるいは、組織論そのものにも見えるが、目先の人間関係だけを尊重する「組織の論理」ではせいぜいが浪花節である。英雄には、「正義」がふさわしい。
事業主として本社に責任を取り、経営者として従業員に責任を取り、会社として顧客に、そして、株主に責任を取る。「ビジネスの論理」「市場の論理」を通じ、外に向かって開いていくことで、組織内の役割は、天命になるのだ。
奇遇だが肥塚さんにお話を伺った数日前に、石原一子さんとお食事をする機会に恵まれた。肥塚さんが家族の事情で退職された時、ただちに再雇用制度をつくられた。それから30年も経つのに、一度も「あなたのために制度をつくったのよ」とおっしゃったことがないそうだ。そんなこと口にしたらあっというまに、せせこましい個対個の恩着せ話になってしまう。「社会にとって必要だからつくった」。
英雄の前に英雄あり。新しいエピソードが紡がれていきますように。

山下 裕子

(2016年4月 掲載)