380_main.jpg

道を拓く、国を開く

  • 参議院議員高橋 はるみ
  • 経営管理研究科教授山下 裕子

2020年3月17日 掲載

一橋大学には、ユニークでエネルギッシュな女性が豊富と評判です。
彼女たちがいかにキャリアを構築し、どのような人生ビジョンを抱いているのか?
第59回は、1976年経済学部卒、参議院議員で前北海道知事の高橋はるみさんです。
聞き手は、経営管理研究科教授の山下裕子です。

高橋 はるみ氏プロフィール写真

高橋 はるみ(たかはし・はるみ)

1954年富山県富山市生まれ。1976年一橋大学経済学部卒業。同年、通商産業省(現・経済産業省)入省、1985年大西洋国際問題研究所(在パリ)研究員、2000年中小企業庁経営支援部経営支援課長、2001年1月北海道経済産業局長、2002年12月経済産業研修所長。2003年4月~北海道知事(4期連続当選)。2019年7月~参議院議員、現在に至る。

結婚するならば、と
ユニークな大学を目指し一橋大学へ

経営管理研究科教授 山下 裕子

山下:この「一橋の女性たち」という企画をスタートさせて20年近くたちますが、ようやく高橋さんをお招きでき、長年の夢がかないました。個人的なことですが、高橋さんは私にとって輝ける星でしたから。

高橋:そうでしたか。ありがとうございます。

山下:中学・高校・大学と母校を同じくする先輩は数が極めて限られ、女性では1人に絞られます。その1人が、なんと高橋さん。富山時代から、「凄い先輩がいらっしゃる」と思っており、それがいつまでも、そしてますます輝きを増しておられる。今日は、遠くで輝く高橋さんのお近くで、パーソナルストーリーに迫れたらと思います。

高橋:あまり参考にならないかも。というのも、「女性でも頑張ってこういう人になるんだ」なんていう意識などさらさらなく、肩肘張らずにやってきましたから。

山下:中学、高校時代はどんな将来像を思い描いていらっしゃったのですか?

高橋:父は私には大学に通わせたら後は嫁に行かせようと思っていたようです。入学してすぐ、お見合いをさせられましたから。

山下:本当ですか!?

高橋:戦前のようでしょう(笑)。でも、相手から断られてしまったんです!

山下:本当ですか!高嶺の花すぎていらっしゃったのでしょうか……。

高橋:結果的にずっと働き続けてきましたが、中学、高校時代は自分の生涯を思い描いたことなんて一度もありませんでした。ただ、一つだけ思い当たるのは、負けず嫌いな性格で競争ごとには本気で取り組んだということでしょうか。高校時代にテストの順位が張り出されたのですが、そこに自分の名前がないのはとても腹立たしいと猛勉強しましたね。そうしたら、ベスト10に入って「やった!」と。

山下:一橋大学を選ばれたのは?

高橋:教育県の進学校で、上のほうの生徒には「行くなら東京大学か京都大学」という志向がありました。私も偏差値的には可能と言われましたが、もっとユニークなところに行きたいと思ったのです。それで、一橋に。

山下:負けず嫌いで成績ランキングにこだわっていたのに、ですか?

高橋:今はそんなことはないと思いますが、当時の東大や京大には古くからの権威の象徴のような雰囲気を感じてしまって。そんな凄いところを卒業してお嫁に行くというイメージがなかったのね(笑)。結婚はしたいと思っていましたので、ならユニークなほうがいいかな、という感じだったと思います。

山下:当時の一橋は男子ばかりだったのではないですか?

参議院議員 高橋 はるみ氏

高橋:ええ、同期の女子は30人ぐらいで、経済学部はたったの3人。本館に女子トイレがなかったんですよ。入試の時、女子トイレが見つからず右往左往しました(笑)。

山下:そんな時代もあったのですね(笑)。経済学部を選ばれて、名門といわれた荒憲治郎先生のゼミに入られましたね。

高橋:入学してすぐ国際交流活動学生団体のAIESECに入ったのです。その先輩に、荒先生のゼミに入っている人が結構いて、女子は誰も入ったことがないと聞いたので、仲が良かった女子の友だちと受けてみようと。

山下:AIESECに入ったのは、どういった動機でしたか?

高橋:誰かに勧められたと思いますが、私も外国人と仲良くしたいと考えて参加しました。そして、そこで1歳上の夫と出会ったのです。卒業後に通商産業省(現・経済産業省)に入省して2年目の1977年に結婚しました。それから40年以上という想像を絶するほど長い間、連れ添ってきています(笑)。

山下:まさに運命的な出会いでしたね。大学に入った頃から、将来は専業主婦というイメージでいらしたのですか?

高橋:私の同期の女子で卒業後に就職した人はほとんどいませんでした。まだ男女雇用機会均等法施行前で、民間企業への女子の就職が厳しい時代でしたから。結果的に私は稀有の就職組になりました。

画像:対談中の様子

民間への就職が厳しく
自然と国家公務員へ

山下:公務員試験を受けたのは、どういった動機でいらしたのですか?

高橋:一番仲が良かった友だちが受けるというので、じゃ私も、と。

山下:お祖父様が富山県知事を歴任し、お父様が素晴らしい経営者で、お母様も教養のある方という家柄でお育ちになったから、「国のために頑張ろう」という信念をお持ちだったのだと思っていました。

高橋:母に関しては、一度も社会に出て仕事をせずに家庭に入ったことを悔やんでいました。私のお見合いが不首尾に終わった後で、「女性も職業を持ったほうがいい」と言っていましたね。

山下:公務員試験は難しかったのではないですか?当時は、一番優秀な学生が志願されていた印象があります。

高橋:当時の一橋の男子学生は銀行や商社志望が多くて、公務員志望は少なかったような気がします。優秀な人が公務員になるという印象もありませんでしたね。女子としては、民間企業への就職が厳しかったから、就職するには公務員が早道との思いもあったと思います。それで受かったので、自然とそのレールに乗ったという感じでした。

山下:民間企業への就職が厳しい時代、「女は損をしている」「男に負けたくない」と肩肘張るような人はいなかったですか?

高橋:いたかもしれませんが、そういう話をする女子はいませんでしたね。何となく学食でおしゃべりしていただけで、「私は働くのよ!」とか「女の時代をつくる!」とか、ましてや「政治家を目指すわ!」なんて話は皆無。そこに違和感もなかったですね。

〝通常残業省〞で
ワークライフバランスを取るには

画像:対談中の山下裕子 1

山下:就職後すぐに結婚して子宝にも恵まれ、20代は怒涛のような日々だったのではないですか?

高橋:そうですね。私、その頃には、仕事はフルタイムでやりたい、夜お酒も飲みに行きたいと、男がやっていることは全部やりたいし、女にしかできない出産も絶対したいと思うようになっていたんです。

山下:自然に男性社会に入る感覚だったのでしょうか。仕事は忙しかったのでしょうね。

高橋:今はそんなことないでしょうし、もう時効だから言いますけど、当時は〝通常残業省〞って言っていました(笑)。

山下:通常残業省(笑)。国際的な交渉があったり、夜の仕事もあったり。お嬢さんだった方が、いきなりそんな厳しい世界でさぞご苦労されたのではないですか?

高橋:当初は、何時に帰れるかが分からないのに面食らったこともありましたが、隣の課の同期の男性も同じでしたから、皆がそうなら仕方ないって思いましたね。若い頃は法改正に巻き込まれる国会対策の仕事ばかりです。法令の前例を探すのですが、当時はデータベースなんて便利なものはありませんから、六法全書を最初からめくって探すんです。それに時間がかかりましたね。でも、嫌いな仕事じゃなかったですよ。

山下:そしてお子様が誕生されるのですが、働き方はどのようでしたか。

高橋:当時は育休がなく、3か月の産休が明けたら出勤しなければなりません。富山の両親に預かってもらったのです。両親に頼りっぱなしでした。悲しい思いもしました。赤ん坊って親が誰かって認識がないから、いつも世話をしてくれる大人になつくでしょう?私は長男を平日はずっと両親に預けていたから、私が抱こうとすると嫌がって両親のほうに腕を伸ばすんですよ。これは悲しかったですね。2人目の子は、10年目に研究員として赴任したパリの大西洋国際問題研究所時代に産み、家政婦さんも雇ったので両立できましたけれど。

山下:そこまでして仕事を続けられたとは、キャリア女性像として凄いなと思います。やはり、そういう家柄に生まれ、ミッションを背負って頑張っている女性というイメージがあります。

画像:対談中の高橋はるみ氏 2

高橋:負けたくないって思っていたのかもしれませんね。仕事も子育てもちゃんとやりたかった。仕事は「絶対にこの仕事」って選んだものではなかったけれど、やってみたら自分にとても合っていて面白かったし、子どもは可愛いし、どちらもとても大事なものでしたから。

山下:帰国後も家政婦さんは雇われたのですか?

高橋:ええ。パリ時代に、他人の力を借りることを覚えて。家庭の中に赤の他人がいて、かつ、お金の管理も含めてすべて任せるわけです。勇気が要りますよ、子どもの命まで託すのですから。全面的な信頼関係がなければ不可能です。

山下:それができたことが大きかったんですね。

高橋:北海道知事になってからの16年間の札幌生活でも、ずっと同じ家政婦さんと同居していました。知事をしていると、さすがに家事はできませんから。

山下:そんな家政婦さんはどのように探されたのですか。

高橋:信頼できる方からの紹介です。信頼できる方が信頼しているなら大丈夫だろうと。

よそ者だからこそ
地域の潜在力を信じ
リーダーシップを執る

山下:北海道知事になられた経緯とは?

高橋:2001年1月に北海道経済産業局長の辞令が下りて、札幌に単身赴任しました。2年ほど全道を回って北海道の産業振興策を探りましたが、そんな私を北海道が地盤だった衆議院議員の故・町村信孝先生が目を付けてくださって、「面白い」と2003年4月の知事選に推してくださったんです。北海道は縁もゆかりもなくて、出張で1、2回来たぐらい。そんな人が2年仕事をしただけで「知事にいい」って言ってくれるのですから、北海道の人は本当に大らかだと思います。

画像:対談中の山下裕子 2

山下:局長になる前、自治体の首長になる気持ちはおありだったのですか?

高橋:全く。けれども、護送船団方式で守られていたはずの北海道拓殖銀行が1997年に破綻して、赴任当時、北海道の経済界は自信を失っていました。「国は北海道を見捨てた」とまで言う人もいました。そんな暗い雰囲気の中、私はよそ者だったからこそ、北海道の資源の素晴らしさに瞠目どうもくできたんだと思います。8万3424km2、国の約22%という広大な大地の中に、多様な自然環境、観光資源、豊富で新鮮でおいしい食物が溢れている。これで地域おこしをすればいいのに、と思いましたが、道民は悲観していたわけです。ならば、自分がその先頭に立とうと。

山下:政治家志向が芽生えた?

高橋:というより、純粋に潜在力がある地方を日本一にしたい、そのためにはトップに立つ必要がある、という発想ですね。地域づくりには経済産業政策だけでなく、医療や福祉、インフラなどあらゆる政策手段が必要になりますから。立候補を決める時は、真剣に考え抜きました。

山下:北海道の産業構造の在り方には、どんな課題があったのですか?

高橋:建設業のウエイトがとても大きかったんです。明治以降、短期間のうちに国直轄でインフラ整備をどんどん進めたから。一方で、素晴らしい食材も北海道の大きな魅力で、その加工業なども育てる必要がありましたし、観光資源も磨く必要がありました。ものづくりは他の地域より弱かったのですが、知事時代の16年でだいぶ蓄積が進んだと思います。こうした政策については、経産省時代に学んだ経験が必ず役立つと思いましたね。

山下:経産省はカバーしている産業の範囲も広いですからね。地方自治で総合的に対処するにはその経験が大いに役に立ったのですね。

高橋:そのとおりです。重厚長大産業からサービス産業化への対応や、エネルギー問題、伝統的な分野として中小企業政策も重要、知的所有権も大事、と幅広い分野をカバーしています。

山下:そういったいわばソフト化の流れは、女性だからこそ見えたということはありますか?男性社会のカラーが濃い地方自治の中で、女性だからここぞという時にパッと動けたというようなことは?

高橋:知事選の時は、先ほど申し上げたように、北海道の潜在力を形にしたいとの思い一つです。落下傘候補者として反対陣営やマスコミからの意見もありましたが。当選できた大きな要因は、人口集積度の高い札幌市の10ある行政区のすべてで勝てたことです。おそらく女性有権者が支持してくださったんだと思います。「これまでできなかった地域づくりに前向きだというなら、やらせてみよう」と。

画像:対談中の高橋はるみ氏 1

山下:新天地を、母なる大地を耕すように革新していくというのは素敵なことですよね。北海道の人と選挙を通じて、共感する女性たちの気持ちがまとまったというのは素晴らしいことだと思います。

高橋:まあ、選挙は結果論で、勝ったからそんなことが言えるんでしょうけど(笑)。

山下:もし落選していたら、どうなさるおつもりだったのですか?

高橋:夫が「その時は扶養家族になれば」と言ってくれたので、迷いは吹っ切れました(笑)。

山下:伴侶の力ですね(笑)。女性として知事という要職を4期も務められました。史上初、本当にミラクルだと思います。

高橋:女性は大きい組織の中では挫折すると言われていました。私は道庁を下から上がっていったわけではありませんが、知事になった時2万人の職員がいたのです。今は民営化や独立行政法人化で1万3000人まで減りましたが、それでも大組織です。それを女性の力でも4期も束ねることができました。女性でも首長としてのリーダーが務まるということです。もっと女性の皆さんには自信を持ってほしいと思います。

山下:どんな秘訣があるのでしょうか?

高橋:知事の権限ってもの凄く大きなものがあるのですが、16年間、権限を行使していると思ったことは1日たりともありません。自分の信条として、知事とは道内で誰より仕事をし、道に奉仕する人間であるという思いがありました。

山下:サーバント・リーダーシップですね。

高橋:そうです。

地域で蓄積した知識、
実施したノウハウを
全国に活かしたい

山下:そして、2019年4月、知事を任期満了で退任され、7月の参議院選に出馬して当選されました。転身にはどういった思いがありましたか?

高橋:5期目もやらないかと声をかけていただいて、考えたのです。けれども、ここは新しい方に譲ろう、自分は16年間学び実行してきた知見やノウハウをもっと別の場で活かしてみたい、と。それが国政でした。

山下:北海道の大地の恵みを活かすに匹敵する、どういったビジョンを国政に持たれたのでしょうか?

高橋:北海道で実践した振興策を、全国的に展開していくということです。北海道は再生可能エネルギーの宝庫でもあり、その全国展開もあります。地域で実施できたノウハウを全国に活かせることは山のようにあります。特に、2018年の胆振東部地震の際には、全道がブラックアウトするという、国民が経験したことのない大事態を招きました。こうしたことを二度と起こさないための施策は、地方だけでなく国政を動かす必要があります。

山下:ぜひ頑張ってください。最後に、一橋大学の後輩にメッセージをお願いいたします。

高橋:未来は明るいと信じて精一杯頑張ってください。その一言ですね。

山下:ありがとうございました。

画像:対談後の高橋はるみ氏と山下裕子の写真

対談を終えて「義のリーダーシップ」

高橋さんは、中・高・大を通しての大先輩であることに加えて、お父様が社長を務められた会社に私の父が長く勤務していたというご縁がある。さらに、弟の新田八朗さんも先輩である。お二人の存在がなかったら、私はおそらく一橋大学に進学していないはずだ。幼少の頃から、行く先に輝く星のような存在だった。第60回という節目を目前とした「女性たち」にご登場いただくのはこの方以外にないとお願いした。
緊張して議員会館のお部屋の扉を開けると、柔らかい物腰で出迎えてくださった。若い時からさぞかし高い志を持ってキャリアを開拓されてきたのだろうなあ、と信じて疑わなかったが、進学時、仕事をするなんて考えてもいなかったとおっしゃるではないか。
こんなに穏やかで上品な方がハードな世界をよく生き抜いてこられたものだなあとお話を伺っていたのだが、北海道赴任に話が及ぶと、穏やかな中にも声の張りがくっきりと増し、農と観光に立つ北海道の未来がはっきり見えたと力強く語られた。正しさのもとに迷いはなかった。明快な決意の言葉を聞いた時、ああ、この方は、本当の意味での義の方なのだなあと思った。
北海道の農を拓いた新渡戸稲造は、『武士道』の著者としても名高い。義を武士のコードのうちでも最上位に位置する訓としている。オリジナルの『Bushido』での表現は、Rectitude or Justice。Rectitude(正直)は、誤解を招く表現であり、少し狭すぎるだろうと始め、「義とは、決意(resolution)の力であり、理(Reason)に基づき、行為を迷いなく決める力を指すのである。義が義理になると曖昧になり、堕落する。"正しい理由"から遠く離れながらその名を借りる"GIRI "は、怪物のような誤称となり、その翼の下に、あらゆる詭弁と偽善を隠し持つようになったのである。」(『武士道』)
立派なお家柄だから「諸般の義理」があって立候補されたのだろう、とボンヤリと思い込んでいた。いやいや、GIRIではなく、今ここでやるべきという純粋なJusticeにまっすぐに従われたのだ。何の義理もない新天地、北海道の女性たちが、義に賛同された。
ご家庭のマネジメントについても、フランスへの赴任にあたり家政婦さんを日本から連れていかれたと伝え聞き、恵まれた家庭環境だからこその発想だと思っていたけれど、赴任先での仕事と家庭の両立のための義の決定だったのだろう。だからこそ、その義はご両親をも動かした。お孫さんを富山で預かりベビーカーを押して一生懸命育てていらっしゃった新田社長ご夫妻の姿は、私の両親の瞼に焼き付いたものらしく、家では縦のものを横にしたことのない保守主義な父が一言の苦言も呈することなく私の子育てのサポートを買って出てくれた。今何が必要かを合理的に判断し決意に従う、本来の義は、女性たちも、父親たちも動かすのだ。
「農は万年を寿ぐ亀の如く、商工は千歳を祝ふ鶴に類す。」北海道の鶴亀を、日本にも末広げてください。はるみさんが日本にいてくださって本当に良かった。

山下 裕子