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ランボオの詩の彼方に

  • アジア開発銀行木村 寿香
  • 商学研究科准教授山下 裕子

2015年秋号vol.48 掲載

一橋大学には、ユニークでエネルギッシュな女性が豊富と評判です。彼女たちがいかにキャリアを構築し、どのような人生ビジョンを抱いているのか?第46回は、北京に在住し、アジア開発銀行で環境インフラストラクチャーの投融資業務に携わっている木村寿香さんです。聞き手は、商学研究科准教授の山下裕子です。

木村 寿香氏プロフィール写真

木村 寿香

1993年一橋大学商学部卒業。London Business Schoolで金融学、ImperialCollege Londonで環境経済学の修士をそれぞれ取得。Harvard KennedySchoolにてInfrastructure in a Market Economy修了。第一勧業銀行、Ernst& Young、欧州復興開発銀行を経て、2006年にアジア開発銀行に入行。東アジアの環境インフラストラクチャー(クリーンエネルギー、地域暖房供給、水、ごみ処理等)プロジェクトへの投融資を担当。現在は北京駐在。

一人前になるまでは、会社を辞めロンドンに在留

木村氏1

山下:木村さんは現在、アジア開発銀行で、環境インフラのプロジェクト投資を手がけていらっしゃるとのことですが、卒業後金融業界に進まれたのですね。

木村:はい。第一勧業銀行(現・みずほ銀行)に総合職で入行しました。当時は、女性総合職がまだ珍しく、取引先企業が「えー、女の子?」という時代でした。既存の重要法人の担当はできず、新規開拓のため、自転車で東京・神田、大手町を駆け回っていました。

山下:ロンドンに赴任されたというのは、入行何年目の時ですか?

山下准教授1

木村:入行4年目です。ロンドンでは、国際金融をゼロから学びました。昼は非日系コーポレートの担当、夜はビジネススクールに通いました。そして2年間過ごした時、東京に戻るという辞令がでました。

山下:ロンドンに残りたいと思ったのはなぜですか?

木村:仕事やビジネススクールでの勉強を通じて、ようやく国際金融の右と左が分かり始めたところでした。ここで一人前になるまでは東京へ戻れない、と退職を決めました。遠く日本から国際業務に関わるよりは、そのまま修行を続けるためロンドンに残りました。

「地獄の季節」砂漠の商人・ランボオに憧れ商学を学ぶ

対談の様子

山下:その後のお仕事について伺う前に、ちょっと遡って一橋大学に入る前の歩みを伺いたいと思います。

木村:中学・高校生の頃は文学少女でした。一橋大学の商学部を選んだのは、「新しい風が吹いている」という赤本の見出しにロマンを感じたからです。砂漠の商人だったアルチュール・ランボオのように、海外を放浪し詩を書きながらビジネスをすることに憧れました(笑)。

山下:一橋大学の学生生活はどうでしたか?

対談の様子2-山下准教授

木村:最初はもがきました。男子ばかりで。商学部に入ったものの、教養科目に関心を持てず、方向を見失いました。体育会や国際部で活躍する同級生がまぶしかった。2年生に進学した時に胃潰瘍になったのをきっかけに、思い切って1年間休学することに決めました。休学中は、ありとあらゆる本を読んだり、ブリティッシュ・カウンシルでアルバイトをしたり、赤坂のゲーテ・インスティトゥートでドイツ語を習ったり、旅行をしたりしていました。
復学しようと思ったきっかけは、成人式の着物のかわりに親にねだってエジプトへ1人で行かせてもらったことです。ちょうどラマダーンの時で、日本では想像できない風景の中、改めて世界は広いんだと実感しました。砂漠で不思議と自分の居場所を感じました。海外で働ける仕事に就くために勉強しようと復学しました。
大学時代忘れがたいのは、当時一橋大学長に就任されたばかりの阿部謹也先生にインタビューしたことです。阿部先生はちょうど「世間」についての研究をされていた時で、こう言われました。「世間というのは自分の中にある」。世間がどうとかいうのではなく、それをやらなければ死んでしまうということを追究すべし、と。留学生のための新聞インタビューでしたが、とことん悩んで挫折した大学生活の中で光が見えた瞬間でした。

「計画経済」から「市場経済」へ
旧ソビエト圏のインフラストラクチャー復興のノウハウをアジアへ

対談の様子-木村氏

木村:ロンドンでは、第一勧業銀行を辞めた後、会計事務所のErnst & Youngを経て、欧州復興開発銀行に転職しました。欧州復興開発銀行は、ソ連崩壊後の東欧やバルト諸国などの復興支援を目的に設立された銀行で、私は資源エネルギーのインフラ整備のためのプロジェクトファイナンスに関わりました。ソビエト時代、共産党一党支配の中央集権国家では、国の福祉政策の一環としてインフラを計画、整備していました。しかし、ソビエトが崩壊し、計画経済から市場経済へと移行すると、インフラ整備は政府が手を引いたため真空状態になり、そこに民間事業者が政府から「コンセッション」を得て、インフラストラクチャーの設計、建築、運営を行うことになりました。そのプロジェクトに、投資や融資をするのが私の仕事でした。コンセッションはフランスでは100年以上の歴史があるモデルですが、それがベルリンの壁崩壊後の旧ソビエト圏に急速に広まったのです。

木村氏2

山下:国家的なインフラ整備だと、国が主体となって国際競争入札で企業を選定するというパターンが多いですよね。新興国の民間プロジェクトに対して投資や融資をするというのは、リスクが高くはないのでしょうか?

木村:事業会社は、20年、30年という単位でコンセッションを得て事業の建設だけではなく運営の責任もとり、利益を追求するためにデザインもコスト管理も緻密に計算します。私たち銀行側でも技術の専門家とともにプロジェクトのあらゆる側面を精査してリスクをコントロールします。発電所や水道設備のような案件は、基本的にエンドユーザーからの電気料金や水道料金の支払いが融資の返済原資となります。たとえば、それまで水道の使用に時間制限があったり、水質が良くなかったりしたものが、24時間良質の水を使えるようになることで、エンドユーザーの満足度が高まれば、水道料金の値上げも可能になります。徹底したコスト削減によって、収益を増やすことも可能です。
インフラストラクチャーの整備には数千億・数兆円という規模の費用がかかり、都市計画、土木、建築、運営、金融と幅広い分野の知恵が必要とされます。また、プロジェクトの選択は、私たちの世代を超えて数世代に影響を与えます。私は民間企業の高い技術力と斬新なビジネスモデルに、今後いっそうのポテンシャルを感じています。たとえば、スラムの解体と新しい団地付きショッピングセンターの経営や、地下鉄の建設と運営、駅前の不動産開発などを組み合わせるといったアイディアで、コストを削減したり、収益を上げ、都市問題を解決する道筋をつけることも可能だと思います。

山下准教授2

山下:これからの時代は、空間や文化といったものがますます大事になると思います。地域再生・都市再生とよく言われますが、形のないものを再生させることに予算がつかないケースも多い。環境問題を含めて大きなテーマですね。

木村:都市は生きています。過去に美しかった街でも、老朽化が進むと人は離れていきます。従来は国や公共団体が予算をつけていましたが、民間事業会社を巻き込み、インフラストラクチャーとプラスαを組み合わせることで、新しい価値を創造することができると思います。政府だけではなく、民間企業のできることはものすごく大きいと思います。オランダの地方都市アイントホーフェンでは電機メーカーのフィリップスが多額の資金を美術館に投資し、街をアートで活性化し、世界中の優秀な人材をひきつけました。東京の六本木、晴海、丸の内再開発などのノウハウはアジアの他の国でも応用されています。大都市の再生と周辺の地域の案件を組み合わせる、エネルギーと水と農業のセクターをつなぐなど、それまで小さな点だったプロジェクトを縦や横につなぐことによって、新しい解決方法が見えてくると思います。

山下:欧州復興開発銀行から、アジア開発銀行に移られた理由は何だったのですか?

2人で立って記念撮影

木村:ハンガリーやチェコがEUに加盟していくのを目の当たりにして、私はアジアでも市場経済移行国の環境問題に民間のインフラストラクチャーを通じて取り組みたいと思いました。アジア開発銀行に転職し、今は中国とモンゴルで、日本をはじめとする世界中の民間企業が環境インフラストラクチャーを建設し運営するプロジェクトに、投資や融資をしています。空気や水の汚染を、民間企業の斬新なビジネスモデルと日進月歩の新しい技術とでどう改善することができるのか、世界中のケースから学びつつ解決策を追究しています。

山下:たいへん楽しみです。最後に、読者へのメッセージをいただけますか?

木村:人生にはさまざまな季節があって思いのほか長い。地獄のような過酷な季節も、早春のようなワクワクした季節も自分の中の「世間」の壁を壊すチャンス。もっと自由に生きていいんだと思う。情熱を信じて。

  • コンセッションとは、公共事業等に関して、公共団体が、施設の所有権を維持したままで、事業運営を行う権利を与える方式である。

対談を終えて「詩人と商人と」

お話しするのがとても楽しみだった。Facebookで垣間見る生活は、北京の空、空港のラウンジ、モンゴルの大地、そして、南国のマニラへ。どんな毎日を送っている方なのかしら?
一橋大学を志した理由が、ランボオと聞いて、ほおーっと思う。ランボオ好きの少女が、環境投資のスペシャリストとして活躍するようになるまでに、どんな半生があったのだろう?
木村さんの人生の節目節目は、印象深い風景と分かちがたく結びついている。方向性を求めてもがいた大学生時代のエジプト、ボランティアの世界に飛び込んだソマリア......まさにランボオの世界!思わず、ランボオの詩集を手に取ってしまった。
10代の頃の欧州の放浪の旅の光景をスケッチした『イルミナシオン』には、1871年パリコミューンの頃の膨張した大都市が明晰に切り取られている。鋼鉄の船舶、高層建築、橋梁、スラム、労働者、貧困とショッピングモール、煤煙、騒音、疫病、大洪水、狭小で粗末な郊外住宅......まるで、現在の新興国の都市ではないか。今回木村さんと話をさせてもらったおかげで、まさに、ランボオのとき・ところでこそ、コンセッション方式が編み出され、公共インフラの整備が可能になっていったのだと気がついた。その手法が100年後に、かつての「砂漠」を都市へと変えている。
最も印象深かったのが、カスピ海のお話である。木村さんが、エネルギー関連インフラの投資を手がけるようになった欧州復興開発銀行のプロジェクトで、東側諸国を頻繁に訪れていた当時、カスピ海に浮かぶ石油採掘プラットフォームの現場で、痛々しい環境破壊の光景が目に焼きついたそうだ。それが、さらに環境経済学を学び、環境インフラの投資へとキャリア転換を図るきっかけとなったという。
現場に赴き、自分の眼で見て、考え、行動する。詩人と商人のランボオの断絶を後世の人間は謎としてとらえてきたが、木村さんのお話からは、ビジネスにこそ、クリスタルクリアな観察眼が必要だし、詩作にこそ、決定的な現場に居合わせる行動力が必要なのだということがよく分かる。観察眼と行動力は新しい道を切り開くのに必要だが、その二つを持ち続けるには情熱が必要だ。時に不器用とも思えるほど、クリスタルな生き方を貫いてきた木村さん。だからこそ、紡いできた人生の織物は、色とりどりの糸が絡み合い深い味わいを醸し出す。ぎゅーっと抱きしめたい。不遜ながら、心から、そう思った。

山下 裕子

(2015年10月 掲載)