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前近代の法体系から、現代の法体系をとらえなおす

  • 法学研究科講師松園 潤一朗

2017年冬号vol.53 掲載

松園 潤一朗

松園 潤一朗

専門は日本法制史。研究は日本中世の法制史(特に、土地法や債権法、それらに関する裁判法)を中心とし、前近代法の固有性やその意義などについて検討している。北海道大学文学部卒業。一橋大学大学院法学研究科博士後期課程修了、博士(法学)。一橋大学大学院法学研究科特任講師(ジュニア・フェロー)・同非常勤講師などを経て、2014年4月より現職。大学院の「日本法制史」、学部の「日本法制史」「日本近代法史」等、日本の古代から近代までの法の歴史に関する授業を担当している。

日本の中世には、ヨーロッパの法と比較可能な法の観念や制度が存在した

私が研究対象としているのは「日本法制史」ですが、その中でも特に中世(鎌倉幕府~建武政権~室町幕府)を専門的に研究しています。従来研究の乏しかった室町幕府の法や訴訟制度を中心に検討してきました。もともと中世に着目したのは、日本の法制史を研究するうえで最適な出発点だと考えたからでした。
日本の江戸時代までの法体系は、近代に継受されたヨーロッパの法とは大きく異なる性質を有しています。ヨーロッパの法は、民法や商法に代表されるような私法、いわゆる「私人」相互間における法が発展したところに大きな特徴があります。それに対して、たとえば江戸時代は──時代劇などで過酷な刑罰を科すシーンがありますが──「国家」が民衆に対して刑罰を下すタイプの法体系(刑事法)が発展した時代でした。諸説ありますが、江戸幕府が権力を統合した強力な政権だったことが背景にあると言われています。
ところが中世の法体系は、近世法に連なる要素を含みながらも、もう少し性質を異にしていたように思います。と言いますのも、さまざまな領主が一定の自律性を持った支配を行っていた中世には、国家権力と呼べるような強力なまとまりはなく、そのぶん法の中心領域というのは刑罰を定めた法よりも、個人間・私人間で成り立つ私法的な法の領域が発展していたからです。ただ、ここでの個人・私人とは商人や農民なども含めた社会の人々一般ではありません。幕府に所属する御家人や、朝廷に所属する官人、荘園領主やその下にいる荘官などを指します。このような身分の人たちが、自身の所領(土地)をめぐって争う際の裁判規範が発展した点に中世法の特徴があります。ここに江戸時代の法体系との違いがあり、ヨーロッパの法と似た側面が見出せるのです。
日本の中世において、ヨーロッパの法と比較可能な法の観念や制度があったこと。それ自体は、日本法制史という学問が生まれた頃から指摘はされていました。そこで私はそれらの成果に学びながら掘り下げようと考え、振り返ると中学生の頃から関心を有し、かつ大学で学びたいと考えていた日本の中世のうち、法に焦点を当てて研究することになりました。
その際に意識したのは、法学部において歴史を研究することの意義です。私はその意義を、「現代とは異なる過去の法制度について理解し、現代の法制度をとらえなおすことにある」と考えています。ですから、法制度の歴史的な展開を追う歴史学的なアプローチに加えて、ヨーロッパの法及び中国の律令法との比較を念頭におきながら、現代の法制度へのフィードバックを試みるというアプローチを行っています。これは、法制史ならではの醍醐味だと思います。

中世から近世にかけて法体制が大きな転換を遂げたことは日本法制史上の《謎》

前述しましたように、日本の中世には、個人間・私人間で成り立つ私法のような観念・制度が見られました。領主が、自分の所領を侵奪しようとする相手に対し、自らの権利を保持する手段として、裁判で判例や代々伝わる文書をもとに所領の権利を主張するだけではなく、近代国家では原則として違法行為とされる、実力によって相手の妨害を排除するといった「自力救済行為」が一定の合法性を帯びていました。
ヨーロッパの場合は農民や職人など身分集団ごとの自律性が高く、領主の自律性も認められていました。絶対王政などの集権的な政治体制が敷かれても、身分制議会などを通して権力構造は保たれ、君主は行政権しか持ち得ない......というように、身分の自律性が保たれたうえで国家という集合体ができあがっていきました。くり返しになりますが、日本中世の分権的な秩序は、このヨーロッパの秩序と多少とも近いものがあります。それが戦国時代を経て近世(江戸時代)になると、法の性質が大きく変容したことは、日本法制史上の謎と言えるでしょうか......。つい先日の授業でも、学生から「なぜ中世から近世にかけて法体制の転換があったのか」という質問を受けました。非常に悩ましい質問ですね(笑)。
その問題についての議論は多様です。一つ紹介しましょう。豊臣秀吉にせよ、徳川家康にせよ、統一政権をつくった政治家は天皇を利用しています。天皇を名目上の頂点に置き、その下に大名を配し、「大名のトップ」が将軍であるという上下関係に編成された権力構造をつくりました。そこには、皇帝がトップダウンで指示を出す中国の律令法がベースにありました。その法体系を利用して国制(統治の体制)の転換を行ったがゆえに、ヨーロッパのような議会制的な権力構造が発展しなかった──というのが一つの議論です。
一方で──より民衆支配に焦点を当てた議論として──、そもそも江戸時代の体制はそれほど稠密な、統合された権力としてはとらえられないという議論もあります。民衆の属する村落というものには強い自律性があって、権力はその上に「乗っかって」支配しているだけだ、というものです。専制的なイメージとは裏腹に、実は江戸幕府の体制は、戦国時代までにできた村落などの構造に乗っかっていただけだ、と。どちらも歴史の実態的な認識としては理解できますが、法制史の観点からとらえたとき、ヨーロッパや中国などの法体制と比較することによって、さらに新しい議論を展望できるのではないかと考えています。

独自の近代法を生み出したヨーロッパ
なぜ日本ではそれが成し得なかったのか

ヨーロッパが生み出した近代法は、中世的な伝統が一つの基盤となって発展したものである、というのが法制史学や、法と権力構造の歴史を問う国制史学の立場です。そして近代~現代の日本は、ヨーロッパの近代法を受け入れ、その下で生活をしてきました。日本における「人権」や「立憲主義」という概念も、ヨーロッパの近代法を受け入れることで成熟してきました。
このように考えてくると、ヨーロッパと日本の中世は、分権的な法秩序という点ではある程度共通のスタート地点に立っていたものの、ヨーロッパでは人権や立憲主義を包含した近代法へと発展を遂げたのに対し、日本では幕藩体制のもとで法の性質が変容し、その後明治になってヨーロッパの近代法を継受したことになります。つまり、こういう問いの立て方ができます。「なぜ日本では、ヨーロッパが成し遂げたような独自の法体系を生み出せなかったのか」。
当然のことながら、ヨーロッパと日本の中世法の性質にはその歴史的な前提も含め相違する点が多々みられます。そこで、その性質の違いや、日本における近世法の形成(中世法と近世法の関係づけ)、近代法継受における日本の固有法(前近代法)の意義といった論点が浮かび上がります。日本における法の展開という縦軸の問題に、横軸(比較)の問題を付け加えるということです。
これらの問いに対する十分な答えはまだありませんが、今後も研究や授業を通じて考えていきたいと思っています。

過去とは「終わってしまったもの」ではなく私たち現代人が「意味を付与する対象」

歴史を学ぶ際には、過去にどのような事実があったのか?ということと、その事実がどのような歴史的意味を持っているのか?ということ、この二つの視点が必要になってきます。過去に起きた事実を正確に知るためには、史料をきちんと読めるようにならなければなりません。そして、過去に起きた事実に意味づけをするためには、関連する幅広い事象について知識を得て、論理的に考察していく必要があります。
講義では、学生の皆さんになるべくこれまで述べましたような法制史学固有の視点を提示できるように努力しています。また、ゼミでは、基礎的な理解を得てもらった後に、学生の皆さんに興味を持ったテーマを選んでもらいます。たとえば今年度は、江戸時代の刑事裁判の仕組みを理解してもらい、判例を読む作業を行っています。それにより史料解釈の仕方を学ぶとともに、近代刑法との違いなどについて理解を深めてもらえたら、と考えています。
現代とは違った法制度を知ることによって、逆に現代の法制度がわかってくる。それが法制史の面白く、意義深いところです。過去とは「終わってしまったもの」ではなく、現代に生きる私たちが「意味を付与する対象」です。現代とは違うから研究・勉強する必要がないのではありません。過去を知ることは現代を知ることにほかならない。私は日頃から学生の皆さんにそういうメッセージを伝えています。(談)

(2017年1月 掲載)