hq54_1_main_img.jpg

開発途上国の労働環境の実態と変化は定期的な現地調査によってこそ見えてくる

  • 経済学研究科講師田中 万理

2017年春号vol.54 掲載

田中 万理

田中 万理

2008年国際基督教大学教養学部卒、2010年東京大学経済学研究科修士課程修了。2016年米国スタンフォード大学経済学部博士課程修了。2016年7月より一橋大学経済学研究科講師。研究分野は開発経済、労働経済、国際貿易。研究テーマは開発途上国の企業と労使関係に関する研究、貿易・マーケットアクセスの途上国企業、労働者、環境への影響など。

「欧米のアパレルメーカーは途上国の労働者を搾取している」は本当か

私は「開発経済」を専門分野として、主に開発途上国の企業と労使関係に関する研究を行っています。開発途上国の企業はどうすれば成長するか。生産性を上げるためには、労働者にはどのような環境が必要か。非効率な面を改善するために、政府はどのような政策を打ち出すべきか。このような観点から、実際にミャンマー、ベトナム、ラオスなど東南アジアの国に赴き、調査・実験を重ねているところです。
かつて、欧米のスポーツメーカーやアパレルメーカーが、労働環境面で国際的な批判を浴びた時期があります。「途上国の労働者を搾取して、国際貿易で利益を得ている」というものです。その典型的な例が「ラナプラザ崩壊」です。
2013年、バングラデシュでラナプラザという商業ビルが崩壊し、1134人が死亡する事故がありました。このビルには、欧米アパレルメーカー・27ブランド向けの縫製工場が5つあり、犠牲者の中には工場の従業員も多く含まれていたのです。違法な増築をくり返したビルは、崩壊の前日、外壁に亀裂が入っていました。にもかかわらず工場は操業を続け、悲惨な事故につながったのです。海外のNGOやジャーナリズムからの批判はピークに達しました。
私は「実際はどうなのか」ということが知りたくなり、ミャンマーのヤンゴン管区にあるアパレル関連工場の労働環境を調べました。結論を急げば、批判が的を射ている部分はあるものの、批判が改善を促した側面もあることが分かったのです。

労働環境の変化を見るうえでミャンマーという国は最適な調査対象

ミャンマーでの調査を例にとってみましょう。
ヤンゴン管区には、欧米など外資系アパレルメーカー向けに製造・輸出を行っている企業が約400社あります。私は現地のリサーチ会社とともにすべての企業にコンタクトをとりました。「労働条件(賃金・待遇など)」「労働組合の有無」「施設の防災対策」「就労中のケガ対策」など、事実ベースの回答を得るための質問をもとにアン
ケートを実施。約70%の企業が回答しました。工場のマネージャーと直接話ができる場合は、30分ほどヒアリングを行いました。比較対象として、国内向けに製造・販売を行うアパレルメーカーや、同じく国内向けの冷凍食品加工メーカーも調査しています。
ミャンマーを調査対象に選んだのは、労働環境の変化を見るうえで最適な国だったからです。独裁軍事政権時代、欧米各国は経済制裁を加えていました。しかしオバマ大統領の訪問をきっかけに、2013年にはアメリカへの輸出がスタートしています。私が調査を始めたのもまさにこのタイミングです。他の東南アジアの国よりもはるかに大きな動きがあり、調査に赴くたびに新しい話が聞ける時期でした。事故後のバングラデシュとは違い、ミャンマーは労働環境に対する関心がまだ低く、私のような外国人からのヒアリングにもオープンでした。
もともと日本が経済制裁に不参加だったことも大きいです。現地には日本企業も一定数進出していたので、駐在員の方々から貴重な話を聞く機会にも恵まれました。

外資系向けに輸出を行う企業では火災対策が充実していることを発見

調査後、私は「外資系向けに輸出を行う企業のほうが、比較対象の企業群より労働環境は整っている」との結論に至りました。
開発途上国は、労働環境に関する政府のモニタリングは弱く、罰則もありません。「何百名以上の工場には看護師を1人常駐させる」などのルールも、有名無実化しているのが現状です。しかし世界中から動向を注視され、プレッシャーを受けている外資系アパレルメーカーは違います。政府ではなく第三者機関のオーディット(監査)を受け、現地の法律に沿って労働環境を整備しつつあります。
実際、輸出を行う企業は、国内向けの企業より賃金がやや高いという結果が出ました。またサーベイを見るかぎり、輸出企業のほうが労働時間が長いという事実はありません。明らかに充実してきたのは防災対策、特に火災対策への取り組みです。具体的な措置として「FIREEXITの表示を付ける」「アラームを付ける」「定期的に避難訓練を行う」などが挙げられます。
縫製工場では燃えやすいファブリックを扱っていますが、停電後のリチャージの際に火花が散り、火災につながる可能性があります。また、300人もの従業員を一度に避難させるには訓練が欠かせません。しかし急激に経済成長を続けているミャンマーでは、1か月も経てば従業員の顔ぶれが入れ替わってしまいます。そのため、表示やアラームを設置し、定期的な避難訓練を導入することになったようです。

事前・事後のモニタリングや当事者へのヒアリングには定期的な現地調査が欠かせない

以上の調査と結論は、2016年に『Exporting Sweats shops? Evidence from Myanmar』という論文にまとめました。行くたびに新しい発見ができる調査でしたが、ミャンマーに限らず、私は現地での調査を重視しています。
私が興味を持つ開発途上国には、国勢調査などのデータが不足しています。インドネシアのように政府による企業調査が充実している場合でも、1年も経てば状況は様変わりしています。また、最近の経済学における調査や実験は、新薬の実験のように複数の被験者群をつくり、経年変化を見るという流れにあるのです。そのため、既存の国勢調査は活用しにくく、事前・事後のモニタリングは研究者自身が足を運んで行わなければなりません。
そして何よりも、私自身が当事者に直接ストーリーを聞くことを重視しています。バイアスがかからないよう、ヒアリングには注意が必要です。しかし、当事者の話の中から大切なトピックが得られることが多いため、なるべく定期的に足を運ぶようにしています。
前掲の論文も、大学院(米国スタンフォード大学)からミャンマーに通い続け、3年かけて書き上げました。ミャンマーは国情が不安定ですし、現地調査は費用もかかるため、当時のアドバイザーにはずいぶん心配をかけました(笑)。この時、十分にリサーチを済ませて仮説を立て、ファンドを見つけて資金繰りを行い、現地に赴いて必要な変数を取り、仮説を実証するという研究スタイルが確立できたように思います。

一橋大学という環境は授業と研究のバランスがとりやすくネットワーキングの機会も豊富

現地での調査を重視する私にとって、一橋大学はとても研究がしやすい環境です。
まず、授業とのバランスをとりやすい点がとても助かっています。2016年度は、前期をミャンマーとラオスでの現地調査にあて、後期にティーチングをまとめさせていただきました。ある私学で研究している知人によれば、私のような時間の使い方はなかなかできないそうです。その点、私は恵まれていました。
また、一橋大学は学会やセミナーを積極的に開催しているので、ネットワーキングにはとても役立ちます。実は日本に戻る時、一番悩んだのがこのネットワーキングです。スタンフォードでは場所柄、ネットワーキングがとても簡単にできるのですが、日本でも同じようにできるかが不安でした。
しかし、一橋大学では貿易の専門学会が年3回ありますし、一橋サマーインスティテュートもあります。国内はもちろん海外からも多くの著名な研究者を招聘するので、そこでの出会いは今後の研究に大いに活かせると考えています。
将来的には学生の皆さんとも研究をしたいですね。特に東南アジアからの留学生がたくさん在籍していますから、一緒に研究をする機会がつくれたら嬉しいです。(談)

(2017年4月 掲載)