hq57_2_main_img.jpg

農家の歴史から見えてくる、マーケット・オリエンテッドな日本人像

  • 経済学研究科教授友部 謙一

2018年冬号vol.57 掲載

友部 謙一

経済学研究科教授、博士(経済学)(大阪大学)。1984年慶應義塾大学経済学部卒、1986年同大学院経済学研究科修士課程、1989年同大学院経済学研究科博士課程単位取得満期退学。1990年徳山大学経済学部専任講師、1993年同大学助教授、1995年〜1996年一橋大学経済研究所客員助教授、1997年〜2003年慶應義塾大学経済学部助教授、2003年~同大教授を経て2007年〜2017年大阪大学大学院経済学研究科教授。2017年4月より一橋大学経済学研究科教授に就任、現在に至る。専門は日本経済史。近年の研究論文に、「近世日本の結婚と出生」日本人口学会編『人口大事典』(丸善出版、2018年)、「近世社会の人口戦略」(共著)『ミネルヴァ世界史叢書』第4巻所収(ミネルヴァ書房、2018年)などがある。

近代日本の経済成長を支えてきた「村」
しかしその歴史がまったく見えてこない

農村、農家の風景というと、おじいさん・おばあさんがいて、子ども夫婦がいて、孫がいて......誰もがそんな風景を想起します。実際私たちは、一つ屋根の下に三世代の家族が住むことを自然なものとして受け入れてきました。
しかし人口学的パフォーマンスという見地からすると、その農家や農村の風景は自然発生的なものではなく、何世代にもわたる苦闘の末に練り上げられたものなのです。そしてそのプロセスを調べてみると、日本人がマーケット・オリエンテッドな民族だったことも明らかになってきます。
荘園制から近世の村請制を経て、高度経済成長期に至るまで、近代の経済成長につながる仕組みの大本である「農家」や「村」。しかしその農家や村がどのようにして組成され、どのような苦闘の歴史を経てマーケットの形成に寄与してきたのかがまったく見えてきません。その間隙を埋めることこそが、私の研究の最大のモチベーションとなりました。
そこで農家そのものに焦点を絞り、江戸中期以降(18~19世紀)の農家の人口パフォーマンスから研究をスタート。その結果、日本的な直系家族世帯形成システムや養子マーケットの誕生、出生力の低さの要因などが見えてきたのです。

荘園制が崩壊し、地方のエリートから解放された下人が潜在的なマーケットを形成

奈良時代以降の古代日本社会のガバナンスは、荘園制に始まったといえます。在地では貴族・寺社・ローカルエリート(土豪・国人など)が下人を囲い、能力に合わせて洗濯から農作業までを割り振って屋敷地内を運営する仕組みができあがりました。上位には国家がありましたが、10世紀後半以降、貨幣の鋳造をやめ(16世紀末まで)、国家によるガバナンスを最小化。地方のエリートに統治を任せる方向に舵を切りました。
ではエリートたちは何をしていたかというと、社会的評価の基準である下人の囲い合いです。国家による貨幣制度は崩壊しているので、私鋳による鐚びた銭せん(額面通りに通用しない価値の低い悪銭)が横行し、下人を囲える予算が底をつく。そこで下人に農地を与えて解放し、収穫から徴税する一種の委託制が始まります。
独立した下人たちは結婚し、子どもを産むことで「世帯」を形成し、おそらく14世紀末には人口増加のエンジンがかかり始めます。そして独立した下人同士が集まり、自治的な性格を帯びた集合体が育っていきました。ここに潜在的なマーケットを見出した人物が、織田信長などのいわゆる天下人たちといえます。

信長~秀吉~家康の三代にわたる検地で徴税・再分配の仕組みを担う「村請制」が誕生する

経済センスに優れた織田信長はまず楽市・楽座に代表される市場ネットワーク構築から着手します。次に自らの領地で検地を実施、農業生産高とそのデータに基づく課税台帳の整備も始めましたが、本能寺の変で頓挫。その整備を農村出身の豊臣秀吉が引き継ぎ、太閤検地を行います。
太閤検地の目的については今も議論が続いていますが、「耕作する事実」(沼田誠の考え)を調べたというのが私の見解です。誰がその土地を所有しているか以上に、誰が何をどれぐらい耕作し(続け)ているかが重要だ、と秀吉は判断。莫大な予算・時間・労力をかけ、一筆ごとに丹念に調べ上げたのです。背景には領主としての危機感があります。貨幣制度は停滞し、徴税も不徹底な時代が続く中で、ガバナンスが利かなくなっていました。そこで立ち上がったのが、信長、秀吉、そしてその後、継続して慶長検地を行った徳川家康です。三代にわたる天下人の検地によって、徴税と再分配の方法が確立されます。
同時にかつての下人たちが、与えられた農地を耕す農家となり、合議でユニットを運営し、納税を行う「村請制」が誕生するのです。これによって近代日本の経済成長を支える「村」が生まれました。

直系家族世帯形成システムと養子マーケットによって過不足を調整

前述のように、私自身は江戸中期以降(18~19世紀)、村請制誕生後の農家の人口パフォーマンスの研究からスタートしています。
江戸幕府が始まるまでの約150年間は、人口増加が経済成長の原動力でした。しかし18~19世紀の総特殊婚姻出生力(TMFR:結婚した女性が生涯に産む子どもの数)を見てみると、驚くほど低い。同時代のヨーロッパの半分です。日本全体の平均では5~6人、東日本にしぼれば3~4人です。当時の日本は乳児死亡率がとても高く、生後1年以内に乳児の20%が亡くなり、5歳までには40%近くが亡くなる社会でした。16歳まで生き延びた子どもはほぼ半分。東日本の場合は1~2人しか生き残らない計算になります。しかも半分は女性ですから、女性が農家の当主になるケースも珍しくありません。そんな実態を受けて「養子マーケット」が誕生します。
村請制の誕生と並行して、1人の子どもがすべてを相続して当主となり、それ以外の子どもは全員外へ出るという、直系家族世帯形成システムも採用されたと思われます。ただし、この仕組みでは女性が相続する場合もありましたので、そこで養子をとり、需給バランスを調節するマーケットもほぼ同時に機能し始めました。
こうした日本型の直系家族世帯形成システム自体が世界的にユニークなものですが、養子マーケットで人口学的帰結(子ども)の過不足をも調整してしまう日本人は、本当にマーケット・オリエンテッドな民族です。

周産期の女性が置かれた劣悪な「労働環境」と過酷な「疾病環境」

日本の総特殊婚姻出生力(TMFR)が低いのは乳児死亡率の高さが原因ですが、さらにさかのぼると死産・流産が多いこともわかってきました。母親の年齢にもよりますが、当時のヨーロッパの2~3倍にも達していました。フランス人口学の父と呼ばれた故ルイ・アンリ氏は、戦後来日してそのデータにふれ、「日本政府はこの原因を研究すべきだ」という発言を残しています。
死産・流産が多い要因は二つあります。一つは周産期の劣悪な労働環境です。当時の水田農業は湿田が主体であり、北陸などでは腰まで浸かる場合もありました。そのために冷えが深刻な影響を与えます。また、泥は回虫・鉤虫こうちゅうの巣ですから、口や皮膚から虫が体内に入り、慢性疾患(地方病とよばれる)の原因ともなりました。こうした女性と子どもの労働環境への研究は進んできましたが、もう一つの要因である「疾病環境」についてはまだ解明の途上であり、私は主にこちらの研究をほぼ10年前から本格的に始めてきました。
疾病を引き起こす三つの要素のうち、一つは先に述べた「虫」です。次に細菌・バクテリアの代表格である「梅毒」「結核」、三つ目はウイルスの代表格である「天然痘」。これら三つの要素がほぼ同じウエイトで周産期の女性に襲いかかり、死産・流産、そして乳児の高い死亡率につながってきていることがわかってきました。
長塚節の小説『土』では、こうした疾病環境の中での周産期の妊婦の苦しみが見事に描かれています。このような過酷な状況の中、農家は近代日本の経済成長を支えていたのです。

ジェネラルな問題にこそ、小さな事実を積み上げ、緻密な議論を

それぞれの時代のリーダーが持つ危機感と農家の苦闘により、数百年もの時間をかけて築き上げられてきた農家や農村も、1960年代には崩壊を開始します。そして高度経済成長期を経て、ファミリーという形も分割され、私たちは今後どのような「世帯」を形成していくのかを選択するフェーズを迎えました。
私は、このようなジェネラルな問題に対して、今こそ小さな事実を積み上げ、いずれ役に立つであろう知識、そして新しい選択を行うための判断材料を提供したいと考えています。それこそが高等教育機関の役割ですから。特に一橋大学の学生の皆さんは、いずれ社会のエリートになる可能性がある人たちです。皆さんが30代、40代となり、社会の要職を占めるようになった時、緻密な議論を積み重ねて政策や施策を決定する礎となれれば幸いです。(談)

(2018年1月 掲載)