確信を持った訴訟活動には、理論的な軸を持つことが不可欠
- 法学研究科教授高平 奇恵
2025年10月2日 掲載
高平 奇恵(たかひら・きえ)
京都大学法学部卒業後、九州大学法科大学院修了。2008年に弁護士登録。九州大学大学院法学研究院助教を務める傍ら、弁護士法人九州リーガル・クリニック法律事務所に所属。2018年、東京経済大学現代法学部准教授を経て、2023年から一橋大学大学院法学研究科。現在は教授職を務める。専門は刑事訴訟法。早稲田リーガルコモンズ法律事務所に所属。
被告人が不当な判断を受けないための資料の適格性を検討
私の専門は法律の中でも刑事に関する分野、特に刑事訴訟法です。これは裁判手続に関する法律にあたります。近年は証拠法の分野、特にテクノロジーの進化と関連した領域に研究の軸足を移してきました。
具体的には、供述録取書のように裁判の場以外で得られた証言について、どのような場合に裁判の証拠として許容すべきかというテーマです。裁判での証言は、原則的に法廷で行われるものを採用します。しかし、対象者が故人であったり、国外にいたりといった理由で法廷の場で証人尋問ができない場合に、裁判が始まる前の供述を証拠にすることがあり得ます。正確性の高い技術があり、録画技術やオンライン尋問などを利用した証言が可能になるなら、法廷外の証拠について、より信用性を認めても良いのではないかという議論があるからです。
一方で、こうした証拠には十分な吟味がなされない危険性があり、被告人の重要な権利である反対尋問権との関係も考慮する必要があります。私の研究は、今の社会において刑事裁判の基礎となる資料の適格性を、どのような基準で認めるべきかにフォーカスし、被告人が不当な判断を受けないようにする適切な基準を検討しています。
悪性格証拠の許容性の研究を通じて、被告人の権利後退〜冤罪を防ぐ
この分野を専門としたきっかけは、私自身が刑事弁護をしてきた経験にあります。特に課題だと感じたのは「悪性格証拠」が、判決に強く影響を与えることです。悪性格証拠とは、被告人の犯罪歴や過去の行いに関する事柄を証拠として扱うことをいいます。以前担当した裁判で、被疑者が過去に他人の家屋に侵入した前科があったために、本来立証が難しかったはずの犯行の目的が認定され、有罪になった経験があります。その経験から、「なぜ悪性格証拠はこれほど判決に強い影響を与えるのだろう」と疑問を抱き、悪性格証拠の許容性の研究から入りました。そして、裁判の場以外での人の供述、いわゆる伝聞証拠が、どのような場合なら事実認定の根拠とされて良いのか、というテーマへと関心が広がったのです。
同時に、被害者保護の観点から法廷での直接尋問を避けるスタイルが広がる中で、反対尋問の効果が減殺されることに弁護士としては強い危機感を覚えました。無罪推定が働く刑事裁判において、権利がなし崩し的に後退していると感じ、「これを理論的にどう解決していけばいいのか」と考え、証拠法の領域に興味を持つようになったのです。冤罪を防ぐことは、被告人だけではなく、被害者、社会、国家にとっても重要であり、証拠の適格性を判断する基準には合理的な根拠が必要だと考えています。
父への反抗心から法学の道を選び、その先で理想の弁護士に出会う
宮崎県出身の私は京都大学法学部を卒業後、九州大学のロースクール(法科大学院)に一期生として進学しました。法学の道を選んだ理由には、医師の父から受けた影響と父への反抗心という二つの側面があります。議論が好きだった父の影響で、私も幼い頃から身の回りで起こる出来事の理由や、いろいろな仕組みを支える論理を考えることが好きでした。一方で父は私に医師になることを望んでいたのですが、高校の頃に「医師にはなりたくない」と反抗。そこで「論理の世界が好きだからそれを活かしたい」という志向で法学部を選んだのです。
ロースクールに進学した当初は良い実務家になりたいという思いが強く、研究にはほとんど関心がありませんでした。そのロースクールで、九州大学と連携する九州リーガル・クリニック法律事務所の代表社員である上田國廣先生に出会いました。上田先生は福岡県で大変実績のある刑事弁護人であり、同時に学生にも非常に丁寧で分かりやすい指導をしてくださる素晴らしい先生でした。理論面の探究も怠らない隙のなさに、私は「自分の目指す弁護士像はこれだ」と直感。先生の“弟子”になろうと考えたのです。
助教時代の経験から「実務と研究は本来一体であるべきだ」と確信
しかし上田先生は“弟子”を取らない方でした。そこでロースクールの研究者教員の先生に相談したところ、「大学の教員になればいい。弁護士資格を持っている高平さんなら連携事務所に所属できる」とアドバイスされたのです。こうして、上田先生のいらっしゃる事務所に入るために、九州大学の助教としてのキャリアをスタートさせました。
相変わらず研究への関心は持てなかったのですが、助教になった以上は論文執筆は避けられません。「上田先生の事務所に入ったのだから刑事訴訟法以外あり得ない」と言われ、やむを得ず刑事訴訟法のテーマで論文に着手したのですが、法律文献の引用ルールなど細かい形式に縛られる研究は正直苦手でした。しかし、研究会に参加するうちに研究が面白くなってきたのです。さらには実務、つまり具体的な訴訟活動においても、研究によって培われた理論的な軸が、実務上の判断を格段にスムーズなものにし、確信を持った活動を可能にすることに気づきました。こうして「実務と研究は本来一体であるべきだ」と感じるようになったのです。
法律の実務家を目指す後輩たちに、理論の大切さを伝える
研究が面白くなったこと、そして恩師の上田先生が法律事務所を退所されたタイミングも重なり、研究と実務の両方を続けられる道を探すために上京。現在は早稲田リーガルコモンズ法律事務所で実務を続けながら、一橋大学で研究と教育を行っています。
実務家養成においてロースクールは重要な機関です。私自身、九州大学のロースクールで学び、良い実務家になるためには理論がいかに重要かを実感しました。理論的な軸がなければ最善の決断が揺らぐリスクがある。そのことを、実務家を目指す“後輩”たちに伝え続けています。
学部生向けのゼミでは、少年法から刑事施設の処遇、死刑廃止の是非など、学生たち自身が学びたい刑事法のテーマを自由に設定。ディスカッションやディベートを通じて深く学んでいます。ロースクールでは刑事実務に関連する科目を担当。私自身が弁護団として関わっている再審事件の記録を学生に検討してもらい、実際に弁護団の先生方の前で報告しフィードバックをもらうという、実践的な講義を行っています。
学生には自ら可能性を閉ざさず、何事にも「分け入って」行ってほしい
学生の皆さんには、「何事も自ら楽しもうとし、何かをつかむつもりで臨んでほしい」と考えています。特に法律分野で実務を目指す人は、司法試験合格に向けてさまざまな法領域を勉強しているので、「何事も楽しんで取り組む」素養ができているはずです。最初から「これは自分にとって必要ない」「面白くない」と決めつけてしまえば、そこで自分の可能性を閉ざすことになります。これはあまりにもったいないことです。
たとえば私の場合、ロースクール時代に「文学と法」という講義で、先生が推薦する文学作品に触れる機会がありました。講義中に解説してもらえるので、事前に読み込む必要はなく、実際多くの学生は読まずに受講していたようですが、私は必ず読み込んでから講義に参加していました。ディケンズの『荒涼館』、宮沢賢治の『どんぐりと山猫』など、優れた文学作品に触れることで、法が社会の一部であり、生き生きと変わりゆくものであることを深く理解できました。いわゆる“コスパ”や“タイパ”を重視せず、何かをつかむつもりで臨んだからこそ得られた経験です。私の性格が行き当たりばったりだからこそとも言えますが(笑)、それでもこの講義が、法とは何かを考え続けなければならないと思うようになったきっかけだったことは間違いありません。
実務と研究の両方を追究し続ける私を支えるのは、恩師である上田先生の「両方に足を置いているからこそ見えるものがあるはずだ」という言葉です。何が見えるかはまだ分かりません。しかし自分がやりたいことをやっているのですから、たとえ周囲からどのような評価をされたとしても受け入れよう、そう考えています。行き当たりばったりで法学の道を選び、そこで一生の恩師と出会って現在の私があるように、学生の皆さんも「これだ!」と直感する対象に出会うまで、楽しみながら、何事にも「分け入って」進んでほしいと願っています。(談)