社会科学と情報科学を駆使して、人の自由な意思決定をサポートする
- 経営管理研究科准教授徐 文臻
2025年7月30日 掲載
徐 文臻(じょ・ぶんしん)
2011年、中国・南京大学外国語学院を卒業後に来日。名古屋大学大学院教育発達科学研究科心理発達科学専攻で博士(心理学)を取得。在学中にカリフォルニア大学サンタ・バーバラ校コミュニケーション研究科に研究留学し、計算社会科学の手法を習得。
2019年、株式会社KDDI総合研究所、KDDI株式会社に入社し、AI部門、Human‑Centered AI研究所で研究主査を務めた。2023年に一橋大学大学院経営管理研究科に講師として着任し、2025年4月より現職。データサイエンスと社会科学を融合し、人間の意思決定や行動変容を促す説得的コミュニケーション、行動変容AIの研究を進めるとともに、近年はAIの社会的受容と普及を心理学の観点から探究している。
高い解像度と大きなスケールで社会現象を捉える新しい分野
私の専門である計算社会科学は、十数年前に欧米の研究者が提唱した比較的新しい学問分野です。理論からスタートする社会科学と、データの取得・検証からスタートする情報科学が融合し、誕生したのが計算社会科学です。
従来の社会科学のアプローチは、まず社会現象があって、観察や実験を通じてデータを取得。データから仮説を立て、統計学などを使って検証し、得られた結果を知見として蓄積。抽象化して構築した理論に基づき、今後の社会現象を予測するというステップを踏みます。
ここで情報科学の手法を利用すれば、取得したビッグデータも活用でき、結果的にその量も種類も増えることとなります。仮説を検証する際も、自然言語の情報や、データ間の関係性を表すネットワーク分析といった手法により、社会科学の統計学よりも高度な検証をすることも可能です。
重要なのは、理論を構築した後に定量的な未来予測ができるようになることです。代表例としては、新型コロナウイルスの感染拡大時における西浦博先生(現京都大学教授/当時は北海道大学教授)の予測が挙げられます。2020年4月、厚生労働省のクラスター対策班に参加していた西浦教授は、情報科学的なアプローチである感染症の数理モデルに基づいて「人流を8割減らせば1か月で新規感染を大きく抑制できる」と発表しました。このように社会科学の理論に情報科学の研究手法を融合させて、より高い解像度と大きなスケールで社会現象を捉えることが私の専門分野です。
学生時代に日本文化を学び、名古屋大学大学院で心理学を修める
私は中国の南京大学在学中に、日本について学んでいました。同時に人間の意思決定や行動パターンにも興味を持ち、名古屋大学大学院の修士・博士課程に進みました。
実際に日本で学ぼうと決めた理由は二つあります。まず、南京大学で「ジャパニーズスタディズ」を専攻し、日本文化や日本人論について学んだからです。『菊と刀』『「甘え」の構造』などを読み、日本をこの目で見てみたいと考えるようになりました。
もう一つは、指導教員である高井次郎先生(名古屋大学教授)の人柄が魅力的だったからです。高井先生の存在は、大学院に進むうえで師事する教員を探していたときにインターネットで知りました。先生は、カリフォルニア大学でコミュニケーション学の博士号を取得し、帰国後は名古屋大学で教鞭をとっていました。当時の私は心理学や統計学を自己流で学んでいたので、指導教員になってもらえない可能性もありました。しかし、高井先生はとてもオープンマインドな方で、快く受け入れてくれたのです。そこで、名古屋大学大学院に進もうと決めました。
博士課程在学中には、先生の紹介で7か月ほどカリフォルニア大学に留学して、心理学とビッグデータを融合させるプロジェクトに参加しました。その際、集中的に計算社会科学を学んだことが現在の研究の基礎になっています。
KDDI総合研究所でチャレンジした行動変容技術
日本に帰国した後は博士論文をまとめながら、その後のキャリアパスとして産業界に進むことを考えていました。ちょうどその頃、KDDI総合研究所が社会心理学分野の研究者を公募していたのです。当時、本体のKDDIは、従来の通信事業から人のライフデザインを手掛ける事業に軸足を移そうとしていました。英会話の「イーオン」や子どもたちに職業体験を提供する「キッザニア東京」など、グループの関連事業が拡大し始めていたこともあり、「通信の技術者ではなく心理学の研究者の観点から人間の行動を研究しよう」という方向に進んでいました。そこで応募してみたところ、KDDI総合研究所の心理学者第1号として採用されたのです。
2019年に入社後、最初に任された業務はテレワーク推進に向けた行動変容のプロモーションと検証でした。2020年の「東京オリンピック・パラリンピック」(開催は2021年)に向け、総務省ほか各省や東京都が「テレワーク・デイズ2019」というプロジェクトを展開し、開催期間中の都内の混雑緩和のために、多くの企業に対してテレワークの推進を呼びかけており、そのプロジェクトにKDDIグループが参画したのです。
そもそもテレワークという制度は以前からありましたし、政府も働き方改革の一環として推奨していましたが、一向に浸透しませんでした。そこで私は「制度ではなく人の心理の問題なのではないか」という仮説を立てました。社会心理学の用語では「多元的無知」「沈黙の螺旋」などと表現します。周囲に合わせて本心(=テレワークを活用したい)を隠すことで、誤解(=みんなもテレワークは活用したくないのだ)が広がっている状態を想定したのです。
そして、東京23区内に通勤する数十万の人たちの行動変容を促すために、KDDIの携帯端末を通じて「あなたと同じ考えを持っている人はたくさんいますよ。テレワークを活用したら、これぐらい楽になるんですよ」というメッセージを配信して、許可を取って入手した位置情報で実際の効果を検証する、というプロセスを繰り返しました。この行動変容技術はまだ確立されていなかったのですが、上司もオープンマインドで「いろいろ試してみるといい」と励ましてくれたのは嬉しかったですね。
AIのブースター機能が、人の行動主体感をサポートする
KDDIの同僚と研究を進める中で浮かび上がってきたのが「行動主体感」という概念です。一橋大学に着任して以降、この概念を本格的に研究の主軸に置いています。
行動主体感とは、自分の行動をどれぐらいコントロールできているか、その行動が周囲にいかにインパクトを与えているかについて、本人が「把握できている」と捉える感覚のことです。この行動主体感が高くなれば指示待ちにならず、さらに自己肯定感も高まります。
この感覚を主眼にして高度なAIで分析すると、意識的な行動と無意識的な行動の解像度が上がります。たとえば、自分では主体感を持って通販サイトで「ポチった」つもりでも、AIで分析すると衝動買いを促されたことが分かる、というようなことです。資産を傷つけない程度の買い物であればともかく、お金儲けのための悪質な勧誘行為──私はダークパターンと呼んでいます──によって引き起こされる購買行動にはブレーキをかけなければなりません。その際に必要になってくるのがAIの持つブースター機能です。
人の行動主体感を常にモニタリングし、行動主体感が低い場合にはブースター機能を発揮して、人が主体感を保ちながら自由に、かつ自主的に意思決定できるようにサポートするAIの研究に集中したい。KDDI総合研究所に入社2年目以降、多くのプロジェクトに同時進行で携わるようになっていた私は、そう熱望するようになっていました。そこで研究の道に戻るため、一橋大学で大学教員としての職を得たのです。
アナログレコードのためのプレイヤーがあるが、最近はあまり聴けていないそう。
研究室にはフィギュアや自転車も置かれているが、整然とした印象。
新しい学問分野だからこそ、さまざまな方法論が試せる
一橋大学での研究では粒度を細かくして、個人に対する心理学的なアプローチを行っています。①ダークパターンと人の思考パターン、意思決定のスタイルなどの関係性について理論モデルを構築。②騙される確率を予測する機械学習のモデルを作り、アラートを出す技術を確立。③アラートを聞くかもしれない対象者が、耳を傾けることにインセンティブを感じそうな善意のダークパターンを作り、(悪意の)ダークパターンをバリア......このようなステップを踏み、研究を深めていく予定です。
最初にお伝えしたように、計算社会科学は二つの分野を融合した新しい学問です。言い換えれば、もともと存在しなかった分野ですから、「こうしなければ」というお作法、制約はありません。自分の興味関心の赴くままにさまざまな分野の方法論を試せるので、本当に面白いと感じています。だからこそ学生の皆さんにも、今、籍を置いている学部に縛られず、幅広く学んでほしいです。心理学でも法学でもマーケティングでも、学びたいものを学ぶといいでしょう。
もう一つ、私自身の経験をもとにお伝えするとすれば、定めた目標に向かって最短距離で進むのではなく「あえて遠回りしてみてもいい」ということです。一直線に進むのは高校生までで終わりにしましょう。多少遠回りをしてもさまざまなことを経験することで、きっと楽しく有意義な学生生活を送れると思います。(談)