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低中所得国の辺境を回って話を聞き、データを積み上げる医療経済

  • 経済学研究科/社会科学高等研究院教授中村 良太

2023年10月2日 掲載

画像:中村 良太氏

中村 良太(なかむら・りょうた)

京都大学経済学部卒業後、同大学院経済学研究科を経て、ヨーク大学(英国)にてPhDを取得。イーストアングリア大学経済学部・医学部、ヨーク大学医療経済研究所などを経て、現在一橋大学社会科学高等研究院及び大学院経済学研究科・経済学部教授。専門は医療経済学、健康政策。生活習慣病予防を目的とした健康行動の分析、低中所得国等の医療保障、医療資源の効率的配分についての研究に従事。

低中所得国の保健医療システムに関する研究

私の専門分野である医療経済学は、経済学の一分野です。医療や保健に関連して、人・モノ・お金などの資源を「いかに効率的または公平に配分するか?」を研究する学問分野です。ただし医療経済学の中でも研究者によって切り取るテーマはさまざまで、私の場合は、国民全体の健康の維持や、必要で適切な医療を保障するシステムの構築や維持に関心があります。具体的には、疾病予防、健康保険の普及、医療費適正化などの課題に取り組んでいます。キャリア初期はイギリスをはじめとした高所得国を対象とした研究を行っていましたが、ここ数年は低中所得国に軸足を移しました。西アフリカのセネガル共和国、南アジアのブータン王国、東南アジアのタイ王国を主な研究対象国としています。

セネガルでは、現地政府や独立行政法人国際協力機構(JICA)と協力して、公的健康保険制度の構築に向けた研究を進めています。セネガルでは国民の大半が健康保険に加入しておらず、家族の誰かが病気やケガをすると、親戚などから借金をするか、経済活動の手段である田畑や家畜を売って医療費を捻出します。治療によって健康を取り戻せても、医療費支払いによって家計が財政的に破綻してしまい、貧困から抜け出せません。例年、現地に1か月間ほど滞在し、特に貧困率が高く、医療機関が限られる僻地を回って現地の人々の話を聞きます。そこで得た知見をもとに、健康保険の認知度や普及状況、医療へのアクセス、医療への出費などに関するデータの収集と分析を行っています。特に注目しているのは現地の健康保険の運営です。西アフリカ仏語圏では、村ごとに共済組合を設立して健康保険を運営することが多いのですが、僻地の村ではその運営を無給のボランティアに頼っており、中には事務所に電気や机、本棚などの基本的な設備がない組合もあります。このような共済組合が持つ運営上の課題を取り除き、また村単位で運営されている健康保険を県単位での運営に切り替える(リスクプールを大きくする)などの効率化によって、その地域の人々の健康保険加入率や健康状態がどう変わるのかについて定量評価を進めています。

ブータンでは全額税負担による医療システムがありますが、財源が不足しており、国民全体に必要な医療を提供するには多くの課題が残っています。医療の財源確保の手段の一つとして、アルコールに対する課税による税収を充てる政策が進んでいます。ブータンでは、アルコール依存症など、お酒に関係する健康問題が深刻なのですが、課税によってアルコール消費量を抑えつつ、その税収をつかって基本医薬品などを調達する一石二鳥の政策です。ところで、ブータンでは各家庭でお酒をつくって飲む伝統文化があります。国民総幸福の観点から伝統文化が保護されており、家庭でつくる伝統酒は課税の対象になりません。市場に流通しているお酒に高率の課税をしても、「家でつくって飲めばいい」となるとアルコール消費の抑制も税収も見込めません。では自家製の伝統酒は、アルコール度数がどれくらいで、市販のお酒をどれくらい代替するのか、実は政府も分かっていませんでした。そのため、課税政策の実施に先立ってブータン保健省と共同で調査を進めました。調査実施の前にブータンを訪れ、保健省職員と一緒に自分達の足で僻地の集落を回って伝統酒の試飲を続けました。その結果、家庭によってレシピやアルコール度数、消費の方法(例:自分で飲む、宗教儀式で使う)が大きく違うことが分かりました。

低中所得国の医療政策に関わり得た教訓

低中所得国を対象とした研究を進める中で得た教訓があります。第一に、忙しいスケジュールの中でも可能な限り現地を訪れ自分で経験することを大切にすることです。研究対象に関する具体的な問題意識やイメージを持って研究に取り組むことができますし、現地政府や共同研究者との仲間意識や信頼関係が得られます。いろんな人たちにお世話になり、また教えていただくため、敬意と責任感も養われます。自分が住んだことがない国を対象として研究する時、自分の限られた想像力の範囲内で物事を理解しようとすると、知識・経験不足から来る誤解や思い込みが避けられません。たとえ論理の筋は通っていたとしても実態とかけ離れた結論を導き出してしまうのです。

第二に、政策協力では客観的なデータを積み上げることに集中することです。複数の海外政府との共同事業をするうえで大切にしていることは、客観的で偏りの少ないデータやエビデンスをつくり出す技術や経験であって、政策トピックに関する専門知識や個人的見解ではない、ということです。政治理念やスケジュールに沿って政策を進める政府にとって、私の個人的見解は(たとえ正しくても)ノイズに過ぎません。研究者は結果責任を負いませんから。ただしデータは別です。客観的なデータを無視する政策担当者はいません。多くの場合、政策担当者も協力してデータ収集に取り組みます。私なりの「エビデンスに基づく政策立案(EBPM)」への貢献は、意思決定に有用なデータを収集し分析結果を政策担当者に提供すること、そしてそれ以上は干渉しないことです。この知恵によって海外政府機関と長年にわたる協力関係を維持してきました。

研究キャリアの紆余曲折

京都大学の経済学部ではじめて医療経済学に触れ、今日まで医療経済学や医療政策と関わり続けてきました。一貫したキャリアを築いてきているようで、中身は大きく変遷してきました。イギリスの大学院を修了したのは、リーマンショック後で政府が教育研究予算を大幅に削っていた就職難の頃です。ようやく見つけた研究職は、「ナッジ」などによる行動変容やその政策応用を研究し、成果をイングランド保健省に伝える研究チームのポスドク職でした。当時のイギリスは「ナッジ」への期待が最も高かった時期で、財政難の中でも研究者のポストを確保しやすかったのだと思います。数年間働いた後、今度は費用対効果に基づく医療予算配分の研究を行うため別の大学に勤務しました。そこで低中所得国を対象とした、いわゆる「国際保健」の研究に出会います。これも時世を反映していて、当時は政府がGDPの0.7%を国際貢献に使うと決めたばかりで、低中所得国を対象とした研究の拡大が多くの大学にとって優先事項でした。医療予算が限られた低中所得国において、イギリスの医療技術評価機構(NICE)等で培われた費用効果分析を軸とした医療技術評価(HTA)による予算配分が注目を集めていました。そこで当時のNICE Internationalなどと協力して、低中所得国における医療予算の効率的配分に関する基礎研究や政策支援を行いました。そのまた数年後、一橋大学の社会科学高等研究院(HIAS)に医療政策・経済研究センターができた際、その専任の研究者として誘っていただき、現在に至ります。

ほとんど自分ではコントロールできない運命に翻弄されて、自分の研究に整合性と折り合いを付けつつキャリアを積んできました。こうして振り返ると、現在の研究テーマも偶然や成り行きの影響が大きいと思います。その中で大事にしてきたことは、経緯はともかく一度やると心に決めたら、後はマラソンだと思って淡々と取り組み続けることです。一橋大学に着任した時、セネガルやブータンを含む低中所得国の医療政策に関する研究プログラムを一から始めました。仲間の先生たちとJICAとの共同研究事業を立ち上げたり、アジアにおける共同研究拠点をつくったりしました。今ではチームに若手研究者も増え、国内では最大規模の研究グループになりました。使えるリソースやネットワークは何でも使って、アジア・アフリカの政府・研究機関だけでなく、欧米の主要大学とも対等の関係で共同研究ができています。

つねにチャンスをうかがい、準備を怠らない

人生ではほとんどのことが思い通りにはいきません。運命に翻弄されつつも、時折やってくる転機の中でチャンスを摑むにはどうするか。私なりの答えは、まずはチャンスをチャンスであると察知するセンサーを頭の中に持つこと、察知した直感を信じて行動を起こす心の準備があること、そして行動を起こした時に(他の人ではなく自分が)チャンスを摑めるだけの実力、評判、サポート環境を持っていることです。「もしかしたらこれはチャンスなのかな?」と思ったら、周りの意見は気にせず思い切って飛び込んでみると良いと思います。自分で決めたことが他の人と違っても良いです。むしろ違うことで希少性が出るのです。人間到るところ青山あり。学生のうちは、留学や就職がこれに当たると思います。実力とは、業績(学業成績や課外活動の実績)などを積み上げて高い評判を保つこと、世界の誰が相手でも自分の主張を通す語学力を持つことだと思います。(談)