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経済活動の潤滑油である商取引法をテーマに、企業と学術を架橋する

  • 法学研究科教授小林 一郎

2023年7月3日 掲載

画像:小林 一郎氏

小林 一郎(こばやし・いちろう)

1994年東京大学法学部卒業後三菱商事株式会社入社。在職期間中に企業派遣として米国コロンビア大学ロースクールに留学。2003年同大学ロースクール卒業(LL.M)。三菱商事欧州コーポレートセンター(在ロンドン)法務部長、法務部コンプライアンス総括室長、法務部部長代行などを経て、2022年4月より一橋大学大学院法学研究科教授として着任。専門は、商取引法、国際取引法、企業法務。主な論文に「日本の契約実務と契約法―関係的契約とドラフティング・コストの考察から」NBL930〜935号(2010)、「契約実務におけるリーガルテックの活用とその将来展望ーリーガルテックによる契約実務の標準化と契約交渉スタイルの変容」NBL1217・1218号(2022)、「契約成立における申込みと承諾の役割ー黙示の合意認定手法の比較法的考察」NBL1231・1234号(2022-23)、「日本的契約慣行の研究― 申込み・承諾によらない契約成立の認定手法がもたらす特異性」一橋法学22巻1号〜(2023)等がある。

日本の契約法は、経済活動の潤滑油としての役割を十分に果たせていない

私は企業法学の領域において商取引法、国際取引法、企業法務について研究を行っています。中でも重点を置いているのは、契約法の国際比較の研究と契約実務の法務DXを見据えた企業法務の研究です。

欧米における契約法は、国際商事法務の中でも一丁目一番地の分野です。国際契約とその交渉は、企業の法務部員や渉外弁護士が仕事を進めていくための基礎になっています。それは契約法が形成されてきた歴史と深い関係があるのです。たとえばアメリカの契約法は、エコノミクスの世界で契約を語るような理論が構築されてきました。世の中に最適投資を生み出すという観点からしっかりルールを作ろうという発想がベースにあり、それはヨーロッパでも変わりません。ですから欧米の契約法は、企業取引および経済全体の潤滑油として機能している、と考えられます。

一方、日本の契約法は、欧米のスタンダードとは乖離した特異な姿を見せています。そうした特異性は契約の成立が争われる裁判において顕著に現れます。契約の成立が争われる場合、欧米では契約交渉の中のやりとりをみて、どの言動が「申込み」でどの言動が「承諾」かを厳密に特定しにいきます。申込みと承諾の言動の中に、経済活動としてのあるべき合理性をルールとして忍び込ませるわけです。しかし、日本ではそのような手法は用いられず、契約はふわっとした感覚で成立する・しないと判断されるのです。もちろん、日本なりの考え方に基づいて構築されてはいるのですが、そこには、経済活動の潤滑油としての契約の役割を致命的に狭めてしまっているというのが私の見解です。なぜそうなってしまったのか、今後どうしていけばいいのか。私は商取引法の現場である企業とアカデミアを架橋しながら、疑問や提案を発信していきたいと考えています。

また、実務の現場では、契約実務の姿は、イノベーションとともに大きく変容していくことが想定されます。企業法務がリーガルテックなどのツールを取り込みながらどのように進化していくべきかについて情報発信をしていきたいと考えています。

条文や判例が何の役に立つのか見えなかった学生時代

東京大学法学部に進学した頃の私には、法律を学ぶことに対してそれほど深い動機づけはありませんでした。そのため、商法や民法の授業を受けていても、条文や判例が何の役に立つのか全然ピンと来ない。自分は何をやっているのか、疑問に感じる場面が多かったですね。

司法試験についても同じような距離感がありました。当時の司法試験は500人ほどしか受からないような仕組みになっていたこともあり、「試験勉強に大学生活の4年間を捧げるなんてできない」と考えていました。

むしろ私は、テニスサークルの取りまとめなど、大学生活全般を満喫することに時間を割いていました。そんな生活の中で次第に「日本に留まっていてはダメだ」と考えるようになったのです。英語はあまりできなかったのですが、国際取引に関わる仕事に就きたい。そこで商社を中心に就職活動を行い、三菱商事への就職を決めました。

就職し、法律に関わることを知らない自分に愕然とする

入社して2年目、私は1年間フィリピンに駐在しました。現地の重電機プラントのアドミニストレーションとして、プロジェクトを管理することが私の役割です。その際に湧き上がってきたある思い。3年目に帰国し、仕事を進める中ではっきりと感じることになったのです。取引に関わる法律について「自分は何も知らないのだ...」ということを。

司法試験などから縁遠かったとはいえ、法学部で学んだ人間です。にもかかわらず、法律についてなにも知らないことに気づかされました。同時に、ビジネスの世界で何かコアになるものが欲しい、とも思ったのです。ちょうどその頃、偶然にも法務部長とつながりができ、「法務部に来ないか?」と誘われたので、5年目の秋に異動させてもらいました。

法務部に異動、法律と実務の接点をつかむために、留学へ

法務部に異動して感じたことが二つありました。一つは、学生時代に学んだ法律と実務、つまり本に書かれていることと現実に起こっていることが近づいたということです。「あの授業ではこういうことを言っていたのか」という気づきがたくさん生まれました。

もう一つは、アカデミアの存在の重要性です。アカデミアの学説や考え方は、企業法務の実務に陰に陽に影響を与えています。無意識に取り込んでいるケースもあれば、反発するケースもありますが、企業法務部門に身を置くとアカデミアとのつながりも見えてきやすいようです。

その後、2002年に、私は企業派遣でコロンビア大学ロースクールに留学しました。研究テーマははじめに触れたように、欧米の契約実務では一丁目一番地となる契約法です。大学の教授に指導を受け、ゼミにも参加し、時には研究室に足を運んで教授に自分のアイデアをぶつけ、修士論文にまとめて...というように、ロースクールの環境にどっぷり浸っているうちに、研究が楽しくなってきました。

そこで帰国した2004年頃から自分のアイデアを論文にまとめるようになりました。三菱商事の仕事の合間に研究を行っていく中で、ロンドン駐在からの帰国後の2010年に、東京大学のある教授のサポートを受け、契約実務に関する論文を公表しました。先生のおかげで学会や研究者の方々とのつながりもでき、東大のロースクールで非常勤講師としての経験も積むなど、新たな生活スタイルがどんどん確立していきました。その間、私の活動に理解を示してくれた三菱商事には今も感謝しています。

アカデミアと実務、企業と学生の架け橋となるために

結果的に私は三菱商事を退職してアカデミアの道を選び、2022年から一橋大学で研究・教育に携わることになりました。しかし、私は完全にアカデミアのみに集中するのではなく、実務との架け橋でありたいと考えています。

はじめに紹介したように、日本の契約法および契約実務が異質であり、経済活動の潤滑油として十分な機能を果たし得ていないという状況をどう変えていくべきか、といった発信はその一例です。なぜこういうことになっているのか、何が欠けているのか。そういう点に着目し、研究テーマとして掘り下げていく。法務部での実務を経験した私だからこそ担うべきミッションと自負しています。

架け橋という意味では、企業と学生もつないでいきたいですね。学生と話していると、彼・彼女らは私が想像していた以上に社会で繰り広げられている実務というものに強い関心を抱いていることが分かります。ただ社会との十分な接点を持つことができない。私の人脈も活用しながら接点を持つ機会を提供し、進路選択の参考にしてもらおうと考えています。

また、最近では企業のDXが進んでいます。企業法務においても、AIによる契約書の自動ドラフティング、自動レビューが導入され始めました。いわゆるリーガルテックですね。またChatGPTのような生成AIの登場は、企業法務の実務を根本から変革するだけの強烈なインパクトを有しています。こうした新技術をどのように有効活用できるかについて、グローバルベースでさまざまなプレーヤーが試行錯誤を繰り返しながらビジネスチャンスをうかがっています。私は日本が企業法務の分野においても十分な国際競争力を持ち得るような法務DXを実現するためにはどうすればよいのかについて、積極的に情報発信をしていきたいと考えています。学生向けにも、法律情報サービスを手掛ける企業などとコラボレートし、データベースの使い方やAIを活用した契約書の作り方などを学ぶ場を提供する予定です。

360度を見渡す経営者の視点を、学生に養ってもらいたい

そして学生には、リーガルテックなどの知見も蓄えながら、企業法務が果たすべき役割を伝え、経済活動の潤滑油である商取引法の重要性を伝えていくつもりです。

日本では、リーガルリスク管理は法務部が所管するものだと考えられています。しかし企業の命運を握る本来のリスク管理は、経営に影響を及ぼすあらゆる項目を360度の視点で見なければなりません。企業法務やリーガルリスク管理は、常に経営者の目線で考えていくことが重要なのです。

言い換えれば、大学で学ぶ間にそのような幅広い視点を養うことができれば、社会に出たときに大いに役立ちます。だからこそリーガルリスクと向き合う現場について、しっかり伝えていかなければなりません。このようにしてアカデミアと実務、企業と学生、それぞれの架け橋になることに、研究者としての私の介在価値があります。(談)