人口学は、人の動きの"管理できなさ"を浮き彫りにする
- 経済研究所 教授雲 和広
2023年7月3日 掲載
雲 和広(くも・かずひろ)
1994年大阪外国語大学外国語学部ロシア語学科卒業。大阪外国語大学在学中プーシキンロシア語大学実用ロシア語課程(1992年8月-1993年6月)へ留学。1999年京都大学大学院経済学研究科博士課程退学。1999年香川大学経済学部専任講師、同助教授を経て、2004年一橋大学経済研究所助教授就任。准教授を経て2012年同研究所教授に就任、現在に至る。専門分野はソ連・ロシア経済論、経済地理学、人口論。著書に『ロシア人口の歴史と現在』(岩波書店,2014)、Demography of Russia: From the Past to the Present(Palgrave Macmillan, 2017, 3名の共著)、Gendering Post-Soviet Space(Springer, 2021, 4名の共編著)等がある。
旧ソ連の管理体制の帰結から、開発政策のあるべき方向を展望
私はソ連・ロシア経済論、経済地理学、地域経済論を専門とし、「政府による開発政策のあるべき方向を展望する」という視点に立脚した研究を行っています。
旧ソ連では、人口移動は国家によって管理されていました。また産業配分も各企業の個別の意思決定によるのではなく、中央政府の意向を如実に反映したものとなっていました。これは一般に見られる政府主導による地域開発の極端な形である、と見ることができるでしょう。それがいかなる帰結を与えたか?という点を鑑みることで、政府による開発政策のあるべき方向を展望できると考えられ、実は"管理できなさ"加減もまた浮き彫りになります。こうした見方から、私はこれまで旧ソ連・ロシアにおける地域間人口移動の要因分析、そして工業立地の時系列推移に関する実証的研究に従事してきました。
現在は、これまでの研究の延長線上で「ロシア・旧ソ連の人口諸問題(少子化、地域間移動)」の分析を行いながら、「ソビエト初期工業化過程における労働力と産業立地の変遷に関する統計整理とその分析」では、研究所旧COE・アジア長期経済統計の一端である「ロシア長期歴史統計」の一部として参画しました。これまで個人研究として取り組んできたロシア国立経済文書館の資料に基づいた検討を、さらに発展させようとしてきました。
ドストエフスキーに惚れ込み、大学ではロシア語を専攻
ロシアとの最初の接点は、高校時代に読んだロシア文学でした。1日に2冊のペースで文庫本を読んでいた私は、ドストエフスキーの『罪と罰』『白痴』と出会い、すっかり惚れ込んでしまったのです。
私を惹きつけた要素のうちの一つが、読む者を非現実の世界に強引に誘い込む力です。たとえば『白痴』では、主人公の居る部屋に客人が数十人も入っていく場面があるのですが、非現実の嵐ですよね。そんな現実社会とのリンクが必要ない世界に無理やり誘い込むのがドストエフスキーの特徴だと言って良いと思いますが、現実を背景とする必要が無いからこそロシアを超えて広く受け入れられているのだと私は思います。そんな彼の作品をロシア語で読みたいと考え、大阪外国語大学ロシア語科に進学。週4日必修の語学専門学校のような環境で一度は馬鹿馬鹿しくなって大学へ行かなくなりましたが、2年目からは比較的真面目に取り組みました。
マルクスやエンゲルスの著作も読みましたが、それらには興味は持てませんでした。ただ、大学2年の冬のソビエト連邦崩壊には少なからず影響を受けました。フランスの哲学者、ジャン=ポール・サルトルの「飢えて死ぬ子どもの前で文学は有効か」という有名なテーゼがあります。果たして文学は有効なのか、それとも飢えを凌ぐのが先か。その判断材料は文学ではなく経済の領域に、日本ではなくロシアにあるのではないか。そんな思いから、私は大学3年の夏、ソ連崩壊直後のモスクワに語学留学をします。これがロシアとの第二の接点となりました。
モスクワ留学で、旧ソ連崩壊後のカオスを目の当たりにする
1992年8月から10か月間、私はプーシキンロシア語大学に留学をしました。実際に現地に行ってみた印象を率直に表現すれば「面白い」の一言に尽きます。
その年の1月に価格自由化が行われたロシアは、1年間で2,600%のハイパーインフレを記録する状態にありました。モスクワ市民は道端や地下鉄の入り口でレース編みの装飾品や本など、手持ちの品を並べて売っているのです。牛乳という看板を掲げた商店に入ると、その一角に靴屋が商売をしている。牛乳屋は靴屋に場所を貸して地代を取っているわけです。
そうかと思えば、高齢の年金生活者を対象に、里芋より小さなジャガイモを10kg10円前後で売っていたり、アフガン侵攻で両脚を失った帰還兵にお金をあげたり自力で移動できる台車が通れるような通路を階段に設置していたり...優しいのか優しくないのかよく分からない、カオスな状況を目の当たりにする日々でした。
統計とロシア語とを携えて
ただしロシア経済研究の道に進むまでにはもう少しステップが必要でした。大学院に入ってまず影響を受けたのが、私が師事した応用ミクロ経済学の先生です。先生は都市がどのようにでき上がっていくかを数理的に示す研究をしていました。先生の論文を読んだ時は、「こんなシンプルなモデルから大都市、中都市、衛星都市ができていく過程を描けるのか」という衝撃があまりに大きく、朝まで眠れなかったことを覚えています。
私にモデル構築を行う能力はありませんが、それを理解することは幸い出来ました。その適用可能性を検証するための統計学・計量経済学のツールと、学部生時代から留学を経て身につけていたロシア語。この2つを活かして、私はロシア経済を選びました。
旧ソ連であってもごまかせない人口動態から考える
そして現在に至るまで継続中の「人口学」の研究は、その延長線上にあります。ロシア、正確には旧ソ連はしっかりとデータを記録し、残している国です。スターリンによる粛清者数、スターリングラード攻防戦での戦死者数などを克明に記録するなど、ある意味一番信頼のおける統計データを持っています。
ただし、独自の定義でごまかそうとした歴史があることも事実です。たとえば乳児死亡率は旧ソ連単体で見てもかなり高い。ところが欧米や日本共通(WHO,世界保健機構)の定義を当てはめればさらに跳ね上がるのです。また、生産統計も金額ではなく、「1950年を1とすれば...」というような指数で表現する。
その中にあって、一番ごまかしが利かないのが「人口動態」です。旧ソ連では、資本と労働を中央政府が最適化させる生産力再配置論によって、人口移動が管理されているはずでした。300以上の都市で居住が許可制とされていたので、大都市への流入も厳しかったはずです。しかし実際には、許可もないのにモスクワには何十万人も記録より多く住んでいる。そのことが統計データによって分かってしまうのです。たとえ社会主義政権であっても人々は案外自分で意思決定できていたのではないか、ということです。私の研究は、その視点からスタートしています。
多様な研究者が集まっている経済研究所という環境のありがたさ
足による投票というのですが、結局のところ好ましい立地を人々は選択する、というのは広く見られることです。知られるのは例えば終戦後の東京や広島です。どちらも戦争によって大きく人口を減らした地域ですが、その後見事に人口を戻しましたね。後背地が日本最大の平野で、位置としても日本の中心にある東京。天然の良港を持つ広島。東京や広島の魅力・メリットに人々が惹きつけられ、移動していった結果だと考えられます。そんな人々の意思決定を踏まえ、あるべき・あるいはあるべきではない政府の開発政策を見出すことが私の研究テーマの一つです。
旧ソ連やロシアだけではなく、様々な地域との比較を行うことは沢山の示唆を与えてくれます。私が在籍する一橋大学経済研究所という環境では、日本の労働経済、医療経済、都市経済学、計量理論、金融論など様々な分野の専門家が集まっています。そういう中で研究会に参加し同僚の報告を聞いたり、あるいは私自身が報告を行ったりすると、思ってもみなかったような視点を提示されるようなことがあり、誠に刺激を受けます。みな遠慮せずに突っ込みます。それが痛い所を突いていたりすると、これはこれで気持ち良いのです。このような環境で約20年も研究に取り組んできた私は、本当に恵まれていると感じています。