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難民と主権国家との対峙で生まれるグローバルなダイナミズム

  • 社会学研究科准教授橋本 直子

2022年10月3日 掲載

画像:橋本 直子氏

橋本 直子(はしもと・なおこ)

2000年オックスフォード大学難民学修士号取得(スワイヤー奨学生)、2017年ロンドン大学法律修士号(国際公法・国際人権法)取得、2019年サセックス大学博士号(政治学)取得(日本財団国際フェロー)。(財)日本国際問題研究所 アジア太平洋研究センター非常勤研究員 、日本政府外務省在ニューヨーク国連代表部社会部専門調査員、国際移住機関(IOM)ジュネーヴ本部総合政策局人身売買対策課プログラム・オフィサー、国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)スリランカ・ワウニヤ事務所准法務官、日本政府外務省総合外交政策局人権人道課非常勤調査員 、国際移住機関(IOM)駐日事務所 プログラム・マネージャー、法務省「入国者収容所等視察委員会」西日本委員、ロンドン大学高等研究院 難民法イニシアチブ 修士課程論文指導官・審査官 などを経て一橋大学社会学研究科准教授に就任。現在は、法務省難民審査参与員も務める。

実務と学問の両方の強みを活かした研究と教育

私の研究領域は、難民・移民政策、国際難民法、国際機関、政策決定過程論です。現在は、主に日本を含むアジアにおける難民・移民問題と政策決定過程について研究しています。

2008年、日本政府がタイの難民キャンプに滞在するミャンマー難民受け入れを決定し、数年にわたって第三国定住事業を進めました。私はその政策決定過程を博士課程で論文にまとめ、韓国との比較検討を加えた書籍として発表するべく作業を進めています。同時に、世界における難民保護・庇護政策の進展も常に追いかけています。

研究者になる前は15年ほど、外務省、国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)、国際移住機関(IOM)などで、世界各地の難民・移民政策に実務家として従事していました。日本政府によるミャンマー難民受け入れ事業では、IOM駐日事務所のプログラム・マネージャーとして対応し、成田空港への出迎えなども行いました。当時のことは私にとって重要なターニングポイントとなりました。そのような実務と学問の両方の強みを活かした研究と教育を行っています。

なけなしの配給からパンを焼いてくれたセルビアの避難民

「難民」という存在と初めて直接的接点を持ったのは学部生時代です。私は1998年の1〜2月、インターカレッジで知り合った大学教授のご紹介で旧ユーゴスラビア連邦のセルビアにボランティアに行く機会に恵まれました。

当時の旧ユーゴスラビアは、ボスニア・ヘルツェゴビナ、クロアチアといった国々との国境そのものが曖昧な状態。避難民の方々も「難民」なのか「国内避難民」なのか、はっきりしない状況に置かれていました。極寒の中、当然、電気・ガスなどのライフラインはありません。パスポートも持っていない、食べるものもままならない。そんな状況にもかかわらず、避難民の方々は、孤児となった子どもたちと遊ぶ目的で日本からやってきた単なる学生の私たちを、なけなしの配給から伝統的なパンを焼いて歓待してくれました。

ところが、帰りに私たちが乗った大型バスは冷暖房完備。避難民の方々が驚きながらバスを見上げた時の表情は、今でも忘れられません。私にはパスポートがあり、スムーズに帰国できます。明かりのついた家に帰れば、クローゼットは物でいっぱい。ギャップ、矛盾、理不尽、不正義...さまざまな思いが若かった私の中を駆け巡りました。

「強制移住学」についてイギリスで学び、外務省を経て国連へ

そこで私は、当初はロンドン大学院で国際関係論を学ぶはずだった予定を急きょ変更し、オックスフォード大学院で「難民学」を学ぶことに。アップアップしながら「強制移住学(Forced Migration Studies)」を学びました。

自分のコントロール外の事象によって強制的に移住が行われる際の原因・プロセス・結果・対処法などについて、学際的に探求するのが「強制移住学」です。いわゆる難民だけにとどまらず、国内避難民や自然災害の被災者、人身取引の被害者なども対象となります。1980年代に生まれた比較的新しい学問で、私が留学した当時はオックスフォード大学院か(カナダの)ヨーク大学でしか学位がとれませんでした。私の指導教官は心理学者の修道女だったのですが、政治学、法学、人類学、倫理学、紛争学などさまざまな学問領域の専門家が関わっていることも、「強制移住学」の特徴と言えるでしょう。

奨学金を頂いていた財団からは博士課程への進学の打診もあったのですが、私は研究を深める前に、実世界で何が本当に問題なのか、必要とされているのかをまずは実務家となって自分で確かめたいと感じました。そこで、日本に帰国してUNHCRで短期間インターンを経験した後、外務省の専門調査員としてニューヨークの国連代表部に赴任。国、政府というものが多国間外交の場で難民をどのように捉えるかを学びました。その後はUNHCRやIOMなど、脆弱な立場に置かれた避難民や外国人の支援・保護に携わる国際機関で働き、法務省で入国者収容所等視察委員を務めたこともあります。

日本政府のミャンマー難民受け入れ事業をきっかけに、研究活動を再開

実務家だった私を再び研究の世界に進ませたのが、はじめに紹介した日本政府によるミャンマー難民の受け入れ事業、第三国定住政策です。

タイに避難していたミャンマー難民を、日本政府が受け入れる法的義務はありません。他国からの圧力があったわけでもない。そもそも日本は外国にいる難民に対して、ODA(政府開発援助)など資金援助の形で支援することが伝統的に得意な国です。にもかかわらず、外務省はもちろん法務省も前向きに取り組み、非常にスピーディーに受け入れ態勢を整えていったのです。2010年の第一陣到着時には、成田空港はマスコミがたくさん集まり、歓迎ムード一色に染まりました。「これは一体何なのだろうか」。原因や経緯について研究する価値を感じた私は、実務をしながら、関連する学術書や史料を少しずつ集め始めました。そしていったん仕事や家族の関係で区切りがついた時に、運よく国際フェローシップを頂けたので、国連を休職してイギリスに戻り博士課程に入り直しました。

なぜ日本が突然、積極的に「第三国定住」という形で難民を受け入れるよう舵を切ったのか、理論と歴史を踏まえて政策決定過程を綿密に検証しています。さらに、数年遅れて韓国も第三国定住政策を始めたのですが、二か国比較検討も行うことで、研究成果により国際的な意味合いが出るとも感じています。究極的な目的は、この研究成果が、世界での難民受け入れの拡大に少しでも貢献することです。

難民政策は、人道主義と国益のバランスを考慮した外交政策でもある

世界各国は100%人道主義で難民を受け入れているわけではありません。国家は慈善団体ではないので、国益を考え、相当戦略的に受け入れを進めています。ある種の外交政策とも言えるでしょう。難民条約上の「難民」の定義は、「本国において何らかの差別を理由とする迫害のおそれがあり、本国政府による保護を期待できないため国外に逃れた者」です。難民受け入れは建前は人道主義ですが、間接的には相手国政府に対する批判的メッセージになります。また、難民出身国の将来における関係構築に向けた長期的な投資とも言えるでしょう。それは日本の国益にかなう、高度な外交政策です。

と同時に、庇護という世界的理念の背景には、欧米で生まれた「ノブレス・オブリージュ」(高い財力・権力・社会的地位を持つ者はより大きい社会的責任と義務を負う)の精神もあります。このスピリットは、日本の武士道とも親和性があるのではないでしょうか。より恵まれた国は、より脆弱な難民受け入れのオファーができるのではないかというのが私の立場です。

もっとも、私はこのような主張を、人道主義に基づいた「べき論」で展開しないように意識しています。「べき論」では人も社会も、そして政府も絶対に動きません。そのことを実務家としての経験から学びました。だからこそ今は研究者として、原因や経緯、他国の政策をつぶさに実証的に検証することに注力しています。学生の皆さんにも「べき論」ではなく、理論や方法論、歴史、哲学・倫理などの重要性を常に強調しています。元実務家としては意外に思われるかもしれませんが、将来国際機関で働きたい人にも、実証研究の手法をしっかり学んだうえで実務に活かしてほしいです。

強靭な精神力を持ち、人生に、主権国家に立ち向かう難民へのリスペクト

私は「かわいそうだから」という理由で難民の方々と向き合ったことはありません。自分よりもはるかに強靭な精神力で人生に立ち向かう姿勢に、むしろ学ばせてもらうことばかりです。難民政策に携わっていた実務家時代の私には、たまたま支援するツールが与えられていたからそれを活用していたに過ぎず、「助けてあげた」という気持ちになったことは一度もありません。

その思いは1998年にセルビアにボランティアに行った時から、研究者として活動している現在に至るまで、一貫して変わりません。国境を越えて移動する難民の方々は、圧倒的な力を持つ主権国家と対峙し、挑戦している。そして主権国家の集まりである世界を次々に変えていっています。そんな難民の方々のダイナミズムを目の当たりにするたび、私はもっと研究を深め、その成果を世界に発信していかなければと決意を新たにします。(談)